過去の罪
神社前公園での事故の後、保育園がどうなったのかを柊奈乃は事故からすでに何年も経っているのにいまだに知らなかった。退職届は郵送で提出し、すぐに隣の市へ引っ越しもして携帯の番号も変えてしまったからだ。情報が伝わって来ないように地元の人間関係も断って、新しい街で夫となる圭斗と出会い結婚し、名前も変えて堀柊奈乃から辻柊奈乃として別の人生を歩むことを決めた。
辻柊奈乃としての人生はおおむね上手くいっていた。ハンドメイドのことや子育ての方針など、小さな不満や不安はあるものの、夫である圭斗は全く家庭を顧みないような人間ではなく、本人なりにプライベートの時間も大事にしてくれる。紬希とも時間があれさえすれば一緒に遊んでくれて違和感は何もない。最近は、テレビばかり見ていることが悩みと言えば悩みだったが。
ハンドメイドのことも、いつかそれなりの収入をと思うものの、始めたくて始めたのは自分であるし、いずれ見返したいという気持ちもある。
紬希は何の問題もなくすくすくと育ってくれて、今は不安でも来年かそれ以降には保育園に通わせてもいいと考えていた。交友範囲は広がり、紬希ならすぐに友達ができるだろうと期待もしていた。
辻柊奈乃としての生活に大きな不満はない。このまま順調に時を重ねていけばたくさんの思い出が積み上がり、堀柊奈乃だった過去は薄くなりやがて無くなるものだと思っていた。
今思えば、それはただの淡い願望に過ぎなったのかもしれない。誰もきっと過去から逃れることはできない。たとえ名前を変えようとも、過去は思わぬ形で今に繋がる。マリーのイラストのように。
「その子が亡くなったあと、ヒナはどうしたの?」
だからこそ、かつて住んでいた過去の街中を歩いているだけなのにも関わらず、柊奈乃はどこかビクビクしながら歩いていた。道行く人が自分のことを知っていて何か言われるのではないかという不安に襲われ、誰かとすれ違う度に視線が気になってしまう。
柊奈乃はドームでのハンドメイド販売会が行われた隣の市へと再び訪れていた。車はなく、バスと電車、地下鉄を乗り継いで短い間ながらも保育士として通っていた街の中へと足を踏み入れる。隣でキョロキョロとよそ見をしながら歩く紬希の手を、今度こそは離さぬようしっかりと握りながら。
柊奈乃も紬希も車が大破した事故の割に軽いケガですみ、翌日には病院を退院することができた。これは予想していたことだが、圭斗は家族が事故に遭ったというのに何事もなかったかのようにいつも通りの時間にいつも通りに家を出て会社へと出勤していった。
それに関してはもう何の感情も沸かなかった。圭斗は何もわかっていないし、きっとわかってくれない。表面上で起こったことだけに怒り、その奥にある本当のことを知ろうとしない人間であることをここ数日の間で柊奈乃は理解していた。納得と言い換えてもいいかもしれない。
圭斗は、紬希と柊奈乃に何があったのかを見つめようとしない。できないのだ。そもそものところ、彼の目に映っていたのは親子3人の家庭という形だけであり、破綻のないいつもの日常であった。だからこそ、柊奈乃の起こしたことはその日常を壊した事件として、怒り、暴言を吐くという行為で問題を処理しようとしたに過ぎなかった。
柊奈乃と圭斗では見ている世界が違う。圭斗は仕事を通して外とつながっており、外から家庭を見ているのに対して、柊奈乃は家庭が全ての中心だった。家庭の中で紬希を見る主体はいつだって柊奈乃であるし、圭斗はそれを外側から見て「保育園に預けた方がいいんじゃない?」「友達はできた?」などと口を出す。
平時であれば破綻なく成り立っていたこの関係性も、今は危機に瀕していた。今重要なのは外側からの他人事のようなアドバイスではない。紬希の変化につぶさに気がつくことのできる柊奈乃の目こそが必要だった。
その自覚があったからこそ、柊奈乃は夫に内緒で紬希を連れて非日常の怪異へと対峙しようとしていた。
(……ここだ)
車が20台くらいは止まれそうな大きな駐車場。その右手にある緩やかな上り坂は、全てを照らす明るい陽光の中では伸びた芝生を刈り取り、きちんと整備された安全な坂に見える。
坂の手前に置かれた真新しい看板には、豊月公園と公園の名称が掲げられていた。
坂道の先へ行けば小高い丘が現れる。一番上は小さな子どもたちの遊び場、そして丘の下には大型遊具が立ち並ぶ。
豊月公園。地域の人達の間ではこう呼ばれている。神社前公園、と。
昨夜、子どもの霊に追い掛け回された柊奈乃が最後に辿り着いた公園がここだった。
(あのときここへ来たのには、絶対に意味がある)
柊奈乃はそう確信していた。辿り着いたというよりもおそらくはおびき寄せられたのだ。理由は決まっている。あの事故をもう一度思い出させるため。罪の自覚を迫るためだ。
もう3時を回った深夜遅くに相談に乗ってくれた清水は、柊奈乃の告白に「その子が亡くなったあと、どうしたの?」と問いかけてきた。
送られてきたメッセージにすぐに返信することができず、柊奈乃はようやく事故から逃げ続けていたことを悟った。あのあと、保育園で何があったのかを柊奈乃は知らない。名前も変えて自分の罪も保育士の過去も全てを忘れて別の人生を歩もうとした。
罪から逃れようとした結果が今なのだ。これまでのところ柊奈乃の時間は平和に進んでいた。しかし、事故で亡くなった石塚樹は、「ほりせんせー」と誰よりも懐いてくれていた、成長を見守っていこうと決めたはずの園児の時間は止まったままだ。樹にとってみればいくら時間が経とうか罪は罪のままなのだ。
罪は償わなければいけない。だからこそ柊奈乃はこの街へ来た。
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