決意
マリーのグッズなんて作らなければよかった、と柊奈乃は思った。あの猫は呪われた思い出、血塗られた過去。結婚して苗字も変えて保育士だった過去を全て置いてきたはずなのに、持ってきてしまった。少しずつ、少しずつだけどハンドメイドを軌道に乗せて、新しい人生をスタートさせていこうと思っていたのに。
それなのに。
(私のせいで……紬希……)
柊奈乃は組んだ腕の中に自身の顔を埋めた。皮膚に当たる感触で涙に濡れているのがわかる。
(あの子は何度も紬希を連れていこうとした。交通事故に窒息に転落ーー今までは未然に防げたけど、今回は守り切れなかった。次にまた連れていこうとしたら……?)
どうしたらいい? どうやって守ったらいいの?
「誰か……誰か、教えて……」
柊奈乃の心の底からの叫び声に応えるかのように、か細い声が聞こえた。
「ーーせー」
その声は柊奈乃以外は誰もいないはずの病室内に波打つように静かに響いていく。何度も何度も一定のリズムで。
柊奈乃はガバッと布団を払い除けると、ベッド周りの薄緑色のカーテンを隙間のないように張り巡らせた。その間も声は柊奈乃のことを呼び続ける。
(樹くん……どうして……?)
神社に現れたときとは打って変わって3歳の子どもらしい無垢な声だった。それでも抑揚のない声で昔の自分の名前を連呼される得体の知れなさに耐えきれなくなって、柊奈乃は両手で耳を強く塞いだ。
(やめて……やめて!)
何度も何度も同じ光景が頭の中でフラッシュバックする。マリーのお絵描き、砂場の巨大なマリー、握っていたはずの手が離れ消えていく小さな背中ーーそして、赤い血溜まり。
柊奈乃を責め立てるように執拗に呼び掛けていた声が急に消えた。恐る恐る耳から手を離せば、カーテン越しに小さな掌が現れる。続いてもう片方の掌が横に並び、2つの掌の間に顔面の形が浮かび上がった。
「ほりせんせー」
口と思しき形が上下に動く。見てはいけないーーそう確信しながらも目を離すことはできなかった。布団を頭から被り、逃げたいーーそう思っても体は動かなかった。全身が痺れたというよりも何かにその場で文字通りに釘付けにされたように、柊奈乃は体を動かすことができなかった。
「ほりせんせー」
飛び出そうなほどに見開かれた柊奈乃の黒い瞳の中に、カーテンに押し付けられた顔の形が浮き彫りになっていく。それは薄い布を突き破るようにじりじりと柊奈乃の方へと近付いてくる。
柊奈乃は悲鳴を上げるのを堪えて息を呑み込むと、心の中で必死に祈った。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……)
カーテンが大きく揺れた。不意に子どもの影がいなくなる。再び病室の中が静まり返ると同時に柊奈乃の口から強い咳が出た。呼吸が止まっていたのだ。
(やっぱりまだ終わってない)
怒っているのだろうか、憎んでいるのだろうか。表情の乏しい顔や声からは何の感情も読み取れなかった。それでも、このままではどこまでもずっと追いかけてくることは明らかだった。
しかし、まだ小さい紬希を連れて逃げ続けることなんてできない。お祓いもまるで効果がなかった。
(お祓い……? そうだ)
柊奈乃は毛布に包まれたままスマホを手繰り寄せると、素早く指を動かして文字を打ち始めた。メッセージの送り先は、二坂神社を紹介してくれた清水若葉。唯一、一緒に怪異を体験した清水なら話を聞いてくれるかもしれない、と期待を抱きながら。
今起こっている怪異を伝えるためには、清水と話をした病院のときには隠していた過去の出来事も話さなければいけない。文字を打つ度に指が震え、動悸が早くなり、嗚咽を漏らしながらも柊奈乃の指は止まることがなかった。
猶予があるとしたら今夜だけだ。明日はきっと圭斗は仕事に行かなければいけなくなるし、紬希と二人きりになってしまう。車も使えず遠くへ逃げることもできない。
(今、なんとかしなければいけない。紬希は紬希はーー)
笑顔でマリーのマスクを付ける紬希の顔が浮かんだ。紬希はマスクを付けるときに唇を尖らせる癖がある。きゅっと唇が尖り、頬はふっくらと揺れる。親バカかもしれないが、可愛らしい顔立ちは産まれたときからそうだった。
笑顔、泣き顔、怒った顔、真剣な顔ーー産まれてから今までの様々な表情が取り留めもなく次々と浮かび上がった。まだ3歳、たった3年間しか生きていない命なのだ。輝くこの表情を終わらせるわけにはいかない。
最後の文字を打ち終えると、確認することもなくそのまま送信した。わかりにくい文章かもしれない。しかし、確認している時間はあまりにもない。
既読はすぐについた。柊奈乃は額の前でスマホを握り締めると祈るように返信が来るのを待った。
(紬希が助かるためなら)
どんなことでもしようと心に決めていた。この命だって投げ出したって構わない。事故で命を落とした母親の気持ちが今ならよくわかった。紬希がいない世界など、耐えられるものではない。
(お母さんと同じように……私も……)
掌が軽く振動した。急いで画面を見れば清水からのメッセージが来ていた。画面をスクロールさせて文字を追う柊奈乃の手が止まり、独り言を呟いた。
「……そっか。大事なこと……そうだよね」
スマホの眩いほどの明かりが柊奈乃の決意を込められた表情を照らし出した。
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