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シレイ  作者: フクロウ
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現実へ

 即死だった。痙攣すら起こさずに石塚樹はこの世を去った。水溜りのように広がる大量の血の真ん中で樹はすでに屍に成り果てていた。瞳孔は開き、その目はどこを見ているのかわからない。


 柊奈乃は、ただ立ち尽くしていた。大声で何かを指示されても、体を揺さぶられても何の反応も示すことができずに、ただただ樹のその目を見つめていた。


 後から振り返ったときに何を考えていたのかは柊奈乃自身にもわからなかった。救急車を呼び、血溜まりに浸かって樹に声を掛ける。子どもたちには後ろを向いているようにと指示するーー周りが慌ただしく動いているのは理解できた。しかし、柊奈乃は動けなかった。生き返ると期待していたわけではない、ただただ亡骸に成り果てた3歳の子どもの瞳に映る深淵を眺めていたのかもしれない。


 気がついたときには柊奈乃は自宅のベッドの上にいた。狭い天井が迫ってくるような妄想に駆られる。徐々に徐々に顔面へと迫り、全身を圧し潰す。いっそ本当に圧し潰してくれればいいのにと願った。


 寝返りを打つ。真夏だと言うのに体は凍えそうなほどに冷え切っていて起き上がる気力もなかった。このまま目を瞑り、寝入ってしまえば全てがウソだとわかるかもしれない。きっと目覚めたときは高熱にうなされていて、そのせいで悪い夢を見ていたのだと、そうなるはずだと信じたかった。


 また反対に寝返りを打つ。思い切って目を開けば、テーブルに置いた写真立てが一番に視界に入った。どんなときでもいつも優しく見守ってくれていた笑顔の母親が柊奈乃を見つめている。母親に話しかければ辛いことも全て乗り越えられた。けれど、今度ばかりはそうはいかない。


 柊奈乃はベッドに体を預けたまま写真立てへと手を伸ばした。母親の顔を今は見たくなかった。もう少しで指が届きそうというところで、誤って写真立てを倒してしまった。テーブルから落ちた写真立ては無惨な音を立てて割れた。


 途端に涙が溢れてきた。溢れた涙は頬を伝い、ベッドのシーツを濡らしていく。柊奈乃は声を出すことなく静かに泣いた。本当に泣いていいのは自分ではないとわかっていたからだ。


 そのまま柊奈乃は長い眠りにつき、翌日、保育士を辞めた。



 清潔な真っ白なベッドの上で柊奈乃が目覚めたとき、夢と同じように涙で枕が濡れていた。


(これは……現実……?)


 意識を回復したと同時に割れるような鋭い痛みが頭を貫通し、今いる世界が現実であることを無理矢理納得させられる。


 柊奈乃は頭を抱えた。止めどなく溢れる涙とは関係なく気を失う直前の記憶が頭の中で繰り返される。


 車のヘッドライトに耳をつんざくようなクラクション。そして、激しい衝突音。事故に遭ったのだ、ということが認識されると全身の血の毛が引いたように体が冷たくなった。


 次に映像が浮かんだのは、存在してはいけない顔に、地面に投げ出された血で汚れたマリーのマスクだ。べたりとこびりつく鉄錆の臭いが鼻を覆った気がした。


 柊奈乃は掛け布団を剥がすと、裸足のまま冷たい床の上に立ち、病室を飛び出した。


(紬希のところへ行かないと!)


 廊下に出ると、視界がぐるりと回り大きく揺れる。咄嗟に側にあった手すりをつかむも、立っていることすらできずにその場にへたり込んでしまった。


 吐き気が胃から上ってくる。非常灯の明かりにほんのりと照らされた緑色の廊下の一点を見つめながら、柊奈乃は込み上げてきたものを無理に飲み込んだ。


(探しに……行かなきゃ)


 むせながらも壁を伝うようにゆっくりと立ち上がると、柊奈乃は暗い病棟の中を娘を求めて歩き始める。病室一つひとつを覗き込み、病室の前に掲示された入院患者の名前を確認する。やけに見づらいとは思ったが、柊奈乃は今が真夜中で、暗闇に沈んだ病棟を歩いているという意識はなかった。一緒に運び込まれたであろう紬希の容態が心配で、それ以外のことを考える余裕はなかった。


 歩いていくうちに、視界の揺れも収まり体の痛みも引いていった。のろのろとした歩みは早足へと変わり、やがて走り始める。紬希の名前がどこにも見当たらないのだ。


(紬希……紬希!)


 ペタペタと奇妙な足音が病棟へ響き渡る。いかに裸足と言っても走ればそれなりの音が発せられる。忙しい昼間なら気にならない音かもしれないが、小さな音すら気になる消灯後となれば別。柊奈乃の前方から、懐中電灯の丸い灯りが光った。


「辻さん、何してるんですか!?」


 夜勤の看護師が全速力で走ろうとする柊奈乃の前で立ち止まる。眩しいライトがげっそりと頬のこけた柊奈乃の顔を照らし出した。


「紬希はどこですか!?」


 目を細め、手を翳しながら柊奈乃は慌てた様子の看護師に怒鳴るような口調で問うた。喉がひどく乾燥していて喉奥が痺れるように痛む。


「つむーー娘さんのことですか? 大丈夫ですから部屋へ戻ってください」


「大丈夫? 大丈夫じゃない! 私が側にいないと紬希が連れて行かれてしまう! 紬希は無事なんですか? 今どこに? 会わせてください!」


 悲痛な声が病棟をこだまする。何事か、と何人かの患者がベッドのカーテン越しに様子を窺っていた。


「お父さんが来てくれて、娘さんについてくれていますから心配しなくて大丈夫です。深い傷は負ってないとはいえ、辻さんも怪我人なんですから、まずは今夜一晩ゆっくり休んでください。明日朝ーー」


「明日じゃ遅いんです! わからない? わかってください! 今すぐにでも逃げなきゃいけない……あの子が追ってくるんです! このままじゃ、紬希が! 紬希が!!」


 勢い余って、柊奈乃は看護師さんの肩を思い切りつかんでしまった。「痛いっ」と鋭い声が上がり、我に返って肩から手を離した。


「ご、ごめんなさい……」


「……いえ。娘さんも怪我自体は大したことはないと聞いています。看護師ももちろんいますし、見回りもきちんとしていますから。辻さん、一晩だけ、自分の病室で待っていてくださいね」


 厳しい表情でそう告げられると、柊奈乃は小さな声で「わかりました」と返答することしかできなかった。今は、従う他ない。柊奈乃は看護師に連れられて、来た道を戻っていくしかなかった。

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