そして真っ赤な花が咲いた
公園についてまずは水分補給。そして、タオルを取り出して額や首の汗を拭く。後ろにいた柊奈乃はしっかりと指差しで人数を確認していた。
「ほりせんせー」
ニコニコしながらやってきたのは樹だった。しゃがみ込んで「どうしたの?」と聞くと、手を握って一緒に遊ぼうと言ってくる。
「ちょっと待ってね」
頭を撫でると立ち上がり、残りの人数を数える。ベテラン先生に伝えると、先生は「了解」と手を上げて、「ちゅーもく!」と大きな声で子どもたちの注意を引きつけた。
公園の説明だ。丘を利用した神社前公園は幅広い年齢層が楽しめる公園で、丘の上は小さい子どもたちが遊べるゾーン。丘の下は年齢の高い子どもたちが遊べる区分けとなっており、丘の下に設置されている遊具のなかには3歳児が遊ぶには危険なものもあった。
「ーーいつも遊んでいる人もいると思うけど、わかりましたかー?」
一斉に明るい声が返ってきた。その中で樹は腕を後ろで組んで少しうつむき加減だった。
「それじゃあ、みんな〜遊びましょう!」
先生の声にみんな、遊具へと走っていく。すべり台やブランコ、シーソーに砂場、どこにでもあるような遊具だ。
「樹くんは行かないのー?」
ベテラン先生が声を掛けるものの、樹は激しく首を横に振って応えた。
「あそびたいものない」
「ホント〜? ほら、みんな楽しそうだよ」
「やだ」
「そんなこと言わないで、ほら、先生といってみよう!」
なおも樹は首を振って頑なに動こうとしなかった。
「先生! 樹くんは、私見ます」
「そう? じゃあ、お願いしようかな。樹くん、堀先生とだったら遊べる?」
今まで拒んでいたのが嘘のように、樹は「うん」と笑顔で返事をした。
「ほりせんせー」
樹は柊奈乃の手を引っ張ると砂場の方へと連れていった。そこらにあった木の枝を手に取ると、砂をなぞり何かを描き始める。
「もしかして、マリー?」
嬉しそうにうなずくと、鼻をすすって続きを描いていく。大きなマリーだ。砂場の中を歩き回りながら、でぶ猫の輪郭が形作られていった。
砂場が大きな画用紙なんだ、と柊奈乃は感心して何度もうなずいた。巨大なマリーはそのまま樹自身を表していて、本当はこんなに堂々と過ごしたいんだ、と言っているように思えた。
ところが、ダダダっとかけっこをしていた別の園児たちが砂場の上を走り回り、せっかく描いていたマリーの絵が途切れてしまった。
「あっ」と思ったがもう遅かった。もう少しで耳がつながるところだったマリーの絵の上には乱雑な足跡が並び、樹の作品は無惨にも壊されてしまった。
樹の手から枝が落ちる。それでも唇を曲げて泣くまいと耐えていたが、唇が微かに動き、首が動き、耐えきれなくて樹は泣いた。柊奈乃が慌てて駆け寄ると、泣き声はさらに大きくなった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
なんとか慰めようとするも、泣き声はひどくなるばかりで泣き止みそうにない。周りの園児たちも遊びをやめて、どうしたのか、と首を傾げて様子をうかがっていた。
「樹くん、どうしたの! 堀先生?」
遊具を見回っていたベテラン先生が駆けつける。
「砂場でマリー……あの、猫の絵を描いていたんですが、他の子が走ってきて絵がぐちゃぐちゃになってしまったみたいで」
「あーあの、堀先生とよく一緒に描いていた猫のキャラクター?」
「あっ、はい」
「そっかぁ。一生懸命描いてたら、ぐちゃぐちゃになっちゃったんだ。じゃあさ、もう一回描いてみたら? 今度は少し小さく描いたらきっと走ってきても大丈夫じゃないかな?」
それは、きっと納得しない。柊奈乃が思った通り、樹は泣きながらも「いやだ」と口にした。
「でも、他にも砂場で遊びたい子もいるかもしれないし、追いかけっこしたい子もいるかもしれないし」
首を乱暴に振る。
「じゃあ、どうしたらいいのか先生と考えよう? ね?」
「いやだ!!!」
今まで聞いたことがないような大声を出すと、樹は柊奈乃の手を振りほどいて逃げていってしまった。丘の下に行かれるのは危ない。
「あっ、ダメ、待って!」
柊奈乃は急いで後を追うと、樹の前に回って抱きとめた。危ないときには叱らなければならない。
「ダメだよ、樹くん! 下は行っちゃダメだって先生言ってたでしょ!!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を見せながら、樹は言った。
「なんで、いつきががまんしないといけないの? いっつも、がまんしてるのに」
告白を聞いたような衝撃を受けて、柊奈乃は何も返すことができなかった。ただ、「そっか」と呟いて抱きしめたまま頭を撫で続ける。ベテラン先生に目配せをすると、園児たちは変わらず遊び始めた。
樹はずっと我慢をしていたのだ。本当はみんなと遊びたいのに遊べなくて、我慢していたのだ。今日の公園遊びで、もしかしたらと願っていたのかもしれない、みんなと遊べたらいいのにと。
目を手の甲でこすると、落ち着いたのか樹は柊奈乃から離れた。そうして一度、楽しそうに遊ぶ園児たちの方を見て地べたに両足を抱えて座り込む。
その横に柊奈乃もそっと腰を下ろした。ちらりと横目で隣を見ると、樹は誰もいない丘の下をじっと見つめている。もっと大きな子どもたちが遊ぶようなジャングルジムや滑り台を組み合わせた複合遊具や背の高い鉄棒が並んでいた。
しばらくそれらの遊具を眺めたあと、樹はぽつりとひとり言のように小さな声で言った。
「ともだちいらない」
なんで? と思わず声に出したくなる。しかし否定するのは簡単だ。けれど柊奈乃は樹の本心がそうではないことをもう知っていた。だから、何も言わず樹の視線の先をただ一緒に見ていた。
「ほりせんせー」
ややあって樹はいつもの笑顔で笑った。
「あそぼ」
「うん、いいよー。じゃあ、みんなのところに戻ろう」
「うん」
2人は手をつないで園児たちのところへと戻っていった。馴染むのが遅くたっていい。ゆっくり仲良くなったっていい。今日がその一歩になるといいな、と柊奈乃は少しの期待を抱いていた。
それは、周りから見れば小さな日常に過ぎないのかもしれない。砂に描いたマリーの絵が踏みつけにされたことで、なぜそんな泣き喚き、怒り出すことなのかは本人にしかわからない。ただその小さな日常を送ることで、子どもはやがて大人へと成長していく。柊奈乃は、そんな保育の役割を樹との関わりを通して実感していた。
保育園へと帰る時間になり、柊奈乃は公園に来たときと同じように樹と別の園児に挟まれる形で帰ることになった。違うのは、帰りは柊奈乃が先頭になったということだ。
ベテラン先生が人数確認をして帰りの号令を出したとき、いきなり樹は柊奈乃の手を振り切って走り始めた。
このとき、隣の子の手がすぐに離れれば間に合ったかもしれなかったが、しかし樹が急に走り出したことに驚いたせいか、逆に手を強く握られてしまっていた。
柊奈乃は急いでその子から手を離すと、一歩遅れて樹の後を追う。それでも普通ならば追いつける距離のはずだった。3歳児と大人。いくら足が速くても大人の足には叶わない。なのに樹は右腕を真っ直ぐに伸ばしたまま、ぐんぐんとスピードを上げていく。
行き先は丘の下だった。あれだけ注意したのになぜそこへ行こうとするのかわからない。樹は楽しそうに笑い声を上げながら3歳児には危険すぎる大型遊具へと上っていった。
「樹くん!!」
柊奈乃の言葉に振り返った樹は、足を滑らせたように高いジャングルジムのてっぺんからそのまま地面へと落下していく。
頭から真っ逆さまに落ちていく。激しい衝突音がして、駆けつけたときには樹を中心に血溜まりができていた。
真っ赤な花が咲く地獄のようだった。
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