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シレイ  作者: フクロウ
13/31

柊奈乃の過去

 『子どもの死亡事故の約6割は、0歳から6歳に起こるとされています。事故原因は0歳を除いてワースト1が交通事故、次いで溺死や建物からの転落、不意の首吊りと続きます。0歳児で最も多いのは窒息死です』


 (ほり)柊奈乃(ひなの)は、つい何ヶ月前まで毎日のように読んでいたテキストに目を通すと、今読んだ文章を指でなぞった。大学を卒業し、晴れて今年度から念願だった保育士として働き始めた柊奈乃は、もちろんそのことを念頭に置いて日々預かる子どもたちに接していた。


 が、保育現場は戦場であり、注意していなければ、ときには十分に注意していても危険を感じてヒヤリと冷や汗をかく、『ヒヤリハット』が起こる。経験も知識も体力も足りない新人の柊奈乃は毎日、足は棒のようになり、顔中汗でベトベトになり、寝ること以外何も考えられないほどにボロボロの状態で帰ってきて、部屋のドアを開けるなりベッドの上にダイブするという生活が続いていた。


(明日は、初めての公園遊びだ)


 心身ともにボロボロでも心の底から湧く充実感だけはあった。どんなにつらいと思っても、どんなに嫌なことがあっても一晩眠れば気力を取り戻し働きに行けるのも、子どもたちと過ごす充実感が原動力となっていたからだった。


 柊奈乃の母親は、柊奈乃が3歳のときに車に跳ねられて亡くなった。父親からは不慮の事故だったと伝えられているが、柊奈乃が微かに覚えている記憶の中ではそうではなかった。真っ暗闇のなかに突然、眩しい光が現れたのを覚えている。後ろから思いきり突き飛ばされて、振り返れば(おびただ)しいほどの赤い血が白い光に照らされていた。


 もしかしたら夢だったのかもしれない。ハッキリと遡れる記憶の限りはすでに母親の姿はなく、父親と二人の暮らししかなかった。事故の記憶も明確なものではなくて、曖昧で連続性のない断片的なものに過ぎなかった。いつか見た事故の夢を脳が現実と間違えて記憶しているだけかもしれない。


 それでも柊奈乃は母親に対して、生きさせてもらった(・・・・・・・・・)という想いを抱いて生きてきた。だからか、小学校に上がる頃には毎朝、仏壇に「行ってきます」と告げて、夜には寝る前に必ずその日の出来事を話した。綺麗な笑顔で佇む母親の遺影に向かって、楽しかったこともつらかったことも、嬉しいことも悲しいことも全てを話した。


 父親は仕事で忙しく、夜、柊奈乃が眠りについてから帰ってくるような毎日だったが、他愛もないことも悩みも母親が聞いてくれて、それで十分だった。


 一つだけ、確かな記憶があるのは何気ない会話だ。


 柊奈乃は昔からよく絵を描いていた。しかし、ある日、保育園の先生から「こう描くともっと上手くなるよ」とアドバイスをもらい、それから好きな絵を描くことができなくて、画用紙とクレヨンとを全部ゴミ箱に捨てようとした。


 涙が静かに頬を伝う。そのとき、後ろから温もりを感じた。母親がそっと抱きしめてくれたのだ。母親は言った。


「もったいない。上手くなんて描かなくていい、自由に描いたらいいよ。柊奈乃は絵を描くのが好きなんでしょう」


 柊奈乃はそれから再び好きな絵を描けるようになった。今でも上手く言葉にできないが、母親のその言葉が背中を押してくれたのだろうと柊奈乃は理解している。


 だから柊奈乃は、どんなに悩んだり、どうしようもなく悲しくて寂しくて涙が溢れる日でも、仏壇の母親の顔を見れば自信が持てた。


 「自由に描いたらいい」ーーそれはきっと絵だけではなく生き方そのものだ、と教えてくれた気がしたからだ。


 そんな母の影響から、柊奈乃の保育士としての理想像は明確に決まっていた。柊奈乃がなりたい保育士は、子どもに寄り添う保育士だ。保育園の時代なんて子どもたちが大人になったときには、ほんの一欠片の記憶しかないかもしれない。もしかしたら全く覚えてすらいないかもしれない。


 それでも、「自由に生きていい」、この言葉を胸に柊奈乃は木の根のように育む保育をしたいと願っていた。


 その日は気持ちのいい朝だった。カーテンを閉めていてもわかる快晴の空。絶好のお散歩日和だ。


 朝起きてすぐに扇風機をつけると、心地いい風が柊奈乃の前髪を後ろの方へ流していく。夏の快晴は、イコール熱中症に注意しなければならない。子どもたちにはこまめの水分補給としっかりと帽子を被せなければ。


 軽めの朝食を食べて身支度を整えると、柊奈乃は部屋を出た。その日に限って、タンスの上に置いた母の写真に「行ってきます」と言うことを忘れていたことに気がついたのは、全てが終わり家に帰ってからだった。


 通称「神社前公園」と呼ばれる広大な面積を有する公園は、大小様々な遊具がそろった子どもたちに大人気の公園だ。


 園児達が保育園に通ってくる朝の時間帯、柊奈乃はいつものように子どもたちとでぶ猫マリーのイラストを描いて遊んでいた。


 部屋のドアが開き、「ほりせんせー」と笑顔で駆け寄ってきたのは今月、3歳になったばかりの石塚(いしづか)(いつき)。少し体格のいい子で、赤い野球帽子がトレードマークだった。この日は黒いTシャツを着ていた。


「おはようございます」


 母親は樹にはあまり似ておらず、ほっそりとして線の細そうな女性だった。柔和な笑顔は落ち着いた印象があるが、どこか掴みどころがなく、神経質で人付き合いの苦手そうな雰囲気をまとっていた。


「おはようございます。……あの、堀先生、今日もよろしくお願いします。うちの子、家でも本当に堀先生の話ばかりしていて、あんまり他の友達と遊んでいるのかどうか……すみません、よろしくお願いしますね」


「ええ。私からも一緒に遊べるよう促してみますね。気をつけて行ってらっしゃい」


 心配の意図を読んで送り出すと、母親はぺこりと頭を下げて仕事へと向かっていった。

後ろ姿が見えなくなるまで、樹と一緒に手を振る。


 正直なところ、母親の懸念はよく理解できた。樹は、他の子どもたちとはあまり遊ばず、よく柊奈乃の側にきて一緒にイラストを描いていた。柊奈乃がそれとなく子どもたちとの遊びを促したり、クラスみんなで一緒に遊ぶときも、緊張するのかどこか居心地が悪そうで、時間があれば柊奈乃のところへ画用紙とクレヨンを持ってきてマリーの絵を描いていた。


 保育園には、乳児クラスのときから過ごしてきた子どもたちも多くいたが、樹は3歳児クラスから保育園に入園してきた。そのため、子どもとはいえ、すでにある人間関係に入るのが難しかったり、本人の引っ込み思案もあったりですぐには打ち解けられないのだろう、と柊奈乃は考えていた。自分のペースでいい。ゆっくりと自分を出していければいいのだ、と。


 3歳児クラスは全部で定員ちょうどの25人だった。9時頃までには全員がそろい、いよいよ散歩と公園遊びへと向かう。


 柊奈乃は元気に笑顔で子どもたちの準備を手伝っていたが、心の中には少し不安もあった。昨夜、布団に入る前に復習したテキストの一文を思い出す。交通事故、それから遊具での遊び、熱中症にも気をつけなければいけない。


「堀先生、すみません……」


 部屋のドアを少し開けて申し訳なさそうに顔をのぞかせていたのは、クラスに関係なくフリーに動ける保育士だった。


「どうしましたか?」


 水筒を確認していた手を止めて立ち上がる。


「ちょっと1歳児クラスで具合悪い子が出ちゃって。私、ちょっとお散歩行くの難しいかなと思いまして」


「先生難しい?」


 判断を仰ぐ前に担当のベテラン先生が会話に入ってきた。


「うーん、そうなると先生3人? でも、子どもたちもう準備できちゃったし」


 このとき、心の中に抱いていた不安を率直に話せば、この後の最悪な事態はまた変わっていたのかもしれない。しかし、このとき柊奈乃は自分で考えることを放棄して、ベテランの先生に判断を委ねてしまっていた。新人の自分よりも経験豊富なベテランの先生の方が当然、正しい判断ができるだろうと。


 3歳児25人に対して、大人は3人。うち一人は経験の浅い新人。何もなければ問題はない。が、何かあれば緊急に対応できるのかどうか。柊奈乃は疑問を呑み込んで、準備を進めた。 


「樹くんは、堀先生と手をつないでね」


 まだクラスに馴染めていない樹は、柊奈乃の隣を歩くことになった。ところが、他の子どもたちから「いつきくんだけずるい!」とブーイングが出て、結局柊奈乃は樹ともう一人の園児に挟まれる形となった。


「それじゃあ、みんな出発!」


 拍手や歓声が口々に上がり、門を抜けて列を組んで歩道を歩く。一番後ろの列となった柊奈乃は、両隣を歩く2人と危ないから絶対に手を離さないこと、急に走り出さないことを約束した。


 まだ午前中というのにすでに日差しは強かった。神社前公園までは、歩いて10分くらいとそこまで遠くはなかったが、じっとりとしたこの暑さの中では疲れてしまう子も出てくるかもしれない。柊奈乃は付け加えて、何かあったらすぐに言ってねと伝えると、おしゃべりをしたり、歌を歌いながらゆったりとした歩幅で進んでいった。


 この時間帯でも車通りは多い。信号を渡るときや交差点を渡るときは声をかけ合いながら余裕を持って移動する。喧嘩する子がいたらなだめたり、よそ見をしていたら注意をしたりして20分ほどかけて公園へとたどり着いた。

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