でぶ猫マリー
「樹……!!」
紬希が見ている先に恐る恐る目を向ける。柊奈乃は息を詰まらせた。全身の毛が逆立つような寒気が、足下から頭上まで通り抜けていった。
石畳の下の階段に、それはいた。背の低い子どもだった。体格はいい。だが体は透けており、後ろの景色が映っている。何より違和感があるのはその顔。
赤い鮮血が噴き出していた。頭は半分潰れており、鼻も曲がっている。口は真ん中から裂けて片耳はちぎれ落ちそうになっている。
いてはいけない存在だと、見てはいけない存在だと柊奈乃は直感で理解した。理屈なんて関係ない、とにかく逃げなければいけない。
しかし。
(足が動かない)
子どもは一段一段をゆっくりと上ってきた。いつの間にか木々のざわめきは消えて森の匂いも消えていた。訪れたのは静寂。どこまでも静かな空間に小さな音が聞こえる。
どこかで聞いたことのある音だった。それが一段上がるごとに音は大きくなっていく。
(声ーー人の声?)
はっきりと音が聞こえる。音は声となり、幾重にも重なり合うように柊奈乃の耳に届いた。木々のざわめきから、空気から、いや空間全体から声が聞こえてきた。
「せんせー」
潰れたような声が言葉を紡ぎ、意味を結んだ。
「ほりせんせー」
子どもの顔がはっきりと見えた。見覚えがある。それもそのはずで悲惨なその顔を最初に見たのは柊奈乃だからだ。公園、遊具、つないだ手、赤い水溜まりーー脳裏に5年前の一連の記憶が鮮やかに蘇った。
柊奈乃は叫んだ。あらん限りの声を出して叫んだ。
なのに、誰も来ない。近くに神主がまだいるはずなのに。
柊奈乃は紬希の手を引っ張ると今来た社殿に走り戻っていく。開いていたはずの入口はなぜか固く閉ざされていてビクともしない。
「開けてください!」
ノックをして声を上げても誰も出てこない。後ろを振り返るとそれはちょうど階段を上り終えたところだった。
「ほりせんせー」
もう一度昔の柊奈乃の名を呼ぶと、裂けた口が横に歪んだ。
(笑ってるの?)
それは石畳の上を何度か跳ぶと勢いをつけて走り出した。思っていた以上に速く、血飛沫を上げながら顔がどんどん近づいてくる。
「紬希こっち!」
柊奈乃は踵を返すと社殿を離れ、木々の間に逃げ込んだ。階段までは遠回りになるが、あの子に捕まる危険は犯したくなかった。
(きっと、もう一度捕まったら終わり)
「せんせー、ほりせんせー」
後ろから追い掛けてくる。3歳の子どもとは思えないスピードだった。葉が足や腕や頬を傷つけ、何度か太い木に当たりそうになりながらも柊奈乃は足を懸命に前へと動かした。それでも距離は狭くなってくる。
(まだ? 階段はーー)
石畳から階段までは歩いて30歩ほどの距離だった。遠回りして行ったとしてもこんなにかかるわけがない。なのに生い茂る木々はいつまで経っても終わらずに行く手を拒んでくる。終わらない迷路に迷い込んだように。
「あっ」
走り疲れて足がもつれたのか紬希が転んだ。顔につけていたマリーのマスクが転んだ拍子に外れて地面へと落ちる。早く、早くと急かしながら柊奈乃は手を引っ張りなんとか体を立たせようとするが、紬希は転んだままの体勢で落ちたマスクを拾おうとしていた。
「マスクが! マリーのマスク!」
「いいから! 今はそれどころじゃないでしょ! 早く逃げなきゃ! 早く!」
ダダダダ、と追ってきた足音が後ろで急に止まった。
「せんせー」
すぐ近くで声がした。耳の中に吐息がかかる。何かが肩を触った。氷よりも遥かに冷たい感触に肩が上がり、体が硬直する。柊奈乃は目を見張ったまま、少しずつ視線を肩へと向けた。
5本の小さな指が自分の肩をつかんでいた。白くて半透明な指だった。しかし3本の爪は剥がれ親指と薬指の2本の指が不自然な方向に曲がっている。腕を伝って赤い血が垂れてきてつかまれた肩から服がじわじわと赤く染まっていく。
目を閉じてしまった。体が急に震え上がる。「あっ」「あっ」と声にならない声が漏れる。もうダメだ、と柊奈乃は確信した。捕まえられたらもう終わりだ、と。
不意に肩から感触がなくなる。目を開けば紬希の前に半透明な子どもがしゃがんでいる。
「つ、紬希」
今度こそ腕を引っ張って急いで立たせると紬希は柊奈乃の後ろへ回り、柊奈乃のロングスカートをつかんだ。
男の子はしゃがみ込んだ態勢のまま落ちたマスクをじっと眺めているようだった。
「つむぎのマスク!」
さっと手を紬希の口に当てて口を塞ぐ。
(よくわからないけど、まだ逃げられるかも)
勢いよく後ろを振り向けば、社殿が目に入った。戻って、石畳を通って階段に行けば。
(車まで行ければ大丈夫)
紬希の手を握り、逃げようとするが頑として動こうとしなかった。無理矢理抱っこしてでも連れて行こうと振り返ると、男の子が片手でマスクをつかみ、目に入るほどの近さで縫い付けたマリーのイラストを見つめていた。
「やめて! つむぎのマリーなの!」
滴る血で白いマスクが汚れていく。でぶ猫マリーも赤く染まっていく。柊奈乃は、泣き出してしまった紬希を抱きかかえた。
「ほりせんせー」
マリーは保育園の子どもたちに大人気だった。柊奈乃はいつも子どもたちにマリーのイラストを描いてほしいとせがまれて、毎日何枚ものマリーを描き続けた。中には10枚以上描いたときもある。
(……そうだ、思い出した)
その中でも特にマリーが好きだった子がいた。毎日のように紙を持ってきて、一緒にマリーのイラストを描いたこともある。上手く描けなくて癇癪を起こしたり、綺麗に描けてハイタッチしたり。
『せんせー。マリーはもっとデブのほうがかわいいよ』
今のマリーの形になったのもその子の言葉がきっかけだった。
(忘れていた。今までずっと)
「せんせー」
地鳴りのような低い声が響いた。紬希の泣き声も止まる。
「せんせー」「せんせー」「ほりせんせー」「ほりせんせー」
マスクの紐を引っ張ったり、マスクを上下左右に伸ばしたりしながら、男の子は柊奈乃の名を連呼する。
よし、と言うように一つうなずくと、柊奈乃はくるりと振り返り、紬希を抱えたまま元来た道を駆け戻っていった。
社殿に出て石畳を抜けて長い階段を降りていく。紬希はもう泣くのをやめて、ただ母の胸に顔を埋めて小刻みに震えていた。
3本あるうちの1本目の鳥居をくぐる。
(さっきからおかしい)
気配がないのだ。平日のまだ昼前だから人がいないのはわかる。だけど、木々のざわめきも風の流れも、夏の暑ささえ感じない。聞こえるのは走る音と苦しい息遣い、それと後ろから追ってくる足音だけ。
足がもつれそうになって立ち止まる。前かがみになって何度も咳をした。後ろを見上げれば、再び追ってくる子どもの人影が見えた。
(なんで、どうして)
よりにもよってお祓いをしてもらったばかりなのに襲われるなんて。意味がなかったの? 今まで見えなかったのに見えるようになったし。
「紬希はあんなに怖い顔を見ても平気だったの?」
柊奈乃の胸の中で紬希は違う違う、と首を大きく振った。
「つむぎとあそんでたのちがう。ち、なかった。ぼうししてた」
普通の姿だったんだ。それが、どうしてあんなふうに。
「せんせー」
声が近くなってくる。紬希を抱っこし直すと、柊奈乃はまた階段を降り始めた。
(一番下までまだだいぶ距離がある、というより距離が変わらない?)
社殿から逃げたときと同じ。走っても走っても出口にたどり着かない。横を見れば景色は変わっているのに、下を見れば全く進んでいない。
(どうすれば?)
焦る柊奈乃の目に赤く連なる何重もの鳥居が飛び込んできた。
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