タヌキとオオカミ
高野真凜は、休日の朝、子供と遊ぶ夫の圭祐の姿を見て、ため息をついた。
(学生時代からずんぐりしていたのだけど。あれから10キロぐらい太ったんじゃないかしら。タヌキに似てきたわね)
もう30代も半ばになり仕事も忙しい中、仕方がないかもしれないが、もう少し頑張れないのかしら、そう思いながら化粧を続ける。
真凜と圭祐は大学時代からの付き合いだ。真凜は美人で評判だったが、付き合っていたイケメンの彼氏が浮気して別れたところを、圭祐が猛烈にアタックしてきたので時間つぶしのつもりで付き合ったのだ。
見た目はフツメン以下だったが、頭の良さと柔道部で鍛えた体力、それに話の面白さでなんだかんだと付き合いが続いてきた。真凜はしばしば新しい彼氏への乗り換えをしようとしたが、圭祐に巧みに防がれ、少し不満を持ちながらも恋人同士であり続けていた。
それが変化したのは、お互いに名の通った一流企業に入社したあとのこと。
入社してからは二人とも猛烈に忙しく、さしもの圭祐のフォローも行き届かずに付き合いも一時自然消滅した。
ずっと圭祐の容姿に不満だった真凜は、女子社員の競争を勝ち抜き社内で一二を争うイケメンと付き合うことができ満足だったが、付き合いが長くなると中身のなさと自己中心的な性格に嫌気が差し始める。
(帯に短したすきに長し。なかなか外も中も満足させてくれる人はいないわね)
しばらくして、その男は社内でセクハラ問題を起こし左遷される。それを機にその男とは手を切るが、社内ではセクハラ男の彼女と評判が立ち、これぞと思う男は寄ってこない。
そこに久しぶりの大学時代の集まりがあり、そこで圭祐が相変わらず冴えない風貌にも関わらず、大企業で出世頭となっていることを知り、真凜は復縁を企てる。
社会人でどんな経験をしてきたのか、今度は逆に真凜の攻勢をのらりくらりと躱す圭祐だったが、友人を交えた飲み会で真凜は友人に頼み込み、圭祐に強い酒を勧めて酔わせた挙げ句にホテルに泊まらせ、うまくできちゃった婚に持ち込んだ。
学生時代からなんだかんだと言いながらも、最後は責任感が強いことはよく知っている。
真凜が子供ができたので結婚してと言ったとき、圭祐はなんとも言えない顔をしていたが、しばらくの沈黙の後、「わかった!」と言い、しっかりと両家の顔合わせから結婚式までを進めていった。
尤も、自分の覚えのある日と子供の出生予定日をしっかりと確認していたようではあった。
(これじゃあ子供の親子鑑定もやりそうだわ。抜けていそうでポイントは押さえる奴なのよ)
学生時代は逃げ腰だったのに、今度は積極的で、オマケにいかにも結婚のために子供を作ったと言わんばかりの真凜の行動に違和感を覚えているのだろう。
真凜の方も切羽詰まってきていた。
セクハラした元カレが執拗に復縁を迫ってきていたのと、職場にプロジェクトが立ち上がり、厳しい上司の下、その一員となって連日の深夜までの大量の業務に疲弊していた。
真凜はこれを一気に片付けるために圭祐との結婚に持ち込んだのだ。
元カレは、圭祐とのデートのときに現れて、「お前が俺の言う事を聞かなかったから会社で女子社員に当たってしまったんだ。その責任も取らずに他の男と遊びやがって」と襲いかかってきたところを、圭祐の一喝で震え上がり腕を捩じ上げられて、涙ながらに二度と近寄らないと誓っていた。
会社には産休から育休、有給と存分に権利を使い、少し会社に復帰するとすぐに二人目を妊娠して、もう一度産休から取得し、その挙げ句に退職した。
真凜が最後に挨拶に行くと、特に女性社員からは苦々しく睨みつけられたが、未来の社会のために子育てに頑張りますという大義名分に逆らえる者はいない。
その一方で、真凜は圭祐に言う。
「子育ては大変なんだから、家事はフィフティフィフティだからね」
「OKOK」
どこまで本気なのか、飄々と圭祐は承諾する。
流石に半分の負担はできなかったが、夜は残業と接待が多くても最大限に育児に関わろうとしていることはわかった。
持ち前の体力を活かして、深夜や早朝に帰宅しても翌朝の保育園への送迎は必ず行い、休日は出勤のない限り、子供の面倒を見ていた。
それでも真凜は時々育児に疲れて、圭祐に当たる。
「アタシみたいな美人の奥さんを、アンタみたいなブサメンが貰えたなんてどんだけ感謝しても足りないわ。ホントなら、アタシの仕事は子供を産んでおしまい。後はアンタが育てるべきよ!」
「ゴメンゴメン。真凜には感謝してもしきれないなあ。
よし、今度の休みは子供は親に預けて温泉でも行くか。そこで女っぷりを上げて、もっといい女になってほしいなあ」
圭祐の口のうまさは会社で更に磨かれたのか、癇癪を起こしても上手く丸め込まれて、最後は収まっている。
「お宅の旦那さん、よく手伝ってくれるわね」
ママ友からの賞賛の言葉に、真凜は「育児は夫婦の共同作業よ。平日はほとんど私が見ているのだから当たり前でしょう」と言っていたが、会社での稼ぎと家事への貢献を考えると圭祐に大きな不満はなかった。
いや、ママ友の話のダンナ達よりよく稼ぎ、よく貢献する分満足していた。
子供も小学生になるとだいぶ手がかからなくなる。
そんなある日、久しぶりの都心のショッピングで学生時代の友人に会う。
「真凜、あなた変わったわねえ。
すっかり所帯じみて!」
この女はずっと独身だったはず。自分に金も時間も使ってきたのか、学生時代は真凜の足元にも及ばなかったが、真凜のほうが老けているように言う。
何か言い立てる女を置いて、真凜は急いで帰宅して自分をまじまじと鏡で見る。
「何これ、こんなのアタシじゃない!」
そこにあるのは、小皺ができて、肌は荒れて、髪はボサボサの中年女。
真凜の自己イメージとは全然違う。
ヒステリーを起こした真凜はネットで美容術を調べて、ジム、美容院、マッサージ、エステに通い、高級化粧品を買いまくる。
次の月のカードの支払い明細を見て、いつも動じない圭祐が目を丸くする。
「真凜、これ何?」
「アタシが美しくなった方がアンタも子供も嬉しいでしょう。必要経費よ」
「いやー真凜はいつも綺麗だよ。こんなものに頼らなくとも若い娘にない気品やオーラが出てるなあ。オレも子供も美人なママにメロメロだよ」
「うん、そう。ママ好き!」
子供も圭祐の引き攣り気味な顔にやばいと思ったか話を合わせる。
いつもはそれで宥められる真凜だが、今日は収まらない。
「そんなことでは騙されないわ!
アンタ達の世話をしてたからこんなみすぼらしい姿になったのよ!
少しは協力してよ!」
真凜の爆発に家族はタジタジとなるが、給料の大半を美容に使われてはたまらない。圭祐は何とか真凜を言いくるめる。
真凜は気がつくと家計は圭祐に握られて、小遣いの範囲で美容に励むことになったが、気持ちは収まない。
真凜はパートに出て、その稼ぎも美容に充てることにする。
(スーパーのレジ打ちは厭。もう少し見映えがいいところはないかしら)
探し当てたのは高級和食店の仲居。
着物を着て化粧をして接客にいそしむ。
久しぶりの仕事に疲れて、家事は手抜き気味となる。
リビングで子供の声がする。
「ママの料理とかけてパパと解く。その心は?」
笑点に凝っている長男の声。
「わかんない。教えて」
「タヌキ」
ハッハッハと笑う夫。
「パパはタヌキで、ママの料理は手抜きと言いたいんだな」
「そう。だって昨日の晩はスーパーのお弁当とカップの味噌汁だよ」
「お掃除も手抜き。自分の顔のお掃除ばっかり」
娘の声もする。
「プップップ、わかった。今日はパパが美味しいご飯を作ってやる。
だからママに文句を言わないの」
「やったー」
休日の日の夫と子供の声に、真凜は家事を手抜きしていることに少し罪悪感を感じる。
そして今日は、店で会った客に誘われてのデートに出かけるのだ。
(やっぱりちゃんとすればまだまだあたしも魅力があるのよ)
圭祐を裏切る気はない。
彼は見た目はタヌキだがお得な掘り出し物だ。彼を超える男はそういないだろう。
今日は気分転換。
真凜はあの日の友人のバカにした目つきが忘れられない。
(これで自信を取り戻して、またがんばろう)
今日の相手はテレビで見るモデルでも見たことのないほどの美形だ。
母親らしい年上の女と食事をして、その途中で真凜に連絡先の紙を握らせてきた。
(お金持ちの美形か。
青年実業家か、タレントか。
今日はデートした後、ホテルに誘われたらどうしよう。
いや、でもあたしは人妻だしと断わらないといけないわね)
真凜は頭で妄想するが、はっと見ると時間が迫っている。
「ちょっとでかけてきます」
「いってらっしゃーい。お友達によろしくな」
真凜は待ち合わせの場所で男とおちあい、男の車で出かける。
「ちょっと食事前に運動しようか」
名前だけ聞いたことがある超一流のゴルフ場でプレーをする。
ゴルフ場でよくある、指導の名目で触ってくることもない。
(下心はないのかしら)
そして高級レストランに移動して、お酒を飲みいかにもお金のかかっている料理を食べる。
その間も男は真凜の容姿を褒め称えて、会ってくれて嬉しいと連発する。
食事が終わり構える真凜に、男はじゃあ家に送るよと言う。
拍子抜けした真凜だが、それもいいかと承諾する。
車で走る途中、男は、忘れ物があるので家に寄ってくれと言い出した。
やっぱり来たと思い、真凜はドキドキするが、車で待っていてくれと言う男に肩透かしを食らわされたような気がする。
「あたしもついていくわ」
やってきたその家は超高級マンションの中でも一番高い部屋。
真凜の今のマンションも普通のサラリーマンでは手が出ないところだが、ここは桁が違う。
(えー、凄い金持ちじゃない)
そして男の横顔を見ると、ますますイイ男に見えた。
部屋の中は広く豪華な調度品が溢れている。
「はい、これはプレゼント」
男の忘れ物とは真凜への贈り物だったようだ。
ブチッ、そのプレゼントを受け取ったとき、真凜の頭で何かの糸が切れた。
(あたしに似つかわしいのはこの人だわ。あんなタヌキじゃない。これまであのタヌキに化かされていたのよ。あれがタヌキならこの人は凛々しいオオカミ。あぁ、あたしはオオカミに食べられてしまう運命なのね)
真凜はプレゼントを投げ捨てて、その男にむしゃぶりつき、「抱いて!」と叫ぶ。
男は一瞬戸惑ったようだったが、すぐにうなずき、真凜を寝室に連れていった。
それから真凜は時間を見つけて男に連絡を取る。彼は忙しいのか、会ってくれるのは5回に一度程度。会えない日はバイトとエステに行く。
そして家のことはもはや最低限のことすら行わなくなる。
3ヶ月後、男と会って帰った真凜に、圭祐は冷たく告げる。
「もうそちらもそのつもりだろうが、離婚だ。
わかっていると思うが、理由はお前の不倫。証拠はいくらでもある。
子供の親権は俺が持つ。争ってもネグレクトしてたお前に勝ち目はない。
そのためにこれだけ時間をかけたんだ。
養育費と財産分与を相殺するので、そのまま出て行ってくれ。
二度と会わないことを祈るよ」
「いいわよ。
いつこっちから言おうかと思っていたわ。
アンタなんかあたしに釣り合うはずがない。
美女と野獣ならまだしも、美女とタヌキなんて、チャンチャラおかしい。
よくも十数年も化かして、子供まで作らせたわね」
真凜の剣幕にも圭祐は取り合わない。
「ハイハイ、さっさと離婚届に判を押して、間男の家に駆け込んだらどうだ。
こちらも忙しい」
離婚手続きが終わると、真凜は身の回りのものをまとめて出ていく。
子どもたちは圭祐の実家に預けているようだ。
(せいせいしたわ。
これであの人のところに大手を振って行ける)
男には何度も結婚したいと言ったのだが、君は人妻でしょうと断られていたのだ。
荷物を実家に送り、事情を両親に説明していると思ったより長く時間がかかった。両親は圭祐と孫を気に入っていて、真凜の話に仰天した。
最後は両親を突き放して、男の家に走っていく。
すると圭祐が男のマンションから出てくるのが見えた。
(どうせ慰謝料でも取りに来たのでしょう。
そんなはした金、すぐに払ったに違いないわ)
圭祐は首を傾げているようだ。
(あまりにも桁の違う金持ちでびっくりしたに違いない。ハッハッハ)
インターホンで男を呼ぶと、いつもと違う感じがする。
それでも強引に上がり込むと、男の姿はなく、以前に店で見た母親のような女が座っていた。
「アンタが浮気女ね。
まあ座んなさい」
母親なら少し面倒かと真凜は考えるが、女の話はそれを超えていた。
「ゴメンね。ペットの躾けができてなくて。
あれは私のペットなの。
お金をかけて磨き上げて、ここで私の慰安用に飼っていたんだけど、時々勝手に女を食い散らかすのよね。
アンタで5人目よ」
遠くから、許してと小さく言うのが聞こえる。
「罰も難しくてさ。せっかくの観賞用の顔と身体に傷つけるのももったいなくて、食事抜きぐらいにしてたらつけあがってさ。
今度はいい方法を思いついて、電気ショックを与えているのよ。
そうすれば傷跡も残らないし、痛みも覚える。
ペットが悪さしたらすぐに痛みを与えないと覚えないからね」
よく見るとこの高齢婦人は、テレビにも出てくる有名な女性経営者だった。
夫とともに一代で大会社を築き上げて、夫は死別したはず。社長は子供に任せているが会長として院政を引いていると聞く。
「さっき、アンタの元ダンナが来てさ。慰謝料出せと言うの。
ペットは小遣いだけで無一文だからね、私に管理者責任で払えというの。
あれは、見栄えは悪いけれどなかなかの男ね。
私の機嫌を損ねたら飛ばされるかもしれないのに、大した度胸と話術だわ。
それで話しているうちに気に入って、スカウトしちゃった。
うちの役員になれば、給料も3倍くらい出すって。
悩んで帰っていったわ。
慰謝料取りに来たのが、スカウトの話になって化かされたようだと言ってた。
タヌキみたいな男がよく言うわ」
真凜はこの喋り続ける女こそ化けギツネに思えてきた。
齢何百年の尻尾が9つある狐じゃないの、思わず彼女の後ろを視線で追う。
「でも多分あの男、私の話に乗るわね。
そうしたらアイツを働かせて沢山獲物を取ってこさせてやるわ。
アナタ知ってる?
タヌキは肉食獣なの。あれは大ダヌキになるかもね。
そしてアナタが溺れた男は女の気を引くしか能のない、ペットのオオカミ。
獲物なんか獲ったこともない、外では生きていけない生き物なの。
ゴメンね」
財界の大物と聞く、一見人の良さそうなおばあさんに謝られて、真凜はわけがわからない。
そこに、あの男の悲鳴が聞こえてきて正気に戻る。
「では、あたしは彼とは一緒になれないと言うことですか」
「もう飽きてきたからあげてもいいけど、何もできないわよ。純粋な観賞用と慰安用。
それに金がかかるわ。あの状態を保つのに、食事も服も全部一流品を与えているからね。アナタ、それでも欲しいの?」
真凜は我に返る。
そんなことができるわけがない。
「わかったらお帰り。
夢が見えていたときは楽しかったでしょう。
あとの人生、それを思い返して生きていけばどう」
女のそんな声に送られて、外に出る。
今日は現実とは思えない。本当に化かされたようだ。
タヌキにかキツネにか?
真凜は悪夢を見ているような気分で、ホテルを取って、夢が覚めていることを祈りながら寝た。
翌朝、ホテルのベッドでしばらく考えて、ようやく昨日のことを思い出す。
まずは圭祐に謝り、復縁しなければ!
急いで家に行くと、いくらチャイムを鳴らしても誰も出ない。
隣の住民が通りかかり、昨日引っ越ししたという。
そういえば以前から荷物が片付けられていたような気がする。
真凜が出ていったところで、家を変えたのか。
もっと通勤時間を短くして子供との時間を作りたいと言っていたなと思い出す。
結局親に泣きつき、実家で呆然としていた真凜が、テレビを見ていると、経済ニュースになる。
なんとあの女会長が圭祐を連れて記者会見している。
大手企業からの引き抜きで、この若さで役員、将来は社長の可能性もと言われている。
真凜は、タヌキ顔で飄々と答える圭祐を久しぶりに見て、みんなコイツに化かされてるよと叫びたくなるとともに、あのまま彼の掌で転がされていれば幸せだったのにとひどく後悔した。