5
私はミルクちゃんの目を見た。
記憶の底から次々にとりとめのない思い出が浮かび上がってきては泡のように弾け消えていった。自分の頭の中でだけ見える幻のようなその一つ一つを言葉にして口から出したり人に伝えられるほどまとまりのある形にする事などできそうにない。言葉にしようとすると全部が嘘になるなぁと分かった。
例えば吹き消したケーキの蝋燭の匂いとか、飼っていたカタツムリとか、シャンパンの限りなく生まれる泡が綺麗で不思議でいつまでも見惚れていた事とか…その情景が自分にはなんとなく甘かったり辛かったりする意味をもつものでも、ミルクちゃんに全く同じように感じてもらえるようにそれを説明するのは難しい。
大きな大人の間に座らされ、頭の上を取り分けた食べ物や会話や乾杯が賑やかにやりとりされる。辺りはうるさいお喋りとお酒の席の香りに溢れている。「夜の匂い」と呼んでいた母のコートの香り。
お母さんが接待している間、私は退屈でウトウトしたり眠り込んでしまったりして、いつも最後までは起きていられなかった。気が付くといつの間にか車の後部座席にいて、前の座席で話している母とおじさんの声が聞こえた。
「よく寝てるね」
「可愛いね」
自分の話をされているのが分かると不思議と目が覚め、家に着くまでにまた眠り込んでしまった。母は抱っこして四階まで階段を上がってくれた。
ミルクちゃんが手に持っている煙草から立ち上る煙の行方を目で追いかけた。煙は始まりは白く濃く一本の筋になって立ち昇るのに、すぐモワモワと薄まり広がって渦を巻き、窓枠の上までも辿り着けないで目には見えなくなり大気に溶け込んだ。微かな香りだけを残して。
「お客さん来ないね」
「今日はそんな日みたいだね」
「こんなんなら休めば良かったなぁ」ため息をつく私を見て同じ立場のはずなのにミルクちゃんは気の毒がるような微笑を浮かべた。
「ミルちゃんも歩合制でしょ?」
「だけど待機保証は出るよ…保証付けてもらってないの?」
「無い…完全歩合制って書いてあったから…」
「そっか。ハナちゃんはここが初めてだから…
私は入る時に交渉したんだ。待機保障はありますかって聞いただけだけど。別のお店で長かったから優遇されたのかな…」
私は呆然としてミルちゃんを見つめた。おっとりしているように見えて実はかなりしっかりしてるんだなと、これまで彼女を侮っていた自分が急にすごく小さな頼りない馬鹿に見えた。
「お店との契約は人それぞれ違うよ。この業界。交渉してみると良いよ。ハナちゃん勤務態度真面目だし。だけど私の名前は出さないでね。」
「交渉なんてできるかなぁ…」
「甘えるんだよ。社長さんに。他のお客さんにまた来てねって言うのと同じ。希望を言っておくだけの事だよ。今日絶対って言うんじゃなくて、いつか叶えてねって望みを伝えておくだけで良いんだよ。」
ミルクちゃんは窓の外を歩いてくる人を見て、タバコの火を消し、のんびり手を振った。
私は急いで立ち上がりかけたけど、スカートの裾を引っ張りミルクちゃんが首を横に振った。
「あの人はセレナさん一筋の常連さんだよ。」
「そうなんだ…」
「もう少し話してよ。子どもの頃の話」
「順番通りには思い出せないよ。思い出って時系列通りに浮かんで来ないみたい。」
「いいよ。ハナちゃんの子どもの頃の事が聞きたいだけ」
(今の互いの本名すら知らないのになぁ)と思った。それでも私は記憶を遡り、思い出そうとした。
ユースケの前後に付き合っていた別の男とは母はベッドも寝室も分けて眠っていた。「ターくん」とお母さんは呼んでいたが私は「おじさん」とか「佐々木さん」と呼んでいた。
この人の家には埃っぽい閉ざされた何年も使われていなかった部屋がいっぱいあり、せっかくだからと私達母子は一部屋ずつ貰う事になったのだ。
深夜に寝ぼけているうちに車で連れて来られ外は危ないから出ないようにと閉じ込められてしまった私には自分がどんな建物の中で暮らしているのか分からなかった。
冷たくて長い廊下と、大きな野生の中庭があり、その端っこにあるトイレへ行くのが怖かった。昼でも嫌な感じがするトイレだった。よくオシッコを我慢してパンツを濡らした。
誰も見ていないときには、中庭に茂っている草叢の中でしゃがんでジョロジョロ放尿した。そして靴で蹴ってその辺の土をかけておいた。野良猫みたいに。
誰からも怒られた覚えはない。誰も私の事なんか見てなかった。その大きな古い屋敷の中に住んでいるのは孤独な初老の佐々木さん一人だけだった。
私達親子が転がり込んで住むことになった始めの方の夜に母は彼に言った。
「部屋を間違えないでね?間違えてこの子としちゃダメだよ」
「なにを…この子が聞いてるのに…」
佐々木さんも母を窘めようとした。
この古い家は硬い木でできた床が冷たくて、私は靴下を持っていなくて、遊び道具も何もなく、(大昔の誰のものだったのか分からない古いウサギのぬいぐるみを、埃を叩いて佐々木さんは渡そうとしてくれたが、私は咳が止まらなくなり、母が一度洗ってからにしましょうと言い、そのままウサギは葬り去られた)私は家に帰りたかった。自分の家と思える家はここではない。
小さい自分の足で歩いて帰れないほど外の世界は未知で広いと言うことはもう分かるはずの歳だったと思うけれど、私は脱走した。簡単だった。出ることは。
別に誰に見張られてもいるわけでもなかったので玄関からでも出られたのだが、中庭の草の陰で遊んでいて雑草が少し遠慮して生えている細い獣道を見つけ、どこまで続いているんだろうと行けるだけどんどん所々で草をかき分け行ってみたら、朽ちかけた木のオンボロな背の低い木戸に辿り着き、鍵も掛かっていなくて、押すと向こう側の柔らかい草を薙ぎ倒しギーギー軋みながら、何とか自分の体が通り抜けられそうな隙間が開いて、外へ出てしまえたので、そのまま歩き出した。手についた木屑をスカートに擦り付けて払った。
道は狭かった。土と短い草と背の低いタンポポが咲く崖の上。2メートルくらい下をコンクリートの浅い川が流れていた。ブロック塀に沿って歩いた。しばらく行くと塀は緑色の菱形のフェンスに変わり、ツツジの生垣に変わり、白い小さな花が密集して咲く可愛い葉っぱの生垣に変わり、しゃがんで覗くと、隙間の空いているところから洗濯物が干してある他所の家の庭が見えた。よく手入れされた花壇にはクレヨンの箱の中の全色を使えそうなほどの水色や桃色やオレンジ色やピンク色の背丈もとりどりな花々が咲いていた。熊手と大きく膨らんだ青い塵袋の山もあった。いくつかは穴が開いてゴミが中から溢れ出していた。ひっくり返ってタイヤを上に向けた壊れたオモチャの車の残骸もある。あんまり見ていて見付かったら怒られるかもと言う気がしてきて、立ち上がった。
振り返ってみると、どこまでが自分の出てきた家だったのか何となく分かるような気がした。隣の隣かその隣くらいまでもう来ているみたいだ。迷い出すようにして脱走していた。
さらに先へ進むと、道幅が徐々に狭まってきて、ついに途切れそうというところで、川岸へ降りられる階段が出現した。
ハッと息が詰まり、凍り付いたように固まった後、ホッと全身から力が抜けた。一番下の段に小さな青い蛇がいたのだが、シュルシュルとリボンみたいに解けて水の上を渡り向こう岸の茂みの中へ消えた。まだ蛇のいた所に怖さだけが残っていてその辺りの石畳を避けて踏み越えてもしばらくはドキドキしていたが、やがて川の中に透き通った可愛い小魚がいっぱい群れになって泳いでいるのを見つけ、スイミーみたいだと思ったら、楽しい気分になってきた。
川幅はだんだん広がり、枝分かれし、合流し、間に島があったりゴミだらけで淀んでいるところがあったりした。水鳥がプカプカ夫婦で泳いでいたり、脚と嘴が長い怖い目付きの鳥が睨んできて、いきなり翼を広げて飛び立ったりした。
進み続けると用水路みたいなコンクリートの川岸の上は賑やかになってきた。灰色の短いトンネルを潜る時、頭の上を往来する車や人や自転車の雑踏が聞こえた。
ある所から川はゴーゴー音を立てながら地底深く飲み込まれ、水は見えない地下へ全部落ちて行き、地響きを立てる真っ暗な穴の中は覗き込もうとしても暗くて何も見えなかった。川岸の道も突然行き止まりになっていた。
(仕方がない。冒険はこれで終わりだ)と思って、少し引き返すと、さっきは気付かなかったコンクリートの切り立った壁に上へ上がる茶色い手すりがあるのを見付けた。それを登り、地上に顔を出してみると公園のような所へ出た。
溝の淵からひょこっと現れた私の頭に驚いて、バサバサ無数の鳩が一斉に空へ飛び立ち、鳩に餌をやっていたおじさんと犬の散歩をしていたおばさんがビックリして駆けつけて来て腕を掴み引っ張り上げてくれた。
「まぁまぁまぁまぁ」
「わぁわぁ大変だ、危ない、こんな所から…」と言いながら。
そこまでは自力で登って来たのだしそんな必要はなかったのだけれど、心配されたりチヤホヤしてもらえるのが満更でもなく心地良かった。おばさんは髪についていた枯れ葉か何かを摘んでとってくれ、おばさんには触れない蜘蛛をおじさんが払ってくれた。二人はこの辺りのご近所さんみたいだった。
「どこの家の子?」
「どこから来たの?」
そう言われたが、私にも分からない。
「長谷川さんちの一番小さい子かしら?」
二人は自分達だけで目を見交わせた。
「貴女お名前は?」
私は自分の名を名乗ったが二人は首を傾げた。
「聞いたことない名前だね…」
「この辺りにいたかな…?」
でも私は迷子ではなかった。同じ道を辿れば元通りの場所に帰れるんだから。別に困っているわけではない。心配はいらない。そう言うと、二人は少し安心してくれたようだった。
犬の散歩の途中だったおばさんはこれから帰って洗濯物も干さなければいけないし午後には買い物にも行かなければいけないんだった、今日は卵の特売日だから、と思い出し、私はペットカートを押すおばさんと一緒に歩き出した。鳩のおじさんに二人で手を振って。
おばさんの家でお煎餅と鈴の形のお砂糖のお菓子と柚茶をもらった。犬は下に下されるとのたのた歩いていつもの定位置らしい座布団の上にぽてっと座った。
「その犬よしこって言うの。私よりもお婆ちゃん。足が悪いのよ。ダックスフントって腰が長いから年取るとみんな腰痛持ちになるみたい」
おばさんが洗濯物を干しながら言った。
ついそのお家で気が緩み、私も、絡まった洗濯物をピンと伸ばすお手伝いをしながら、お母さんのお友達のおじさんの名前が佐々木さんだと言う事と、普段お母さんは佐々木さんなんて呼ばずに「タッくん」とその人の事を呼ぶんだよとか、どんなに二人が仲良しかとかを面白おかしくだいぶ尾鰭をつけて喋ってしまった。おばさんは興味津々で面白そうに笑ってくれたしもっと話を聞きたそうにしていたし、優しかったから。
それから車に乗って買い物に行くおばさんとバイバイして、夕暮れまで猫や虫と遊び、さて帰ろうとしたら帰れなくなっていた。
まず川が見当たらなかった。不審がられながら用水路まで行く道をその辺でお喋りしていた二人のお爺さん達に聞き、やっと川を見付けたものの、今度は見渡す限り下へ降りる階段が見当たらない。
どこもかしこも同じような造りの古びた家並みが続き、陽射しは黄昏てくるし、心細くて、お腹もペコペコに空いてきた。そこら中の家々から漂ってくる美味しそうな香りがお腹の底まで染み込んできて、口の中に味までしてきそうなくらいだった。
どの家の窓の中も暖かく幸せそうに見えた。
足早に帰り道を急ぐ人達で交通量は増えていた。人通りの多いところでわざと人目に付くようにしゃがみ込み、大人の目線に向け悲しげな眼差しを振りまいて、誰でも良いから誰かがどこかへ連れて帰ってくれないかなと期待して待っていた。いろんな大人の人が声をかけてくれた。でも自分の家へおいでと言う人は誰もいなかった。みんな、
「あなたのお家はどこ?」
「どこから来たの?」と言い、来た場所へ返そうとした。
そのうち誰かが呼んでくれたお巡りさんが二人来た。集まっていた大人の中の誰よりも大人に見える。片方は女の人だった。その人と話しながら手を繋ぎ、歩いて連れて行かれた交番には、既に母が待っていた。狭い明るい室内で机に肘をつき頭を抱えて座っている後ろ姿が開け放たれたドアからチラッと見え、その次には両手を広げて駆け寄って来た。母は胸の中にギュッと私を抱きしめてくれ、ビックリするほど優しかった。
「ごめんね、ごめんね」と謝ってまでくれた。怒られるのなら分かるけれど謝られるのにはビックリした。
お巡りさんは二人とも私には優しかったのにお母さんには厳しかった。母は声も体も小さくなったようで、交番にいたもう一人の警官と合わせて3人の大きな警官に取り囲まれ、一人だけ椅子に座り縮こまって色々質問を受け、小さい声で弱々しく答えていて、何だか虐められているみたいだった。
私は母と警官の間に立ち、腕を広げ、
「お母さんをいじめちゃダメ」と怒った。
それを見てお巡りさん達は笑い出し、
「そもそもの元凶は迷子になった自分だからね。川とか、行っちゃダメって言われてるような危ない場所で遊んじゃダメだからね」と言われ、母と私は解放された。
二人とも子どもみたいだった。母も私と同じくらい小さく見え、私よりもっとションボリして歩いていた。交番から見える曲がり角を曲がるまでは。
交番では優しかったがそれは人が見ていたからだった。母は怒っていた。本当はやっぱり物凄く怒っていて、私は角を曲がった途端膨れ上がったような巨大な母にビンタされた。
それでも佐々木さんがいる前では叩かれないらしい。佐々木さんの家に帰り着き、その事に気付くと、私は母と二人きりになるのを避けるため佐々木さんにくっついて回った。
「お?どうした?」と佐々木さんは驚いて私をジロジロ見た。普段この人と私は避け合っていた。
私はこのおじさんだけでなくてもそもそも母の彼氏たちはほぼ全員大嫌いだった。みんな母には釣り合わないし大人にしかできない話ばかりして退屈だし、母を独占しようとし、私を邪魔だと思っているのが薄々ちゃんと分かる。
佐々木さんも初めのうちは私にプレゼントをくれたり優しくしようと心掛けてくれていたかもしれなかったけど、
(母と一緒にいるには年寄りすぎるし釣り合わなくて変だ…臭いし)と思っている私の気持ちは相手にも伝わり、互いにこれまでは近くにいる事自体を避けてきた。
それなのにこの日は私がそばから離れようとしないので、意外そうだった。ちょっと自分の皿を差し出してくれ、私の好きなミニトマトや苺やキウイをくれたりした。(半分は親切、もう半分は酸っぱいのが苦手な自分のためだと思うけれど。)でもちょっとでも優しくされるとすぐに嬉しくなってしまう私は、
(なんだ、そうか、懐いた方が得だな)と覚えた。改めて。
佐々木さんの所に変な若い母子が転がり込んで来て住んでると近所で噂され、佐々木さんの元奥さんの母より一つか二つ年上な子供達が飛んできて遺産狙いだなどと騒ぐので、一緒には住めなくなり、私達はそこを出て、温泉旅館やホテルを転々とした。
時々、唐突に、母が、発狂したように、そこに私がいる事に急にビックリして叫んだ。
「あんた学校は?!」
そして今まで行かないのが当たり前だった学校に行ってないからと言う理由で母は私に激昂するようになった。
ランドセルならアパートにあった。一つで良いものを三つも四つも持っていた。おじさん達に貰って。でも学校の場所も知らないし何時に出かければ間に合うのかもよく分からない。登校班というものがあるのも知らなかった。
母が朝起きてなんであんたここにいるの、学校に行け、と言うのでホテルを出てブラブラ学校を探し、なんとなくもう良いかなと思った頃合いを見計らいホテルの部屋に戻って来た。
小学校には入学式の時に行ったのと他にも数回は行った事があるけれど、それは出発点が家だったので辿り着くことができたのだ。自分の家からなら道も分かる。でも現在地がどこなんだかよく分かっていない状況では辿り着きようがない。黙っていればバレないと思い、小さくて騒がしい人の多い行く意味もよく理解できない小学校には行ったフリだけしていた。
あまりすぐに戻ったらおかしいと気付かれるからサボるなら下校時間くらいまではサボり続けなければならないのを、そんな知恵が働かず、雨が降るとロビーを彷徨くぐらいしかやる事がなかったりすぐに疲れて飽きたりして、部屋に戻り、母もおかしいなとだんだん気が付き始めたようだ。
別の用事でアパートに戻った時に学校からの連絡が山ほど届いていてそのどれもに
〝娘さんが学校に来ていないです”とお知らせしていたので、その日はまた本当に母に怒られた。
次の日は朝早くにアパートから叩き出された。そこからなら道も知っていた。家の窓から小学校はJRの高架を挟んで校舎が見えるほど近いのだ。
でも学校に着くと、校門が閉まっていた。
人気がなく誰もいないし、おかしいなぁ早過ぎたのかなぁそのうち開くかなぁと思い校門の下にしゃがんでなめくじを眺めたり少し歩き少し引き返したりして校門が開くのを待っていると、犬を連れた男の子が通りかかった。
「何してるの?」
私は相手をジロジロ見た。相手はまだ幼い子どもだった。
自分と同じくらいか一個か二個か年上かもしれない。つまり子どもだ。頬がぷっくりした丸顔の可愛らしい子どもらしい子どもだ。
「学校が開くの待ってる」と私はブツブツ言った。
「は?今日日曜日だよ」
男の子もジロジロこちらを見返してきた。
「でも…お母さんが行けって言ったから。そんなの信じない」
と私は焦りながら言い返した。自分のお母さんが間違えることなんてないと思いながらもあやふやな自信がすぐにぐらつき始めていた。
「今日学校がある日なら俺だって学校行ってる」
とその男の子は言った。
「日曜日だから誰もいないんだよ、見ろや、ほら」
そう言って小さい指でシンとした校舎を指差した。
確かに、大きな校舎は静まり返り、校門は閉じ鍵が掛かっている。ポツポツ雨も降り始めた。
(どうしよう…こんなにすぐに家に帰ったらまた怒られるなぁ…)と私は思った。
冷たい鼻を手にくっつけてくる犬の頭をちょっと撫でてみた。茶色いあまり綺麗とは言えない中型の雑種犬だったが男の子よりも気が合いそうだ。
「おーい」
男の子が道の向こうからこちらへ近付いてくる少年達に手を振った。雨がザーザー降り始めた。
私と最初の男の子と合流して来たもう少し年上の二人の少年達は一緒にシャッターの降りた文房具屋さんの前に集まってしゃがみ雨宿りした。犬がコンクリートの破片を食べるのをやめさせた後、一番小さい男の子が、
「今日日曜日なのにこの子学校に来たんだって」
といらぬ世話を焼いて他の少年達に私を紹介した。
「そんな馬鹿なの?」
「帰れよ」と大きな二人の男の子が言った。
怖いので立ち上がり言われた通りすぐに帰ろうとすると、さっき帰れと言ったばっかりの子が手を伸ばしスカートを掴んで引き留めた。見ると携帯電話を差し出してきていた。
「電話して迎えに来てもらえば?雨だし」
口は悪いけれど優しい人なのかなと思った。私はせっかくだから差し出された携帯電話を受け取り適当に押して耳に当ててみた。母の電話番号を知らなかったのだ。電話は誰を呼び出しもせず、私は首を横に振って自分には使えない機械を持ち主に返した。
「こいつ電話も使えねーぞ」
と履歴を見て三人が騒ぎ出した。からかわれるくらいなら帰ろうとすると、今度は足を引っ掛けられ、地面にぶっ倒れた。ゲラゲラ笑われた。
一人っ子育ちで室内にばかりいてガサツな男の子となんて遊んだ経験が無かったので、こんな状況は怖かった。でもどんな形であれ引き留められるのは嬉しく、それに怖いもの見たさのようなスリルもあった。
「走れ!」と叫びみんなが走り出したとき、私も一緒になって必死にとにかく走ってついて行った。三人と同じ方向へ。
途中で誰かが犬のリードを離してしまい犬が紐を引きずりぐんぐん遠去かって行くので、みんなで犬を捕まえようと追いかけているのかなと思っていたら、犬は真っ直ぐに一軒の家の開いた門から敷地の中へ飛び込んで行った。犬、その次に体の大きい順に男の子達が次々門の中へ走って入って消えて行き、自分も辿り着くまで開いていたので門の中へ走って入った。
中は砂地の駐車場だった。車が二台停められるくらいの今は何もない空間が広がり、子供用自転車が中央に一台停まっていた。隅の方に犬小屋と、子供用の自転車二台、積み重ねられた空のプランター、見る影もなく破損した陶器の七人の小人達と肩に穴が開いた白雪姫、梯子、ホース、なんだか分からない重たそうな機械等がゴチャゴチャと物置からはみ出して地面に置いてあるのが見えた。
「俺んち」と最初の男の子が言い、門を閉めた。
犬を飼っている兄弟の家がここから一番近いから、そこまで走るぞと言う意味だったのが後から分かった。
レンくんとハルくんは兄弟で一番大きいヒロトくんは二人の友達らしい。互いがそう呼び合っていた。
犬のリードをくくりつけた小屋の入り口にはスヌーピーと書いてあったので、そう呼んでみたら犬は尻尾を振ったが、三人には口々に訂正された。
「それは死んだ犬の名前」
「そいつはグリだよ」
「こいつはスヌーピーでも反応するけど。小屋に書いてある名前で柵の外からみんなが呼ぶから」
家には大人がいなかった。三人は三人とも自分の家みたいに寛いでドタドタ浴室に直行すると勝手に棚を開いて取ったタオルで頭を拭き、雨がじっとり染み込んだ重たい冷たい服を脱いだ。
三人が脱ぐので私もチラッと迷ったが遅れをとらないようワンピースを脱いだ。すると三人ともが私の体に注目した。
「ついでにパンツの下見せて」とハルくんが言った。
急にシンとみんな静かになりこちらを改まって見詰めているのが意識された。薄暗いよく知らない家の脱衣所で全員がパンツ一丁で立っていた。
別に怖れも羞恥心も無かった。それまでは面倒臭い迷子がついて来て鬱陶しいなという感じだったのに急に頼み事をされ注目を集めて、悪い気がしなかった。それでもなんとなく
「えー…」と迷っていたら、
「俺らも見せるから」そう言って三人はパンツを下げて先に見せてきた。
こちらにとっては興味が無く大して見てみたいものでもない。だから交換になるのが何かふに落ちない気もした。それでも先にもう相手は三人もパンツを下げてしまっているので、仕方ないし、こちらも両手の親指をパンツに引っ掛け下へ下ろした。すると三人は近寄ってきて狭い所でぎゅう詰めになって屈み込み、ジロジロ見た。そんなに見る価値があったのかと意外に思いながら、自分にも役立てる事があって満更でもなかった。
「もういいよ」と三人は見たがった割にすぐに飽きてしまったが、このくらいの事で構ってもらえるのなら別にいつでもいくらでも見せてあげようと思った。
ヒロトくんはこの家の子ではないはずなのにレンくんよりもなんとなく威張っていて、冷蔵庫から好きなものを取る時もソファの上に飛び乗ってゲームをし始めるのも一番早かった。それがいつもの事のようだった。
レンくんは上の子達に対しては従順で私の事は新しくできた子分みたいに威張った物言いをしながらも何かと世話を焼いてくれ、コップを出してオレンジジュースを注いで持って来てくれたり、封が開いてるお菓子は食べていいんだよと勧めてくれたり、ヒロトくんは五年生で従兄でハルくんは四年生で俺は二年生だよと教えてくれた。
「自分は?一年生?」
レンくんと喋っていると私は自分も二年生のような気がし始めていた。体格もレンくんとはそんなには違わなかった。でもレンくんが一年生だろ一年生だろと言うので、またそうなのかなという気持ちになった。
私達はソファの後ろに立ってゲームを観戦した。空を飛んだり恐竜を倒したり車を奪って人を轢きまくったり地下室で血を流し瀕死の状態で脱出口を開く鍵を探し回ったり噛まれたり叩き殺したり連れ去られた親友を助けたり…こんなののどこが面白いんだろうという残虐で見えにくい暗い映像の恐ろしいだけしかないのもあれば、幻想的な風景の中で星屑が砕け散ったり色とりどりの魚が現れ輝く泡で包まれたり煌めく妖精達に取り巻かれて正しい行き先へ導いてもらえたりするような綺麗でワクワクするようなのもあった。
一度ハルくんが順番を回してくれたが自分でやろうとすると操作が難しく焦ってしまいすぐにコントローラーをハルくんに返した。
「自分でやらないと退屈じゃない?」
「見てる方が楽しい」
「変なやつ」
お昼過ぎに雨は上がり年上の二人は自転車でマクドナルドまでお昼ご飯を買いに行く事になった。
私はランドセルの奥の隠しポケットに何かあったときのために1万円札を母が入れてくれていたことを思い出し、サドルに跨ったヒロトくんに渡した。
「金持ちかよ」
ハルくんが手を伸ばしてお金を取ろうとし、ヒロトくんはサッとかわした。
二人はギャーギャー言い合いながら自転車を乱暴に漕いで追いかけ合い、走ってきた車にぶつかりそうになり、笑い声を上げ、角を曲がって見えなくなった。
「お金持ちなの?」とレンくんにも聞かれた。
「うん」と私は答えた。
残された年下同士でグリに骨のオモチャを放り投げ何回も持って来させて遊びながら、上の子達が帰ってくるのを待った。遅いなぁ遅いなぁとレンくんは壁に掛かった時計を見上げながら言った。私には時計は読めないけれど、そんなに早く帰ってくるわけがないことくらいは分かる。
「もう一回あそこ見せてよ」と言うので、「いいよ」と頷くと、レンくんは私の手を引っ張って階段を上がり、二階の広い子供部屋の2段ベッドの下の段に私を連れて来た。二段ベッドを見るのは初めてだった。梯子で登る所とか自分だけの隠れ場所があるのは良いなぁと羨ましく見えた。
「寝転んで」とレンくんが言った。
私は寝転び、パンツを下げた。
2段ベットの上の段の底の天井を見上げていると、何か冷たくてちょっと痛い感じがして、起き上がってレンくんが何をしたのか見てみると、手にビー玉を持っていた。ベッドの柵に吊るした細かい網目の袋の中に綺麗な色とりどりのビー玉がジャラジャラいっぱい入って膨らんでいた。
「何個入るかやってみていい?」
「入る?」
「さっきもう一個入ったよ」
そう言ってもう一粒、冷んやりする透明なガラス玉を押し当て、私も見ているうちにギュッと中へ押し込んだ。そんなにも痛くなかったし、黴菌がいて不衛生かもしれないとか後で困るかもしれないとかいう考えも働かなかった。ただ純粋にワクワクした。何個入るんだろうと子どもらしく好奇心にかられ、もう二つ入れた。そのうち窓の外からグリの甘えた吠え声と車輪がぐらつく溝の蓋を踏むガチャンガチャン騒がしい音が響いてきて、私はパンツを引っ張り上げ、レンくんと二人で階段を駆け下りヒロトくんとハルくんを出迎えた。
二人は自転車の前籠いっぱいにハンバーガーやポテトやナゲットやパイを買ってきてくれていた。人数分と言うより食べたい種類を全部買ってみたという感じだった。
どれでも食べて良いよと言われて、逆に迷い、みんなが取った後に余った中から選んだ。それでもまだいくつか食べ切れないハンバーガーが残っていた。食べ終わると三人はまたゲームを始めた。
お釣りを返してもらうという発想自体が無かった。もうお金の事は忘れていたのに、帰る間際になってハルくんとヒロトくんが二人で目配せし合いニヤニヤ笑いながら、ハルくんがお札を一枚くれ、ヒロトくんももう一枚くれた。ジッと二枚のおカネを見ていると、ハルくんが
「しゃーなしな」と言いながら小銭をくれた。ヒロトくんも同じくらいもったいぶった素振りで私に上に向けさせた掌にニヤニヤしながら小銭を乗せてくれた。そのチビチビした渡し方や二人の嫌な笑い方や目配せで、まだ誤魔化されているんだろうなということはちゃんと分かり、おカネの事よりも騙し合うのが嫌で、モヤモヤした気持ちが胸の中で蛇がとぐろを巻くように蟠った。
「ほらやっぱり」
「こいつ計算もできねー」
「アホ過ぎ」二人はヒソヒソ言い合って笑った。
「でもまた来いよ」
「次もお金持っておいで」
「送ってってやるよ」ヒロトくんも帰る時間だと言うので、自転車の後ろに乗せてもらえる事になった。
「お前自転車の後ろ乗れる?」
「乗れる」
「ホンマか?」
「ホンマ」
「座ってか…まぁ良い、足巻き込むなよ。」
走り出しはお母さんの漕ぐ自転車より激しくグラグラ揺れ、怖かったが、強引にぐいぐい漕ぐ背中に子猿のように必死でしがみ付いているとすぐ安定してスイスイ進み出した。お母さんの腰よりも細く硬く動きが激しいしがみつきにくい子どもの体だった。
「お前んちどっち?」
分からない。
「おい!どっち?」知らない、と小さな声で答えた。
「はぁ?」ヒロトくんはブツブツ罵ってからいきなりグイッと方向を変え、「学校で降ろす。そっからは知らね。自分で帰れ」と言った。
朝に会った学校の閉まった門の前で自転車を止め、私を下ろすと、ヒロトくんは何も言わずに走り去った。私は家に向かって歩き出した。パンツの中にビー玉が出てきてゴロゴロして歩きにくいが道端でパンツに手を入れるのはどうかと思い人目を気にして我慢していた。ちょっと行ったところで、後ろから自転車に追い越されたが、それはヒロトくんだった。少し先で止まり、こちらを見ている。私が追いつくと、後ろにまた乗せてくれるわけではなく、自転車に跨ったままで歩く速度で私の横についてきた。
「どこ?」
私は公営住宅を漠然と指差した。
「あのどれ?」
私は自分の家が入っている棟を指差した。
「ふーん」とヒロトくんは言った。
入口のそばまで来ると、
「俺んちはあっち」と言って、自分が指差した方へ自転車を漕いでどんどん行ってしまった。
続く




