1 薔薇
緑のフェンスに絡まる蔓植物のふわふわと風に揺れて可愛い花を摘むでもなく、根元に屈んで虫を眺めていた。
列になってズラズラ地べたを歩いて行く黒い虫だ。いじめっ子達が食べろと言うので何匹か食べた事があったが、小さい割にかなりお腹が痛くなった。学校の砂地にもいるしこの海岸にもいる。どこにでもいる虫だ。みんな同じ蟻と言う名前だけれど、大きいのや小さいのや色んな種類のやつがいる。
母とその仲間達は少し離れた砂浜にパラソルを立てようとしている。キャアキャア騒ぐ楽しそうな声が潮風に乗ってこちらまで響いてくる。
私はなんとなくここまで一人でブラブラ歩いて来た。
母の周りにいる大人達は凄く話しかけてくるのでどう答えていいのか分からなくて困るのだ。
賑やかな場所から離れると寂しい。でも近付くと間違った受け答えをしてしまいそうで怖い。後で怒られる事を言ってしまうかもしれないから。
私がムッツリしていると退屈させまいと大人は気を遣ってくれ、それに対してこちらも気を使うので、お子様は大人から見える範囲内の程よい遠くで一人で何かに気を取られて遊べている風を装うのが一番ちょうど良いのだ。どちらのためにも。
それで虫や草を眺めながら少しずつ大人の輪から離れてここまで来た。
私の靴に乗って来て私を怖がらせた罰として、大きい蟻を爪で弾き飛ばし、棒でつついて虐めすぎ、弱らせてしまった。もう普通には歩けなくなってしまったらしい。お腹が潰れ、じたばた触手や足を蠢かせているがその場でぐるぐる体を引き摺って回転するばかりだ。ちょっと可哀想になってきて、同じ蟻の仲間だから介護してあげてくれるだろうと、小さい蟻の列の中に弱ったその大きな蟻をポトリと落とすと、思った通り、小さな蟻達は集まってきて大きな仲間を取り囲み始めた。
(良かった…仲間に面倒を見てもらえそうだ…)
とホッとして、しゃがんで眺めていた。
ところが暫くじっと観察していると、なんだか思ったような微笑ましい状況ではなさそうなのに気が付いてきた。大きな蟻は自分の体に群がって来る小さな蟻達に噛みつく素振りを見せている。戦闘態勢なのだ。小さな蟻達もこの大きな蟻を獲物と見做しているようだ。四方八方から牙を剥いて弱った大きな蟻の体に食らい付き、みんなでジワジワ引き摺って食い物にしようと巣穴の方へにじり寄っている。大きな蟻は私に棒で突かれたお腹が凹み体も変形してしまっている。もともと気持ち悪い。放っておいても長生きはできなそうだった。それでももがき苦しみ最後まで全部の脚や牙や体全体を激しく仰け反らせ動かして必死に抵抗している。叫び声が聞こえてきそうだ。ゾッとする光景だ。この地獄絵図を作り出したのは自分なのだ。お腹を潰してしまったお詫びに仲間達のもとへ返してあげたつもりだったのに。せめて死ぬ間際くらい仲間達がそばで優しく見守ってあげてくれるだろうと思っていたのに。まだ死ぬ前に齧られじわじわ食われるようなこんな酷い目に合わせようとは私は思っていなかったのだ…胸が悪くなり、立ち上がって後退り、この無音の凄惨過ぎる小世界から目を逸らした。
後ろに大人の男が立っていた。私を呼びにきた母の今日の連れのおじさんだった。私の頭越しに花を見ていた。
「綺麗だねぇ」
おじさんは私の脇を通りフェンスに絡まって咲く花に近寄った。
「野生の蔓薔薇だ」
魅せられたような真剣な目をして白い可憐な花に手を伸ばし、一輪摘もうとして、サッと手を引っ込め、自分の指を見つめた。
「棘が…」
それでもおじさんはまた花に手を伸ばし、痛がりながらも一心に野薔薇を摘み始めた。花は確かに美しかった。私の掌よりも小さく、初夏の溢れる日差しを受けとめて真っ白な柔らかそうな花弁がキラキラと風にそよいでいた。自分でもおじさんの真似をして花の茎を折ろうとして、びっしり生えた細かな棘に驚きすぐに手を引っ込めた。無理だ。
大人は痛くないのかなとおじさんを見上げた。そんな事はなさそうにおじさんは痛がっている。それでもまだ花に手を伸ばす。棘が指に刺さっている。
「痛そう」と私は可哀想になって小声で言ってみた。この人なんでこんな事するんだろうと思った。
「キミのお母さんにあげようと思ってね」
とおじさんは言った。真面目に夢見ているような迷いのない目をしていた。憑りつかれたようだった。おじさんのことがますます可哀そうに思えてきた。お母さんはそんな雑草の花なんかで喜ぶような人じゃないよと教えてあげるにはもう既に血が流れ過ぎていた。
涼しげな細い声がこのおじさんの名前を呼んでいる。ワンピースの裾を風になびかせ、砂地を裸足で歩く自分の足元を気にかけながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄って来る女神のような美女。私の母だ。
おじさんは最後にもう一輪摘めばもっと母に気に入ってもらえるとでも思っているのかまだ花に苦戦していた。
母がふわりとおじさんの隣に立ち、その肩に手を置いて、片手に集めたちっちゃな花束と摘みかけの花とおじさんの指の怪我を見つけ、わぁ、と喜び、うわぁっ、と驚いた。眉を切なげな八の字にしておじさんを見上げた母と見つめ返す照れ笑いの真摯なおじさんの目と目を見た時、そして二人が私の事など忘れ去ってしまったように背を向け手を取り合い傷の手当てをしに歩み去って行くのを見て、寂しかった。私もあんな風に愛されたいと思った。母のような綺麗な大人の女性になっていつかここに自分もいるんだと気付かれたい、と思った。
続く




