神様の銀行
世の中には多くの宗教があり、様々な神様があがめられています。
ある小さな国にも、古くから国民の間で信じられている宗教があり、国じゅうにその宗教の教会がありました。
この宗教は少し変わったところがあり、教会が人々にお金を貸し与える事を認めているのです。
つまり、教会が銀行の役割を果たしているのです。
他の多くの宗教では、お金を貸す事や利子を取る事を良くない事だと教えている場合が多いですが、この国の宗教はそうではありませんでした。
もちろん、あまりにも高い利子を取ったりすることはありませんが、お金を借りた人は返す時にそれなりのお礼を教会に支払います。
また、お金を返せない人は、教会で奉仕活動をしたり、教会に紹介された仕事に従事したりして、返済を免除してもらうのです。
このような仕組みで、教会の銀行は何百年もの間にわたって存続してきました。
中には、平気でお金を踏み倒すような人もいます。
そこまででなくても、どうしてもお金が返せないという人も現れます。
それでも、この国の人達は信仰心が強く、教会の銀行に世話になった人もそうでない人も、お金を差し出したり奉仕活動を行ったりして銀行の活動を助けています。
何より、教会の銀行から借りたお金を返さないような人は、周りの人達からの信用も失ってしまいます。
だから、教会の銀行がつぶれてしまうという事はまずありえない事でした。
この国のとある町に、マーカスという男がいました。
信心深い祖母と二人暮らしをしている、とても真面目な青年でした。
彼は教会の銀行で働くようになり、お金を返せない人の対応を任される事になりました。
教会内外での仕事を紹介したり、場合によっては生活やお金の使い方の相談に乗ったりしながら、日々を過ごしていました。
しかし、全ての人がうまくいくわけではありません。
中にはどうしてもお金を返すことが出来ず、神の名のもとに返済を免除してもらうしかないような事例も発生します。
返済免除の判断はマーカスではなく、もっと立場が上の人の仕事ですが、返済が出来ないと言う人の対応や手続き書類の作成などは彼に任されていました。
今日、彼は借金が返せないという初老の男の対応をしていました。
ただ、その男にはある問題がありました。
記録によれば、彼はすでに五回も借金を無かったことにしてもらっていたのです。
マーカスが男に、今まで教会から借りたお金はどうしたのかと聞いてみると、生活費にあてたり、他から借りた金や飲み屋のツケを返すのに使いきったと答えます。
自分は働くことも出来ず、奉仕活動も出来ないのだから、どうしたって金を返すことは出来ないと言い張ります。
マーカスは考えました。
神の教えによれば、同胞を許すことは最も大切な事の一つとされています。
二回以上借金を棒引きしてもらっている人がいる事例も知っています。
その一方で、借りたものを勤勉に働くことによって返すことが大切なのは、疑いようがありません。
たとえ返せなくても、自分の出来る範囲で負債を減らそうと努めることが重要であるというのも、神の教えの一つにある事です。
しかし、目の前の男の態度は、勤勉とは正反対のものでした。
「……働く事が出来ない、という事について、もう少しくわしくお聞かせいただけませんか?」
おそるおそる、マーカスは男にたずねました。
男はそこまで身体が弱そうではなく、仕事が全く出来ないという訳ではなさそうに見えます。
書類にも、何か大きな病気を抱えているという記載はありませんでした。
「あんた、俺の言ってることが誇張や出まかせだと思っているのか?」
机越しに、男がマーカスをじろりとにらみます。
「いえ、そういう訳では……」
思わずマーカスがたじろいだ、その時でした。
「代われ」
マーカスの上役が彼の肩をつかみ、席から立たせました。
いきなりの事にマーカスがぼうぜんとしている間に、上役は男と軽く話して、新しい書類を用意します。
そこに男の名前を書かせると、男に帰るようにうながしました。
男は席から立ち上がると、建物の外へと出て行ってしまいました。
「全く……あの手の連中をまともに取り合おうとするなよ」
上役はそう言いながら、先ほどの書類を見せてくれました。
それは、借金返済の免除を審査してもらうための書類でした。
「申し訳ありません。ですが……あの人は過去に五回も教会から借りたお金の返済を免除してもらっているんですよ?」
「そうだな。普通の感覚なら、五回も許してもらっておいて今回も、なんてあり得ないってなるよな?」
マーカスがうなずくと、上役はこう答えました。
「だがな、教会は許してやるしかないんだ。よく考えてみろ。ああいう連中が、まともな生活を送れていると思うか?」
「それは……」
マーカスは言いよどみました。
お世辞にも清潔とは言えない格好や、怠惰そうなふるまいなどを見ると、出来れば関わり合いになりたくない人物です。
「ああいう連中には、教会の金しかないんだよ。教会がああいう連中に『勤勉に働いて金を返せ』と言うと、何をしでかすか分かったもんじゃない」
「しかし、それを許したら、いくら教会の銀行といえども、いつかは回らなくなってしまうのでは……?」
「そんな事は無い。この銀行にどれだけの寄進が集まっているか、お前も知っているだろう。ああいう連中が多少いた所で、破綻することはあり得ない。それに……」
「それに?」
「ああいう連中は、そもそもどこへ行っても鼻つまみ者だ。世の中から許されていない連中だ。だから教会が許してやるしかないんだ。何度でも、な」
「……」
教会から預かったお金は、勤勉と感謝の気持ちを持って扱い、預かった以上にして返すべきである。
そんな風に素朴に信じていたマーカスには、受け入れがたい言葉でした。
しかし、上役の言葉を全て否定することも出来ませんでした。
「まあ、滅多な事をされないように、気分良くお帰り願うのが一番だ。それが俺達の仕事だ。少なくとも、ああいう連中に、勤勉とかそういう『普通の人の考え』を押し付けるべきではないって事だけは覚えておけ」
マーカスは、力なくうなずきました。
その後もマーカスは、日々の仕事を真面目にこなしていました。
しかし、あの初老の男の事や、上役から言われた事は、彼の心のどこかに引っかかっていました。
男はその後も何度か教会の銀行から金を借りて、その度に返済を免除してもらうために窓口を訪れていました。
マーカスは、どこか後ろめたい気持ちを抱えながらも、その度に書類を作成していました。
そうする事によってマーカスに不利益が生じる訳では無かったですし、書類が受理されない事も無かったからです。
そんな風にして、マーカスが働き始めて半年が過ぎようとしていた頃でした。
季節は秋を迎えており、町では収穫を祝うお祭りが開かれていました。
仕事を終えたマーカスは、何となく町をふらついていました。
やたらと酒を飲んだり、盛り場で遊ぶような行いは好みませんでしたが、その日は何となく祭りの様子でも見てみたい気分だったからです。
最近になって、また自分の仕事について思い悩むようになっていました。
お金を返せないという人の相談に乗ったり、仕事や奉仕活動を紹介しても、上手くいかない事が続いていたからです。
親身になって相談や援助を行っても上手くいかない一方で、返済を免除するための書類を作っても特に問題なく受理されてしまう。
もちろん、世間では教会から借りたものを返せないというのは恥ずべき事とされていますが、マーカスにとってそれはあまり関係のない事のように思えてしまうのでした。
もしかしたら、教会から借りたお金を返せるように手助けをしても、そんな事をせず単に書類を作るだけでも、自分の働きに対する評価はあまり変わらないのではないか。
そんな事を考えながら歩いていると、遠くから男のものと思われるどなり声が聞こえてきました。
そちらの方に行ってみると、酔っぱらった男が通行人にからんでいるようでした。
男の顔に、マーカスは見覚えがありました。
あの、借金を無かったことにしてもらってばかりいる男です。
マーカスは思わず、男を通行人から引きはがそうとしました。
「離せ! くそ、離しやがれ!!」
男は激しく暴れ、今度はマーカスにつかみかかりました。
しかし、そこで男は、自分がつかみかかった相手が銀行の人間だと気づいたようでした。
「お前は……何でこんなところにいる!?」
酒臭い息を吐きだしながら、男は詰め寄ります。
「あなたの方こそ、一体何をされているんですか?」
「悪いか!? 俺の金で、俺の酒を飲んで、何が悪いか!?」
「……あなたのお金、ですか?」
マーカスが反射的に問い返すと、男はばつの悪そうな顔をしました。
「おいアンタ、この男の知り合いか何かか?」
近くにいた別の男が、マーカスにたずねました。
「いえ……私はその……」
「こいつはな、昼間っから酒ばっかり飲んで、それでこうやって他人にからんだり、町なかで奇声を上げたり。そんな事ばかりしているような奴なんだ。教会の銀行から借りた金を何度も踏み倒しているって、さも自慢げに言ってることもあるそうだぜ?」
マーカスの返事を待たずに、その男は話を続けます。
「はっきり言ってさ、迷惑なんだよな。こういう奴がうろついているのは。いっそ牢屋の中にでも入っておいてもらった方がいいとすら思うよ」
酔っぱらった男をあざけるような言葉を浴びせます。
その言葉に反応したのか、男はマーカスをつかんでいた手を外すと、走り出してしまいました。
「ちょっと……待ってください!」
「アンタ、そいつを追っかけるのはやめた方がいいんじゃないか?」
マーカスは、制止の声も聞かずに、走り去っていく男を追いかけました。
町の外れまで来ると、男は足がもつれて転んでしまいました。
マーカスが追いつくと、男は目を合わせずに文句を垂れました。
「ケッ、酒を飲んで騒ぎを起こすくらいなら、教会に金を返した方が神の御心に適います、とでも言うつもりか? やなこった。俺は酒を飲んでる時が一番楽しいんだ。酒がないなら、いっそ死んだ方がマシだね」
「落ち着いてください。それと、勝手にこちらの考えを決めつけないでもらえませんか?」
「うるせぇな! どうせお前も他の連中も、俺なんかいなくなった方がいいと思っているんだろうが!」
「だから、どうしてそうだと決めつけられるんですか!?」
「決めつけるも何もないだろ! 酒場の連中も、町の連中も、銀行のお前も、俺の事を『教会から借りた金を踏み倒して酒ばかり飲んでる、関わり合いになりたくない奴』としか思ってないだろうが!?」
そこまでまくし立ててから、男は魂がぬけたかのように大人しくなり、その場で動かなくなりました。
「……大丈夫ですか」
「ちくしょう……最悪の気分だ。酒が足りねぇ……」
そう言って、男はうずくまってしまいました。
マーカスは困惑しましたが、その場にそのまま置いていくわけにもいかないので、男を介抱して家まで送り届ける事にしました。
途中、男はぽつりぽつりと身の上話をし始めました。
昔は普通に働いていたが、雇い主の都合で一方的に仕事を辞めさせられた事。
学も無いため、賃金の安い仕事しか出来ず、ついには原因不明の体調不良に悩まされて、働くことも出来なくなった事。
蓄えも無く、人付き合いや知識も無い男は、医者にかかったり、誰かに相談するという事も出来なかった事。
結局、気晴らしのために酒を飲み、その金を教会の銀行から借り、返せなくなったら返済の免除をお願いするという生活を続けるに至ったという事。
「世間の連中は、教会から借りた金を踏み倒すなんてとんでもない、って言うよな。でも、そう言う連中の事さえ気にしなければ、痛くもかゆくもないんだよ。厳しい取り立てなんかも無いからな。俺から言わせれば、真面目に金を返すべきって言う奴の方がバカだよ」
「はあ……」
賛同できないながらも、マーカスは男の言葉に耳を傾けます。
「銀行の連中は、それこそ勤勉に働いたり奉仕活動をしたりって勧めて来るが、それだってこっちがイヤだと言い続ければ、それ以上せまってきたりはしない。お前だって、最初はゴチャゴチャ言ってきたが、その後は何も言わなくなっただろ?」
「それは……」
「いや、当たり前のことだ。こっちが先にやらかしたんだから、人間扱いされないのも当然だ。俺がかろうじて人間扱いされるのは、酒のために金を出す時くらいだな」
そんな話をしながらマーカスと男がたどり着いたのは、ゴミがあふれかえった小さな家でした。
「まともな人間の住み家じゃねぇ、って思っただろ?」
マーカスの反応を楽しむかのように、男が問いかけます。
「ま、いいさ。ともかく世話になったな。家まで送ってもらってすまなかった。とりあえず、もうお前に迷惑をかけるような事はしないように気を付けるさ」
「……あの」
「何だ?」
意を決したように、マーカスは言いました。
「この家を、片付けさせてもらってもいいですか?」
「はぁ?」
マーカスの提案に仰天したのは、その男だけではありませんでした。
あの上役も、マーカスから『男のために奉仕活動をしたい』という申し出があった事に、驚いた様子でした。
教会やそれに連なる組織の人間が、恵まれない人間や弱い立場の人間のために奉仕活動を行うこと自体は、歓迎されていることでした。
しかし、あの男はそういった恵まれない人達とはまた違ったものであるのでは、と上役は考えていたからです。
「あまりこういう言い方はしたくないが、あの男と関わり合いになるのはどうかと思うぞ?」
上役にそう言われても、マーカスは自分の意思を曲げませんでした。
「私達は確かに、彼が困っているからという理由で何度も借金の返済を免除してきました。しかし、それは本当に彼を助ける事にはつながっていなかったんです。むしろ、そうする事によって、彼をつき放していたのではないかと思うんです」
「……お前の言う事が正しいとして、ならどうすればあの男を助けたことになるんだ?」
「彼に、当たり前の暮らしを思い出してもらうんですよ。きれいに片付いた家で、酒におぼれず、きちんとしたものを食べる暮らしを」
「それは本当に、あの男が求めているものなのか? ああいう連中は、自分で好き好んで酒浸りとか、そういうバカげた状況におちいっているだけだ。こっちがあるべき姿を提案しても、いやがられて終わりだろう?」
「……私はそうは思いません。たとえ口やふるまいではそういう風に見えても、心の中では当たり前の生活を、当たり前のつながりを求めているはずです」
それからというもの、マーカスは銀行での仕事のかたわら、奉仕活動として男の家の片付けを行うようになりました。
もちろん、全てが順調にいくわけではありません。
男に感謝されるどころか、勝手な事をするな、あれは捨てるなこれも捨てるななどと文句を言われることはしょっちゅうでした。
それでも、マーカスはめげませんでした。
そうする事が、男にとって必要な事であると信じていたからです。
ある時、マーカスは男にたずねました。
「あなたはなぜ、そうまでして酒を欲しがるのですか?」
「現実がクソだからに決まってんだろうが。酒でも飲んで気をまぎらわせなきゃ、やってらんないよ」
「確かに酒を飲めば、気分は良くなるかもしれません。では、酔いがさめた時はどうするんですか? また現実の自分はダメだと考えて、酒を飲むんですか?」
男は少しだけ考えてから、マーカスにたずねました。
「そりゃそうだろうが……お前は何が言いたいんだ?」
「大切な事は、例え酒に酔わなくても、良い気分でいられることです。そのためには、整った環境で暮らすことが必要なんです」
そう言って、マーカスは片付けを続けました。
家がきれいになっていくと、今度は料理や洗濯などについても手助けをするようになりました。
男はそういったものをとにかく面倒臭がりましたが、熱心なマーカスに根負けして、少しずつ自分の生活を見直すようになりました。
不思議なもので、きちんとしたものを食べたり着たりするようになると、今までのようにやたらと酒を飲んでばかりというわけにもいかなくなります。
そうすると、酒にばかりお金を使わなくなるので、お金の減り方も遅くなっていきました。
相変わらず、働いたり奉仕活動をしたりということはしていませんでしたが、男の生活は徐々(じょじょ)に落ち着きを取り戻しているように見えました。
三か月ほどが経って、男の方もマーカスに多少は心を許してきたある日の事でした。
辺りは冬でしたが、その日は特に冷えていました。
マーカスが男の家を訪ねてみた時、中から返事がありませんでした。
窓からのぞいてみると、男が部屋の中で倒れているのが見えました。
男はそのまま、教会の病院に入る事になりました。
しかし、医者が診た所によると、この男はもう助からないとの事でした。
長年酒浸りの生活をしてきたせいで、内臓がダメになっており、あとはいかにして残りの人生を過ごすか、という段階に来ていました。
男はそのまま、残り短い人生を過ごす人たちが入る施設に送られました。
その事を聞いたマーカスが、男の部屋を訪ねました。
「あんたには色々世話になったな。だが、全て無駄だったみたいだ。勤勉とは縁のないまま、俺は人生を終えるだろう」
男は、天井を見上げながらつぶやきました。
「神様は、悔い改めた人間を天国に迎えてくれるって言うだろう? 俺は、だったら死ぬ間際に反省するそぶりさえ見せればそれでいいと思っていた。どうせこのまま飲んだくれて死ぬのなら、ってな」
「……」
マーカスは、男にかける言葉がありませんでした。
「だが、きっとそれは違ったんだ。俺は本当は、温かな環境で生きたかった。それが出来なくなって、酒に逃げて、ついには酒浸りになって命を縮めてしまった。今は本当に後悔している。生きていたくて仕方がないと思っている」
「……」
「あんたがその事に気づかせてくれたんだよ。誰にも手を差しのべられなかった俺のために、ここまでしてくれたことを、本当に感謝している」
男の言葉に、マーカスは小さくうなずきました。
「……あなたがそのように仰ったことを、きっと神様も喜んでおられると思います」
そして、更に続けました。
「無駄なことなど何一つありません。あなたが思い直してくれたことは、何よりの収穫です」
冬が去って春が近づいてくる頃、男は命を引き取りました。
死が近づいている時、人間は様々な反応を見せます。
自らの命が尽きる事を受け入れられず、正気でなくなってしまう人もいます。
しかし、男は従容として、自らの死を受け入れました。
臨終に立ち会った医師や聖職者によると、まるで聖人のような神々しさすらあったとの事でした。
「お前は正しい事をした。だが……常にそうする事が正しいかは、俺には分からないな」
上役は、マーカスにそのように声をかけました。
「私は正しい事をしようとしたのではなく、必要だと思う事をしただけです。祖母からもいつも言われていますから。当たり前の生活、当たり前のつながりがあることが、人間にとって一番大切な事なんだと」
「だが、俺にはそれがどうしても理解できないんだ。世の中には、自分からそういうものをかなぐり捨てるような人間だっている。そういう連中全てに、お前は今回のようにするつもりなのか?」
少しだけ考えてから、マーカスは答えました。
「少なくとも、私達は教会の銀行に、神様の銀行に勤めているのです。ならば、私たちの仕事は人と人とのつながりや、神とのつながりに役立つようなものであるべきだと私は考えています。はぐれ出たものが戻って来るのを手助けできるような、そのような働きをしていければと思います」
そう語る彼の目に、曇りはありませんでした。