開放された密室(避難所殺人事件) 一朗太の事件簿1
私自身の避難所生活のなかで、思いついた小説です。
作中の一朗太と同じように、昼間は片付けの毎日です。
水本一朗太は、現在、避難所生活を余儀なくされていた。一朗太が、避難所にいるのには訳がある。
今は誰も住んでいない実家の整理のために、実家のある一夜市に来ていたのだ。
実家にひとりで住んでいた父親を福岡に呼び寄せたのが、半年前だった。
老いても矍鑠としていた父親の完介だったが、重い病気を患っており、最後は福岡の大学病院で息を引き取った。
それが、十日前のことだった。
初七日の供養も終わり、悲しみも幾分癒えた頃、一朗太は完介の言い残したことを思い出した。
完介が亡くなる少し前に、「実家には、すごく価値のあるお宝が隠してある。上手く見つけることができたら全てお前にやろう」と、一朗太を見てニヤリとわらったのだった。
完介は、若い頃から推理小説が好きで、家族や友人に、ちょっとしたトリックめいた悪戯を仕掛けては、楽しんでいるようなところがあった。しかし、嘘をつくような人ではなかったので、お宝の話は本当だろうと一朗太は思った。お宝を見つけることかできたらというのは、完介の人生最後の一朗太に向けての挑戦かもしれない。一朗太は、そう考えた。
一朗太が今の生業としている探偵をしているのも、完介の影響かもしれない。推理を駆使して、謎を解くのが好きなことも、完介の遺伝だろう。
完介は探偵になった息子のことを、すごく羨ましがっていた。
「俺もお前のような探偵になりたかったよ。コロンボのような名推理で事件を解決するような」
生前、完介は一朗太に会うたびに、そう言っていた。完介の言うところのコロンボは、NHKで放送され、人気を博した「刑事コロンボ」のことであろうが、番組タイトルにもあるように、コロンボは刑事であって探偵ではない。どうやら、推理で事件を解決するのは探偵だと、完介は頑固に思い込んでいた節がある。
しかし、完介が一朗太の探偵としての仕事内容を知ったら、幻滅したかもしれない。
一朗太の探偵としての仕事のほとんどが、夫や妻の素行調査、つまりは浮気の証拠がためで、推理で事件を解決するような、ドラマチックな展開などありはしなかった。
かつては中学校の数学の教員にすぎなかった完介だから、お宝といっても金額的には、たかが知れているだろう。
だが、完介の最後の挑戦に応えてあげるのも、一つの供養だろう、と一朗太は考えた。
そんな理由で一夜市に赴いたのだ。まさか、来た翌々日に、未曾有の大洪水に一夜市が襲われると思いもせずに。
一朗太の実家は、一夜市の中央を流れる一級河川の九間川から離れた場所にあり、避難指示の緊急アラートが、けたたましい音を伴ってスマホの画面に表示された時も、ここは大丈夫だろうと高をくくっていた。
そんなわけで、避難指示を無視していたのだが、ふと窓の外を見ると、黄土色に濁った水が、庭に流れ込んできていた。数分も経たないうちに水嵩が増し、家の中に水が侵入してきた。
一朗太は、これはいかんと、自分の荷物を持って、二階に垂直避難をした。
二階に上がってみると、二階の六畳の部屋の中央に、かなり頑丈そうな耐火金庫が置いてあった。鍵が挿してあったが、ダイアル錠がかかったままなのか、鍵を回そうとしてもピクリとも動かなかった。
「まさか、これが親父の言うお宝じゃないよな」
一朗太は、独りごちた。
これがお宝とすれば、あまりにも安易過ぎる。しかし、ダイアル錠を解錠するための、二桁の四つの数字を見つけることが、完介の挑戦なのだとしたら、それはそれで面白い。
また、耐火金庫が二階の目立つ場所に置いてあったのも、完介らしいと思う。もし、空き巣が入ったとしても、堂々と目立つ場所に置いてあるのだから、大したものは金庫の中には入ってないだろうと思わせることだろう。実際、一朗太もそう思っている。
それでも盗み出そうとする輩がいたとして、重量のある耐火金庫を二階から運び出すのは、困難なことだ。苦労して運び出し、鍵を開けた挙句、中が空だったら、それこそ骨折り損のくたびれ儲けというやつだ。
ただ、今回、耐火金庫が二階に置いてあったことで幸いなことがある。水没を免れる可能性が高いことだ。その名の通り、耐火金庫は火には強いが、水没したら泥水は金庫の中まで浸透していく。つまりは、金庫の中のものは、泥水まみれになるということだ。
「金庫の解錠は、今起きている災害が治ってからだな」
一朗太は外の様子を見るために、ベランダへと続く窓を開けた。
二階のベランダから見たのは、今まで見たこともない信じられない光景だった。辺り一面が、黄土色の濁流で覆われていた。
道路だった所が川となって、流木が流されていくのを見た。駆け上がってきた階段を見ると、もう階段の中ほどまで、水が迫ってきていた。
「いよいよになったら、ベランダから屋根に登るしかないな」
自分が、これから取るべき行動を口にすることによって、一朗太は冷静さを保とうとした。
幸いにも、濁った水は、それから階段を一段上がっただけで、一時間後には徐々に引き始めた。
水が引いた後、階下に降りてみると、濁流が運んできた泥が、床一面を覆っていた。
完介が終活を行なっていたこともあり、家財は少なかったが、そのどれもが、元あった場所から流されたのだろう、違う所で倒れていた。
生活に必要な物は全て一階にあったので、ここに留まって生活することは困難だろうと考えた。また、一夜市のホテルや旅館などの宿泊施設は、九間川にほど近い所にあるので、壊滅状態だろうと思われた。福岡に帰ろうにも、こんな所まで浸水するような未曾有の大洪水ならば、交通関係も麻痺しているだろうと思った。
一朗太は、とりあえず避難所を頼ることにした。
外に出て、泥でぬかるんだ道を歩いて行くと、至る所に、水没して泥にまみれた自動車を見かけた。
「車で来なかったのは、正解だったな」
歩きながら、一朗太は独りごちた。
一夜市に来る時、久しぶりに九間川の脇を縫ってはしるローカル線の九間鉄道を利用しようと思い立ったのが幸いした。おかげで買ったばかりのトヨタのアクアが廃車になるのを免れた。
一夜市のカルチャーとスポーツの発展を目的に建てられた施設のうち、スポーツパレスの方が避難所となっていた。入り口から中に入ると、大勢の人々が受付に並んでいた。
避難指示が出てすぐに避難所に来ていた人たちもいるだろうから、今受付に列をつくっているのは、自分と同じように、垂直避難で難を逃れた人たちなのだろう。
一朗太は受付を済ませると、アリーナの中に入った。アリーナの中はパーティションで区切られ、もう既に多くの人たちが、一様に憔悴しきった表情で座ったり、横になったりしていた。
一朗太は、一夜市民でもない自分が、ここに入るのは気が引けるなと思って、二階に上がり、観客席に腰掛けて、これからどうするべきか、自分の今後の行動を考えた。
「とりあえず片付けが必要だな」
泥で汚れた室内を、そのままにしておくわけにはいかない。そのままにしておくと、すぐに家中カビだらけになるだろうし、悪臭も立ち始めるに違いない。
「スメルで住めないか」
一郎太は自嘲気味に口角を上げた。
翌朝、一朗太は避難所にほど近いホームセンターに立ち寄って、スコップ、水きりワイパー、それに20メートルのホースを買った。そしてそれを抱えて家に向かった。
その日は買ってきた道具を使い、床一面にたまった泥を掻き出す作業に追われた。
次の日も同じだった。やや固まりつつある泥に水をかけながら掻き出す作業を黙々と続けた。
「これじぁや、親父が残したお宝とやらを見つけるのは、まだ先になるな」
その日の夕、一朗太が避難所に戻ると避難所に変化があった。
ダンボールベッドがアリーナ一面に並んでいた。
受付の市の職員に、空いてる所を見つけて下さいと言われ、一朗太はアリーナの南側に空いてるベッドを見つけた。その一時間後にはマットと毛布が配布され、二日ぶりに横になって寝ることができた。
このまま片付けが終わるまで、避難所と実家との往復の日々が続いていくかなと思っていた矢先に事件は起きた。
朝6時になって、アリーナの電灯が点けられると同時に、一朗太は眠りから醒めた。
それから数分も経たないうちに、女性の「きゃー」という悲鳴がアリーナ中に轟いた。
悲鳴をあげた女性の方へ、職員らしい者たちが駆けていくのを見て、一朗太もそちらに走った。
一朗太には、女性の悲鳴のあげ方で、何が起きたか察しがついた。あの悲鳴は、自分の身に危険が迫った時の悲鳴ではなく、何か恐怖の対象となるものを見てしまった時に出る悲鳴だと。
自分が思ったとおりのことが、その場所で起こっていたのだとしたら、探偵として身につけている知識や経験が役に立つ。
一朗太がそこに着いた時、ダンボールベッドに横たわった血にまみれた被害者を、市の職員らしき女が「市長、しっかりして下さい! 市長!」と、叫びながら抱え上げようとしていた。
しかし、ダンボールベッドとその下の床に流れている血液の量からして、被害者が絶命していることは明らかだった。
「さわらないで! 現場を保存するんです! 残念ながら、その人はもう既に死んでます」
一朗太は職員に怒鳴った。
被害者を抱え上げようとしていた紺色のユニフォームを赤く染めた女性が、一朗太を見て、泣き笑いのような表情をつくった。
避難所になっているアリーナは、午後10時に消灯し、朝6時に灯が点く。灯が消えた後も、まだ寝床に入らない者は、ロビーの椅子にぼんやりと腰掛けている。朝は早くから起き出して、ロビーで供給されている新聞を読んでいる者もいる。
避難所の世話をする職員は、交代でトラブルの対処のために受付ブースに詰めている。
つまり、アリーナの中と外は、常に人の目にさらされていると言っても過言ではなかった。
そんな中で大量の血溜まりができるような傷を負わせたのならば、犯人も相当の返り血を浴びたはずである。
毛布か何かを被害者に被せて、そのなかで傷を負わせたとも考えることはできるが、よほどの殺しのプロでない限り、被害者に全く抵抗されずに事をなし遂げることは不可能だろう。それに、ダンボールベッドとその辺りには、血のついた毛布はおろか、タオルさえも見当たらなかった。
しかし、誰一人として犯人らしき人物を目撃した者はおらず、被害者の悲鳴を聞いた者もいなかった。
「まるで密室だったろう、あの現場は。推理小説好きの一朗太は、どう思った?」
小中高と同級で、親友と呼ぶに相応しい瀬名宏人が、一朗太と並んで立っていた。場所は一朗太の実家の門扉の所である。
「ある意味、そうだな。開放された密室。とでも言えるか」
瀬名とは、避難所で偶然出会い、その時はちょっと言葉を交わしただけで別れたのだ。
「お前の家も酷い有様だな。一夜市中が、こんな感じだ。特に九間川の近くの住宅は壊滅的だ」
「宏人の住まいは大丈夫だったのか?」
「昨年、九間川から離れた場所に引越したからな。被害はなかった」
一朗太は、それは何よりだったなと言うと、話題を変えることにした。
「それにしても驚いたよ。宏人が刑事として現れるなんて。いつからこっちにいるんだ?」
「一年前だ。お袋が認知症になってな。症状は軽いんだが、何かと面倒をみないといけないんでな」
一朗太は瀬名が母子家庭だったことを思い出した。
瀬名は将来母親を楽させるためと東大を目指し、現役合格したのだった。そして、瀬名が中学生の時に亡くなったという父親と同じ警察官になったのも、一途に信念を貫く瀬名らしいと言えた。
「でも警察の移動希望って、そんなに簡単に叶うもんなのか?」
「警察の階級で言えば、俺は警視なんだ。キャリアだからな。その俺が部署は何処でもいいからと頼んだら、これ幸いと受けてくれたよ。警視には、それなりの役職を与えないといけないからな。移動が難しいんだ。だから刑事部の部長ってことで、こっちに帰って来た」
高校の時に比べ、がたいが良くなった瀬名が、日焼けした顔に白い歯を見せて、にこりと笑った。
「こっちだから、刑事部長でも仕事は忙しくならないと思ったわけか」
「ご明察。そのとおりだ。しかし、甘かったよ。こんな凶悪な殺人事件が起こるとはな」
瀬名がぽりぽりと頭を掻いた。困惑した時に瀬名がする癖だ。15年前から少しも変わってない。
「で、その刑事部長さんが俺に何の用だ?」
一朗太は、からかうような口調で言ってみた。瀬名が会いに来た目的は、何となく察しがついている。
「まずは、昨日はありがとう。礼を言うよ。お前が現場を荒らさないように注意してくれたんで、助かったよ」
瀬名が頭を下げた。
「おおげさに言うなよ。現場保存の大切さは、刑事ドラマや探偵アニメが好きな子供でも知っている知識だからな。ところで、俺のところに来た本当の目的は、その礼を言うためだけじゃないだろ?」
「お前に事件解決に協力してもらいたい」
瀬名がさらっと言った。
「いち民間人にすぎない俺にか?」
一朗太は、あえて呆れた表情をつくって見せた。
「お前の推理力や洞察力が、群を抜いて高いのを俺は知ってる。さっきお前が言ったように、この事件は開放された密室で起こった殺人だ。避難所になったアリーナの中央で、殺人が起き、犯人らしい人物の目撃者はいない。全てが謎だらけだ」
「俺に頼む理由は、それだけじゃないだろ。VIPが絡んでいる殺人事件だ。上から早く犯人をあげろと、急かされたんだろ」
一朗太が笑いながら言うと、「まあ、そう言うことだ」と瀬名が頭をかいた。
「協力してやってもいいが、色々情報を訊くぞ。お前は、民間人に守秘義務がある捜査情報をもらすことになる」
瀬名は苦笑しながら、「お前の口の固さは知っている。けっして他言などしないとな。頼む、協力すると言ってくれ」と、再び頭を下げた。
「昔からの友人の頼みだ。お前が俺に会いに来た時から、答えは決まっていたよ。了解だ。協力するよ」
瀬名は、ありがとう、感謝すると頭を下げた後に、
「ん? でも何で、俺がこう言うことを頼むと思ってたんだ?」と、首を傾げた。
「刑事部長の宏人が、殺人事件の捜査中に、昔馴染みになんの目的も無く会いに来るとは、考えられないだろ。もっとも俺を被疑者と考えているなら別だが」
「とんでもない。これっぽっちもお前を疑うようなことはない」
瀬名は右手を、2、3度胸の前で振った。
「それは残念だ。一度話の種に警察の取り調べを受けてみたかったんだが」
一朗太は、そう言って笑った。そして、すぐ真顔にもどり、
「じゃあ、早速気になったことを訊くが、血まみれになった被害者に取りすがっていた女は何者だ? ただの上司と部下の関係なら、血塗れの死体に触るのも躊躇するはずだ」
「さすがだな。俺もそれが気になった。血溜まりの中に入って、マル害を抱きかかえるなど、普通なら考えられない。あ、マル害は被害者のことな」
「説明しなくても警察の隠語はある程度知ってるよ。
で、どうなんだ? 二人の関係性は?」
「女は、市長と不倫関係にあった。問い詰めたら、ようやく重い口を開いたよ。後でわかって自分が容疑者として疑われるのを避けたかったみたいだ」
一朗太は、なるほどと肯くと、
「痴情のもつれとかは無かったのか?」と、訊いた。
「本人が言うには、それはなかったらしい。市長の光川隆志は、今年中には妻とは離婚して、一緒になると約束していたそうだ。美馬沙耶香はそれを信じていた」
「ふーん。あの女性職員は、みまさやかと言うのか」
「あ、いかん。言わなくていいことまで言ってしまった。女の名前は忘れてくれ」
瀬名が慌てた口調で言った。
「そうはいかんよ。関係者は、すべて疑ってかからないとな。ところで、何故、お前たちは、みまさやかを被疑者の対象から外した?」
「彼女には、完璧なアリバイがあるんだ。マル害の死亡推定時、検死の見立てでは午前2時前後になるんだが、彼女は支援物資の仕分け作業を、他の職員と一緒にやっていた」
「それに関わった職員の人数は?」
「彼女を含めた6人だ」
「不倫されてた市長の妻は?」
「市長の妻は光川恵子というんだが、彼女には、もっと堅固なアリバイがある。彼女は今、地中海に浮かぶクルーズ船の中だ」
「優雅に船旅の最中か。連絡は取れたのか?」
「取れたが、すぐには帰れないとさ。急ぐつもりもないようだ。夫婦仲は冷え切っていたようだな」
一朗太は軽く肯くと、「他に市長に恨みをもっていた者とかいるのか?」と、訊いた。
「怨恨のせんは無さそうだが、一夜市が被災してからの市の対応に、不満をもっている者は大勢いるようだ。毎日、市役所には、苦情の電話があるらしい」
「そうだろうな。大型の災害ゴミは自分で集積所に持っていくように指示しているし。対応が不味すぎる」
瀬名が、そうだなと相槌を打った。
「光川市長が、避難所にいたのは何故だ?」
「被災者の気持ちになってみるという、俺から言わせると一種の被災者に向けたパフォーマンスだな。夜9時頃、避難所に現れ、ロビーにいた職員に、空いているダンボールベッドを尋ねたそうだ」
「その空いてた場所が殺害現場になったわけか」
そうだなと瀬名が肯いた。
「マル害の死因は?」
「頸動脈を切られたことによる失血死。俺も検死に立ち会ったが、見事なくらいスパッと切られていたよ」
瀬名が手刀を作って、自分の首を切る真似をした。
「市長は死体で見つかるまで、避難所から一度も出るようなことは、なかったのか?」
「そこは、はっきりしない。消灯時間を過ぎてから、ロビーにいる職員が他市からの応援の職員に代わっていたらしくてな」
「彼らが光川市長の顔を知らないとしても仕方ないか。それに知らされてない限り、まさか、市長が避難所の中にいるとも思わないだろうしな」
「一朗太は、光川市長が避難所を抜け出し、外に出たと考えているのか?」
「その可能性がある方が、あの開放された密室の謎が解きやすい」
瀬名は手帳にペンを走らせながら、「わかった。もう一度、調べてみる」と告げた。
「それと、遺体はまだ遺族には返すなよ」
「それは、何故だ?」
「あの死因には、不可解な点が多い」
「死因は、失血死じゃないとでも?」
瀬名が首を傾げる。
「いや、そうじゃない。失血死は間違いないが、頸動脈からの出血じゃないかもしれない」
「何故、そう思う?」
「宏人は、北野たけしが作った座頭市を観たことはあるか?」
「ああ、映画のエンディングにタップダンスがあるやつな。意外と面白かった」
「あの映画の冒頭で、立ち回りのシーンがあるだろ。あれを思い出してくれ。首を切られたら、あんな風に血しぶきが上がったはずだ」
「確かに、そうだな。ダンボールベッドの仕切りのつい立てにも血はついていたが、その外側の床面には、ほんの僅かしか血は付着して無かった。で、どういうことだ?」
瀬名が再び首を傾げた。
「もしかすると、マル害は他の部位から血を抜かれたのかもしれない」
「なるほどな。確かにポンプの役目を果たす心臓が、すでに停止していたのなら、頸動脈を切っても、体内に残された血は、派手に噴き上がるようなことはない。検死をもう一度やるように言うよ。で、他には?」
一朗太は、瀬名の声質が期待を込めたものになったのに気づき、ゆっくりとかぶりを振った。
「今のところ、それだけだ」
「そうか、お前のことだから、もっと分かると思ったんだが」
瀬名が残念がっているのが見て取れた。
「俺のことを買いかぶりすぎだよ。とにかく、俺はこれから家の片付けをしながら、殺害方法を考えてみる。あ、それと、アリバイがあるからと被疑者から外そうとしている、みまさやかやのことをもう少し調べておいてくれ」
「わかった。じゃあ、俺は本部に戻る」
瀬名が、片手を上げて別れを告げた。
夕刻になって、一朗太は避難所に戻った。
アリーナに入ると、殺人現場となった中央の一画は、現場保全のために残されたダンボールベッドがぽつんとあるだけで、その周りにあったダンボールベッド群は撤去され、20メートル四方の空き地の様になっていた。近くの撤去されなかったダンボールベッドには避難者の荷物のような物は見当たらなかった。
「無理もないか…」
そこにいた避難者は、他の場所に移ったのだろう。
よほど図太い神経の持ち主でないかぎり、殺人現場の近くでは、気持ちが悪くて休めない。
一朗太は、規制線の張られた外側から、遺体が見つかったダンボールベッドを観察しながら、ゆっくり一周した。
やはり思ったとおりに、頸動脈からの出血にしては、血の飛び散り方が不自然だった。
遺体に血を抜いた痕跡が見つかれば、トリックを構築できる。
一朗太は、明日また訪れるであろう瀬名の検死結果の報告を期待した。
昨日は、災害後二日目ということもあってか、避難所のあちこちから、寝息や鼾が聞こえていたが、今夜は違った。やはり眠れないのだろう。起きてアリーナを出てみると、午前1時を回っても、ロビーにあるソファーに座ってぼんやりと時を過ごしている者が多かった。
災害が起きて、すぐだから成し得たトリックかもな。
一朗太は、ふとあることに気付いて、スマホをポケットから取り出した。
教えてもらっていた瀬名の携帯に発信する。2.3回呼び出し音が鳴って、瀬名が出た。
「おう一朗太か。お前の見込んだとおり、マル害の左腕に比較的新しい注射痕があった」
瀬名のよく通る声が、嬉しそうに弾んでいた。
「やはりな。ところで、他に遺体に変わったところはなかったか?」
「いや、なにぶん、ここは田舎だからな。本物の法医なんていないから、市で一番大きな病気の医者に検死をやってもらってるから…」
電話の向こうで、瀬名が申し訳なさそうに頭を掻いている図が浮かんだ。
「じゃあ、マル害の遺体に電撃痕がないか調べてくれ」
「電撃痕というと?」
「力の無い人間が、狙った相手を気絶させるもっとも有効な手段。スタンガンを使った痕だ」
「気絶させるなら、クロロホルムだろ?」
一朗太は、ため息をついた。
「瀬名。お前は東大の法学部に現役で合格するくらいの頭をもっているんたから、雑学も身につけろよ。クロロホルムで気絶させることなんて不可能に近いんだ。それにクロロホルムを相手の口元に当てたら、口の周りに火傷の症状が出る」
「そうなのか! 知らなかった」
「とにかく電撃痕がないか、探させてくれ。スタンガンの電圧だから、電撃痕は見つけにくいと思うが、必ずあるはずだ。おそらく首の近くに」
「了解した」
瀬名の返事を待って、一朗太は電話を切った。
翌朝、一朗太が実家に出向くと、門の所に瀬名が立っていた。一朗太を認めて、右手を上げた。
「ずっと待ってたのか?」
「いや、今着いたところだ。ところで、どうだ? 謎は解けたか?」
一朗太は苦笑した。
「相変わらず、せっかちなんだな」
「仕方ない。もって生まれた性格は、そう簡単には変えられない」
「お前の報告から聞こう。電撃痕は見つかったか?」
「ああ、見つかったよ。首筋に小さな痕が4箇所。どうやら犯人は、完全に気絶させるために、二度ほど通電させたようだな」
一朗太は、やはりなと小さく呟くと、「美馬沙耶香の調べはついたか?」と訊いた。
「ああ、年齢と経歴だけだけどな」
瀬名が手帳を取り出した。
「美馬沙耶香、年齢は28歳。一夜市の高校を卒業後、福岡にある看護の専門学校に入っている。卒業後、福岡で看護師をしていたが、2年前に地元に帰ってきた。どういう経緯か分からないが、市職に採用されて現在に至っている」
「光川との繋がりは?」
「本人は、半年前から不倫関係になったと吐露しているが、それとなく周りに訊いてみたら、2人が付き合いだしたのは、もっと以前からのようだ。2人が一緒にいた目撃例が色々出てきた」
「ゴシップ誌が飛びつきそうなネタじゃないか。よく問題にならなかったな」
一朗太は呆れたように言った。
「なにぶんここは、過疎に向かっているような土地柄なんでな」
「市長のスキャンダルは、市にとってもマイナスにしかならないか」
「それに市長が辞任すらことになったら、選挙でまた市税が削られる」
「二人の関係に気付いていても、見て見ぬふりをしてたってことか」
「多分な…」
瀬名が大きくため息をついた。
「で、美馬沙耶香が言うように、二人の関係は良好だったのか?」
「目撃者の大半は、仲が良さそうに見えたと言っていたが、一人だけ、二人が言い争っているのを見た者がいた」
「それはいつ頃で、言い争っていた内容は?」
「水害が起こる一週間前だ。言い争っていた内容までは聞こえなかったそうだ。ただ女の方が、凄い剣幕で光川に捲し立てていたのを見ている」
メモを見ながら、瀬名が言った。
一朗太は、やはりそうかと呟いた。
「何かわかったのか?」
「今回の事件の犯人は、十中八九、美馬沙耶香に間違いない」
「おい、本当か? でも彼女にはアリバイがあるんだぞ」
「アリバイのトリックは解っている。しかし、証拠になるような物は、今のところ無い」
「証拠がないなら、美馬沙耶香をしょっぴくことは出来ないな。一朗太、どうにかならんのか?」
一朗太は、下を向いてしばらく考えこんでいたが、思いついたように顔を上げた。
「美馬沙耶香の家は、今回の水害で被害を受けたか?」
瀬名は手帳をめくり目線を落とすと、「いや、彼女の家のある地区は被災していない」と顔を顔を上げた。
「それならば望みはある。瀬名、確か一夜市は分別ゴミの出し方がきびしかったよな?」
「ああ、燃えるゴミ、燃えないゴミをきちんと分別して、市指定のゴミ袋に名前を書いて出さないと持っていってくれない。少しでも、異物が混じっていてもだ」
瀬名の言い方は、辟易してるように聞こえた。過去に、出したゴミを持っていってもらえなかった経験があるに違いない。
「瀬名、頼みがある。美馬沙耶香の家の近くのゴミ集積所から、美馬の名前があるゴミ袋と名前の記載がないゴミ袋、どちらも燃えないゴミの方だ。それを回収してくれ」
「了解したが、もう収集してあるかもしれないぞ」
「それはない。この非常時だ。被害に会わなかった地区のゴミを集めると思うか?」
「そうだな。分かった。至急取り掛からせる。でも、何が目的だ?」
瀬名が首を傾げながら問うた。
「美馬沙耶香が看護師としての倫理観を忘れないでいたら、必ず見つかるはずだ」
「何が?」
「おそらく何かの小瓶の中に入った静脈注射用の注射針。うまくいけば点滴用のチューブや注射器本体も見つかるかもしれない」
「そうなれば証拠になるな。よし、俺は早速、捜査本部に戻って指揮するよ」
瀬名が踵を返そうとしたので、一朗太は呼び止めた。
「宏人、ついでにそれらの入手経路も調べてくれ。スタンガンもな。おそらくは、ネットで購入したんだとは思うが…」
「了解した」
「見つかったら、連絡をくれ。俺は、また片付けをする。災害本部長の市長が死んでしまったから、ボランティアの派遣も望めそうにないからな」
一朗太の皮肉めいた口調に、瀬名が苦笑いのような表情をうかべた。
「まあ、気長にやるよ。俺の場合、住むための復旧じゃないしな」
一朗太が笑顔を作って見せると、瀬名は片手で別れを告げた。
瀬名を見送った後、一朗太はふと思いつき、福岡の探偵仲間に電話をかけた。
「うん、そうだ。宜しく頼む」
一朗太は、依頼事を伝えると、「さあ、やりますか」と自分に気合いを入れて、泥に塗れた家の中に入っていった。
夕刻も間近な片付けの最中に、一朗太は壁に掛かっている一枚の額縁を見つけた。その額縁は、どうにか浸水を免れていた。額縁の中には、完介が書いたのであろう、下手な筆文字で、「鹿は、朝に、虎を、喰う」と認めてあった。食物連鎖を無視したような、奇妙な文だった。
じっとそれを見ていた一朗太は、唐突に笑い出した。ワハハと声に出して笑った。
「親父、この勝負、俺の勝ちかな。でも、確かめるのは明日だ。勝負の判定は、明日までお預けだ」
一朗太は、完介が認めた書に向かって言った。
避難所に戻る頃になって、福岡の探偵仲間からの着信があった。
依頼した事の結果報告だった。
「お前にしては、意外と早かったな」と、軽口をたたくと、「福岡市内には、扱っている店は少ないからな」と、間延びした声が、聴こえてきた。
避難所に戻ると、瀬名から連絡があった。
記名のないゴミ袋に入っていた、栄養ドリンクの瓶の中から、注射針を見つけたとのことだった。また、注射器本体は見つからなかったものの、他の袋から、小さな黒い袋に包まれた点滴用のチューブが見つかったと興奮した口調で報告してきた。
あと、美馬沙耶香が、ネットで、注射器を購入していたことも。スタンガンの入手経路は分からなかったそうだ。
だが、スタンガンの入手経路については、一朗太は既につかんでいる。
「そうか。あとは美馬沙耶香に自白させるだけだな。実際の殺害現場もおおよその予想はついている。瀬名、今から避難所に来れるか? 美馬沙耶香を落とすためのレクチャーをしてやる」
「一朗太、お前が謎解きを披露しなくていいのか?」
「馬鹿いうなよ。一民間人の俺がしゃしゃりでて、そんなことをしてみろ、大問題だ」
「ても、よく名探偵がやってるぞ」
「瀬名、お前は賢いのか、そうでないのかわからんやつだな。あれはドラマだ。フィクションの世界だから、誰も違和感をもたない。いや、もってはいけないんだ。現実の世界では、違和感だらけだ」
「そんなもんか?」
電話の向こうの瀬名は、何か不満そうだ。
もしかすると、ドラマのような展開を生で見たかったのかもしれない。
「とにかく、俺が謎解きをレクチャーするから、こっちに来てくれ」
「了解した」
一朗太は電話を切った。
一時間後、一朗太と瀬名は支援物資が所狭しと積まれた部屋にいた。
「善意はすごく届くんだな」
一朗太は感嘆した。
「市長が殺害された日は、まだ支援物資はこんなになかったそうだ」
「ここで、美馬沙耶香は仕分け作業をしていたわけか」
「そうなるな。物資が届いて仕分けが始まったのが午前1時半頃、作業が終わったのが午前2時20分、それまでこの部屋には仕分けに関わった人間が6人いた」
「その間、美馬沙耶香がこの部屋を出た回数とその時間帯は?」
瀬名を振り返って訊く。
「その間、美馬沙耶香は一度も部屋を出ていない。ただ、仕分けの開始時間には、10分ほど遅れてきたようだ」
「美馬沙耶香は、看護師として優秀だったようだな。自分がセットしたトリックに自信を持っていた」
「一朗太、そのトリックとやらを早く教えてくれないかな」
「そう急かすな。まずは、殺害現場の可能性がある部屋を探すぞ。何か痕跡が残っているかもしれない」
「それは、何処だ?」
一朗太は歩き出しながら応えた。
「アリーナの横にある、避難者は立ち入り禁止の部屋だ」
一朗太は、瀬名に借りてもらったアリーナのマスターキーを使い、アリーナの横の廊下に並んである部屋を見てまわった。
「ここだな」
女子更衣室とドアを開けて、部屋の中を見た一朗太は言った。
「ここが殺害現場なのか? でも何故、ここがそうだと解る?」
「ここは、一番奥まった場所にあるし、ロビーから離れているから、人目にもつきにくい。すぐそばには、女子トイレもある」
「女子トイレが近いことが関係あるのか?」
瀬名が首をひねった。
「おそらく美馬沙耶香は、俺が考えたとおりのトリックを仕掛けたはずだ。そして、使ったトリックを処分するのなら、女子トイレが一番都合がいい」
「それなら、その女子トイレを調べたら、新たな証拠が出る可能性もあるな」
「それはもう無理だろう。避難者も大勢の人たちが利用しているし、掃除も行われているからな」
そう言ってから、一朗太は瀬名に謎解きをレクチャーした。
「謎解きは、少し長くなるから、しっかりと聞いてくれ。宏人のことだから、一回の説明で頭に入るよな?それと質問は最後に受け付ける」
そう前置きすると、瀬名が、うむと肯いた。
「それじゃ始めるとするか。
まず光川と、密会する約束を取り付けた。会う時刻は、午前1時頃。会う場所は、この女子更衣室。
それまでアリーナのダンボールベッドで待つように言ったのは、美馬沙耶香だろうな。夜中に抜け出して、ここに来るのには、都合が良いからな。言い換えれば、美馬沙耶香にとっても都合が良かった。
真夜中、回りの者たちが、寝静まったのを見計らって、光川は静かにアリーナを抜け出た。まだ、災害が起きて三日目だから、昼間に片付けで体力を使い果たした人たちは、疲れ果てて熟睡していたはずだ。誰も光川に気づく者などいなかった。ダンボールベッドには仕切りがしてあるから、なおさらだ。
女子更衣室で、椅子が持ち出されていて無いからとでも理由をつけて、美馬沙耶香は光川を車椅子に座らせた。そして隙を見て、光川の首筋にスタンガンを押し付けた」
「そのスタンガンの入手経路が分からんのだが…」
瀬名が口を挟んだ。
「質問は後でと言っただろ。まあ、いいか。美馬沙耶香は看護師をしていた頃、福岡でストーカー被害にあっている。そんな時だろうな。スタンガンを福岡の護身グッズを専門に販売している店で購入している」
「何で分かったんだ? お前超能力者か?」
驚きが声に表れていた。
「そんなわけないだろ。調べたんだよ。福岡の探偵仲間に頼んでな。その店はスタンガンの販売には店独自の厳しいルールを設けていてな、購入者には身元証明をしてもらっている」
「確か、スタンガンの購入には、身元証明とか不要じゃなかったか?」
「さあ、過去に、売ったスタンガンが犯罪にでも使われたんじゃないのか」
「じゃあ、今回で二度目か…」
「話が進まん。次いくぞ」
瀬名が肯く。
「美馬沙耶香はスタンガンを使って、光川を気絶させると、腕の静脈に注射し、注射針に点滴用チューブを繋げて血を抜いた。
多分いっきに1400CCぐらいを。
瀬名、人間の失血による致死量は、何CCか知ってるか?」
「確か1500CCぐらいだ」
「よろしい。だから、1400CCの血液を抜かれた光川は、死には至らなかったものの、意識は朦朧としていたはずだ。
美馬沙耶香は、そんな光川を元のダンボールベッドまで運んだ。中央の通路は広めにとってあるから、車椅子でぐったりとなっている光川を運び易い。
そして、ベッドに光川を寝かした。美馬沙耶香は、元看護師だから、患者の移動などの経験値が高いだろうから、光川を車椅子からベッドに寝かせることも、難なくできただろう。
そして、光川を死に至らしめ、自分のアリバイをつくるトリックを仕掛けた」
一朗太は、そこまで言って、瀬名を見て、ふっと笑った。
「ここが、肝心だから、よく聞けよ」
瀬名が肯く。
「ベッドから、点滴チューブの端をベッドの下に下ろし、その下に血液を吸収して漏らさない物を置いた。
女性用生理用品のナプキンだ。多い日用なら、200CCは吸収出来る。もし、血が流れて、最後のトリックを行う前に、死体が見つかってしまうと困るからな」
それをふむふむと相づちをうちながら聞いていた瀬名は、謎解きの最後の方で赤面して、「それを俺が言うのか? そんなことを男の俺が知ってるなんて、変態と思われるかもしれん」と言った。
「残念ながら、俺は謎解きショーに参加できないからな」
一朗太は、そう言って笑った。
「くそ、これでお前の謎解きが間違っていたら、恨むからな」
「大丈夫だ。そんなことにはならん。…多分」
「多分てなんだ。たぶんて、」
瀬名は両手のこぶしを振って唾を飛ばした。
「そして、最後のトリックだ。
美馬沙耶香か、仲間と仕分け作業を行なって、アリバイ工作をしている間に、致死量の失血に至った光川は死んでしまった。
美馬沙耶香は、チューブから垂れ流れていく血が、致死量に達する時間も計算していたんだろう。
その結果、光川の死亡推定時刻のアリバイができた。
仕分け作業を終えた美馬沙耶香は、アリーナ横のトイレに行くフリをして、アリーナの中に忍び込み、光川の腕に刺さったままの注射針と点滴チューブ、それとナプキンを回収し、血を吸った生理用ナプキンは女子トイレの汚物入れに捨てた。ナプキンが捨ててあっても、誰もそれが光川の血を吸っているとは思わない。
そして、その後、女子更衣室に隠していた光川の血液が入った容器、たぶんペットボトルだろうな、処分し易いから、それを持って再び光川の死体のところに戻った。
そして鋭利な刃物で、光川の喉をかき切った。だが、ここで美馬沙耶香が予想してなかったハプニングが起きた。心臓というポンプが停止しているので、血が吹き出すことはないと安心していたが、血が飛び散り、紺色のユニフォームに少しついてしまった。紺色に血がついても、さほど目立たないが、調べられたら困ったことになる。
美馬沙耶香は焦っただろうな。どうにかして、この血をごまかさないといけないと。そして、妙案を思いついた。
それには、自分と光川が不倫していたと暴露しなければならないが、かえってその方が疑われずにすむかもしれないと考えた。
その後、美馬沙耶香は最初に立てた計画通りに、容器に入れていた血を死体やその周りに撒き散らし、アリーナを出た。
血の入っていたペットボトルや注射針などを、自分の車に隠しに行った後は、ロビーに戻って、第一発見者が騒ぎ出すのを待った。
騒ぎが起こったら、すぐに駆けつけられるように。
後は血塗れの死体に抱きつけば、その前に付いた血をごまかせる」
「なるほど、そういうことか…」
「これで謎解きは終わりだ」
一朗太は、瀬名を見て口角を上げた。
「何が、可笑しい?」
「明日、お前が美馬沙耶香の前て謎解きをしている光景が浮かんだのでな」
「どんな想像をしたんだ? まあ、いい。一つ質問させてくれ。何故、美馬沙耶香は注射針をあんな風に捨てたんだ? 帰る途中にどこでも捨てられたろうに」
「それをどうしても知りたいか?」
瀬名が、コクコクと首を振る。
一朗太は、「それはな、」と身を乗り出し、勿体ぶって説明した。
瀬名が美馬沙耶香に対して行った謎解きが、どういうふうになされたのかは、瀬名本人からの事後報告でしか分からなかったが、一朗太がレクチャーした謎解きの全てが当たっていたそうだ。
ただ一つだけ、推理しても分からない動機については、瀬名から聞くしかなかった。
「つまりは美馬沙耶香の不安感だ。夫人をクルーズ船の旅に行かせたから、当然自分をその間、光川の自宅に呼んでくれると美馬沙耶香は思っていた」
「光川に子供はいなかったのか?」
「ああ、結婚して5年目になるが、夫人が子供をつくることを拒んでいたらしい。だから、美馬沙耶香としては呼んでくれるのを当然と思っていたようだ」
「それが、美馬沙耶香の激昂の姿か目撃された理由か」
「俺が謎解きをした後に、あなたの看護師としての倫理観がなかったら、事件は解決してませんでした、と言ったら、彼女泣いていたよ。私ってバカね。注射針なんて、そこら辺に捨てたら良かったのに、と言いながら」
「で、お前が、あなたは人の命を奪うという取り返しのつかない犯罪を犯しましたが、他の人に感染リスクを負わせるかもしれない注射針を簡単に捨てられなかった。その優しい気持ちかあれば、きっとやり直すことができます、とか、くさいセリフを言って、美馬沙耶香をなぐさめたんだろ」
「何故知ってる。お前どこかで見てたのか?」
瀬名が驚いたように言った。
「そんなことできるわけないだろ。それより宏人、今日俺の実家にお前に来てもらったのには、訳がある」
「何だ? 事件を解決してもらったんだ。大概のことならと頼まれてやるぞ」
「二階に置いてある金庫を開けたいんだが、ダイアル錠がかかっている。番号の書いてある紙は一階にあるから、俺が番号を読み上げる。宏人は二階でダイヤルを合わせてくれ」
「俺が読んで、一朗太がダイヤルを合わせた方が良いのと違うか?」
瀬名が不思議そうな表情で訊く。
「番号は暗号で書いてある。いや、記憶術の方が正しいか。だから、普通には読めない」
「じゃあ、仕方ないか。いいぞ、頼まれてやる」
そう言って、瀬名は階段を上がっていった。
一朗太は、完介が書いた額縁の前に立った。
鹿は、朝に、虎を、喰う
この文は、数字を覚えるための暗記方だ。
まず、あ行からら行までに、1から9の番号を当てる。例えば、あ行なら1、な行なら5というふうに。ちなみにわ行は0になる。
そして、その番号の行にある文字を使って、単語をつくる。
この鹿の場合は、しかで、さ行とか行になるので、3と2で32となる。
同様に、朝は13、虎は49、喰うは21となる。
そして、その単語を使って、鹿が明け方に、虎の首を、残酷にも引きちぎりながら喰っている様子をイメージする。
当たり前に起こることは、イメージしても忘却してしまうから、この記憶術を駆使するには、現実離れしたイメージを持てる単語をつくることが大切だ。
一朗太は、番号を既に覚えていたのだが、あえて宏人に手伝ってもらいたかった。
片付けも済み、福岡に帰る最後の日の今日、宏人との別れを惜しむべく、ここに呼んだのだ。
一朗太の予想通りなら、お宝は宏人にも関係している。
「いいか、言うぞ。最初の番号は、右に4回回して、32に合わせる」
「合わせたぞー」
二階から、瀬名の間延びした声が聞こえてくる。
「次は、左に3回回して、13」
「できたー」
「次は、右に二回で49」
「ホイホイ」
間の抜けた返事だ。
「最後は、左に回して21で止める。それで、解錠するはずだ」
「何かー、ガチャリという音がー、したぞー」
音がしたというのは、瀬名の気のせいだろう。ダイヤル錠を解錠したぐらいで、そんなに大きな音はしない。
「横に挿してある鍵を回したら、金庫が開く。回してみろ」
今度は、返事がなく、かわりに瀬名が階段を下りてきた。
「すまんが、金庫はお前自身で開けてくれ」
「なぜだ?」
一朗太は、にやけ顔で問うた。
「ほら、その顔。お前の親父さんが、何かを企んでいる時と一緒の顔だ」
「あの時のことを、まだ覚えていたのか?」
「そうだ。中学生の時、遊びに来た俺に、瀬名くん、これは健康にとっても良いお茶何だそ、とか言って、とても苦いセンブリ茶を飲ませた。その時の親父さんの、にやけた顔と一緒だ」
「センブリ茶は、身体には良い。良薬口に苦し、だからな。親父は嘘はついてない」
「確かにそうかもしれないが、あの苦さは中学生には酷だ」
瀬名は、当時の苦さを思い出したのか、顔をしかめた。
「とにかく、金庫を開けるのが、俺は怖い」
「臆病だなあ、刑事部長の肩書きが泣くぜ。仕方ない、俺が開けるよ。宏人も一緒に金庫の中身を確かめようぜ。俺の予想通りなら、金庫の中には、お前にも関係のあるものが入っている」
金庫の扉を一朗太が開けると、そこに入っていたのは、大量の写真だった。
「この赤ん坊、一朗太だよな。これは、保育園の頃か。お前も幼い頃は、可愛かったんだ」
「幼い頃は余計だ。ほら、この写真見ろよ。宏人が一緒に写っている」
小学生の時の写真の何枚かには、瀬名が仲良く並んで写っていた。中学生、高校生の時も同様だった。瀬名は、当時のことを思い出したのか、少し涙目になっていた。中学生の時に父親を亡くした瀬名にとっては、辛いこともあったのだろう。
一朗太は、そんな瀬名を見ながら、完介がよく口にしていた言葉を思い出した。
「やってやれないことはない。そう思えば、人は何とか困難に打ち勝つことができる。ても、くじけそうになった時は、その気概をもった時のことを振り返ることも大切だ」
なるほどと思う。
人は、思い出に浸ってばかりでは前を向けない。未来に希望を求めながら、一歩ずつ進むことか大切だ。
しかし、時には昔を懐かしみ、当時の気持ちや気概を思い出すことも、また大切だ。
唐突に、一朗太は、暗号めいた文に込められた、もう一つのメッセージを悟った。
鹿が虎を襲うように、やろうと思えば不可能も可能になると言いたかったんじゃないかと。
「親父、確かにお宝は受け取ったよ」
一朗太は天を見上げて言った。
「おい、一朗太。金庫の引き出しに、こんなもんが入ってたぞ」
驚いたように、瀬名が手にした札束を一朗太の前に突き出した。
一朗太はそれを受け取った。帯封がなされた札束が五束あった。
それを確認した一朗太は、またそれを瀬名に渡した。
「これを一夜市に寄付するよ。500万くらいじゃ何の足しにもならんかもしれんが、親父の故郷だ、復興することを願っているよ」
瀬名は始め驚いた顔をしていたが、すぐに破顔した。
「相変わらず、最後にかっこつけやがる。ありがたくいただいとくよ。きっと一夜市の復興に役立てる」
「約束だぞ」
「了解した」
「ところで、片付けも終わったし、福岡に帰ろうと思っていたんだが、鉄道は復旧したのか?」
一朗太は、そう言って、瀬名をまじまじと見た。
瀬名は、しばらく黙っていたが、「ええい、くそ。乗せてってやるよ。新幹線が停まる駅まで」と、叫んだ。
「そうか、それはすまんな」
一朗太は満足そうに肯いた。
作品は、あくまでもフィクションです。