死んだらどうなるか?問題・22
生命の原質としての、例えば「生気」なるものの存在が先にあり、とある何物か(純粋な物質)に取り憑いて、その内面で意識を形成する・・・という順序は、科学サイドには受け入れがたいことです。
その考え方は、神の存在を認める=科学的な説明を回避する、という行為に等しいわけですから。
やはりここは、自然がつくりあげた機能が進化を経るうちに、徐々に内面に意識が発生した、と考えたいところです。
ただ、この生命観は、表裏一体の形で、死観の解答をズバリと含んでいます。
つまり、生命や意識の正体が純粋な物理的機能なのだとすれば、生物のメカニズムが滅んだ(肉体が死んだ)のちに、魂には行き場がない、ということです。
魂の器であるところの生命機械が灰になれば、内容物であったアイデンティティがおさまりどころを失うことは自明です。
認めたくない事態ですが、その答えはまたしても棚に上げておいて、先に生命の発生を考え詰めてみましょう。
ついては、発生・・・この言葉の意味を、根本的に考え詰めてみます。
この読みものが量子力学を説明するくだりで、筆者は「粒子とは、現象である」ことを明らかにしてきました。
この言葉はシュレディンガーさんのものですが、要するに波と粒子の二面性を持つ素粒子は、素粒子間の相互作用によってのみ、その「効果」であるところの姿を見せるのです。
くどいようですが、またこの例え話を出させてください。
三つのクォークがグルーオン(これらすべてが、素粒子という仮名をあてがわれた波)と相互作用をして原子核を形成し、これがフォトンの媒介で電子と相互作用をして、やっと原子という形の物質になります。
ところが、粒子とは名ばかりの素粒子は、実は波なのであって、「場」として世界に展開しており、個々が各位置に座標を持って漂っているわけではありません。
要するに、素粒子とは「ひろがり」そのものなのであって、それを収縮して粒子化させるには、観測者の存在が必要となります。
この世には時間も空間もなく、「素粒子」とうっかり表現されてしまった波が立っており、その波が何者かの意識による観測によって一点に収縮し、ようやくわれわれ人類種に感じることができる様式であるところの粒子の形状を取るのでした。
結果、その粒子を手触りあるものとして感じるわれわれの内面が、ひとりひとりの脳の中に物質的世界を形づくっているわけです。
こんな幻想みたいな茫洋としてつかみどころのない世界観が、最先端の理論(そして当代最高の知性の巨人たちによるコンセンサスに近い解釈)なのであります。
・・・まだ疑います?
確かに、これってオカルトみたいで、スピリチュアルじみていて、筆者が狂っていて・・・みたいなやつですが、アインシュタインやシュレディンガーが基礎をつくって、その後につづく物理学者たちが最先端技術を駆使して精緻極まる実験結果を限りなく積み上げて構築したモデルなのですよ。
そこだけはちゃんと理解してください(つまり、筆者がマッドな人間ではないことを)。
このオカルト物語・・・もとい、最新理論は、理解力に限りのある人類をさらに深淵な暗闇の奥へと導きます。
それはあまりにも現実離れした、「観測者がいない場所では、物質は存在し得ない」という事実です。
いや、ここでは「場所」という言葉を用いることも許されません。
なぜなら、観測者のいない世界には、場所そのものが存在しないのですから。
「世界」そのものがあるのかどうかも疑わしいところです。
が、これは積み上げてきた理論の、結論と言ってよろしい部分です。
観測者が波動を収縮させて世界を三次元の様式に変換し、実体化させないことには、粒子が相互作用によってつくり出す物質世界は永遠に実現しないのです。
ということはですよ、またまた驚くべき事態が明らかになります。
それは、「素粒子に先立って、生命が存在する必要がある」ということです!
観測者が粒子を生み出すというのなら、そう考えるしかありません。
生命から発生する意識による観測なしに、波は粒子化してくれないわけですから、これは「ニワトリが先か卵が先か?」の議論よりも解答が明白に思えます。
議論は最初に戻りますが、科学が試行錯誤してたどり着いた結論はこうです。
魂の入れものである物質的機能に先立って、内容物である生命が存在していなければ、世界そのものを誕生させることができない。
よって、「生気」は存在する!
おめでとうございます、これであなたの死後、あなたの中身は行き場を獲得する可能性が出てきました。
・・・ほんとかなあ?
つづく




