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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ハンニバルになりたい!

作者: 江保場狂壱

2017年11月5日。内容を修正しました。

「ハンニバルになりたい!」


 一人の少年が声を高々に叫んだ。しかし周りにいるのは少年と同年代の少女だけである。その少女は表情を崩していないが、呆れた目で見ていた。


「坊ちゃま、何をおっしゃっているのですか? 奴隷である私にも理解できるようお願いいたします」


 少女は奴隷だった。少年と言っても十代後半である。どことなく子供っぽいところがあった。


「言葉通りさ。ぼくはハンニバルになりたいんだ。17歳で戦争に参加したけど彼は戦争の天才だ。ティキヌスにトレビア、極めつけはカンネだ。ローマ軍は同盟国の兵士も含めて八万五千もいた。それに対してハンニバルはガリア人(ケルト人)の傭兵を含めて5万しかいなかった。なのにローマは負けたんだ! こちらの死者は7万近いのにハンニバル側は5千人しか死んでないんだ!! これがすごくなくてなんだろう。カンネの戦いはおそらく未来永劫語り継がれるはずだ、ローマだけでなく世界中がハンニバルの戦術を真似するに違いない!!」


 少年は興奮しきっていた。なぜなら彼はその戦いに参加していたのだ。命からがら逃げてきたが彼の心の中にはハンニバルの恐怖よりも彼に対する憧れが占めていたのである。


「坊ちゃま。人前でそのようなことをおっしゃるのはやめたほうがいいでしょう。ローマにとって敵は海の向こうにいるカルタゴではなく、ローマ内にいるハンニバルなのです。敵を褒める行為は敵対行為をみなされますよ。いくら坊ちゃまが名家出身でも関係ありません」


「お前は奴隷のくせに辛辣だな」


「私の持ち主は旦那様であり、坊ちゃまではありません。私は坊ちゃまの教育係として、責任がありますので」


 少女は冷たく言い切った。ここは紀元前のローマで現在カルタゴと戦争をしている。

 第二次ポエニ戦役というわけだ。大国であり、ローマは新興国だ。自前の銀貨すら製造できてないのである。それが百年近くも戦争する羽目になったのだ。

 

 その結果カルタゴが滅亡し、ローマが地中海の覇者になるなど夢にも思わなかったに違いない。


 そして今ハンニバルを熱く語る少年も、それを聞き流す奴隷の少女も自分たちの未来にまだ気づくわけがなかった。


「ところでハンニバルになるにはどうしたらいいかな? お前は頭がいいからわかるだろ?」


「わかりません。頭がいいからと言ってなんでもわかるわけではないのです。ですが、あえて言わせてもらうならハンニバルの真似をするのが一番ではないでしょうか」


 主人の息子に対して、いかにも教育係の奴隷はどうでもよさげに答えた。現在ローマにとって敵はカルタゴではなくハンニバルになっているのだ。すでにカンネの戦いの後、カプア、シラクサ、ターラントの同盟国が寝返ったのだ。


 そもそもハンニバルはローマの防衛網の盲点を突いたアルプス越えを行ったのだ。そして率いる兵はほとんどが傭兵の、いわば寄せ集めの軍隊でしかないのだ。それを当初28歳のハンニバルが率いたのだからローマとしても衝撃が隠せなかった。


「確かハンニバルはアルプスを越えてきたんだよな。しかも象に乗って。よしさっそくアルプスを超えに行こう!!」


 少年は一気に走り出そうとしたが、少女が少年のトーガを踏む。いきおいよく地面にキスをする羽目になった。


「いたた……。なんで止めるんだよ!!」


「ハンニバルがアルプスを超えたのは、ローマの防衛網の隙をついたからです。坊ちゃまがアルプスを超えても無意味です。例え超えても地中海はカルタゴが支配しております。どっちにしろ無理です」


「そうなのか。なら象がいないとだめなんだな」


「人の話をきちんと聞いてください。象の有無は関係ありません。そもそもハンニバルが持ち込んだ象はまったく役立たずだとの話です」


「なるほどな。つまりローマからではなくきちんとヒスパニアから行かねばならぬというわけだな。うん、ありがとう。よーし、船を用意してエンポリアかタラゴーナ辺りに行くぞー!!」


 再び少年が走り出そうしたので、少女はまたトーガを踏んずけた。まったく懲りないのに辟易したのは言うまでもない。

 ちなみにヒスパニアは現在のスペインである。


 ☆


「そもそもローマとハンニバルでは戦いからして別物です。それは坊ちゃまも直に見たから理解しているでしょう?」


「確かにな。うちは重装歩兵が重要視されているからね。それに対してハンニバルは騎兵を使っていたんだ。カンネの戦いでもあっという間にローマ軍を取り囲んでいたからすごいよ。こっちは騎兵がいないからなおさらね」


「ローマには馬がアペニン山脈辺りしかいないそうですからね。それに馬を乗りこなすのは子供の頃から馬に親しんでないといけません」


「そうなんだよね。でもローマはローマらしさを忘れてはいけないんだ。自分らしさを無視してもろくなことがない。ぼくらは誇り高きローマ人なんだ」


「私は奴隷ですけどね」


 少女はあっさりと切ったが、少年は無視した。


「そう、ぼくらはローマ人なんだ。けどハンニバルにならないと彼には勝てない。なら僕らは空を飛べばいいんだ!!」


「そうですか」


 少女奴隷はあまりにも飛躍した考えに無視しようとしたが、逆に少年は彼女に突っかかった。思わず舌打ちしてしまう。


「何、その反応の薄さは? ハンニバルは常に意表を突いたやり方でローマを苦しめた。なら僕らは空を飛んで戦えばいいじゃないか!!」


「それ以前にどうやって空を飛ぶんですか? 鳥のように翼を生やすのですか?」


「そいつはよい考えだな!! 巨大な翼を作れば空を飛べるだろう、ハンニバルならすぐに思いつくだろうけどね!!」


「いえ、ハンニバルなら絶対にそんな馬鹿な考えなど思いつきません。というか私以外にしゃべらない方がいいですよ。馬鹿だと思われますから」


「お前はどちらの味方なんだ!? 誇り高きローマ市民なのに!!」


「いえ私は奴隷です」


 少女はあくまでも冷静であった。ちなみに翼を作って飛ぶ実験はすぐに失敗し父親にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。


 ☆


「ふぅ、ハンニバルになるにはどうしたらいいかな?」


 少年は悩んでいた。ハンニバルは敵ではあるが、尊敬すべき天才なのである。カンネの戦いで瀕死の状態だったが死への恐怖よりもハンニバルに対する憧れが強くなったのだ。戦争による恐怖より、ハンニバルが心の中を占めているのである。


「まだそんなことを言っているのですか? ローマはハンニバルに苦しめられているのに不敬扱いされますよ」


 少女は洗濯をしながら少年の話を聞き流していた。とてもどうでもいい表情を浮かべている。主から教育係を命じてなければ黙らせるつもりだ。


「不敬でもいいんだよ! そもそもハンニバルに勝つにはハンニバルのように戦わねばならないんだ!! それなのに我が偉大なるローマはハンニバルとの戦いを避けてばかりいる!! これでは何も学べないじゃないか!!」


 少年は興奮しきっていた。彼はハンニバルを愛しているのだ。恋をしているのである。もしハンニバルに会えたら抱きつきたいくらいだ。

 少女は洗濯物をたたむ手を止めない。話をしても仕事を進める有能な奴隷なのだ。


「ですが肝心のローマはそう思っておりませんよ。ハンニバルに対して補給路を断ち、同盟国を取り戻しつつあります。ローマの強さは個人の強さではなく組織の強さです。坊ちゃまの言葉など聞く耳持ちませんね。旦那様も同じでしょう」


「うーん、そうなんだよね」

 

 ようやく静かになったと洗濯を再開しようとしたら、いきなり爆発したのである。


「よし決めた! ぼくはハンニバルになり切るんだ!」


「……どうなり切るのか見当が付きませんが」


「決まっている! ハンニバルと同じように考えるんだ。そうぼくはハンニバル、ハンニバルになるんだよ!!」


「……具体的にどうするつもりですか?」


 少女は心底どうでもよさげな顔で訊ねた。一応お目付け役なのだから機嫌を取ろうと思ったのだ。


「うむ。まずはハンニバルの口癖から真似しよう。オッス、オラ、ハンニバル・バルカ! 好きな食べ物は揚げパンだよ!」


「それは坊ちゃまの好物でしょう? 揚げパンはギリシャでは有名ですからね。そもそもハンニバルが揚げパンが好きなどと聞いたことがありません」


 ちなみにギリシャはオリーブの名産地だ。オリーブ油で揚げたパンは有名である。


「好きに決まっているさ! だってぼくはギリシャが大好きだもの。ハンニバルだって好きになるさ!!」


 少女奴隷は呆れかえった。もう彼に何を言っても無駄であると判断する。


「そうだ! ハンニバルに会いに行こう!! 彼の真似をするには彼と一緒にいるのが最高じゃないか!! ではさっそく―――」


「今、会いに行っても殺されるだけですよ。そんなに会いたければ軍団司令官になればいいじゃないですか。そうすれば戦場でハンニバルに会えますよ」


「そっか! お前頭いいな。ではさっそく父上におねだりしよう!!」


 少年はすぐに走り去った。少女奴隷はその後姿を見て、ため息をついた。


「坊ちゃまの年代で司令官になれるわけないじゃないですか……」


 しかし少女は知らない。彼は紀元前209年、25歳の時に軍団司令官に任命されることを。

 

 そして紀元前202年、カルタゴ本国のある北アフリカのザマで彼はハンニバルをうち破ることを。


 のちに彼はこう呼ばれることになる。


『スキピオ・アフリカヌス』と。これはアフリカを制した者という尊称であった。


 しかし本人はハンニバルに会えた感動と興奮が忘れられなかったと言えるだろう。おそらくその表情は鼻息が荒く、目を血走らせていたに違いない。

参考文献は集英社文庫、著者塩野七生、『ローマから日本が見える』です。

日本人はあまりローマ文明は知らないと思います。さらに戦記物ならハンニバルはともかく、スキピオ・アフリカヌスを知っている人は少なくなるでしょう。

平野耕太先生の漫画ドリフターズを読んだ人ならわかるはずです。


なので作中では当時のローマの事情を挟んでおり、ちょっとくどい構成になっています。

抱腹絶倒にはならないけどくすりと笑える作品を目指しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] ああ、あの人肉好きなお利口な犯罪者ですね (*´・ω・`)b えっ、違う 冬のアルプスを象で越えて来たあの人ですか? ((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル 漫画途中までしか読んで無いけ…
[良い点] 学生の頃全然勉強していなかったので歴史は全然わからなかったけど面白かったです。 ドリフターズは読んでいたので、何となくオチが想像できましたが、それよりも作者様の知識量がすごいんだなあと思…
2017/12/14 07:45 退会済み
管理
[良い点] ハンニバルは天才でしたが、彼がローマの指導者層を減らしまくった結果、スキピオが若くして頭角を現すのですから皮肉なものですよね。 たら、ればを言えば、第二次ポエニ戦争で「ローマを攻撃したら…
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