機械仕掛けの神(23)
〈アルファ〉の中はまさに体内と言えた。その部屋は壁も床も天井も、脂肪のようなもので囲まれており、脈打ち動いている。
肉の壁とも言えるその中に、上半身だけを出して誰かが埋もれている。それはファリスだった。
ファリスの意識はないようで、深く項垂れている。〈Mの巫女〉となったファリスはまだ生きていた。
鴉がファリスに近づこうとすると、彼の背後で複数の気配がした。どれもこれも冥府の風を纏う気配。それも複数でありながら単体だった。
後ろを振り向いた鴉の目に飛び込んできたものは、何人もに増幅したゾルテであった。ゾルテが地面から生えているという表現が適切だろう。
「余の邪魔をする気か、鴉よ?」
「そういうことになるだろう」
「ならば相手をせねばならぬか」
鴉を取り囲んだゾルテたちがいっせいに襲い掛かって来る。左右前後から襲い掛かって来る敵を、鴉は身体を回転させて黒衣を大鎌のように振るった。
斬り裂かれるゾルテたち。肉片となったゾルテは床に吸収される。鴉が危険を察知した時はすでに遅かった。全てがゾルテなのだ。
突然、鴉の脚が掴まれた。下を見ると地面から伸びた手が鴉を捕らえている。
「この程度か鴉という男は!」
「……まだだ」
無理やり脚を振り上げてゾルテの手から開放された鴉は走った。
鴉を追うように地面から次々と手が伸びる。壁からも天井からも手が伸びる。鴉は黒衣と爪を使って切り裂いていくが切がない。
部屋を覆う肉が芋虫のように動き出し一部に集約していく。やがてそれはひとりのゾルテをつくり出し、その腕にはファリスが抱かれていた。
「あのままではどちらも切がない。余が直々に相手をしよう」
そこは綺麗な花畑の真ん中であった。空に広がる青い空、白い雲、詠う風の音色。
鴉は辺りを見回してゾルテに問うた。
「どこだここは?」
「余の精神世界だ。貴公は〈アルファ〉の体内に入ったその時に余の精神界に迷い込んだのだ」
「精神が死ねば魂も死ぬ」
「そうだ、もし貴公がここで死ねば、現実世界に残して来た肉体は死ぬ。余も然りだ」
「お前の精神は穏やかなのだな」
この世界のことを言っている。美しい花々が咲き誇るこの場所に戦いは不釣合いだった。
真剣な顔をしている鴉を見てゾルテが微笑う。
「これが余の望む世界だ」
「では、なぜ地上を支配する? なぜ血を流すのだ?」
「天に愛想が尽きた」
「それだけか?」
「それだけだ」
天人には寿命がない。永遠に続く時間を持ち合わせているにも関わらず、楽園での日々は変化のない生活だった。何をするのにも十分な時間があるに関わらず、変化を恐れて暮らしている。
ゾルテは深く息を吐いた。
「地上は面白い。常に変化し続けている。地人は限られた時間の中で生きるからこそ、変化の速さも天人に比べて早いのだろう。しかし余は平穏が、楽園が恋しくも感じる」
「だから、この世界か……」
不変の長閑な風景。そして、ゾルテの表情は戦いを忘れさせるほど安らかだった。
「余は天に愛想が尽きたと言いながら、天に思いを馳せている。可笑しな話だが、地上になぜ堕ちたのか、余にもわからん。本当は楽園で永遠に過ごすはずだった」
「それなのに堕ちたか、確かに可笑しな話だ」
「誰かに呼ばれたような気がした……かもしれない。もう、過ぎたことだ。一度堕ちてしまえば楽園には還れぬ」
ゾルテは地上を支配するために堕ちた。しかし、本当にそんなことがしたかったのか、ゾルテにはわからなかった。
揺れ動くゾルテの心に鴉が言葉を突き付けた。
「地上で静かに暮らすことはできないのか?」
「できぬな。地上を支配する気はまだ残っている」
「それはお前の意思か?」
「さあな。しかし、余には他にすることがない」
「そうか」
二人はその場に立ち尽くした。沈黙の中で時間だけが過ぎ去っていく。
地上に堕ちて間もないゾルテは、この時間を早く感じた。
地上に堕ちて多くのものを見てきた鴉は、この時間を永く感じた。
強い風が吹き、花びらが空に舞い上がった時、ゾルテの方が口を開いた。
「はじめよう」
鴉は何も言わなかった。答えなくとも時間は流れる。
戦いははじまった。
漆黒の翼を大きく広げたゾルテが掌に魔導を溜めた。
「受けてみよ鴉!」
放たれた光の弾が地面を抉りながら鴉に向かって飛ぶ。
鴉は避けようとせず、地面を踏みつける足に力を入れた。
――当たる。
光弾の前に黒い壁が立ちはだかる。それは鴉の黒衣だ。
黒衣によって弾かれた光弾が空に向かって輝く尾を引いた。
ゾルテは嬉しそうな顔をしていた。
「輝く翼がなくとも、貴公はその闇で戦うか」
「そうだ、この闇とともに生きる」
「しかし、今の貴公では余に勝つことはできん。十分な聖水を摂っていない貴公は勝てない」
「いつかは必ず終わりが来る」
「何のだ?」
鴉は答えずゾルテに向かって走り出した。
黒衣が大きく風に揺られ、鴉は抉られた地面の上をゾルテに向かって一直線に突き進んだ。
「私もお前も、全てのものにだ!」
大きく振るった鴉の爪が〈ソード〉と化したゾルテの腕に受け止められた。すぐさまもう片方の手を爪と化し、鴉はゾルテに爪を向ける。しかし、それは二本目の〈ソード〉に受け止められた。
ゾルテの蹴りが鴉の腹に入る。一歩下がった鴉を二本の〈ソード〉が串刺しにしようとする。鴉はそれを華麗に躱して、回し蹴りを放った。
鴉の足が突如空で喪失した。脚から鮮血が噴出すが鴉は構わず、片足で飛び上がり、その脚でゾルテの顔面に蹴りを喰らわした。
地面に着地した鴉の脚はすでに二本ある。しかし、この再生は鴉に極度の疲労を与えた。血が足りない。
鴉は地面に片手を付いたゾルテの胸に、下から抉るように爪を突き刺した。ゾルテは笑った。
「そこにはない!」
自分の身体に突き刺さっている腕を引き抜き、ゾルテはそのまま鴉の身体を遠く後方に投げ飛ばした。
宙で回転し体制を整えながら鴉は地面に乱れなく着地した。
鴉の着地した足元のすぐそこにファリスがいた。
地面に横たわるファリスからは息が聴こえない。仮死状態のような状態に置かれているのだ。ファリスの精神は夢幻の世界に囚われている。
ゾルテが声を張り上げた。
「鴉よ、その娘の聖水を飲むのだ!」
「断る」
「今の貴公では余の相手にならぬと言うておろう」
「それでも断る」
頑なな鴉の言葉を聞くや、ゾルテは拳を握り締め震えた。
「なぜ拒むのだ! 地人は天人の糧として創られた存在なのだぞ!」
「果たしてそうなのか?」
この言葉にゾルテは愕然とさせられた。恐れていた言葉が鴉の口から発せられた。想っていても誰にも口にできなかった言葉だ。ゾルテは己の考えを否定した。
「地人は糧である。万物の頂点に立つ者は天人なのだ!」
「そうだな、今は。神は万物の法則から外れた存在であると云われるが、神は全能ではない。その神は天人を創り、次に地人を代わりとして創った。この意味がわかるか?」
「神などいない!」
「いいや、全能なる神ならば私も信じないが、神が己に『似せて』創ったと云われる天人や地人のような神であれば信じる」
ゾルテは花畑の上に寝転がるファリスを見て震えた。第三のヒトと呼ばれる新人類がそこにいるのだ。その娘の力を使って〈アルファ〉を制御しているのは紛れもない事実だった。
〈Mの巫女〉を〈アルファ〉に取り込むまで、ゾルテの精神は完全に呑まれていた。それが〈Mの巫女〉の出現により、ゾルテは今ここで存在を保っていられる。
「鴉、その娘の聖水を呑め、さすれば全てが明らかになる。その娘が新人類であるのならば、エスとならずに済むはずだ!」
「断る」
「怖いのか、新人類の出現を恐れているのか!」
「それはお前だ。不変を望む楽園の民よ、この地上は天人の住む場所ではない。そして、堕天者の住む場所でもない。いつかは終わりが必ず来る」
堕天者となった天人は地上に堕ちて、そこで多くの終わりを見ることになる。楽園では己の存在が消えることなど考えもしなかったのに、長い時間を地上で過ごすことにより、己にも終わりが来るのではないかと脅える者の中には出てくる。そういう死の恐怖に苛まれた堕天者は社会を乱しヴァーツに狩られる運命にある。地上は不変ではないのだ。
「終らぬ、天人は永遠を生きる民だ、滅びはせぬ」
「終わりが安らかであることを祈るのみだ」
「まだ言うか貴様は! 滅びぬぞ、滅びぬ、天人も余もだ!」
花畑が燃える。美しく儚く、一面が真っ赤に染まっていく。
高笑いをするゾルテの身体をも炎は包む。
ひらひらと火の粉のように舞い上がる炎の花びらは、光を閉ざした黒い空に吸い込まれて逝く。この世界が終わる。
天の闇が急速に堕ちてくる。そして、闇は全てを呑み込んだ。
次の瞬間には鴉は灰色の壁に囲まれた広い部屋にいた。その部屋の奥には十字架に磔にされたファリスの姿と、それを守るようにして立つゾルテの姿があった。
「余は眠りから覚めてしまった。即ち、〈アルファ〉は動きを止めた。鉄屑となった〈アルファ〉を落とすのは容易い」
〈アルファ〉が激しく揺れて、壁が地面となり鴉は壁に向かって落下した。空を飛んでいた〈アルファ〉が地面に落ちたに違いない。
鴉の上からゾルテが〈ソード〉を構えて落下して来る。
「最後の勝負だ鴉!」
ゾルテはこの一刀に賭けた。鴉もまたそれを感じ取った。
二人は一瞬という時の流れをとても永いものに感じた。
ゾルテが来る。鴉が爪を構える。二人の視線が絡み合う。
激しくも儚い一瞬。
煌く閃光が世界を走る。
爪が〈ソード〉が、突き刺さった。ゾルテの〈ソード〉が鴉の身体を貫き、鴉の爪もまたゾルテの身体を貫いていた。
同時に爪と〈ソード〉は引き抜かれた。そして、胸を押さえて倒れたのは鴉であった。
地面に気高く立つゾルテ。その翼は白く美しく輝いていた。
「先に行くのは余のようだ。しかし、貴公の核は傷つけた――相打ちだ」
「傷ついた核は治らん。すぐに後を追うことになるだろう」
ゾルテの身体は死に侵食されていく。色褪せる身体は崩れ、灰になり、塵となった。
膝を付き立ち上がった鴉は頭上を見上げた。磔にされていたファリスの身体が開放され、鴉に向かって落下して来る。
黒衣が大きく広がり、ファリスは柔らかなその上に包まれながら着地した。
ファリスを抱きかかえる鴉。すると、ファリスはゆっくりと目を開けた。
しばらく見詰め合っていた二人だが、やがてファリスが口を開く。
「やっぱり助けてくれたんだね。全部見てたよ、夢の中で」
鴉は何も言わなかった。その代わりに、鴉が微笑みを浮かべた。とても優しい微笑だった。そして、鴉はファリスを抱きかかえながら床に崩れた。
「どうしたの鴉!」
「永かった生命が終わりを告げる」
鴉の胸に空いた穴は塞がっていなかった。血が止め処なく流れ出る。
「死んじゃヤダよ、あたしを残して逝くなんてズルイ。だったら、あたしのことなんて助けてくれなくてよかったのに……そうすれば、こんなの見なくて済んだのに……」
鴉の身体が灰になって崩れていく。手足の先が徐々に崩れ、緩やかに緩やかに死が近づく。ファリスにとってこんなにも辛い別れはなかった。目の前の人が逝ってしまうのに、それを長い時間見ていなくてはいけないなんて辛すぎる。
「ばかばかばか! 死んだら一生呪ってやるからね。助けてくれたお礼なんて言ってあげないからね、言って欲しかったら生きてよ……」
涙ぐむファリスは辺りを見回した。〈アルファ〉が揺れている。〈アルファ〉もまた逝こうとしているのだ。
「私もこの兵器も、人間の世界には不要のものだ」
鴉の脚も腕もすでに灰と化していた。それなのに鴉は安からか顔をしている。それがファリスは気に入らなかった。
「最期みたいな顔しないでよ、鴉は不死身のヒーローなんだから、いつもであたしがピンチの時は駆けつけて来てくれるの……鴉がいないと、あたし……」
ファリスははっとして口を開けた。彼女は夢の中で全てを見ていた。鴉とゾルテの戦い。そして、二人の会話も。
「もしかしたら、あたしの血を飲んだら助かるかもしれない!」
灰に成ろうとしていた鴉は酷い渇きに襲われていた。彼はそれを必死に抑えていた。そうでなければファリスを襲ってしまう。
「私の死を見たくないのなら、早く立ち去れ!」
いつもは静かな口調の鴉が発した激しい口調であった。だが、ファリスは鴉の瞳を睨みつけて一歩も引かない、それどころか噛み付くように言葉を発する。
「あたしの血を飲んだら助かるんでしょ、絶対そうなんでしょ? だから、そうやって怒ったんでしょ?」
「…………」
「そうやって黙るなんて、鴉ってわかり易いよ」
「地人の血を飲んだところで、私は助からない。しかし、第三のヒトならば可能性があるかもしれぬ」
「だったら、飲んでよ、あたしって第三のヒトなんでしょ?」
ファリスは鴉の胴体を抱きかかえ、鴉の頭を自分の首元に持って行った。手も足もない鴉は抵抗することもできなかった。いや、抵抗しなかった。
「人間は人間として限られた時間の中に生きているからこそ、私たち天人の持っていないものを多く持っているのだと思う」
「御託はいいから早く飲んで」
鴉の口は震えていた。渇欲は理性ではどうにもならない部分がある。そして、今の鴉は消滅に直面している状態にある。それでも鴉は歯を食いしばっていた。
身体を振るわせる鴉の振動がファリスにも伝わって来る。
鴉の口の奥に牙が光った。しかし、歯が砕けんばかりに口は開かれた。
ファリスが小さく呟いた。
「飲んでいいよ」
鴉の理性は限界にあった。そして、ついに鴉はファリスの首筋に牙を立ててしまった。
ファリスは口を開け、目を見開き、自分の中からいろいろなものが吸われていくのを感じた。痛みはなく、身体が痺れたような感覚がするが、それも嫌ではなかった。
鴉の中に生命が流れ込んで来る。渇きが癒え、腕が、脚が、再生していく。
やがて、鴉はゆっくりとファリスの首筋から頭を離した。
ファリスは喜び、鴉の身体を強く抱きしめると頬にキスをした。
「ほら、助かったじゃん。鴉が意地を張んなきゃ、すぐに済んだのに」
笑い顔のファリスに対して、鴉の表情はもの哀しげな表情をしていた。
「永い時を生きるということが、いかに辛いことか……私は新たな罪を犯してしまった」
「何言ってんの? 鴉だって生きてきたんだから、あたしだって平気。だって、これからあたしは絶対鴉の側を離れないからね」
〈アルファ〉が崩れる。〈アルファ〉の機体を構成していた物質が、灰と化していく。




