機械仕掛けの神(20)
空を飛び移動し続ける〈アルファ〉の身体から何かが地上に降って来た。
地上に降り立ったそれは女の顔を持っている。
女は妖艶な上半身をさらし、豊かな乳房を揉みしだく。濡れた唇から熱い吐息が漏れる。紅い液体を口から滴らせる女は、舌を上手に使って口の周りについた液体を拭い取った。
鴉の目の前にいる女の上半身は女体であったが、下半身は蜘蛛のようである。そして、その妖艶な顔はまさしく千歳のものだった。
巨大蜘蛛の怪物と化している千歳は近くに止まっていた車の中で震える家族に狙いを定めた。
千歳は車の窓を打ち破り、運転席にいた中年男を車外に引きずり出し、その頭から喰らい付いた。
道路が血に染まり、車内に乗っている中年女性は失神し、男の子は目を大きく開けたまま固まり、女の子は悲鳴をあげながら泣きじゃくった。
次々と千歳は車の中に乗っていた人間を喰らっていき、最後に残した女の子を車外に引きずり出した。
この場に駆けつけた鴉は見た。怪物と化した千歳の周りには血を吸われ、挙句の果てに身体の一部を喰われた人間たちが転がっていた。凄惨な光景にまともな精神を持つ者なら目を覆いたくなる。
鴉が深く呟いた。
「……エンシュか」
千歳は幼い女の子の顔を舌で舐めると頭から喰らい付こうとした。
黒影が風に乗る。次の瞬間には女の子は鴉の胸に抱かれ、千歳から遠く離れた場所にいた。
「早く逃げろ」
女の子は震えながら瞬きを何度もして叫びながら走って行った。それを千歳がすぐに追おうとする。
「飲み足りないわ、もっと、もっとわたしの聖水を頂戴」
声をあげる千歳の前に黒い影が立ち塞がる。
「行かせはしない」
「嗚呼、その声、姿は誰かしら……、遠い昔に見た顔……、もう頭が蕩けてしまってわからないわ」
恍惚の表情をした千歳が虚ろな目で鴉を見ている。
鴉は遠い記憶を手繰り寄せた。楽園での日々を思い出す。そこに千歳の顔があった。
「確かリリスと言ったな。大量の地人を虐殺して血を貪り、挙句の果てには天人の血も飲んだ。そして、お前は堕とされた」
天人の血は他の生物にとっては有毒でも、堕天者にとっては最高の美酒であり、地人の聖水を飲んだ時よりも格段の力を得ることができると云う。
「そうよ、わたしは地上に堕とされるのが嫌で抵抗したのでも、あなたは許さなかった。最終的にわたしを地上に堕としたのは、あなたよ――輝ける称号をお持ちのアズェル様」
千歳の口調は皮肉たっぷりだった。
鴉は表情も変えず口を開かない。彼はただそこに立っているだけだった。
天から稲妻が地に落ちる。鴉がここでこうしている間にも〈アルファ〉は街を――世界を滅ぼそうとしている。
漆黒の髪が風に揺られ、美しき鴉の顔は愁いを帯びていた。彼の瞳は千歳を映している。しかし、彼の見ているものは全ての天人と呼ばれる生き物だった。
千歳は六本の足を巧みに動かして鴉に近づき、自分の顔を鴉の眼前まで持って行った。
「もうわたしは成れの果てになってしまうわ。醜く変わってしまう。あなたの美しい顔が憎い、憎い、憎い」
「おまえの核が嘆いている。エンシュと成れば消滅はすぐそこだ」
微動だにしない鴉の瞳は千歳の双眸を見つめていた。
静かに言う鴉が千歳は腹立たしかった。
「楽園にいた頃はあなたに嫉妬したものよ。でもね、あなたもわたしと同じ堕天者。嗚呼、嬉しくて堪らない。あなたの全てに嫉妬はしていたけれど、わたしはあなたに恋い焦がれていた……嗚呼、もう駄目よ、あなたに貪りつきたい」
自分の胸を鷲掴みにした千歳の顔が崩れてく。妖艶な美しさを持っていた顔が醜くなっていく。口が裂け、目玉が飛び出し、舌がだらりと伸びる。
長く伸びた舌が鴉の顔を舐めようとする。妖々と動く舌は鴉の拳に収まり強く握り締められた。
千歳は自ら頭を後ろに引いて舌を引き千切った。鮮血が口からぼとぼとと零れ落ちる。
ジャンプをしながら間合いを取る千歳の口から、何メートルにも伸びた舌が鞭のようにしり出る。
残像を残し何本にも見える舌の間を潜り抜け、鴉は速攻を決める。巻き起こる風に血の臭いが混ざる。
黒い影が巨大な翼を広げたのを千歳は見た。闇の中に浮かぶ蒼白い顔、血のように紅い唇。鴉の顔は無表情であったが、それが千歳の胸を強く締め上げた。
鋭い爪に牙を向く千歳。黒衣がはためいた。
鮮血が迸る。鴉の肩には骨をも砕く口がかぶり付いていた。
鴉の爪が動く。彼の爪は千歳の喉元に突き刺さっていた。その爪を横に払うと同時に千歳の首が天に舞う。
地面に落ちた首は尚も引き千切った鴉の肉を粗食していた。
「美味しいは、あなたの肉は今までわたしが喰らってあげた誰のものよりも美味しい。クセになりそうよ」
地面に落ちている頭がそう言い終わると、頭のない首から赤黒い触手が伸びて、地面に落ちている頭を拾い上げると元の位置に戻した。
冷たい双眸で鴉は千歳を見つめていた。
「おまえが堕とされた理由が実感できた」
「あなたも堕ちたのよ。天人の肉を喰らってみなさい、とても甘美な味があるわよ」
「天人は天人の肉を喰らい血を飲むこと禁忌とする」
「でも、わたしたちは堕天者よ。欲望の赴くままに生きるのよ」
鴉は千歳の言葉を聞きながら別のことを考えていた。
「私たちは不死ではなくなった。だから生きているのだな……もとより死のないものには『生きる』という言葉は必要ない」
儚げな鴉の瞳が天に吸い込まれる。その気を緩めた一瞬の隙であった。千歳の身体が鴉に飛び掛かる。
黒衣が大鎌と化す。鴉は未だに天を見つめている。千歳は不意を衝いたつもりが、不意を衝かれた。
六本の足を全て斬り飛ばされた千歳に鴉が視線を落とす。
「この黒衣は意思を持ち合わせている。黒衣は私を死なせまいとする――それが私への罰だ」
すぐさま新たに足を生やした千歳が鴉に牙を向ける。その瞳は色を失いつつある――血が足りない。
体内の血が極端に失われると天人の身体は変異し、無我夢中で血を求めるようになる。それがエンシュと呼ばれるもの。エンシュは天人の自己防衛本能であり、死への危険信号である。
鴉の爪を巧みにジャンプして躱した千歳は上空から蜘蛛の糸を発射した。糸は鴉の四肢を捕らえ、鴉の動きを完全に封じることに成功した。
アスファルトの地面に磔にされた鴉は身体を動かそうとするが、糸はまるで鋼のごとく硬いものだった。
上空から飛来する千歳は全身で鴉に圧し掛かった。鴉の上に載る千歳は、自分の身体を鴉の身体に擦り付けながら、長い舌で鴉の顔を汚した。
口からだらだらと零れる唾液が鴉の顔を覆う。鴉は無表情だった。そのことが千歳に酷い苛立ちを覚えさせる。
「どうして、あなたはこれからわたしに喰われるのよ。脅えなさい、恐怖に顔を歪めなさいよ!」
「黒衣は意思を持つ、それゆえに私の指示を聞かぬことがある。黒衣は私を死なせないとするが、少々意地が悪い」
「何が言いたいのよ!」
数秒の間を置いて千歳の口が開けられる。その口からは唾液に変わって血が落ちた。
鴉の身体から伸びた黒い幾本もの槍が千歳の身体を貫いていた。
糸から開放された鴉は素早く立ち上がった。
千歳の身体はすでに再生力を失いつつあり、身体全体から血が吹き出ている。それでも千歳はまだ動く。
「まだよ、まだわたしの核は生きているわ。もっと上手に突かなきゃ、わたしはやれないわよ」
「いや、私が止めを刺すまでもないようだ」
突然、千歳の顔が苦痛に歪む。鴉には聴こえていた――千歳の核に皹が入ったのを。千歳はもう長くない。




