機械仕掛けの神(14)
底なし沼の大地。紅蓮の炎でできた雲。稲光の走る黒い空。
闇色の翼を大きく広げ、ゾルテは出口を探して夢幻の世界を彷徨っていた。
泣き叫ぶ風がゾルテの耳を腐食するが、驚異的な再生力によって元に戻る。しかし、痛みはある。すぐに再生するといっても、痛みは人間と同じように感じるのだ。
ゾルテの身体には大量の蟲が群がっていた。黒い蟲が蠢いている。振り払っても、振り払っても、すぐにゾルテの身体を覆ってしまい、やがてゾルテは振り払うことを止めた。
蟲はゾルテの肉を喰らい、内臓を喰らう。それでもゾルテは死ぬことなく、ただ苦痛に耐えるのみであった。
底なしの沼から次々と黒い触手が現れ、それはゾルテの行く手を塞いだ。黒い触手は十メートル以上の長さがあり、太さは一メートルほどだった。天を貫く先端には楕円の穴があり、そこにはギザギザした歯が並んでいる。
黒い触手に囲まれたゾルテは大きく両腕を広げた。
「滅す!」
ゾルテの言葉とともに轟々と黒い風が巻き起こり、黒い触手が沼から引き抜かれ、ゾルテの周りで竜巻となって回った。
回り続ける黒い触手は身体を引き千切られ、黒と赤の破片が上空に舞い上がり、地面に落ちた。
「余を誰と心得る! このような空間に閉じ込めおって、許さぬぞ、決して許さぬ!」
ゾルテは炎で身を焦がしながら飛び続けた。
どこまでもどこまでも広がる空間。果てなどあるのだろうか?
沼から時折、炎が吹き上げ、遥か遠くからは呻き声が聞こえてくる。
陽の光はなく、人間ならば凍え死ぬ寒さがゾルテを襲う。
天などないのに天から煌く星が降り注いでくる。
針に覆われた幾つもの星がゾルテに直撃する。ゾルテは避けることをしなかった。数の多さから避けられないことは判りきっていたし、避ける気すら起きなかった。
ゾルテは傷つき、大量の血を流す。身体に取り付いた蟲たちもいる。これでは再生のスピードも遅くなっていく。ゾルテは骨になろうとも、空を飛翔し続けた。
多くの血を失ったことで、ゾルテは急激な渇きに襲われる。しかし、ここには聖水などなく、永遠に渇欲が付きまとい、喉を掻き毟りたくなる。
そして、ついにゾルテは壁に到達した。
光り輝く門が見える。その傍らには何者かが立っていた。
ゾルテはすぐさま門に近づき、そこいる者を見定めた。
門の傍らにいたのは女性であった。女性と言っても、姿は人ではなかった。
上半身は女体であったが、下半身は鱗に覆われて醜く、とぐろを巻いたそれはまさに蛇そのものであった。
ゾルテはこの者は何者なのかと訝った。
「凄惨な姿をした異形の者よ、貴様は何者だ。門番ならば余に道を開けよ、さもなくば灰と化して塵となる運命を負うことになるぞ!」
大胆な態度でゾルテは異形の者に詰め寄るが、異形者とて負けじと冷然たる態度でゾルテを睨みつけた。
「何人たりともこの門をお通しするわけにはいきません――ルシエ」
いと高き楽園にいた頃のゾルテの名――それがルシエ。
「なぜ余の名を知っている!?」
「まさか、貴方までもがここに投獄されようとは思いもしませんでした。わたくしをお忘れですかルシエ。無理もありません、今のわたくしはこんなにも醜い姿に成り果ててしまいました」
「まさか、貴女は!」
異形の者の微笑みは崇高さを感じさせた。
「やっとおわかりになられましたか。楽園での長閑な日々が懐かしい。しかし、アズェル様が『鴉』の烙印を押されてしまってから、全ては変わってしまった」
「貴女は鴉が地上に堕とされた後、審問官たちに抗議をして貴女も地上に堕とされてしまったと聞いていた」
「確かにわたくしは審問官に抗議いたしました。ですが、わたくしに与えられた罰は地上に堕ちることではなく、ここの門番をすることだったのです」
ゾルテは目の前にいる嘗ては美しき天人だった者を見て酷く悲しんだ。
罪を犯した者は地上に堕とされ、大罪を犯した者は〈裁きの門〉の審判を受ける。それ以外の罰はないはずだった。では、なぜこの門番はここにいる?
ゾルテは肩を大きく下げて深くうなだれた。
「天は何をしたいのだ。やはり、天の真意は天人が思っている理想とは違うようだ。余も楽園では崇高な地位にいた。しかし、それでも偽りばかりを教えられてきた。もはや、天は信じられん。だからこそ、余は余の理想のために地上に堕ちた」
「ルシエは自らの意思で地上に堕ちたのですか、なぜ?」
「地上を這って生きる者、それが第二のヒトである地人」だ。嘗て楽園に叛逆者が現れた時、そ奴らは新しく創造された地上とこの空間に閉じ込められた。そして、神と呼ばれる存在は他の天人たちにも罰として、『渇き』を与えた。自然の摂理から外れた存在であった天人が食物連鎖に組み込まれたのだ。ノエルの聖水を糧として生きている天人だが、生物の頂点に立つのは我ら天人だと信じていたしかし、違うらしい」
「貴方は神に刃向かう気なのですか?」
「余は神など信じてはおらぬ。天は体制であり、その体制によって楽園の秩序は守られている。しかし、その体制は余の望むものではないようだ。天の体制はノエルこそを――いや、ノエルの中から生まれる第三のヒトこそを真の支配者として世界に君臨させる気なのだろう。全ては余の勘に過ぎぬが、余と同じ考えを持つ者が多くいることも事実」
ゾルテは自分よりも下等だと思っていた存在に支配されることが屈辱であった。ノエルは天人の糧でしかない、とゾルテは今でも思っている。そのことを地上でのうのうと生きているノエルたちに思い知らせねばならない。
楽園で聖水が創られるようになってからか、太古に比べてノエルの数は増殖している。地上を支配しているのは他でもないノエルだ。そのこともゾルテは気に喰わなかった。
天人の絶対数は増えることがない。その代わりに『死』というものも最初はなかった。しかし、楽園で叛逆者が現れた後、天人に『死』が与えられてからというもの、天人の数は徐々に減少している。幾星霜を経るかはわからないが、いつか天人はひとりもいなくなる時代が来るだろう。
ゾルテは神を否定するが、神を憎んでいた。
「神がいたとしても、その存在は全知全能でもなけらば善なるものでもない。それを貴女は信じ敬うというのか?」
「神はわたくしたちをお創りになられた」
「だから何だというのだ、そのような証拠はあるまい。余は余の意思を持っている。わかったらその門を開けてくれ」
「それはできません」
「なぜだ!」
ゾルテは憤怒した。しかし、開けられないというのは事実であった。
「わたくしには門を開ける術がないのです。この門には鍵がない」
「貴女は門番ではないのか?」
「わたくしは門番です。見えない鎖で繋がれ、門から離れることが許されない。わたくしは貴方と違いここに棲むモノたちに襲われることはないのです」
門番はゾルテに群がる蟲を見てそう言った。確かに門番には一匹たりとも蟲が寄り付いていない。そして、門番の役目は門を守ることではなかった。
「わたくしの役目はこの空間を見つめ続け、ここに囚われた全てのモノたちを見つめ続け、哀しみにくれることなのです。ですから、ルシエが門を通りたいと言うのでしたら、わたくしは止めません。しかし、門は一方通行であり、向こう側からしか開けることしかできない。嘘だと思うのならばお試しください」
ゾルテは門番に言われるままに門の前に立ち力を込めて門を打ち破ろうとした。
衝撃とともに世界が揺れ、ゾルテを覆っていた蟲は吹き飛ばされ、雷鳴が轟いた。
「クッ……ググ……」
ゾルテの顔が苦悩に歪む。彼の両腕は吹き飛んだが、門はびくともしなかった。
門には鍵穴はなく、ゾルテを拒み。門番はいるが、それは門を守っているわけではない。門は向こう側からしか開くことはない。
ゾルテはその場に呆然と立ち尽くした。彼には門を開ける術がなかった。
「余はここで死ぬことも許されず、永遠に囚われたままなのか……?」
「多くの者が、この門を訪れました。しかし、何人に対しても門は開くことを拒みました」
「ならば、余を殺してくれ。天人は自ら死ぬことができないように、魂にそのことが刻まれているのを貴女も知っておるであろう」
「それはわたくしにはできません。〈裁きの門〉の中では天人を殺めることができぬように魂に刻まれるのです」
力を失ったゾルテは落下した。
ゾルテの身体は底なしの沼の中に飛び込み、沈みゆく。
堕ちても堕ちても底はない。
沼の中にはゾルテを喰らう魚のようなモノがいた。魚はゾルテの核には決して手を出さない。ゾルテを殺してはくれないのだ。
強烈な光が沼に落下し、汚泥を吹き飛ばすとともに上に伸びる光の道をつくり出した。
堕ちていくゾルテの腕を何者かが掴んだ。
「我が子よ、お前にはまだやるべきことがある」
光に包まれた存在がゾルテの身体を沼の底から引き上げる。
ゾルテは自分を助けた者を睨みつけた。
「なぜ余を助けるのだ。貴様は何者だ!」
「余はルシエル。お前の元となった主だ」
「主とはどういうことだ、貴様は神だとでもいうのか!?」
「余は余でしかない。お前は余の身体から生まれた、云わば余の分身である」
「わからぬ、貴様の言っていることは余には理解できん」
「天人の祖となった者とでも言っておこう。最初の者である余たちは今の天人よりも多くの能力を持つのだ。天人の多くは最初の者たちの複製でしかなく、その能力は最初の者に比べ劣る」
沼を抜けた先では門番が顔を手で覆い、ルシエルに恐れおののいていた。
「なぜ門が開かれたのですか!? 門を開いた貴方はいったい何者なのですか?」
門は開かれていた。門の外から大量の光がこの空間に差し込み、遥か遠くまで照らし輝かせる。その光を見た者たちが軍勢となって押し寄せてくる。
外に出るチャンスが訪れたことを知る罪人たちは我先にと門を目指す。
ルシエルが鼻で笑った。
「まだその時ではない、救世主が現れるまで貴様らにはここいいてもらおう」
身体の前に突き出されたルシエルの手から光の壁が現れた。現れた壁の高さは永遠を思わせ、壁は光速で動き出し全ての罪人を押し流した。
ゾルテは理解できなかった。そして、悔しかった。自分は誰かの掌の上で踊らされているのでは、と考えたのだ
「放せ、余を放すのだ!」
叫ぶゾルテに対してルシエルはただ不適な笑みを浮かべるだけだった。
「放せというのか、愚か者が。ここに永遠に囚われている気か? 余と来るがよい」
ルシエルはゾルテの腕を強引に引き、開かれた門から発せられる光の中に飛び込んだ。
二人が門に飛び込んですぐに、門は重々しい音を立てながら閉じられた。
門番は顔を覆って泣き叫んだ。恐ろしいことが起きた。未だ嘗てないことが起こってしまった。それは何かが起こる前兆としか考えられなかった。
〈裁きの門〉を開くことができる者は限られているはず。門を開くことができる者は天人を罰する立場にある者のはず。では、なぜにゾルテを外に連れ出すようなまねをした。そもそも、〈裁きの門〉を開けることのできる者でさえ、その中に入ることはできないはずであり、中に入れたとしても外に出ることはできないはずであった。