とある兄のこぼれ話
日本の首都・東京のほぼ中央にある公園__日比谷公園は若葉の季節を迎えていた。樹々は美しい新緑を讃えている。そっと若葉を揺らす風は心地よく吹き抜け、晴れ渡る空が『本日は散策日和』と告げていた。
そんな陽気に誘われた母親に連れられて少年は日比谷公園に来ている。母親は息子そっちのけ第二広場に植栽されている薔薇に夢中だ。少年も母親に着いて一緒に見て回っていたが、母程楽しめず自然と視線は思い思い公園で過ごしている住人に向けられた。しわくちゃの老人とそれに付き添っている中年女性は一休みなのだろう。ベンチに腰を下ろしている。華やかなワンピースに身を包んでいる少女と楽し気に喋っている茶髪の青年は手を繋いでいる。薄青の作業着を来てタオルを首に巻いた男性が花壇の前にしゃがみ込んで手入れに勤しんでいた。薄茶のフワフワした子犬を連れた親子連れが少年の傍を通り抜けて、その背中を見送る。その中でも少年の目を惹いたのは、一人の青年だった。
青みがかった黒髪の青年は少年の拳よりも厚い臙脂色の本を膝に乗せて、文章を追っている。控え目に言っても『じっと』と形容できるくらいの視線に青年は気付いたらしく顔を上げた。顔は少年の母親が入れあげているアイドルよりも彫りが深く整っている。しかしいざ口に出してこの青年を説明しようにも、ただ綺麗な青年としか言い様がない。そこにいるのに、次の瞬間には少年の手の平から印象が抜け落ちる。
「こんにちわ」
「……こんにちわ」
青年のやわらかな語調に少年は少し緊張を解きつつ返した。青年はベンチ__中央で区切られているタイプだ__に乗せていた小型の革のスーツケースを自身の足元に置いた。少年は会釈をしつつ青年の隣に腰を掛けた。いざ座ってみれば、少年は自分が思っていたよりも、疲れていたことに気付いた。木の堅い背もたれに身を預け、ふーっと大きく生きを吐き出す。そうすれば大分力が抜ける。
少年は隣に座る青年に視線を向けた。スカイブルーのYシャツにダークブルーのジーパンという簡素な恰好をしており、大学生くらいの印象を見る者に与える。しかしそれよりも、少年が気になったのは、『本』だ。
ちょっとした図書館の純文学の所においていそうなハードタイプのそれは、少年が普段読んでいるものに比べれば大分厚く、文字だって細かいし、子供が心惹かれそうな挿絵もなさそうだ。それなのに、少年は気なった。気になって仕方たがなかった。
「どうかしたんだい?」
「え? あの……」
「この本が気になりますか?」
そうやわらかく尋ねられ、少年は肯う。青年は読んでいる途中に指を挟み込んだまま、そっと表紙を少年の前に出した。臙脂色の表紙に緑色の文字で『流転の異邦人』とだけ記されている。そこには出版社も著者の名前もない。
「『流転の異邦人』と言いまして、簡単に言えば何度も生まれ変わり苦悩して生きる意味を探す迷子の物語です」
「うまれかわる?」
「そうです。分かりますか?」
少年は小首を傾げるばかり。あまり分かっていないようだ。それを察した青年は朗々と語る。
何度も生まれては死んでまた生まれて来る物語を。病で長生きをできない子供の母と永久の別れをする子供の話。奴隷として他者に利用される話。運命に抗おうとする剣士の話。青年から語られるきらきらとした物語の欠片に少年は聴き入った。時に周りに騙され、謗られ、厭われても、己の道を歩み続ける少年は、終に神の前へと手が届く____。
話を割るように遠くから子供の名前を呼ぶ声が響いてる声を聞きとがめた青年は口を閉ざした。ほどなくして少年にもその声が届く。声の主は少年の母親だ。少年は青年から視線を外して、母親に呼びかけた。
「りーーーん! りん! もう、どこいっちゃったの!?」
「おかーさん!! こっち、こっち!」
「あぁ、もう勝手に行っちゃだめじゃない」
そっちが勝手にしたんじゃないか、と少年は思ったが幼くとも空気が読めるタイプで口を慎んだ。母親の柔らかい腕に抱きつかれて、小さくごめんなさいと少年は謝った。母を泣かせるものならば鬼羅刹のようになる父親がいるのだ。ましてや、非は少年自身にあるのだから。
「こんな所で一人でどうしたの?」
「一人じゃないよ。お兄さんと____え?」
凛は隣にいた青年を紹介しようとするも、気がつくとその青年はいなかった。まるで、幽霊みたいにするりと消え失せていた。さっきまで確かにいたと言い募ろうにも、青年の年も体格も髪も目も何一つ少年の中で像を結べない。だから仕方なく口を紡ぐしかなかった。
唯一明確に少年が思い出せたのは、青年が持っていた一冊の本。臙脂色の表紙に緑色の文字で『流転の異邦人』と印刷された本だけだった。
◇
「それで?」
「それでおしまい」
「なんだよ全然怖くねーじゃん」
「体験談だけで幽霊話をやるもんじゃないでしょ」
ぶーすか膨れっ面で文句を垂れているのは少年の弟の蓮だ。兄のベットを占領しながら、暇だからと話をせがんで来たのだ。おまけにリクエストは夏にちなんで怪談話を指定して来た。
霊感が強いだのなんだの言うが、少年自身そう不思議な体験をしている訳ではない。少年自身は世間一般で言う零感に近しい。よってとっておきと言えるのが、幼い日の青年との出会いだ。あの青年にそれから二度と出会うことはなかったが、後日談を付け加えるべく口を開いた。。
「それでさぁ、本の名前だけ覚えているって言ったじゃん」
「えーとなんだっけ」
「『流転の異邦人』だよ」
「ソレがどうしたの?」
「そんな本ないんだよね」
「え」
「ネットとかで調べてみたんだけど、見つかんなかったんだよね」
あの後、物語の続きを気になった少年はその本を探した。まずは小学校の図書室。その次は家の近所の図書館。もう少し年を重ねてからは、インターネットを利用した。しかし一冊も検索に引っかかることもなかったのだ。
「タイトル覚え間違えてたんじゃないの」
「いや、それは絶対ない」
いくら年を重ねてもあの本を忘れたと事がなかった。何度も思い出し、時には青年が語ってくれた物語の内容で探してみた事もあった。類似はしてもそのものは一つもなかった。
断定した少年に訝し気に弟は眉を寄せた。
「じゃー、自主製作だったとか?」
「うーん。でも、本結構立派だったんだよね」
それにしては結構な厚さがあったから、と呟いた。弟は少年の話に既に飽きてしまったのか、ごそごそと棚の漫画を漁り始めた。それを少年は咎める事無く、見守る。
ただ一つだけ、少年は弟に言えないでいることがある。あの青年の姿を見失う一瞬、耳元でこう、呟いていたのだ。
『____そしてこれは、貴方の弟の物語』
本来なら笑い飛ばして、そんなことある筈無い、と切り捨てる所だ。なのになぜか、少年はそれが出来なかった。耳にこびり付いて、忘れることが出来ない。
(真実、そうだとしたらどうしよう)
あの青年は『転生の物語』だと少年に言った。『転生』ということはつまりは、弟が死ぬと言う事なのだろうか。あの『物語』に救いはあるのだろうか。
疑問は溢れるけれど、確証のない戯言で弟を不安にさせるのも、と思い少年は語られる事はなかった。
弟が、失われても____。