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はつかねずみの小説家シリーズ

はつかねずみの結婚式

作者: 酒田青

 1


 はつかねずみの小説家、桜の木ピイは、最近いつも白い顔をほころばせている。ピイを見ると他のひとたちも笑顔になる。

 今日もピイは微笑みながらかごを持って出かけた。夕食の材料を買いに。今夜はスパイスの効いたチーズ・カレーだ。きっと彼も喜んでくれるだろう。ピイはそう思って目を細める。

「すみません。人参とじゃがいもをください」

 春の茂みの中、大きな紋白蝶が空を舞っている下で、ピイは八百屋に声をかけた。巨大であったであろう野菜を小さく切ったものが所狭しと並べられている店の中、不機嫌そうにそろばんを弾いていた茶色い毛の店主は、ピイを見るなりにっこり笑った。

「ピイちゃん、今夜はチーズ・カレーだね」

「どうしてわかるんですか?」

 ピイが驚いた顔で尋ねる。店主は得意顔でうなずく。

「人参とじゃがいもで奴が好きなものを作るとしたら、そりゃあチーズ・カレーだろう?」

「そうね、それもそうだわ」

 ピイが笑うと、店主は店の中を振り返り、灰色の毛をしたおかみさんに笑いかけた。おかみさんはとうに笑っている。

「ピイちゃん、楽しみだね」

 おかみさんが笑いかけると、ピイは幸せそうに、ええ、と答えた。

 八百屋を離れて少し歩く。道行くひとびとが皆ピイに笑いかけてくる。ピイはそれにいちいち応える。スパイス屋に着くと、白地にこげ茶のぶち模様のねずみがピイを見て笑った。

「チーズ・カレーか」

「あら、どうして皆わかるのかしら」

 赤や黄色の派手な粉の入った壜が整然と並べられた店内をうろうろしていると、スパイス屋の店主がやはりメニューを言い当てたので、ピイは面白くなってころころ笑った。店主は人のよさそうな顔をますますとろけさせて、

「スパイスの選び方でわかるよ。あいつが好きなチーズ・カレーだって」

 と言う。ピイはにこにこ笑って、そうです、と応える。

 店を出て隣のチーズ屋に入る。立派な体格のおかみさんが、一人で切り盛りしている店だ。丸い大きなチーズが棚に並んだのを背景にして、おかみさんは無表情にピイを見る。ピイは微笑んでいる。おかみさんはピイの言葉を聞くまでもなく、黄色いチーズを棚からカウンターに持ってくる。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

 ピイが答えると、おかみさんはにっこり笑う。

 どうしてこうまで皆笑みを湛えているのか。答えは簡単だ。ピイはもうすぐ黒ねずみのシムリと結婚するのだ。

 幸せだわ、とピイは思った。皆が祝福してくれ、皆が微笑みかけてくれる。これ以上の幸せはもうないのではないかと思うくらい。

 早くシムリに会いたい。

 ピイは手に提げたかごを覗き込んだ。


 鏡台の前で、身支度をする。今日は桃色の、丸襟になったワンピースを着ている。靴は黒くてかかとの低い革靴。ひげに塗った色は同じ桃色。ピイは鏡に映った自分を黒い眼でじっと見つめ、しばらくしてちょっと笑った。これでよし。

 家の中はカレーの匂いで一杯になっている。ピイは枠が赤い窓を開いた。春になったとはいえ、この時間になると少し外は暗い。人気のない、れんげの咲き誇る森の中に家はあるから、住み始めたとき、夜は少し怖くなった。今は大分大人になって、夜の森も美しいと感じる。

 シムリが来るまで、小説を読み返そうと思う。ピイは机に向かい、書きかけの小説を読む。ふと思いついて本棚を振り返る。

 『百年の旅』シリーズは、怯えた子供だった一昨年の冬に書き始めてからもう巻数は九十を超えた。内容は、とある旅人の奇想天外な冒険譚。様々なねずみたちに出会い、別れ、流れていく主人公は、男性だけれどどこかピイに似ている。孤独癖、内気。彼はいつも一人で旅をする。彼が出会う事件は、彼の見る悪夢そのもの。

 例えば海底のあぶくの街に着く。そこでは皆があぶくでできた街の外壁と天井を守ることだけに熱心になり、街自体は荒廃している。彼は街のひとびとに注意を与える。移住するべきだと。しかし彼の意見は無視され、その上少しの不注意で街は崩壊する。ひとびとは海底に張り付いていた空気から離れては浮かんでいくあぶくの中に慌てて入り、逃げていく。彼は一人海底に残り、最後のあぶくに入って彼らとは違う方向へ浮かんでいく。

 また、追いかけてくる塔に出会う。ある街に入ってから、どこに行っても視界に入ってくるその石造りの塔は、彼の影法師に似ている。どこまでもどこまでも追いかけてくる塔から、彼は逃げる。高い建造物の陰に隠れたり、窓のない建物に入ったりする。しかし、どこに逃げても、目の前に、隠れていた窓の向こうに、塔は現れる。彼はその塔の最上階にある窓に、自分に似た誰かを見出す。それに怯えた彼は、親しくしてくれたひとびとを置いて、街から逃げ出す。

 今回書いているのも、そのような彼の旅の物語だ。ピイは最近、小説を書くペンの動きに鈍りを感じる。これでいいのだろうか。そんな気がしてくる。

 主人公は誰に出会っても最後には拒絶する。そして旅をすることに執着して定住しない。孤独を愛する彼。彼をこれほどに長い間描けていたのは彼がピイの分身だったからだ。

 今はどうだろう。ピイは相変わらず内気で、一人でいるのも平気だ。けれど、彼とは違う。最近になってそういう気分が特に強くなってきた。小説家が自分を書き続けるのは滑稽だ。そんな気もしてくる。

「ピイ」

 思い悩んでいると、低い、自分を呼ぶ声を聞いた。シムリだ。そう思って振り返ると、満面の笑みを浮かべた黒い顔がすぐそばにあった。今日もやはり作業着を着ている。最近シムリは忙しいのだ。家具職人である彼は、最近は師匠であるグイルから独立して、工房を持っている。注文がひっきりなしに来るのも忙しさの原因だが、最近はそれだけではなさそうだ。

「シムリ。呼び鈴を鳴らしてくれればよかったのに」

 ピイも笑って立ち上がると、シムリと向かい合わせに立った。シムリは背が高い。ピイは少しあごを上げて、彼の、ピイと同じ黒い色の目を見る。

「呼び鈴、鳴らしたよ。ついでに言うとノックもした。けど、君が入っていいって言ってくれないから勝手に入った」

 シムリはけらけら笑う。ピイは、

「ごめんなさい。小説に夢中になっていたから」

 と、申し訳なさに思わず手遊びをする。

「平気平気。ぼくだって仕事に夢中になると、誰の声も聞こえなくなることなんてよくあるからね」

 シムリは笑いながらピイの手をほどいて自分の手とつなぎ、桜材のテーブルに向けて引っ張っていく。

「今日はチーズ・カレーだ。ピイが作るチーズ・カレーはおいしいから楽しみだよ」

「匂いでわかるわね」

 ピイはくすくす笑いながら台所に入り、小さめの鍋に入ったカレーを温めなおす。その間にシムリは蒸しあがった米を二つの大きな皿に盛る。

「君は少食だから、少なめにしないとね」

「シムリは大食いだから、山盛りにしないと」

 ピイは色鮮やかなサラダを器に入れ、テーブルに運びながら応える。シムリは、

「今日はたくさん働いたからいつもよりもっと多くしないとね」

 と言う。台所に戻ってきたピイは、その皿を見て驚く。

「本当に大盛りなのね。そんなに働いたの?」

「うん。カレーを注ぐのは君の仕事だよ」

 ピイはおたまじゃくしを渡され、独特の匂いのカレーを米にかける。その間にシムリがハーブティーを用意する。

 テーブルに食事の準備が整うと、二人はいただきますを言って食べ始めた。

「おいしいね。いつもの味だ」

「ねえ、シムリ。忙しいのね。体は大丈夫?」

「大丈夫だよ。むしろ気力に満ちていていい気分だ」

「注文がそんなに来るの?」

「ありがたいことに、来るね。親方のお陰だ」

「グイルさんの力だけじゃないわ。あなたの実力のほうが勝ってるわよ」

「ありがとう、ピイ。でもね、まだまだ親方の名声のほうが強いんだ。最近よく思うよ。注文してくれるお客さんは、ぼくを『有名なグイルの弟子』だから信用が置けるって言う人が多いんだよ」

「でも……」

「大丈夫。ぼくはやれるよ」

「どういうこと?」

「秘密」

 ピイは首をかしげてシムリを見た。シムリはカレーをすくいながら、にっとピイに笑いかけて、別の話をしだした。

「そういえば、ドレス、いつ見に行こうか」

「わたしはいつでもいいわ」

「じゃあ三日後」

「三日後はイリアとも行くの。そのあと合流しましょうね」

「イリアと? ドレス見に?」

「ええ」

「ぼくと見る前に決めてしまわないでよ」

「大丈夫よ」

 ピイは笑った。シムリはぼんやりとその顔を見つめて、つぶやく。

「何だか信じられないよ。君とぼくが結婚するなんてさ」

「わたしも信じられない。わたしたち、本当に子供だったものね。あなたが見習い家具職人、わたしが駆け出しの小説家で」

「初めは君のこと、大好きな小説を書くすごい小説家だとしか思ってなかったからなあ」

「そうね。あなたそんな感じだった」

「それからぼくは君のこといつの間に好きになって」

「わたしも同じよ。いつの間に好きになったの」

「大好きな君がぼくの奥さんになるんだよ。信じられない」

 ピイは顔を熱くする。シムリの正直さは子供のときから相変わらずだ。

「わたしも信じられない。夢じゃないかって、時々思うの」

「ぼくら、どうなるのかなあ」

「どうって?」

「うーん。何か変わるのかな」

「変わるのかしら」

「変わりたくないから、君はそのままでいてね。ぼくも変わらない」

 シムリは笑った。ピイも笑った。ピイは一瞬だけ、怖くなった。


「それじゃあ、これはどう?」

「これはレースが多すぎるわ。わたしに似合わないと思うの」

「これは?」

「襟が開きすぎてるわ。これだと派手なネックレスをかけなきゃいけない」

「どんなのがいいの?」

 背の高い肌色ねずみのイリアが、首をかしげてゆったりと聞いた。ピイは困り果てた顔でドレスを見て、

「どんなのがいいのかしら」

 とつぶやいた。ここは街のドレス専門店。ドレスを売るだけでなく、貸し出しをしてくれる店だ。壁際にずらりと白いドレスが並ぶこの一角は、ウェディングドレスだけが置いてある。

「永久に決まらないわよ、このままじゃ」

「イリアはどんなのを着たかしら。確かシンプルな、細いシルエットのドレスだったわね。素敵だった」

「人のドレスを参考にしてる場合じゃないわよ。あなたのドレスでしょう?」

「だって、全然イメージができないんだもの」

 イリアが少しため息をついて笑う。

「いいわ。シムリが来てから決めればいいんだもの」

「そうだけど……」

「あなた、こういう風に自分のイメージが掴めなくなるのは久しぶりじゃない?」

「え?」

「昔は自分のことが見えなくて、いつもおろおろしてたわ、あなた。他人の目を気にしてばかり。でも、いつの間にかそうじゃなくなったでしょう?」

「そうね。そうかもしれない」

「大人になったのね。でも、どうしてまたそうなってしまうの? 肝心の結婚式なのに」

「そうね……」

「もしかして、結婚が怖い?」

 ピイははっとしてイリアを見た。イリアは穏やかな表情でピイを見ている。

「わたしは」

「やだ、ピイじゃない」

 聞き覚えのある二重唱に、ピイは驚いて振り向いた。双子の姉妹、マリイとミリイだ。白地に茶色いぶち模様、つばの広い帽子をかぶっている。ピイは懐かしくなる。しばらく会っていなかった二人だ。今までどうしていたのだろう。

「二人とも、何しに来たの?」

「何しに来たの、じゃないわよ」

 ミリイが気の立った表情でピイに噛み付く。

「わたしはマリイに付き合って来ただけ」

「あらミリイ」

 今度はマリイが落ち着いた顔で声を上げる。

「あなたもドレスを見に来たんでしょう?」

「どうして?」

 ピイが吃驚して思わずそう言うと、マリイは以前とは全く違った態度でこう話した。

「わたしたち、二人とも結婚するのよ。お父様が決めた相手だけれど、素敵なひとたち。お相手はやっぱり双子で、背が高くて、ハンサムで、優しいの。悪いわね、ピイ。あなたのお相手より素敵なひとを見つけてしまって」

 全く嫌味を言っている自覚のなさそうなマリイをよそに、ミリイは突然大きな声を出す。

「全然素敵なんかじゃないわ。変な顔だし、優しくないし、のっぽだわ。わたしは結婚なんかしないもの。ピイ。シムリと結婚できて幸せでしょうけど、これだけは覚えておいてね。あんた、シムリには全然似合わないわ。地味でつまらないあんたなんて、シムリだって退屈するわよ。わたしはシムリが可哀想だと思うわ。あーあ、お気の毒」

「ミリイ、やめておきなさいよ」

 マリイが困った顔でとめに入る。ミリイがマリイをにらむ。

「マリイはいいわよね。あの変な許婚を好きになれたんだもの。わたしは好きになれないわ。あんな奴ら、いなくなっちゃえばいいのよ」

「いい加減にしなさいよ!」

 マリイがとうとう怒った。ミリイの顔をじっとねめつける。

「あなたの婚約者を悪く言うのはいいわ。でもわたしの婚約者だけはやめてよね」

「あんたの婚約者は頭が悪くて見た目も悪いわ。最悪なことにわたしの相手もそっくり。好きになれたあんたが不思議でならないわよ」

 いきなり、マリイの手がミリイの頬を叩いた。ミリイが目を吊り上げてマリイを見る。

「痛い! 何するのよ!」

「あんたが悪いのよ!」

「ねえ、あなたたち」

 激しい応酬の途中に、おっとりしたイリアの声が混ざりこんだ。ぼんやりとやり取りを見ていたピイははっとする。

「お店の人のご迷惑だから出ていきなさい」

「何よ! あんたは関係ないでしょ」

 ミリイがイリアに突っかかる。マリイはミリイをにらみつけている。

「関係あるわ。この場でゆっくりと相談をしたいお客の一人なんだもの。あなたたちは迷惑よ」

 イリアが言うと、マリイとミリイは唇を尖らせて、揃って出て行った。

「安っぽい店! 二度と来ないわ」

 マリイが捨て台詞を吐く。

「わたしはウェディングドレスの店自体もう来ないわよ」

 ミリイが同じような調子で嫌味を言う。

「じゃあね、ピイ!」

 二人で同じことを言って、にらみ合いながら二手に別れ、やがてピイからは見えなくなった。

 ピイは呆然としている。しばらくして、つぶやいた。

「ミリイはまだシムリのことが好きなのね」

 イリアはうなずく。

「そうみたい」

「わたしの結婚って、ミリイの不幸の上にできてるのね」

「それはどうかしら。ミリイは不幸なの?」

「不幸でしょう? シムリはわたしと結婚して、ミリイは好きじゃない相手と結婚するのよ」

「あなたは優しすぎるわ。そうでなくても、気にしすぎよ」

「そうかしら」

 ピイが床を見つめて考え事をしていると、店のベルの音が鳴った。顔を上げると、嬉しそうな表情のシムリが、急ぎ足でやって来ている。イリアがささやく。

「わたしはいなくなるけど、今考えてることを態度に出しちゃだめよ」

 ピイは一瞬不安な顔をして、すぐに笑顔を作った。こうしなければならない。シムリの幸せに水を差すようなことをしてはいけない。

「イリア! 久しぶり」

 シムリは二人の元にたどり着くと、まずイリアに挨拶をした。イリアがゆったりとした笑顔で応える。

「ピイだけじゃなく君にも教えたいことがあるんだ。ちょっとの間話を聞いて」

 シムリは興奮気味に交互にピイとイリアを見た。イリアが答える。

「いいわよ。何?」

「なんと、春の品評会に出した椅子が、最優秀賞を獲ったんだ!」

 シムリは目を輝かせてこぶしを胸の前に出してガッツポーズを取った。ピイは今まで考えていたことを完全に忘れて、シムリに近寄る。

「本当に?」

「うん。今までいつもいいところまで行っててなかなか獲れなかったけど、とうとうやったよ。ぼくはこれから『グイルの弟子』じゃなく、『最優秀賞を獲った家具職人』になる。まあレッテルが貼られることには変わりないけど、親方の威光なしでやっていけるようになるよ」

「よかったわね」

 イリアがそう言うと、ピイは涙が出てきた。

「本当によかった」

「泣かないで、ピイ。笑って祝福してくれよ」

 シムリを見ると、幸福に満ちた顔をしている。ピイは笑顔でシムリに抱きつき、

「おめでとう」

 とささやいた。シムリはそれを抱きしめ、嬉しそうな声で、

「ありがとう」

 と言った。離れて微笑み合う二人に、イリアはさよならを言って店を出て行った。

「これからまた忙しくなるんじゃない?」

 ピイが言うと、シムリは得意げな顔で、

「実は取材の依頼がばんばん来るんだ」

 と答える。

「有名になるのね」

「そうさ」

 シムリは歌うようにそう言って、ふと考える顔をした。

「そういえばミリイに会ったよ。彼女、結婚するらしいって噂を聞くけど、もしかして店に来た?」

 ピイは冷水を浴びせかけられた気がした。さっき考えていたことが思い出されてくる。ミリイはシムリのことが好きだ。ミリイは不幸。この結婚はミリイの不幸の上に成り立っている。

「ピイ?」

「何?」

「どうかした? もしかして、彼女に何か言われた?」

 心配そうなシムリに、ピイは、

「何にも」

 と笑って見せた。


 シムリに送られて家に帰り、シムリがいなくなると、ピイはどっと疲れが押し寄せて来るのを感じた。そして、漠然とした不安を胸に、小説の続きを書き始めた。


 2


 旅人は、新しい街を歩く。一人で。どこまで歩いても、誰に出会っても、一人。永遠に、一人。

 小説を書きながら、ピイはどんどん暗い気持ちになっていく。

 一人。わたしは一人だった。これからも、一人だろうか。一人がふさわしいのだろうか。人を不幸にするくらいなら、一人になったほうがいいのだろうか。

 そう考えながら、ピイはひたすら原稿用紙に向かう。

 旅人は歩く。一人で。


 シムリはあれ以来忙しくなり、なかなかピイの元に来ない。一人の時間はピイをますます考え込ませる。人づてに聞くシムリの評判や、新聞で見るシムリの写真はどこか他人のことのように思える。相変わらず裏表がなく気取りのないシムリだけれど、どこか、違うような気がする。他人によって編集されたシムリの情報など、聞かないほうがいいのかもしれない。けれどシムリ恋しさに、つい聞き込んだり、読んでしまったりする。

 ピイはじっと新聞のシムリを見つめた。シムリは笑っている。屈託なく。

「何だか、わたしと結婚することなんて忘れてしまっているみたい」

 そうつぶやいて、ピイはテーブルに突っ伏した。

 しばらくそうしていると、突然、呼び鈴が鳴った。ピイは立ち上がると、赤い玄関扉をのろのろと開いた。

「元気がないのね」

 見ると、イリアだった。相変わらずゆったりとした笑顔を浮かべている。ピイはかすかに笑顔を浮かべ、イリアを招き入れる。

「お化粧もしていないじゃない」

「今日は出かけない日だから」

「駄目駄目。お化粧は身だしなみでしょう?」

 イリアがピイを引っ張って鏡台の前に連れていく。ぼんやりしているピイの目の前で、イリアは勝手に引き出しを開き、桃色の液体が入った壜を取り出す。蓋を開け、ピイを見下ろす。

「服装はちゃんとしてるわね。ひげに塗ってあげるわ」

「ちょっと待って。どうしたの?」

 ピイがあわて気味に尋ねると、イリアは微笑んだ。

「いいところに連れてってあげる」


 ピイとイリアはひたすらに歩いた。イリアが連れて行ってくれるのはどこだろう、とピイは思う。この道のりだと職人街に着くけれど。

 どこからか若い鶯の下手な歌声が聞こえる。草むらの真ん中を抜ける道を歩いていると、ひとびとがピイに笑いかける。この笑顔が今は重い。ピイは無理矢理に笑顔を作るが、それが本当の笑顔に見えるかわからない。

「ピイは悩んでいるのね」

「え?」

 黙っていたイリアが突然話しかけたので、ピイは戸惑った。イリアは相変わらず微笑んでいる。

「結婚するって大変なことだものね。悩むわよね」

「わたしは、ひとの不幸の上に成り立つ幸せが嫌なだけ」

 ピイは爪先を見つめてつぶやく。イリアがくすくす笑う。

「わかりやすいわね、ピイは。かわいいわね」

 ピイは首をかしげてイリアを見上げる。何を言っているのだろう。わたしはこんなに悩んでいるのに。

「わたしもユウリと結婚するときはそうなったわよ」

「本当?」

「ええ。でも簡単に治ったわ」

「どうやったの?」

 ピイがすがりつくようにして訊くと、イリアはふふふ、と笑ってこう答えた。

「結婚したら、治ったわ」

「からかってる?」

 ピイが少し怒り気味に尋ねると、イリアは真顔になる。

「全然。真剣に言ってるのよ」

 ピイはまだ怒っていたが、イリアが足をとめてきょろきょろと辺りを見回し始めたのではっとした。この広場。真ん中に湖があり、奥に職人の木と呼ばれる大きな木があるこの場所は、明らかに職人街だ。大勢の職人たちが忙しそうに立ち働いている。シムリの職場だってすぐそこの場所にある。イリアはシムリに会わせようとしてピイを連れてきたのだろうか。

「イリア。わたしはあまりシムリの仕事の邪魔をしたくないのよ」

 ピイは困った顔でイリアを見上げる。イリアは相変わらず不案内な様子で歩き出す。

「そうなの? どんどん会えばいいじゃない。だからあなたそんなに不安になるのよ」

「シムリは忙しいんだもの。邪魔をして仕事に支障をきたしたら大変。帰りましょう」

「帰らないわよ。いいところに連れて行ってあげるって言ったでしょう? 島まで連れて行ってくださる?」

 最後の一言はピイに向けられたものではなかった。ピイがイリアの視線をたどると、湖に浮かんだ小型船の船長がにっこり笑っていた。

「お待ちしてましたよ。さあ、乗って」

「ええ。ピイも乗ったら?」

 ピイはわけがわからないまま不安定な船に乗り込んだ。この船は小型だけれど貨物船らしい。大小の木製のコンテナが、船の後部に積み重なっている。この船が行く先はわかっている。湖の真ん中にある島だ。そこには装飾品を作ることを専門とした職人たちが揃っている。イリアの夫であるユウリが昔働いていた場所だ。

「いい風ね。それに、いい波」

 イリアが船の舳先の手すりに寄りかかるので、ピイも横に並んだ。広い、広い湖。水が澄み切っていて、どこまでも透明だ。広い空。ピイは次第に不安が落ち着いてくるのを感じた。気持ちのいい空気。いつの間にか、永遠というものを感じ始める。この場所が、永く存在するものだと思う。それは平穏な気分に繋がる、大切な感覚だ。

「落ち着く? わたしもね、初めてここに来たとき、そう思ったわ」

「イリアも? いつ来たの?」

「最近よ。ユウリに連れてきてもらったの。ユウリったらたくさんの旧友に囲まれて、散々いじめられてたわ。あのひと、あそこでもあんなふうに明るいのね。笑っちゃった」

 イリアがくすくす笑う。ピイも笑う。ユウリの子供っぽさに似合う話だ。

「でね、素敵なひとに出会ったの。ユウリったらよくこのひとに惚れ込まなかったな、と思うくらいなのよ。ユウリはとっても優しくしてもらってたの」

「そうなの」

「サラさんというひとなの。女性でね、優しいのよ」

「そのひとに、わたし会うの?」

「ええ」

 そう話していると、船長が大きな声で、「着きましたよ」と叫んだ。

「降りましょうか」

「ええ」

 ピイはまだ落ち着かない気分だった。イリアがサラというひとに会わせようとしている理由がよくわからないのだ。友達だから会わせる。それだけかもしれない。しかし、何かある気がするのだ。それが何なのか、わからない。

 島の職人街は、島の中央を真っ直ぐに突っ切る道の両側に、工房がいくつも連なってできていた。細かな道もあるけれど、大通りに面した工房が全てのようだ。というのは、円い島は、端に行くほど小規模な工房、中央に行くほど大規模な工房になっているのだ。道側が開いた建物の中にいるねずみたちは、イリアに気づくと手を振った。イリアも小さく手を振り返す。中で作られているのは、宝石をはめ込んだアクセサリーや、色とりどりの帽子などだ。

「サラさんの工房はね、一番奥にあるのよ」

 その通りで、島の長い道をどこまでも進んで、やっとのことで見えた突き当りの工房で、イリアはとまった。

「サラさんはいらっしゃいますか?」

 一人いる若い娘にイリアが尋ねると、灰色の小柄な娘は笑ってうなずき、「先生!」とひとを呼びに行った。ピイとイリアは入り口で黙って立っている。ピイは緊張してどきどき鳴る胸を押さえた。

「イリアさん」

 奥から誰かが出てきた。きらきらと光る誰か。工房内にあるたくさんの布地を避けて近づいてくるにつれ、その毛が銀色なのだということに気づいた。ピイたちよりも少し年上で、目元が微笑んでいる、本当に優しそうなひとだ。

「こんにちは。このひとがピイさん?」

「ええ」

「初めまして。桜の木ピイです」

 ピイは笑顔で挨拶をした。人見知りのピイでさえも緊張を解いてしまう、ふわふわとした空気を纏ったひとだ。ピイはすぐにこの銀色ねずみが好きになった。サラは中に二人を招き入れる。本当に布だらけだ。色とりどりの布地が多く積み重なっている間に椅子が用意してあるので、三人はそこに腰を据えた。

「初めまして。シムリの婚約者よね、あなた」

「ええ」

 ピイは目を丸くする。

「職人街ではあなた有名よ。シムリは人気者ですもの」

 サラがよく笑うので、ピイも釣り込まれてしまう。サラがそれを見てから、

「あなたのサイズ、わかっちゃった」

 と言う。何のことだろうとピイが首をかしげていると、イリアがその疑問に答える。

「サラさんは見ただけで体のサイズがわかるのよ」

「えっ」

 ピイが自分の体を見下ろしていると、サラがころころと笑い出した。

「簡単よ。だってわたし、子供のときからひとのドレスを縫っているんだもの」

「ドレスを?」

 ピイが訊く。サラはうなずいて、

「ええ。もう長いこと縫ってるわ。たくさん、たくさん。イリアのドレスも、わたし縫ったの」

「そうよ。あなたが素敵だって言ってたドレス」

 イリアが微笑む。ピイはいいわね、と答える。

「今からわたしも注文したいけれど、とても間に合わないわ。だって式はもうすぐだもの」

「そうかしら」

 サラが首をかしげる。

「わたしなら間に合うわ。デザインの希望を取って、サイズがわかりさえすれば」

「すごいですね。でも、とても時間がないわ」

「そう? あなたこうしているじゃない」

「シムリと相談しなきゃ。シムリはとてもじゃないと時間が取れないんです」

「そう」

 サラが残念そうにうつむく。しかしすぐに明るい顔になり、

「でも、サイズがわかったから、わたしあなたのドレスをいつでも作れるわ」

 と笑う。ピイはうなずき、

「ええ、お願いしたいわ」

 と言った。

「ここは素敵な島でしょう?」

 サラが尋ねる。ピイはうなずいて、とっても、と答える。

「たくさんの美しいものが、ここで作られるの。わたし、ショウウインドウで見つけたドレスを見て、素敵、作りたいわ、って思ったの」

「着たい、じゃなくて?」

「ええ。こういうものを、わたしが作って、ひとに着てもらって、喜んでほしい。そう思ったの。それは今でも続いているわ」

「そうなんですか」

「あなたは小説家でしょう? 同じ気持ちではないの?」

「わかります。わかりますけど、わたし」

「不安なの?」

「ええ」

「どうして?」

 サラの真ん丸な目で見つめられて、ピイはどぎまぎした。

「わからないんです。不安がどこから来るのか」

「結婚するから?」

「え?」

「結婚はひとを変えるわ。それで不安なんじゃないの?」

「そう、なのかしら」

「不安は吹っ飛んでしまうわよ」

「どうすればいいんでしょう」

 ピイがイリアにしたように、すがるような目を向けると、サラはころころと笑った。

「簡単よ。結婚してしまえば治るわ」

「それ、イリアも言っていたけれど、わたしはとても信じられなくて」

 ピイがしょんぼりとうなだれると、サラは穏やかな声を出してこう言った。

「大丈夫よ。あなた、シムリが信じられないの? とても素敵なひとじゃない」

 ピイははっとして、サラを見た。サラはさっきよりもいっそう柔らかな視線をピイに向けている。

「私自身も結婚したし、たくさんの結婚する女性たちを見てきたわ。だから言える。素敵なひとと結婚するということがわかっていれば、その女性はちっとも不安になることなんてないわ。シムリは素敵なひとよ。わたしから見ても。あなたって幸せよ」

「そうなのかしら」

「そうよ。安心しなさい」

 ピイは初めて、まともに安心した気分になった気がした。

 わたしはどうしてわかりきったことを忘れてしまっていたのだろう。シムリと結婚する。それはとても幸せなことだ。それなのにわたしは忘れてしまっていた。子供のころのように怯えていた。怯えることなんかなかったのに。

「結婚はひとを怯えさせるものよ。でも、わかってみれば安心でしょう?」

「はい」

 ピイは久しぶりに満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう、イリア。サラさんのところに行ったら、本当に気が楽になったわ」

 帰り道、草むらの道を戻りながら、ピイはイリアに笑いかけた。イリアも笑い、

「本当にすっきりした気分になったみたいね。よかったわ。あなた本当に不安そうだったもの」

「そんなにあからさまだったかしら」

「ええ」

 ピイとイリアが笑いあっていると、横を黒い車が通り抜けた。すごい勢いだ。驚いた二人がそれを見ていると、耳を突き刺すような音を立てて車が急停止した。ばたばたと、白地に茶色のぶち模様のねずみが飛び降りて二人に走り寄る。ずいぶん背の高いねずみだ。イリアよりも背丈がある。

「あの、この辺りに病院はありませんか?」

「病院? 少し離れたところにありますけれど」

 イリアが答える。

「案内をお願いできますか?」

「構いませんけれど。どなたかご病気なんですか?」

 イリアの返事を待たずに、その男はばたばたと車の運転席に乗り込んだ。

「早く。乗ってください」

 ピイとイリアは顔を見合わせ、後部座席のドアを開いた。そこから見えたのは、助手席でうずくまる、水色のワンピースを着たミリイだ。驚きながら車に乗ると、車はとまったときのように急に発進した。

「ミリイ、どうしたの?」

 ミリイは泣きそうな目をして腹部を押さえている。ピイがもう一度訊くと、

「お腹が、痛いの」

 と蚊の鳴くような声で答えた。男はイリアの指示通りに運転をしている。本当に焦った顔だ。

「このひとは?」

「わたしの、婚約者」

 えっ、とピイが声を上げると、車はまた急停止した。病院に着いたのだ。真っ白な四角い建物の前で、男はあわただしく降り、助手席のミリイをそっと降ろし、抱き上げて中に運んで行った。


 3


「ありがとう、ピイ、イリアさん」

 ちっとも感謝していなさそうな顔で、ミリイはピイたちにお礼を言った。ミリイは病院での検査の結果、軽い盲腸炎だということがわかった。すぐにでも退院できるらしく、ミリイは落ち着いたものだ。

「よかったですよ。注射を打てば治る程度の病気で」

 先程の背の高い男がにこにこと笑ってピイとイリアの隣にたたずんでいる。

「ありがとう、リムさん」

 ミリイは窓のほうを向いてつぶやく。リムと呼ばれた男は、嬉しそうに笑みを深める。

「ミリイさんにお礼を言われるなんて初めてだな」

「お礼くらい、わたしだって言うわ」

 そのまま二人は黙っている。ピイとイリアは顔を見合わせる。

「わたしたち、帰りましょうか?」

 ピイが訊くと、ミリイは不安げな顔をする。

「ほら、あなたたちの邪魔をしてはいけないし」

「帰っても、構わないわ」

 おや、とピイは思う。ミリイにしてはしおらしい。

「じゃあ、また会いましょうね」

「ええ」

 ミリイはピイたちが帰ろうと白い病室の出口に行っても、こちらを見ようとしなかった。こちらを避けていたというより、リムのことを避けていたのかもしれない。リムはただひたすらに、ミリイの世話を焼いていた。陽気そうな、素敵なひとだ、とピイは思った。

「ミリイさんにはもったいないじゃない。彼、わたしたちのことを家に送ろうと思いつきもしないんだもの。よっぽどミリイさんに夢中よ」

 ピイがくすくす笑う。

「本当。あのひと、ミリイのことしか見てないわ」

「これでピイの障害はまた一つ取れたわ」

「どういうこと?」

 ピイは首をかしげる。

「あなた、この間言ってたわ。自分の結婚はミリイさんの不幸の上に成り立っているんだって」

「そうだったわね」

 ピイが考える顔になる。

「でも、大丈夫そうだわ。ミリイさんはもう不幸ではなさそう」

「あのひとを好きになったということ?」

「ええ。ミリイさんのことだから、なかなか認めないでしょうけどね」

「そうだといいけど」

 ピイは爪先を見つめる。黒い革靴がぴかぴか光っている。

「あなたが結婚式まで元気でいられるよう、わたし応援を頼んだのよ」

「え?」

 ピイはイリアを見ると、彼女は微笑んでいる。

「誰が何をしてくれるのか、わたしにもわからないの」

 何が起こるのだろう。ピイはただ不安げな顔をした。


 結婚式が近づき、ピイとシムリは慌てて白いドレスを一着借りることにした。逆さまのチューリップの形をした、かわいいドレスだ。それを決めた日でさえ、シムリは忙しそうにすぐに帰ってしまった。ピイはそのことを思い返して、今日も机の前で鬱々と過ごしていた。

 小説の主人公は、ピイの気分が落ち込めば落ち込むほど元気に活動を始めた。旅をするのだ。さすらい、流れ、一人になる。けれど、この間ほどはひどい気分ではない。だから小説もさほど進まない。

 夕方、呼び鈴が鳴り、ピイはシムリだろうかと期待をした。急いでドアを開けると、そこにはシムリはいない。しかし意外な人物が立っていた。

「グイルさん」

「仕事中かね」

 グイルは相変わらずひどい格好だった。毛は手入れされておらず、あちこちがはげている。相当な高齢のねずみなのだ。無理もない。

「そうですけど、なかなか進まなくて」

 ピイはグイルを招き入れた。グイルはゆっくりと中に入ってきた。ピイは手助けをしたくなるのをぐっと我慢した。以前そうしたら、グイルにすごい形相で怒鳴られたのだ。

「いい部屋だね。来るのは、君の誕生日パーティー以来かな」

「そうですね」

 テーブルに着かせると、グイルはそれを撫でた。

「シムリの昔の作品だね」

「ええ」

「粗っぽい作りだ。まだまだ未熟だったな、このころは」

「グイルさんにはそう見えるんですね。わたしはよしあしが全然わからなくて。とっても使いやすいのは確かなんですけど」

 グイルはシムリの家具作りにおける師匠だったが、近頃は家具を作らないのだという。その目は少し濁っていたし、手は震えている。そのせいもあるのかもしれない。

「シムリはかわいい弟子だったよ」

「そうでしょうね」

「素直だったけれど、納得がいかないとすぐ突っかかる。元気なんだな。あいつの性根は本当に明るい」

「ええ」

「あいつは独立をして、忙しそうにしているな」

「ええ」

「君も寂しいだろうけれど、すぐ落ち着くさ。賞を獲ったときというのはそういうものなんだよ」

「グイルさんもそうだったんですか?」

「そうだよ。わたしは優秀な家具職人だったからね」

 グイルは少し笑う。

「わたしは若いときから色んな賞をもらっていたから、いつも忙しくて妻にはよく寂しい思いをさせた。けれど、大丈夫だったよ。わたしたちは大丈夫だった。だから君たちも大丈夫だろう。多分ね」

 ピイが目を丸くする。

「シムリにはよく言っていたんだけどね。木にはその木にふさわしい家具の形があるんだ。どんなに面倒な、芯の曲がりくねった木に出会ってもね、その木にはふさわしい形がある。君はシムリとの結婚が不安なんだろう?」

 ピイが驚いてグイルをじっと見つめる。グイルはそれを見つめ返さず、どこか遠くを眺めている。

「君の友達の、イリアさん。彼女に聞いたよ。この間彼女がユウリ君に連れられて来たときにね」

「そうなんですか」

「シムリはいい木だよ。曲がったところのない、素直な木だ。対して君は少し曲がった、厄介な木。自分でもそう思うだろう?」

 ピイは少し恥ずかしくなって、小さくうなずく。

「そういう木同士は、組み合わせるととてもいい家具になる。意外だろう? でもそうなるんだ。わたしの経験上ね。どちらの部品も、輝くんだよ。シムリは机の部品では、基盤となる部分。君は装飾となる部分。どちらもそれぞれの魅力が強くなる。君たちはそういう関係だと思うよ」

「そうかしら」

「そうさ。君たち二人の組み合わせを、わたしはとても素敵だと思うんだ」

 ピイは微笑んで、グイルを見た。グイルはやはり目つきが怪しいが、確かにピイのほうを見ている。

「君は小説が書けなくなっているのかね」

 ピイは首を振り、ただ進まないだけだと答えた。

「どんな小説を書いているか、わたしは知っているよ。とても創造的で、面白い小説だ。でもね、今の君は大分小説からかけ離れている。創作は自分から生まれるものだ。自分からかけ離れたものを、無理に書くべきものかね。確かに、創作とは自分を表現することではない。けれど、自分の中にある何かを、そう、希望だとか、絶望だとか、そういったものを表現するべきものではないか? 君には今何がある? あの小説の底に流れているものと、同じものか?」

 ピイは少し考えた。そして、首を振った。

「それなら、君の作品も変わらなければならないよ。そう思うだろう?」

 ピイはかすかにうなずき、弱弱しく微笑んだ。


 次の日は、ピイの小説の挿絵画家のナリーと、今は都会に住んでいる小説家仲間のリンが一緒にやって来た。道でばったり会ったのだという。

「最近はね、ぼくもまあまあの作家になったと思うよ」

 リンは得意顔だ。それをナリーは小突いて、

「お前のどこがまあまあの作家だ。おれはまだまだお前のために挿絵を描いてやろうと思わんよ」

「ひどいなあ」

 リンはしかめっ面をして、ピイに向き直る。

「ピイ、不安なんだって? シムリとの結婚」

 やっぱり、とピイは思う。イリアが手紙を出したのだろう。

「色んなひとに心配されるのよ。ものすごく悪いことをした気分」

 ピイが答えると、リンはけたけたと笑う。

「そりゃあそうだよ。あんなに幸せそうだったピイが、結婚なんていう大事な出来事を前にしていきなり不安になるんだもん。あのねえ、それは罪だよ」

「罪?」

 ピイはびっくりして尋ねる。

「そうさ。ピイがシムリと結婚して幸せにならなくちゃ、シムリのせいで失恋したひとたちが可哀想ってもんさ。例えばぼくとかね」

 リンは胸に手を当てて、自己主張をした。ピイはくすくす笑い、そうね、と答える。

「そろそろ不安でいるのが馬鹿らしく思えたころよ」

「よかった。でもあっという間に元気になったね」

「本当に、皆が心配してくれるのよ。たくさんのひとにこの結婚は支えられているんだな、と実感するわ」

「じゃあ、明るくなったピイに贈り物だ」

 ナリーが口を挟み、持っていた小包を開いた。中に入っていたのは、額縁に入った一枚の絵だった。白いねずみの少女と、黒いねずみの少年が並んで座っている。

「わあ、これ、『百年の旅』の表紙になった絵じゃないか」

 リンが感動したらしい声で言うと、ピイは突然涙が出てきた。どうしてだろう。とまらない。リンとナリーが黙って見つめているので、ピイは懸命に涙を拭いて、つぶやいた。

「懐かしいわね」

「そうだろう? おれにとっても懐かしい絵だ。でも、お前たちにあげるよ」

「本当に?」

「ああ。あげる。飾ってくれよ」

「もちろんだわ」

 ピイが泣きながら笑うと、リンが嬉しそうに微笑んだ。ナリーもうなずいた。

「ピイ、お前は幸せ者だね」


 その夜から、ピイは小説の続きを書いた。自然と、すらすら書けるようになっていく。グイルの言うとおりだ、とピイは思う。自分の根底に流れるものを書かなければいけない。だからわたしは今書けている。

 結婚式の日の前日まで、ピイは書いた。その日まで、シムリとは会わなかった。


 4


 式は、レストラン街にある小さな店で開かれる。貸しきりになった店は、色鮮やかな服を着た多くの客でにぎわっている。ピイは裏口から中に入ると、いきなりイリアにぶつかった。

「待ってたのよ。早く」

 イリアがピイの手を引っ張る。何事かと思って控え室を覗くと、ドレスが一着、置いてあった。チューリップの形の、あのドレスではない。裾が広くて袖が膨らんだ、シンプルなドレスだ。裾には丁寧なれんげの花の刺繍がある。とても美しいドレス。

「イリア、これは?」

 呆然としたピイが尋ねると、イリアがくすくす笑う。そこにサラと、シムリが入ってきた。

「あら、来たのね」

 サラがふわふわと笑うと、シムリがにっこり微笑む。ピイは二人の笑顔に呆気に取られている。

「びっくりしてるみたい」

 イリアが言うと、サラはピイに近づき、シムリはがりがりと頭を掻いた。サラがささやく。

「これ、シムリがあなたのためにわたしに注文したのよ。あなたがわたしのところに来る前にね。イリアがあなたを連れてきたのは、サイズを測るためでもあるのよ」

 ピイはぽかんとシムリを見つめる。

「そうなんだ」

 シムリが言うと、ピイはうつむいた。シムリが慌てて近づいてくる。

「ごめん。余計なことしたかな。怒った?」

 ピイはいきなりシムリに抱きつく。

「シムリって、いつもそんなことばっかりするのね!」

「ごめん」

「ありがとう。嬉しいわ」

 ピイが顔を隠したままつぶやくと、シムリは満足げに笑った。

「それでね、シムリのドレスには劣るけど、これはわたしが作ったヴェールよ」

 ピイが潤んだ目で振り向くと、イリアが長いヴェールを持って、笑っていた。ピイはまた泣きそうになる。丁寧に刺繍とレースが施されたヴェール。どれほど時間がかかっただろう。

「本当に、ありがとう。わたし、また泣きそう」

「泣くのは結婚式が始まってからにしましょう。新郎は早く着替えてきて。今からピイの着替えと、お化粧をするから」

 サラがシムリを追い出しにかかる。シムリがにこにこと笑いながら出て行くと、さて、とサラが腕まくりをした。

「わたしが作った素敵なドレス、きれいに着こなしてもらわなければね」


 白いスーツに白い蝶ネクタイの姿のシムリが、ピイの控え室にやって来た。扉をそっと開けていると、ピイが見つけて、笑う。

「どうしてこそこそしてるの? 入ってきていいのよ」

 シムリは扉を大きく開き、今度は堂々とした態度で入ってきた。しかし、笑みを隠せなくなったシムリは次第に相好を崩し、

「きれいだなあ」

 とつぶやいた。ピイは照れ笑いをする。

 白い絹のドレスに、半透明のマリアヴェール。ひげは純白に染められていた。ピイは視線をどこにやっていいのかわからずに、あちこちに目を移した。そこに、シムリがどんどんと近づいてきて、

「ぼくの花嫁だ」

 と抱きしめた。ピイは我慢できずに、くすくすと笑い出した。シムリも笑う。イリアとサラは、シムリを引き離しにかかる。ドレスとヴェールが乱れてしまったのだ。

「幸せだなあ。すごく幸せだ」

 少し離れたところに立たされたシムリが、ため息をつきながらピイを眺める。ピイは笑っていたが、ふと、笑顔を消した。シムリが気遣わしげな顔になる。

「あのね、シムリ」

「何?」

「君は変らないでって言ったわよね」

「うん」

「わたし、変わったわ。あなたとの結婚が決まって、変わった」

 シムリが黙り込む。

「とても、幸福になったの。わたしの根底にあるものがね、完全に変ってしまった。わたし、昔はとても孤独だったの。一人で生きていこうと、必死だったの。だけど、あなたと一緒に生きていけるとわかって、変わったの。わたしは一人じゃないもの」

「うん」

「だからね、これ」

 ピイは持ってきた鞄から原稿用紙の束を取り出した。

「『百年の旅』の最終巻よ」

「え?」

「わたしの根本にあるものは変わってしまって、孤独な主人公が孤独でい続けることに、わたしは耐えられなくなってしまったの。だからね、彼はこの巻で、友達と家族を持つことになったのよ。それは旅の終わりを意味するわ。旅しなければ、この物語は終わり。だから、これは最終巻の原稿なの」

「ぼくたち、そこから始まったのに」

 シムリは残念そうに、原稿用紙の束を見つめた。ピイはこう続ける。

「でも、また始まるんでしょう? わたし、新しい小説を書くつもりなのよ。幸せと希望に満ちた、素晴らしい物語。きっとあなたも好きになるわ。わたし、自信があるのよ」

「本当に?」

「本当よ」

 シムリに笑顔が戻ってきた。ピイもにっこり笑う。シムリが陽気な調子でこう言う。

「じゃあ、ぼくたちもそうしようか」

「どういう意味?」

「今から、お互いの人生をまた始めるんだよ」

 シムリはピイの手を取る。ピイはシムリの目を見つめる。

「君は、これからぼくの奥さんだ!」

 ピイは、ふふふ、と嬉しそうに笑った。


『ピイへ。元気? わたしは元気よ。それどころか、幸せ。この間は病院に付き合ってくれてありがとう。あれをきっかけに、リムさんへの気持ちが変わったの。とても素敵なひとだって思うのよ。ハンサムで、背が高くて、頭がいいの。結婚したらしいわね。でもごめんなさい。あなたのお相手より素敵な相手を見つけてしまって。それじゃあね。ミリイ』

 《了》


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― 新着の感想 ―
[一言] 書き手としてのピイの葛藤や幸福を目の前にした者が感じる恐れなど、人物の感情がひしひしと伝わってきて、一気に読みきってしまいました。 みんな幸せになれてよかった。 ハッピーエンドはいいですね。…
[良い点] シムリ「ぼくの花嫁だ」 (ノд〃)きゃー! [一言] ついに結婚しましたね! いやぁ、もうこのシムリがシムリが(笑) そこまでされると逆に不安になりますがな、もうこのシムリがぁ(笑) …
[一言] うぉー!! 心に沁み渡るめっっっちゃえぇ話や!! 感動の『フィガロの結婚』やー!!
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