極寒の地をスチームパンクに変えた僕はいじめっ子に怯える
極寒の風が吹き荒れる国。木材は金以上の価値を持ち、湯に浸かることすら最上位貴族にしか許されない凍てついた世界。
放課後の冷え切った学園の工房で、平民特待生のアレンは、真っ赤にかじかんだ手を激しく震わせながら、一心不乱に魔導具の部品を削り出していた。
「おい、平民。……なんだ、この鼻を突く下水のような臭いは?」
温かい湯気をまとって部屋に現れたのは、エリート貴族のランドルだった。最高級の薪を使ったお湯の風呂上がりなのだろう。彼の肉体からは、庶民が一生拝むこともできないような、白く温かい蒸気が誇らしげに立ち上っている。
「ああ、そうか! お前みたいな『ゴミ職人の卵』は、お湯どころかまともな水で体すら洗えないもんなぁ! ぎゃははは!」
アレンは奥歯を噛み締め、無言で作業を続けようとした。無視されたことにプライドを傷つけられたランドルは、顔をどす黒く歪め、アレンの手元を思い切り払いのけた。
「おい、聞いてんのかってんだよ平民!!」
カラン、と高い音が響く。
アレンが何ヶ月もの間、寝る間も惜しんでミリ単位の調整を繰り返し、ようやく形にした試作ノズルが床に転がった。
「あっ……!」
アレンが手を伸ばすより早く、ランドルの分厚い軍靴が、無慈悲にそれを踏みつぶした。
――ガシャリ。
アレンの魂そのものが粉々に砕け散るような音が、静かな工房に響き渡る。
「なんだよ、このちっぽけなブリキの玩具は! こんなゴミを作って何になるんだ? ほら、それより早く這いつくばえよ。俺の泥だらけのブーツを舐めてピカピカに磨け、この薄汚い犬め!」
「……っ……う、くぅう……ッ!」
アレンは声にならない絶叫を喉の奥で押し殺した。悔しさと、惨めさと、圧倒的な理不尽への怒りで、視界が涙でぐしゃぐしゃに歪む。
床に這いつくばり、バラバラに砕け散ったノズルの破片を、血の滲む手でかき集めることしかできなかった。
(いつか……いつか絶対に……! 火も、薪も、身分も関係ない。誰もが温まれる世界を、僕の魔導具で作ってみせる……!)
胸の奥で燃え盛る執念だけが、凍てつきそうなアレンの心を支えていた。しかし、日に日にエスカレートするランドルの苛烈な嫌がらせに、ついにアレンの心身は限界を迎え、彼は静かに学園を去り、隣国へと旅立った。
◇
数年後。
親のコネを最大限に利用し、念願の近衛騎士団に入団したランドルだったが、その傲慢な本性は一切変わっていなかった。彼は、大人しそうで自己主張の苦手な平民出身の新人騎士を新たな標的に定め、執拗で陰湿な精神的リンチを繰り返した。
「おい、お前みたいなノロマが騎士団の面汚しなんだよ! 生きている価値もないな!」
毎日毎日、人格を否定され続けた新人騎士は、ある夜、静かに自らの命を絶った。
その翌日。ランドルは実家の伯爵邸に緊急で呼び出された。
扉を開けた瞬間、出迎えた父親の顔は死人のように土気色で、ガタガタと歯の根が合わないほど震えている。その横には、すべてを見通すような冷徹な眼光を放つ、公爵家の使者が佇んでいた。
「貴様ァァァーーーッッ!!! 自分が、自分が何をしたか分かっているのか、この大馬鹿者がぁ!!」
父親の、鼓膜を破らんばかりの怒号が響き渡る。
「え、いや、何って……ただの使えない平民の新人を、ちょっと教育してやっただけですが……」
「黙れッ!! 貴様がいじめて自殺に追い込んだあの少年は……お忍びで騎士団に預けられていた、公爵閣下の……閣下が何よりも溺愛されていた、最愛のご隠し子だぞ……っ!!」
「え……? は? い、いや、だって、あいつ、ボロい服着て平民の育ちだって……」
ランドルの顔から一気に血の気が引いていく。
公爵家の使者は、哀れみすら浮かべず、ただ凍りつくような声で告げた。
「我が主の怒りは、お前たちのような有象無象の伯爵家ひとつ、一晩で跡形もなく圧潰するには十分なもの。……さて、どう責任を取っていただけるのかな?」
家門の存続、それだけがすべての父親は、一瞬の迷いもなかった。狂ったようにランドルの胸ぐらを掴み、激しく前後に揺さぶる。
「この人殺しのクズが! 疫病神がッ! 我が伯爵家はお前と一切の縁を切る! 即座に籍を抜く! おい、そこの道具を使え! 貴様は今すぐここで自決しろ!! それしか我が家が生き残る道は残されていないんだよおぉぉぉっ!!」
家門を守るための、非情なトカゲの尻尾切り。
ランドルは薄暗い離れに軟禁され、机の上には毒薬、ロープ、そして一本の短剣が乱暴に置かれた。
「ふ、ふざけるな……! なんで俺が死ななきゃいけないんだよ……!」
ガタガタと震えながら、ランドルは真夜中に屋敷を脱出。着の身着のまま、夜闇に紛れて隣国へと逃亡した。輝かしいエリート騎士の地位から一転、その日暮らしの、泥にまみれた日雇いの荷運び人へと真っ逆さまに転落した瞬間だった。
◇
現在、隣国では、街中がある一つの「奇跡」に狂喜乱舞していた。
かつて平民と見下され、工房の下働きだった少年アレン。彼はその類まれなる才能を老工房長に見出され、ついに歴史を覆す大発明を成し遂げたのだ。
火も薪も一切使わない。水の「超高圧の摩擦熱」だけで、一瞬にして冷水を極上の湯へと変える――『魔法高圧タンクと超精密ノズル』。
これによって街には格安の大衆浴場が次々と誕生し、これまで冬が来るたびに寒さに震え、凍傷に泣いていた庶民たちが、毎日手軽にお湯に浸かれるようになった。
「アレン先生は、俺たちの命の恩人だ!」「お風呂の救世主万歳!!」
国中が彼の名を称え、アレンの工房には、世界中からの莫大な注文をこなすため、連日、巨大な魔法高圧タンクのパーツが運び込まれていた。
ある日の午後。
アレンが工房の2階の窓から、何気なく搬入作業を眺めていた時のことだった。
泥と汗、そして自分の体臭まみれになりながら、腰を痛そうにさすり、信じられないほど重い魔法高圧タンクを必死に背負って運ぶ男の姿が目に入った。
「クソッ、重てぇな……なんだよこのクソ重い鉄の塊は。クソッ、なんで元貴族で、エリート騎士だったこの俺が、こんな泥臭い肉体労働を……!」
その声が、その歪んだ横顔が視界に入った瞬間――アレンの頭の中で、パチンと何かが弾けた。
「うっ……あ、ガハッ……はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ……!!」
突如として激しい目眩と、内臓を雑巾のように絞られるような吐き気がアレンを襲う。彼は自分の胸をきつく掻きむしりながら、冷たい床へと崩れ落ちた。滝のような冷や汗が、床を濡らしていく。
脳裏にフラッシュバックするのは、あの日、無慈悲に踏みつぶされたノズルの破片。
「這いつくばって靴を舐めろ」と浴びせられた怒号。
「お前みたいなゴミ職人はクサイ」と笑われた、あの冷え切った放課後の記憶。
過去の恐怖が、鋭い刃となって今のアレンの心をズタズタに切り裂いていく。
「アレン先生!? いやだ、顔色が真っ白です!! しっかりしてください、どうされたんですか!?」
助手の少女が悲鳴を上げて駆け寄ってくるが、アレンの耳には届かない。アレンはガタガタと震える手で、窓のカーテンを、光すら遮るようにきつく、きつく閉め切った。
(ここは隣国だ……いるわけがない。他人の空似だ、落ち着け、落ち着け僕……!)
心臓のバクバクという音がうるさい。どうしても気になり、人を雇って隠密に調べさせた結果――その男は、間違いなくあの「ランドル」だった。
復讐がしたいわけではない。ただ、ただ狂おしいほどに怖いのだ。あの男が自分の視界に入る環境にいるというだけで、指先が震え、良い魔導具など絶対に作れなくなってしまう。
「……お願いだ……。あの配送会社との取引……いや、あの会社と少しでも関わりのある工房との取引を、すべて……少しずつ減らしてほしい。別の、信頼できるところに回してくれ……」
アレンは震える声で助手に懇願した。
彼は自分の心と身を守るため、静かに、そして完全に合法的なビジネスの判断として、ランドルの所属する運送会社を使っている提携工房への発注を削り始めた。
代わりに、技術はまだ少し未熟だが、誠実で一生懸命な、出来たばかりの小さな町工房へ仕事を回すことにした。
条件はただ一つ。『ランドルのいる運送会社を絶対に、一歩たりともウチの敷地に入らせないこと』。
仕事を振られた小さな工房の職人たちは、あまりの好条件のビッグチャンスに、「神様が俺たちに味方してくれたぞ!!」と飛び上がるほど歓喜した。
一方、突然理由もわからず大口の発注を打ち切られた元の取引先は大混乱に陥った。
「なぜだ!? うちの価格が高すぎたのか!?」と慌ててアレンの工房と同じ額に値下げすると申し出たが、アレン側が現在取引している小さな工房の取り分を調べると、むしろ元の取引先より高い値段を払っている。
「わけが分からん! 泥棒猫め、アレン先生の身内の工房なのか!?」と探りを入れても、アレンの社員たちは「さあ、そんな話は聞いたこともありませんね」と冷たくあしらうばかり。
原因が全く掴めず、彼らはただただ、目に見えない巨万の富が指の間からすり抜けていく恐怖に怯えるしかなかった。
◇
アレンからの仕事がみるみる激減し、破産のカウントダウンが始まった配送会社の会議室。
社長は机をこれでもかと激しく叩きつけ、怒髪天を突く勢いで怒鳴り散らしていた。
「おい!!! アレン先生の工房からの輸送発注が、ここ数ヶ月でほぼゼロになっているぞ!! このままだと我が社は来月倒産、全員路頭に迷うことになる! 誰か、あちらの機密に触れたり、機嫌を損ねるような大粗相をしたバカはいないのか、ええい!?」
青ざめてガタガタと震え、黙り込む作業員たち。重苦しい沈黙が流れる中、ただ一人、ランドルだけが「ついに俺の時代が来た!」と言わんばかりに、下劣なニヤニヤ笑いを浮かべて手を挙げた。
「あ〜、社長。それ、たぶん俺のせいっすね〜」
「なんだと……!? お前、アレン先生に何をしたんだ! 言え!!」
ランドルはふんぞり返り、パイプ椅子に深く腰掛けながら、得意げに語り出した。自身の脳内で都合よく書き換えられた、歪んだ過去の記憶のままに。
「いや〜、あの偉そうにしてる高慢ちきな発明家、アレンでしょ? あいつ、学園時代は俺のパシリだったんすよ。俺にちょっと睨まれただけで、ションベンちびって泣いてたような、ド陰キャのゴミ平民です。たぶん、俺がこの会社で働いてるのを見てビビっちゃって、会うのが怖くて仕事を減らしたんだと思いますわ!」
社長が言葉を失い、呆然と口を開けているのを見て、ランドルはさらに調子に乗って声を張り上げる。
「あんな奴、中身は昔のビビりなガキのままですって! 明日、俺が直接あいつの工房に行ってやりますよ。昔みたいに胸ぐら掴み上げてさ、『おいアレン、俺の会社に仕事回さねえと、どうなるか分かってんだろうな?』って頭を踏みつけて、軽く脅してやりますわ! 一発で泣きついて仕事戻してきますから、社長、俺の給料、明日から大幅に上げてくださいね! ギャハハハ!」
静まり返る会議室。
次の瞬間、社長の顔が怒りと恐怖で、ドス黒い赤色に変色した。
「お前……お前今、なんと言った……? 国賓級の、我が国の至宝である魔導具師様を……『脅す』だとおおおおおーーーッッ!!!」
「ぎゃっ!?」
社長は椅子の背を思い切り蹴り飛ばし、猛獣のような勢いでランドルの胸ぐらを掴むと、そのまま冷たい床に叩きつけた。
「この救いようのない大馬鹿野郎がッ!! お前が今『ただの鉄の塊』と見下して運んでいるあの高圧タンクが、どれだけの価値か分かっているのか!? あれは国中の平民を凍死から救い、王宮すら頭を下げて買い求める、国家最高機密の発明品だぞ!!」
社長の目は本気で血走っていた。酸欠の金魚のようにパクパクと口を動かすランドルの顔面に、クビ宣告の書類と解雇通知を叩きつける。
「お前のような頭の狂った犯罪者予備軍を置いていたから、アレン先生は我が社を警戒し、取引を停止されていたんだ!! 会社を潰されかけてたまるか! お前のせいで出た損害、全額賠償請求してやるからな! 命が惜しければ今すぐ消えろ! 叩き出せッ!!」
「ひ、ひえぇぇっ!?」
会社の巨漢ガードマンたちに、骨が折れるほど容赦なくボコボコに叩きのめされ、ランドルは会社の門の外、冷たい泥水の中に文字通り犬のように放り出された。
その日の夕方。
薄汚れた体で、凍える路地裏を這うランドルの耳に、大衆浴場から湯気と共に楽しそうな庶民たちの声が響いてきた。
「あ〜〜〜! 今日も極楽、いい湯だったなぁ! アレン様の発明のおかげで、毎日こんなあったかいお風呂に入れるなんて、本当に神様みたいなお人だよなぁ」
「違いない! 昔の偉そうな貴族どもに燃料の木材を独占されて、凍えて死にそうだった頃とは大違いだ! アレン様には足を向けて寝られねえよ!」
ランドルは冷たい夜風にガタガタと歯を鳴らして震えながら、かつて自分が「ゴミ」と踏みつぶした小さな金具が、いまや自分を遥か足元に見下ろす、国を揺るがす巨大な産業になっていたことを、痛烈な現実として思い知らされた。
しかし、ランドルの歪んだ脳みそは、ここでも異常な結論を弾き出した。
(……そうだ。だったら、あいつの大切なものを奪って、本気で脅迫してやればいい。そうすれば、あいつはまた俺の足元で這いつくばる。俺はまた、あの輝かしい貴族のようなポジションに返り咲けるんだ……!)
泥水をすすりながら、ランドルはアレンの周囲を調べ、彼が熱烈に付き合っているという一人の美しい女性の存在を突き止めた。
(こいつだ……! この女を拉致して、あいつを脅してやる……!)
物陰から濁った目で襲いかかろうとしたランドルだったが、彼は致命的なまでに愚かだった。
その女性は、この国の王弟陛下の末娘――クラリス公女殿下。
当然、彼女の周囲には影の如き凄腕の王宮近衛護衛たちが何人も潜伏している。
「曲者だ、出会え!!」
「ぶへっ!?」
ランドルが声を上げる暇すらなかった。抜刀の銀光が一閃し、ランドルは一瞬で暴漢として、無残に切り捨てられた。その死に際、彼の身元から実家の伯爵家が割れ、せっかく縁を切って生き延びようとしていた父親たちにも「隣国の王族暗殺未遂の連座」という最大級の外交問題の巻き添え(滅亡)がプレゼントされたのだった。
◇
一方、アレンの工房。
パチパチと暖炉が爆ぜる、温かい光に包まれた内室で、アレンは新しく取引を始めた誠実な職人たちと笑顔を交わしていた。
「アレン先生、次の新型ノズルの試作、完璧に仕上がりました!」
「ありがとう。みんなのおかげだよ。さあ、温かいスープを飲んで、次の大発明の話をしよう」
彼らの輪の中心でスープをすするアレンの表情に、過去の怯えや暗い影は、もう一切残っていなかった。
後日、ランドルの悲惨な末路を聞いたとき、アレンは首を傾げた。
「なぜ、僕の大切なクラリスを襲おうとしたんだろう……。本当に、意味がわからないな」
アレンは少しだけ哀れむような目をしたが、すぐに小さく息を吐いた。
「……まあ、昔から乱暴な人だったし、ついに理性を失って、ただの変質者にまで落ちぶれてしまったんだね」
そう納得することにして、アレンはすっきりとその思考をゴミ箱に捨てた。
アレンは立ち上がり、読み終えた報告書を流し台の脇に置くと、スープの器を洗おうとして手を止めた。
蛇口から流れる水は、触れるだけで指の感覚がなくなるほどに冷たい。
(……そうだ。お風呂で毎日お湯に浸かれるようにはなった。でも、お母さんや街の仕立て屋、料理人たちは、今でもこの凍るような水で毎日食器や野菜を洗っているんだ)
赤くかじかんだ自分の両手をじっと見つめる。かつて冷え切った学園の工房で、泣きながら部品を削っていたあの日の痛みが、脳裏をよぎった。
(冬の冷たい水仕事で、あかぎれや霜焼けに苦しむ人をなくしたい。お風呂だけじゃない。誰もが、いつでも、家の流し台で温かいお湯を使えるようにするんだ)
アレンの目に、職人としての新たな炎が灯る。
「みんな、少し相談があるんだ。これまでの巨大な魔法高圧タンクを、家庭のキッチンに収まるくらい『超小型化』して、流し台の蛇口と直結させる構造を作りたい。そうすれば、凍える冬の家事から、この国の人々を完全に解放できる」
アレンの言葉に、誠実な職人たちは一瞬目を見張り、それから一斉に目を輝かせた。
「流し台でお湯を……! 先生、それはまた世界がひっくり返る大発明になりますよ!」
「よし、さっそく図面を引きましょう!」
窓の外には、アレンの作ったお湯で温まった、たくさんの人々の幸せそうな笑顔と笑い声が、どこまでも広がっていた。
彼らの未来をさらに温かく照らすため、アレンは新しい羊皮紙を広げ、真っ白な未来の図面を描き始めるのだった。
(終わり)




