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桃娘蜜月伝〜虐げられた姫は、時をこえ狼帝の孤独を溶かす〜

作者: はーこ
掲載日:2026/08/02

【登場人物】

李花(リーファ)

(リュウ)王朝の第一公主でありながら、妾腹のため虐げられていた少女。ひかえめな性格。母の形見である領巾(ひれ)を大切にし、自身も舞を得意とする。癒やしの力を持つとされる伝説の乙女『桃娘(タオニャン)』と同じ、桃色の髪を持つ。


宵月(シャオユェ)

…黒狼の(ラン)族。一族の長であり、皇帝として東の宮を治める青年。「三ヶ月以内に子を宿せば自由の身にすること」を条件に、李花へ契約結婚を迫る。冷たい態度で李花に接するが──


四蓮(スーリェン)

…白猫の(マオ)族。宵月の幼なじみで、右腕的存在。社交的な好青年で、李花の世話役を任される。

 ──月に、呑まれたかと。


 ばかげたことだとわかっている。

 だけど、そう錯覚してしまうのも仕方ない。

 真冬の池に落ちたとき、わたしが最後に目にしたもの──

 あれはたしかに、水面(みなも)に浮かぶ満月だった。


「──何者だ、小娘」


 びしょ濡れで岸辺にうずくまるわたしを、見下ろすひとがいる。


(……月、だ)


 夜空に浮かぶ満月。

 その白い逆光を背に、男のひとがたたずむ。

 ぎらつく黄金の眼光で、わたしを睨みつけながら。


「わ、わたしは李花(リーファ)……(リュウ)李花と、申します」

「……柳? 柳の血を引く者が、こんなところにいるものか」


 ハッと、鼻で笑われた。

「冗談も大概にしろ」とでも言わんばかりに。


「なぜなら、悪しき柳王朝は滅びたのだから。百年前、大義のために決起したわれら獣人族の手によってな」

「……えっ」


 柳王朝が、滅びた? 百年も前に?

 このひとは、いったいなにを言っているの?


「もう一度問う。──おまえはなぜ、わが(ラン)族の宮にいる、人間」


 そんなこと、わたしが知りたい。


(嘘だわ、こんなの……)


 池に落ちた、ただそれだけなのに。


(信じられない……)


 気がついたら、百年後の世だったなんて。






 ──はじまりは、数刻前。


「……わたしひとりで、『幽池(ゆうち)』に?」

「離宮を建てるために、必要なこと。美鈴(メイリン)さま直々のご命令でございます」

「でも、あの広大な荒れ地をひとりで整備するのは。何ヶ月かかるか……」

「はぁ……ご自分の立場が、おわかりでいらっしゃらないようですね」

「っ……!」

「妹君とは格が違うことを、いい加減理解なされませ。柳李花第一公主(こうしゅ)


 早朝。

 あばら小屋で(むしろ)(くる)まるわたしを叩き起こしたのは、異母妹(いもうと)──美鈴の侍女だった。


「得体の知れない北方民族の血を引く娘なんて、だれも相手にするわけないでしょう」


 侍女は息をするように、暴言を吐く。


「薄気味悪い髪ね。まるで老婆だわ」


 最後に唾を吐き捨て、侍女は去っていった。


(……情けない)


 侍女にあなどられても、なにも言い返せない自分が。

 だけど、この世に生まれて十八年。

 なにも言わずにいるほうが、ぶたれない。そう学んだ。


「はぁ……寒い……」


 立てつけの悪い戸をくぐると、そこは冴え凍る銀世界。

 びゅうびゅうと吹きつける北風が、肌を刺すようだ。


「だれかが一緒にいてくれたら、寒くないのに……なんて」


 笑ってしまうけど、願うだけならいいよね。


(わたしもいつか、だれかに必要とされたいな……)


 寂しいのは、嫌だもの。


「……母さま」


 すっかり色が落ちてしまった薄桃の布を丁寧に折りたたみ、ふところにしまい込む。

 舞の得意な母さまが使っていた、大事な大事な領巾(ひれ)

 わたしに遺されたのは、これだけ。


「わたしは、大丈夫」


 暗示をかけて、軒下に立てかけてあった竹箒をつかむ。

 心を無にして、わたしは冷たい雪の小路(こうじ)を踏みしめた。






 皇城の片隅には、ぽっかりあいた枯れ池がある。

 これを、みな『幽池』と呼んでいる。


「雨が降っても水がたまらず、夜には火の玉が飛んでいる……怪談話にはもってこいね。冬だけど」


 そんな不気味な話が持ち上がったのは、いつの話か。

 当然、だれも近寄りたがらない。だから荒れ放題なのだ。


「……はぁ、はぁ……ふぅ」


 雪をかき、落ち葉を掃き、足を取りそうな小石は脇にどかす。

 とほうもない作業に没頭しているうちに、あっという間に日が暮れてしまった。


「おなか、すいたな……」


 雪でも食べたら、すこしは満たされるだろうか。

 道ばたに座り込み、ぼんやりと考え込む。


「あーらお姉さま! お仕事を投げ出すなんて、いけないひと!」


 ろくに思考が働かない脳内に、きぃん、とかん高い声が響いた。

 声の主がだれかなんて、問うまでもなく。

 ふり向けば、思ったとおりの人物が、手提げ灯ろうを持った侍女たちを引き連れてやってきた。


「……美鈴、さま」

「はぁあ? 気安く呼ばないでちょうだい!」

「申し訳ございません……公主さま」


 すかさず平伏する。

 雪に埋もれたひたいが、冷たい。


「まったく、これだから卑しい血すじの役立たずは……」


 人形のようにととのった愛らしい顔つきで、鬼のように罵詈雑言を吐く少女──美鈴。

 わたしと、半分だけ血のつながった妹。

 くすくすと聞こえる嘲笑(わら)い声は、美鈴の侍女たちのものだろう。


「いいこと? 翌月にはわたくしの成人の儀がひかえているわ。その祝いに、とびきり豪華な離宮をくださると陛下もおおせなの」

「おそれながら……のろまなわたしでは、手に余ります。せめて人手を……」

妾腹(しょうふく)の分際で、わたくしに指図するというの!?」


 あぁ……まただ。


「気色悪いのよ! この白い髪も、陰気な目つきも!」

「きゃ……!」


 ぎりりと、髪をつかみ上げられる。


「わたくしが絶対なの。何度も言わせないで!」


 美鈴はそういって、わたしを突き飛ばした。

 これは、いつもの癇癪。

 黙って受け入れて、許しを乞う。

 そうするしか、わたしに道は残されていない。


「申しわけ……」


 だけど、でも。

 見てしまった。見えてしまったの。

 ひらひら、と。

 大事に大事にふところにしまっておいたはずの母の形見が、北風に飛ばされるさまを。

 ──さぁっと、血の気が引いた。


「待って! だめ!」


 身をひるがえして、一目散に駆け出す。


「いやだわ、あんなぼろ布のために」


 くすくす、くすくす。

 もう、だれに嘲笑われたっていい。


「母さまっ……!」


 わたしの、たったひとつの宝物。

 取り戻したくて、守りたくて。

 夢中でつかんだ、次の瞬間。


「……あっ」


 がくんと、ひざから崩れ落ちる。

 でこぼこした地面に、足を取られたんだ。


(……やってしまった)


 この先は、深い深いがらんどうの池。

 ちょっとした高所から、身を投げたようなものだ。

 打ちどころが悪ければ、最悪──


(でも、母さまに会えるなら、それで……)


 領巾を胸に抱きしめる。

 諦めかけた、そのとき。

 にじむ視界に、月が映った。


「えっ……」


 見間違いじゃない。月だ。

 いつの間にだろう。

 枯れ池が水で満たされ、満月を映し出していた。


(なんて……きれいなのかしら)


 まるで現実味のない光景に、見惚れた刹那。

 ──わたしは、月に呑まれた。






 ──それが、わたしがここに至るまでの経緯だ。


(池に落ちて、気がついたら百年後の世だったなんて……)


 自分の身に起きたことなのに、信じられない。


「だんまりか。なんにせよ、皇城に忍び込んだ人間を、見過ごすはずもないが」


 草を踏みしめる音がする。

 わたしを逃すまいと、近づく足音だ。


「小娘」

「っひ……!」


 唐突にのぞき込まれ、びくんと肩が跳ねた。

 間近に迫って、ようやく相手の容姿が見て取れる。


(夜色の髪に、月のような黄金の瞳……)


 美しいひとだった。

 美しくて、冷たい瞳をしたひと……


「おまえ──その淡い髪は」


 そこで、怪訝な顔をされる。

 わたしを見つめた彼が、すん、と首すじを嗅いだ。


「やはり甘い香りがする。もしや、『桃娘(タオニャン)』か」

「たお……?」

「よく見てみろ」


 池を指さされ、つられて水面をのぞき込む。

 そして、絶句した。


(そんな……これが、わたし……?)


 老婆のようだと嘲笑われた白い髪が、淡く色づいていたのだ。

 さながら、桃の花のように。


「月夜に池から現れた謎の娘。なるほど、伝説に謳われた乙女にふさわしい」


 あぜんとするわたしに、黒髪の青年が言い放った。


「おまえの身柄は俺があずかる。この、宵月(シャオユェ)がな」


 それがわたしにとっての救済なのか、死刑宣告なのか。

 わかるはずも、なかった。






 ほのかに甘い香りが、鼻をくすぐる。

 息を吹き返したように、わたしは目を覚ました。


(……知らない天井、知らない寝台)


 香りの正体は、枕もとで()きしめられた伽羅(きゃら)の香。

 馬すら飼えないあばら小屋にくらべれば、快適すぎる環境だ。


「見た? あの痩せっぽちな娘……」

「あれが『桃娘』? 東宮(とうぐう)さまはおとぎ話を信じておいでなのかしら」

「人間の世話なんて、適当にすませておきましょうよ」


 ──目覚めの気分は、べつとして。


「おはよう、ございます」


 重いからだに鞭を打って、寝台から起き上がる。


「あら、お起きになられましたの」


 部屋の隅で声をひそめていた侍女たちは、何事もなかったかのようにふるまった。


(獣の耳……狼だ)


 目の前にいる彼女らは一見して人間だが、大きな三角耳に、ふさふさの尾を生やしている。


(あれが獣人。はじめて見るわ)


 それもそうか。

 柳王朝が治める世において、獣人は卑しい存在とされていたのだもの。


(人と獣、どちらの姿も取れると聞いたけれど……(おびや)かす相手がいないのなら、これも納得ね)


 柳王朝は滅んだ。

 その事実が、じわじわと現実味をおびる。


「お目覚めになったのなら、さっさと支度をなさいませ」

「じきに東宮さまがおいでになります」

「東宮さま、というのは……?」


 はぁ……と、盛大なため息。

「そんなこともわからないのか」と、わたしを軽蔑するまなざしが、三人分。


「宵月さま。わが狼族の皇帝陛下であらせられます」






 部屋の外は、青々としげった景色。

 雨でも降ったのだろうか。

 濡れた若葉のにおいが、さやかなそよ風に乗って格子の透かし窓から入り込む。

 射し込む陽光は、これから肌がひりつくほど強く照るだろう。


「夏……か。昨日まで冬だったのに」


 身支度を終えるころ。

 ひとり残された部屋で、ぽつりとつぶやく。


「入るぞ」


 それからすこしもせず、部屋の扉が開け放たれた。

 コツコツと履音(くつおと)を立て、夜色の髪の青年が姿を現す。


「……ご足労痛み入ります、東宮さま」


 わたしはひざを折り、深々と叩頭(こうとう)する。


「顔を上げろ」


 昨夜も耳にした声が、頭上にふり注ぐ。

 一切の隙を感じさせない、低い響きだ。


「はい」


 顔を上げろと言われたら上げろ。

 踊れと言われたら踊れ。

 言われたとおりにするだけだ。

 居住まいを正せば、自然と視線が合う。


(やっぱり……きれいな顔立ち。そして、冷たいひと)


 東宮さまに、獣の耳や尾は見られなかった。

 ひと目見ただけでは、わたしとなんら変わらない人間そのものだ。


『知能のある獣ほど、人に()()()のがうまい』


 まだあばら小屋で暮らしていたころ。

 城の衛兵が、獣人について話しているのを聞いたことがある。

 要約すれば、獣人族のなかでも、東宮さまは優れた血すじをお持ちというわけだ。


「現状を説明してやる」


 東宮さまはそう言うやいなや、護衛らしき兵士たちを下がらせた。

 逃げ出したところで、入り口で待ちかまえた屈曲な男たちに捕まるだけ。

 ならばわたしが選ぶべき最善の道は、東宮さまのお話に傾聴することだ。


「この皇城は、獣人族たちがそれぞれ宮をかまえている。そして俺たち狼族が治める東の宮近くに、突如としておまえが現れた」

「……それで、東宮さまがわたしの身柄をあずかることになった、と」

「そういうことだ。ほかに聞きたいことは」

「はい……?」


 どうやら、わたしにも多少は発言権があるらしい。

 すこしと言わず驚いたけれど、それなら。


「では……宮をかまえる『獣人族たち』、というのは」

「南を(イン)族、西を(フー)族、北を(シオン)族が守っている。俺は東を守る狼族の長ゆえ、東宮と呼ばれている」

「同じ皇城内に、よっつの種族が……それぞれに(みかど)がいらっしゃるということですか?」

「そうだ。ともに憎き柳王朝を討ち果たした四家(しか)が手を取り合い、(まつりごと)を行っている。わが天陽国(てんようこく)は、そうして百年ものあいだ栄えてきた」

「天陽国……」


 もちろん、聞いたことのない国の名だ。


(でも昨晩見た池……あれは、『幽池』だったわ)


 名残りはある。ここはわたしが暮らしていた皇城なのだろう。

 獣人族が治めるようになって、ずいぶんと様変わりしてしまったようだけれど。


「滅びた王朝の姫が池の底から現れるなど、荒唐無稽な話だが。俺が求めることは、ただひとつ」

「……わたしは、なにをすれば」

「俺の子を生め」

「子を……は、い?」

三月(みつき)猶予をやる。満月がもっとも輝く夜──中秋節までに俺の子を宿すことができれば、自由の身にしてやろう」

「もし……叶わなかったら?」

「──その首を噛みちぎる」


 月色の瞳が、鋭い眼光を放つ。

 腕を組みわたしを見据える東宮さまは、本気だ。

 どくん。

 胸が、大きく脈打った。


(わたしが、この方の子を生む……)


 そう考えたら、なんだか……


(わたしが……子を、生む)


 なんだか無性に、胸が震えた。


「どうした。恐怖で声も出ないか」

「……す……」

「当然だな。狼族の子を生むなど、恐ろしいに決まって──」

「……ありがとう、ございます」


 気づいたら、そんな言葉が口からこぼれていた。

 ぽろぽろ涙があふれるのは、怖いからじゃない。


「──は?」

「わたし、だれにも見向きもされなかったんです」


 なにも残せず、何者にもなれず。

 柳李花は、そうして独り寂しく息絶えるものだとばかり思っていた。

 そう、わたしは独りぼっちだった。

 独りは……寂しい。


「でも、東宮さまはわたしに、家族を授けてくださるのですね」

「狼族の血を引く子を、だぞ」

「かまいません。わが子に違いはないのですから」

「……なんだと」


 理由はなんだっていい。

 必要とされるなら、こんなにうれしいことはない。


「東宮さま、わたしがんばります。きっと子を孕みます」


 だから、どうか。


「どうかお願いです。わたしのことは愛してくださらなくて結構ですから……子が生まれたなら、その子をめいっぱい愛してくださいませんか?」

「…………」


 深々と頭を垂れ、しばらくの沈黙の後。


「……ずれている。常識的に考えて、ふつうは嫌がるものを」


 呆れたようなため息が、頭上で聞こえた。

 だけど、「まぁいい」と続く声音は、半音高くなった。

 面白がるみたいに。


「後宮で媚びへつらう女どもより、胆が据わっていることはたしかだ。その虚勢がいつ崩れるか、見物だな」

「虚勢だなんて、そんな」

明日(みょうじつ)、婚礼をとり行う」

「……急ですね」

「時間は有限なのでな。大口を叩いたのなら、相応の働きをしてみせろ」


 きびすを返す気配がする。

 ふと見上げると。


「いいか、これはひとときの契約だ」


 そう釘を刺すようにして、東宮さまは去っていった。






 その夜。わたしは肩まで湯につかり、ほぅ……と息を吐いていた。


「湯殿を使うなんて、はじめて……」


 これまでは、三日に一度井戸水で髪をすすぎ、からだを拭くのがせいぜい。

 そんなわたしが、湯殿をぜいたくに貸し切るだなんて。破格の待遇続きだ。


「それにしても……本当にどうしたのかしら、この髪」


 湯船に浮かぶ薄桃の髪を、すくい上げる。

 ここに来てから、突然色を変えた髪。


(東宮さまは『桃娘』がどうとか言っていたけど……伝説の乙女? そんなの知らない)


 聞きそびれてしまった。

 明日にでも、東宮さまにたずねてみよう。

 ……教えてくれるかしら。


「──やだ。東宮さまがあの人間の小娘を娶られるって、本当だったの?」


 そんなとき、ふいに聞こえてきた声。


「本当よ。でもまぁ、呪われたいまの狼族は、つがいと子を成せないのだし」

「生贄だと思えばいいってことね」


 今朝も部屋でうわさ話をしていた、侍女たちの声だ。


(どういうことかしら)


 耳を傾けてみる。

 だけど、人間より五感が鋭いのか。

 ぴくりと獣耳を反応させて、侍女たちがわたしをふり返った。


「そろそろお部屋に戻られては? のぼせてしまいますわよ」


 わざとらしく着替えの夜着を差し出される。


「ありがとうござ──」


 が、伸ばした手はなにもつかめず。

 夜着は、ぱさりと湯船へ。


「これは失礼いたしました!」


 くすくすと、笑い声が耳に届く。


「いえ。だれにでも失敗はありますから」

「……はぁ?」


 わたしは湯船から上がると、濡れた夜着を思いっきり絞る。


(裸で出歩くより、ましね)


 あらかた水分が抜けたところで、しわしわの夜着を羽織った。


「ちょっと……ばかにしているの!?」


 わたしの言動が気にさわったらしい。

 責めたつもりはないのだけれど。


「ばかになんかしてません」

「それなら、生贄らしくおりこうになさっていたら!?」

「生贄……といいますと」

「狼族の男の子を宿した女はね、死ぬのよ。だれひとり、例外なくね!」

「それはおかしいですね」

「なんですって?」

「三月以内に子を宿さなければ、わたしは首を噛みちぎられ死ぬのだそうです。けれど、子を宿しても死ぬというのなら、契約の意味がない。東宮さまが嘘をついていた、ということになります」

「それはっ……!」

「まだ、お話には続きがあるのではないですか?」

「人間風情が、知らなくていいことよッ!」


 桶を投げつけられる。

 それは左のほほをかすめ、背後の壁に激突。


「もう行きましょう」

「ふんっ!」


 憤慨した侍女たちは、鼻息も荒く湯殿を飛び出してゆく。


「わたしはここでも、歓迎されないのね……」


 また置き去りにされてしまった。

 全身から生温かい雫をしたたらせながら部屋に戻ろうとして、ぎょっとする。

 だって、だれが予想できるっていうの?


「なんだ、その格好は」


 湯殿からの帰り道で、くだんの東宮さまと遭遇するなんて。

 いえ、この宮の主は彼なのだから、どこにいてもおかしくはないのだけれど。


「──世話役の侍女はどうした」


 そのときの東宮さまといったら、もう。

 声は地を這うように低く、阿修羅のような形相だった。






 翌朝。

 この日の目覚めは、またすこし違ったものだった。


「おはようございます。昨晩はよくお眠りになられましたか?」

「おかげさまで……?」


 にこにこ、にこにこ。

 やたら満面の笑みを浮かべた美男が、わたしの部屋にやってきた。


「申し遅れました、僕は四蓮(スーリェン)といいます。いや〜、昨日は宵月、じゃなかった東宮さまがブチ切れて大変でしたね。まぁ侍女たちの自業自得なんですけどね!」

「は、はぁ……」

「そんなこんなで、李花さまのお世話をおおせつかりました。あ、東宮さまにパシられてるけど、僕は白猫の(マオ)族なんです。数少ない友だち代表ってことで! 東宮さまの!」

「よろしくお願いします……?」

「こちらこそ〜!」


 四蓮さまは、白金の髪がまぶしい美男だった。

 同じ美男でも、おしゃべりなところは東宮さまと正反対だ。


(東宮さま……あんなにお怒りになるなんて)


 全身ずぶ濡れで湯殿から出てきたわたしを見て、問答無用で侍女たちを呼びつけて。


『──この娘の侍女を呼べ、即刻だ』


 ……はじめてだった。


(だれかに気にかけてもらったのは、はじめて)


 だから、かん違いしてしまいそうになる。


(……東宮さまがわたしを気遣ってくださったのは、べつに好意があるからじゃない)


 わたしたちは、昨日今日知り合った間柄。

 契約ありきの結婚をするのだから。

 ……愛なんてもの、求めてはいけない。


「さてと。朝食の前に白湯をお持ちしますね。座って座って!」

「あ……はい」


 うながされるまま長椅子に腰かければ、あたたかい白湯が運ばれてくる。 

 四蓮さまはてきぱきとお世話をしてくださる。

 わたしも気を取り直して、茶杯(ゆのみ)を受け取った。


「あぁそうそう。本日の婚礼の儀についてなのですけども、こちらが日程になっておりまして」


 ふいに、書面が目前に差し出される。


「これはご丁寧に──えぇと」


 視線を移して、どうしたものかと困る。

 そのとき。

 一瞬、ほんの一瞬。

 四蓮さまのまなざしが、鋭くなった……気がした。


(気のせい……?)


 本当にわずかな違和感だ。

 疑問は残るけれど……


「すみません。文字だと頭に入らないので、口頭で教えていただけますか?」


 極力、当たりさわりのない言葉を選ぶ。


「そうでしたか。ではご要望どおりに!」


 そのころには、朗らかな四蓮さまに戻っていた。

 多くは聞かれなかった。

 内心、ほっと息をつく。


(呆れるわよね。字が読めないだなんて……)


 教養のない娘だと知ったら、東宮さまは幻滅なさるだろうか。

 人知れず鬱々としていたら、脈絡もない話題が振られる。


「これは世間話なんですけどね。僕は東宮さまと同い年で、今年で二十四なんです」

「わたしは十八です」

「結婚適齢期ですねぇ、お互い!」


 意図をはかりかねていると、ふいに手がふれる。

 ひと回り大きい男のひとの手が、わたしの右手を取って。


「──心細ければ、僕がいつでもお慰めしますからね」


 手の甲に口づけを落とされたかと思えば、紫水晶のような双眸(そうぼう)が間近に迫る。

 瞳孔が細く突き抜けた、ひとならざる者の瞳だった。


「……離して、いただけますか」

「どうして?」

「仮にもわたしは東宮さまに嫁ぐ身。軽率な行動は、不義理になります」

「ざーんねん」


 ぺろ。いたずらっぽく舌を出して、四蓮さまがわたしの手を離す。


「ま、僕が李花さまの味方なのは変わりありませんので。そこは安心してくださいね」

「四蓮さま……」

「それじゃあ朝食をお持ちします。婚礼の儀の説明はそのときに!」


 言うが早いか。

 四蓮さまは体重を感じさせない軽やかな足取りで、部屋を後にする。


「……つかみどころのないひと」


 いいように言いくるめられたわたしは、知るよしもない。


「──ふぅん。けっこう手強いじゃん」


 扉一枚をへだてた向こう側で、彼がなにをつぶやいていたかなんて。






 澄んだ蒼空に、太陽が南中するころ。

 狼族のみに知らされた婚礼の儀は、つつがなくとり行われた。


(このなかに、わたしたちを祝ってくれるひとがどれだけいることだろう)


 祝いの口上も、楽のしらべも、舞もなく。

 そろいの真紅の衣裳を身にまとい、ただただ厳かな空気のなか、盃を交わし合う。

 かたちばかりの婚礼が終われば、いよいよ後戻りはできない。

 ──夜が、やってくる。






 紺青の闇に、欠けた月が浮かぶ夜ふけ。

 香がただよう部屋にて、東宮さまを待つ。


(愛されなくてもいい)


 身寄りも教養もない。

 わたしにあるのは、この身ひとつだけ。


(契約のためだけの関係だとしても……わたしは)


 覚悟は、決まった。

 そうして迎えた初夜。


「精一杯、つとめさせていただき……」

「──痩せ我慢はよせ」


 部屋を訪れた東宮さまが、抑揚のない声で遮る。

 とんっと肩を押され、わたしは、あっけなく寝台へ沈み込んでしまった。


「本当は恐ろしいんだろう、俺が」


 寝台が軋み、東宮さまに組み敷かれる。


「恐ろしい……?」

「まだ虚勢を張るつもりか」


 わたしを見下ろす月色の瞳には、苛立ちがにじんでいた。


「狼は月明かりに狂う。今宵の俺は高ぶっているからな。嘘偽りは吐かないほうが身のためだぞ」

「っ……!」


 まばたきのうちに、両手首が寝台へ縫いとめられる。


「いまさら逃げられると思うなよ。おまえの命は、俺がにぎっているのだからな」


 東宮さまの目は血走り、口のすきまからは鋭い牙がのぞく。

 そしてなにより。ひとならざる獣の耳が、夜色の毛を逆立てていた。


(これが、東宮さまの真のお姿……)


 まさしく、ひとの姿をした獣だ。

 ぞわぞわと、肌が粟立つのを感じる。


「滑稽だな。俺たちの祖先を(さげす)み、(なぶ)り、食いものにしてきた人間が、手も足も出せないとは」

「東宮、さま……」

「命乞いをしてみろ。さもなくば、醜い獣に手酷く犯されるぞ」


 ……圧倒された。

 東宮さまの気迫は、本物だった。

 だからこそ。


「無礼を承知で、申し上げます」

「言ってみろ」

「東宮さまが人間(わたし)を憎むのは、至極まっとうなことでは?」

「……なに?」


 永い歴史のなか、獣人は酷く迫害されてきた。

 その憎悪が、たったの百年そこらで払拭できるものとも思えない。

 ちっぽけなわたしに、東宮さまのお怒りを否定する権利はない。

 けれど。


「東宮さまは、ひとつかん違いをしておられます。わたしが、嫌々ここにいるということです」

「よもや、違うとでも?」

「違います」


 これまでのわたしなら、なにも言わず、ただ流れに身をまかせていただろう。

 余計なことを口走れば、折檻されるとわかっていたから。


『ほかに聞きたいことは』


 東宮さまは違った。

 わたしの意思を問い、意見することを認めてくださった。

 だからわたしは思ったの。


「東宮さまには、親身にしていただきました。わたしがここに来てから、ずっと」


 わたしの気持ちを、この方にお伝えしたいって。 


「広い寝台に、あたたかい食事、きれいな衣……本当に、いろんなものを与えていただきました」

「俺がここへ来てから、身を強ばらせていたくせに」

「たしかに、未経験ゆえ緊張はしておりますけれど……東宮さまに感謝こそすれ、恐れを抱くなどあり得ません」

「……おまえ」

「わたしがここにいるのは、あなたさまとの子を望んでいるからです。わたしも、東宮さまにお返しがしたいのです」

「──ッ!」


 はじかれたように、東宮さまがはね起きる。

 わたしを映した月色の瞳は、驚愕と戸惑いで揺れていた。


「また、世迷い言を……」


 東宮さまが、寝台から足を投げ出そうとする。


「お待ちください……!」


 ここで終わりにしたくない。

 その一心で、東宮さまの腕をつかんで引きとめる。 


「気づいていらっしゃいますか? 東宮さまは威嚇ばかりで、乱暴は一切なさっておりません」

「……やめろ」

「わたしには、東宮さまがわざと嫌われようとしているように見えました」

「やめろッ!」


 怒号が夜闇を揺らす。

 やがて静けさが戻った部屋で、橙の灯明が、頼りない人影を映し出す。


「嘘をつくな。どうせおまえも俺を穢らわしいと思っているんだろう」

「どうか、落ち着いて」

「おまえも、俺を恐れて逃げ出すんだろう! 俺が呪われているから!」

「東宮さま!」


 なにを言っても、届かない。聞こうとしてくれない。

 まるで、頑なになっているこどものよう。

 そのさまが、記憶のなかの幼いわたしに、重なる。


(あぁ、そうか……彼は)


 お願いです、一度だけでいい。

 これだけは、伝えさせてください。


「東宮さま──宵月さま!」


 名を呼んだとたん、半狂乱になっていた彼がはたと息を止める。

 つかんだ手は、振り払われなかった。


「なぜ……俺にかまう」

「宵月さまは、わたしのかわりに、侍女を怒ってくださいました」

「……俺はただ、怠惰にかまけた配下を罰しただけだ」

「そうですね。他意などないと、わたしもすこし寂しく感じていました。でも、こうして宵月さまと話していて、気づいたんです」

「……なにを」

「宵月さまが、寂しがりやだということです。わたしも同じだからわかります」

「おなじ……?」


 わたしの言葉を反芻(はんすう)する宵月さまは、幼く見える。

 

「母さまにかまってほしくて、いじけていたわたしと同じです」


 ──ごめんね、李花。今度こそ、舞を教えてあげるわ。

 ──いいもん、ひとりでお稽古できるもん。


 いまとなっては、過ぎ去ったあのころ。

 本当は一緒にいたいのに、言えなくて。


「それって、『心配させたくない』って気持ちが、根っこにあったからなんです」


 手のひらで宵月さまのほほを包み込み、まっすぐに視線を合わせる。

 夢中で語るわたしを、宵月さまが呆けたように見つめていた。


「わたしみたいに、『あのとき素直に言えばよかった』って、後悔してほしくないです」

「…………」

「だから、ほんのちょっとでもいいです。わたしに、宵月さまの気持ちを教えてもらえますか?」


 長い長い、沈黙。

 視線を伏せた宵月さまが、ためらって、それでも口をひらく。


「俺は……呪われている。俺には、毒がある」

「毒……ですか?」

「唾液に含まれる猛毒だ。狼族の雄だけが持つ」


 ぽつりぽつり。

 時おり詰まりながら、宵月さまは打ち明けてくれる。


「だが、俺たち狼族には習性があって」


 そして、衝撃的な事実が告げられる。


「狼族の雄は、愛情表現で、つがいに噛みつくんだ。これは本能によるもの。けっして抗えない」

「それは、つまり……」

「俺は……愛した相手を、死に至らしめてしまう。心の底から愛しい者を、愛することができないんだ……っ!」


 宵月さまは整った顔を歪め、夜色の髪をくしゃりと掻きむしる。


 ──狼族は呪われている。

 ──狼族の男の子を宿した女は、死ぬ。


 すべてが、つながったようだった。


「狼族として、俺は後世に血を残さねばならない。だが、愛する者とつがいにはなれない。それなら、おまえを利用すればいいと思った」

「宵月さま……」

「憎き人間が相手なら、心を動かされることはない。良心も痛まない。ただ子を生ませるだけの(はら)なのだから、おまえが拒絶するなら、恐怖で従わせればいいと……思って、いたのに」


 しだいに、宵月さまの顔が悲痛に歪んでゆく。


「もうやめてくれ。意地汚く利用しようとしたのは俺なんだから……これ以上、俺の心に入ってこないでくれ……」


 手のひらで顔を覆って、「見ないでくれ」と。

 わかってる。無理強いすべきじゃないって。

 それでも、このまま宵月さまを放っておくなんて、わたしにはできなかった。


(わたし……宵月さまのこと、冷たいひとだと思ってた)


 でも、そうじゃなかった。

 大切なことが、見えていなかった。


「宵月さまは、やさしくて、あったかい方ですね」

「俺、が……」

「わたしでよければ、ここにいます。……大丈夫」


 腕を引いて、倒れ込んできた宵月さまを抱きしめる。


「宵月さまの気持ち……教えてくださって、ありがとうございます」

「っ……!」


 わたしの胸に顔をうずめた宵月さまは驚いて、それから、ぼんやりと月色の瞳を細めた。


「おまえは……俺を、拒絶しないのか」


 へたりと、黒い三角耳が伏せる。


「甘い香りがする……」


 すんすんと嗅がれたあとは、とろんとした表情ですり寄られる。

 小動物みたいで可愛らしいと言ったら、怒られるだろうか。

 そんなとりとめもないことを考えていた、この夜。

 宵月さまの腕が、わたしの背に回されて。


「……李花」


 はじめて、名を呼んでもらえた。

 たったそれだけなんだけど。


「はい、ここに」


 胸の奥のやわいところにふれられて、ふわふわとした気分になった。




  *  *  *




 ──夜が苦痛でしかなかった。

 心安らかでいられる夜など、あるはずがなかったのに。


「……李花」


 寝台で眠る少女の白いほほに、指先でふれる。

 すこしふれただけだというのに、ふわりと、甘い香りが舞う。

 みずみずしい果実に似た香りだ。

 伽羅の香が薄れても、かたわらにある甘やかな香りとぬくもりは、変わらぬまま。


「っ……俺は、なにをしているんだ」


 嫁入り前の娘に、ぶしつけにふれるなど。

 いいや、俺が嫁にもらったのだったか。

 あぁもう、違う。

 自分で自分がわからない。


(これ以上は、よくない気がする)


 直感的に判断して、部屋を出る。

 むろん李花を起こさぬよう、足音を消して。

 まだ薄暗い明け方。

 自室に戻ると、あるはずのない人影があった。


「よっ! イイ顔してんね。昨晩は愛しの姫君としっぽりやれたか〜い?」

「……俺の部屋だぞ。不法侵入はやめろと何度言えばわかる、四蓮」

()()()親友じゃん。つれないこと言わずに仲良くしようぜ〜」


 案の定。長椅子に腰かけ我が物顔でくつろいでいたやつは、友という名の腐れ縁だ。

 四蓮は自由気ままな男だが、俺の前では特に奔放だ。

 具体的には、猫を被るのをやめる。


「無駄話はいい。さっさと要件を言え」

「はいはい、なにから話すかな」


 適当に椅子を引いて座れば、四蓮が「あ!」と長椅子の背もたれから身を起こす。


「おまえに言われて李花ちゃんのお世話してただろ? 魔が差して誘惑してみたんだけどさ、フラれちゃった!」

「──あ?」

「いやぁ、俺渾身の色仕掛けをかわすなんて、大物だねぇ!」

「──何をしとるんだ貴様は」

「あははー! 親友に向ける殺気じゃないぞー!」


 唐突な発言に、殺意がわく。

 もちろん四蓮が気にとめる様子はなく、ペラペラとおしゃべりを続ける。


「ぼんやりした子だなぁと思ってたけど、なかなか骨があるじゃん。いいんじゃない? おまえの子作り相手にさ」

「……その話は保留だ」

「なになに? ほだされちゃった?」

「…………」

「宵月ってほんと、わかりやすいよなー!」

「うるさい」


 ケラケラと笑っていたかと思えば、つと四蓮が真顔になる。


「冗談はこのくらいにして、本題に入るけど」


 四蓮はふざけたやつだが、並外れた洞察力を持つ。

 ゆえに俺の腹心として、情報収集をになう。


「李花ちゃんさ、いままでろくな生活送ってないよ。第一に痩せすぎ。毎日まともな食事にありつけていたかどうかすら怪しい」


 それは、薄々感づいてはいた。

 だからこそ「ささいなことも報告するように」と侍女に言いつけたというのに。

 ……そろいもそろって、役立たずが。


「第二に、李花ちゃんは字が読めない」

「なんだって?」

「ほんとだよ。口にするのもはばかられるような罵詈雑言集をうっかりお目見えしちゃったけど、理解できてなかった」

「幼子ならまだしも、字が読めないだなどと」

「信じらんないよね。でもさ、識字率が飛躍的に上がったのは、俺たち獣人族が治めるようになったここ数十年の話だろ?」

「……まさか」


 四蓮がなにを言わんとしているのか、わかってしまった。


「最後に。柳王朝についての文献を片っぱしからひっくり返してきた。そしたらなんと、歴代の系譜で、不自然に消された箇所を見つけました」

「つまり……記録から抹消された皇族がいると」


 ──わたしは、柳李花と申します。


 いまだからこそ断言できる。

 李花は、嘘偽りを口にする娘ではないと。


「さらに言えば。李花ちゃんの母君、北方の出身らしいね。おまえがご執心な伝説発祥の地だ」

「『桃娘』……」


 その身にたぐいまれなる癒やしの力を宿しているとされる、伝説の乙女。

 俺たち狼族とは、浅からぬ縁のある存在……


「李花、おまえは本当に──……」




  *  *  *




 ──あるところに、心優しい少女がいました。


 少女は、どんな傷や病もたちどころに治す不思議な力で、あらゆるものに手を差し伸べます。


 やがて、桃の実のように淡い髪を持つ少女を、ひとびとはこう呼ぶようになりました。


『桃娘』──と。




「数百年をこえて受け継がれる物語、『桃娘伝説』でした。ご清聴ありがとうございました、 東宮妃(とうぐうひ)さま」

「あの、四蓮さま」

「どうかなさいましたか、東宮妃さま」

「その呼び方、なんだか落ち着かなくて……ふだん通りに接してくださって大丈夫です」

「ではお言葉に甘えて。李花ちゃんはやさしいねー!」

「貴様は馴れ馴れしすぎだ、馬鹿者」


 わたしが狼族の治める東宮にやってきて、早ひと月がたった。

 なにか進展があったかと問われると──現状がこれだ。


「あのなぁ、俺を李花ちゃんのお世話係兼教育係にしたのは、宵月だろ? 真面目に仕事してるだけなのに睨まなくてもよくなーい?」

「喉が渇いた。茶を汲んでこい」

「はい出た暴君。李花ちゃんに嫌われても知らないぞー!」

「余計な世話だ」


 見ての通り。

 勉強を教えていただいていたら、宵月さまと四蓮さまが喧嘩を始めてしまった。


「わたしがいると、気が散ってしまいますよね……」

「俺の部屋にいてもいいと俺が言った。おまえに腹を立てているわけじゃない」


 わたしには教養がない。

 しかし宵月さまの妃となった以上、このままではいけない。

 そう思って宵月さまに『相談』したところ、「俺の目の届く範囲にいるなら、なにをしてもいい」とおっしゃってくださって。

 こうしてわたしは、宵月さまが政務に励まれるお部屋の片隅で、四蓮さまの授業を受けていた。

 ……のだけれど。


「そうよね。出来の悪い小娘に出歩かれたら、困るもの……」

「……あのな、李花」


 ため息が聞こえた。

 かと思えば、宵月さまが席を立ち、わたしのいる窓際の卓へやってきて。


「うつむくな! 背すじを伸ばせ!」

「ひゃ……!?」


 一喝。

 わたしは驚きのあまり、椅子から飛び上がってしまう。


「俺は獣人族でも最強と謳われる狼族の長だぞ。その俺に啖呵を切ったおまえが、なにを恐れることがある」

「宵月さま……」

「胸を張れ、堂々としていろ。おまえは俺の妃なのだから」

「っ……」


 ひざをつき、わたしと目線を合わせた月色の瞳が、目前に迫る。

 あぁ……やっぱり。

 宵月さまは厳しくも、優しい。


「はい……宵月さま」

「ならばよし」


 そしてふいにはにかんで、わたしの胸を高鳴らせる。


(……熱い)


 ほほが火照るのが、わかる。

 独りは寒くて、寂しかったのに。


「水を差すようで申し訳ないけど、俺の存在忘れないでね、おふたりさん」

「すっ……四蓮さま!?」

「おまえはどこからでもニョキニョキ生えてくるな、(たけのこ)か」

「お茶をお淹れしましたー、はいどうぞ!」


 宵月さまにも遠慮がない軽妙な言葉遣い。

 これが、四蓮さまの素のお顔らしい。

 慣れた手つきで四蓮さまが卓に置いた茶杯(ゆのみ)からは、かぐわしい香りがただよう。

 

茉莉花(ジャスミン)のいい香り……わたし、四蓮さまの花茶、すきです」

「愛の告白かな……結婚しちゃう?」

「そ、そんなつもりは……!」

「こう見えて俺、けっこう尽くす男だよー?」

「──四蓮」

「許されてるんだからいいじゃん、重婚」

「それは猫族に限った話だろうが」

「女児が生まれにくくて困ってるんですぅ、猫族(おれたち)が女の子を大事にするのは本当ですぅ」


 くちびるを尖らせながら、四蓮さまも椅子に腰かける。

 そして卓にひじをついて、おやつの包子(パオズ)をつまみ始めた。


「それで李花ちゃん、『桃娘伝説』について知りたいって話だったけど、なんかわかった?」

「いえ……はじめて聞くお話でした」


 ここにやってきてから、突然色を変えたわたしの髪。

『桃娘』は、くしくも同じ桃色の髪を持つ乙女だという。

 その言い伝えをたどれば、原因がわかるかもしれないと思ったのだけれど……


「『桃娘伝説』は、北方の地が発祥だってさ」

「たしかに、母は北方の出身だと聞いています。でも、これといって故郷の話はしませんでしたし……あ」


 ひとつだけ、言っていたことがあった。


「母の名は、李霞(リーシャ)といいます。わたしたちの一族は、娘が生まれるとかならず『李』と名づける……そう言っていました」

(すもも)か。桃に似てはいるけど」

「似て非なるもの、ですね。すみません、ふと思い出したもので、つい」


 とりとめもない話だ。おそらく関係はないだろう。


「李花ちゃんのお母さんは、どうしたの?」

「……いなくなりました」

「いなくなった?」

「はい、わたしが七つのときに」


 なぜわたしを置いていってしまったのか。

 母さまに、なにが起きたのか。

 わたしは、なにも知らない。


(たずねたところで、教えてくれるひとなんていなかったもの…………ん?)


 そこで、ふと気づく。

 宵月さまが、難しい顔で黙り込んでいることに。


「どうされました……?」

「李霞……その名を、どこかで聞いたことがあるような気がする」

「本当ですか!?」


 思わぬひと言に、わたしは身を乗り出してしまう。


「どこで聞いたのだったか……日記を読み返せばわかるかもしれん」

「日記……宵月さまの、ですか?」

「こいつ筆まめなんだよ。意外だろ?」

「意外は余計だ、四蓮」


 ぴしゃりと言い放ったのち、宵月さまは部屋を出て行かれる。

 向かった先は、書斎の方角だ。

 宵月さまの背を見送って、四蓮さまがつぶやく。


「狼族ってのはさ、気性が荒い種族なんだ。特に酷い迫害を受けていたから、学がなくて字が読めないやつも多かった」


 紫水晶のまなざしに、からかいの色はない。


「でも宵月は、狼族にしては温厚な性格だと思うよ。学ぶことにも意欲的だった。いまだに『古き良き狼族ガー!』とかわめいてる連中もいるけど、俺は、あいつがあいつだからここにいる」


 時代は移ろってゆく。

 その分岐点に立たされたとき、ひとはどの道を選ぶのか。


「変化を恐れずに受け入れてゆく……おふたりとも、すてきです」

「ははっ、照れちゃうね」


 飄々と涼しげな面持ちを崩さない四蓮さまが、すこし耳を赤らめていて。

 ……まぶしいな、と思った。


(宵月さまのこと、もっと知りたい……)


 そんなことを求めてしまうわたしは、欲ばりなのだろうか。






 寝台でひとり、横になる。

 目を閉じてしばらく。

 夜ふけに、かすかな物音で目を覚ました。


「……宵月、さま?」

「起こしてしまったか」


 宵月さまは、毎日遅くまで政務をされている。

「先に休んでいろ」と言われていたものの……


「気にするな。俺もすぐに寝る」


 夜着姿でやってきた宵月さまは、そういって寝台に寝ころぶ。わたしに背を向けて。

 こうした夜を重ねるたびに、胸がツキンと軋む。


「今夜も……抱いてくださらないのですか」

「うぐ……」


 ひと月だ。ひと月もたつというのに、わたしは役目を果たせていない。


「わたしに、魅力がないからでしょうか……」

「李花……」

「どうすれば、宵月さまのお役に立てますか……?」


 いけない……泣いている場合じゃないのに。

 心細くて、宵月さまにすがってしまう。


「あぁもうっ──おまえというやつは!」


 宵月さまが声を張り上げた後、視界がぐるりと回る。


「…………え?」


 わたしは、仰向けに転がされていた。

 馬乗りになった、宵月さまによって。


 宵月さまといえば、冷静沈着。

 めったに声を荒らげることのないお方だ。

 そんな彼が、揺れ動く月色の瞳で、落ち着きなくわたしを見下ろしている。


「おまえは、ちいさいだろうが」

「ちびで痩せっぽちなのは、自覚しておりますが……」

「そうではなく! 野に咲く花のように、気づけば手折(たお)ってしまいそうで……」

「……?」

「要は俺がふれると壊れる! そう思ってふれずにいただけだ、悪いか!」


 一瞬、なにを言われたのかわからず。

 宵月さまの言葉をゆっくり理解して、こそばゆくなった。


「ふふ」

「……なぜ笑う」

「ほっとしたんです」


 嫌われたわけじゃなくて、よかった。


「野に咲く花は、案外生命力が強いんです」


 手を伸ばし、宵月さまのほほにふれる。


「好きにしてくださって、かまいませんから……」


 宵月さまになら、すべてをさらけ出せる。

 ……ふれてほしい。


「俺と口づけると……死ぬぞ」


 それなのに、この期に及んでそんなことをおっしゃるから。


「それも、本望です」


 わたしも頑として、譲らなかった。


「ばかなやつ……」


 言葉とは裏腹に、優しい声音だった。

 ふいに月色の視線を伏せた宵月さまが、顔を近づけてくる。

 ……ふに、と。

 やわらかいものが、わたしの右のほほにふれた。


「おまえの甘い香りは、俺をおかしくさせる……」

「ん……っ」


 かすれた声でつぶやいた直後。

 宵月さまは、わたしに口づけた。

 わたしの口を覆った、手のひら越しに。


(どうして……?)


 温度のない口づけが、もどかしくてたまらない。


「子作りをするつもりはない」


 宵月さまは、静かな声音で、わたしに現実を突きつける。


「おまえの人生を背負うには、俺はおまえに関して無知すぎる」

「…………え」


 かと思えば。

 続くひと言で、わたしの心をつなぎとめて。


「俺は、おまえのことが知りたい」


 月色のまなざしに、射止められてしまう。


「おまえのことを教えてくれ、李花」


 ──宵月さまのことが、知りたい。


 ……あぁ。

 どうしよう。


(宵月さまも、わたしと同じ気持ちでいてくれた……)


 こんなにうれしいことって、ない。

 胸が、魂が、震える。


「ごめんなさい、わたし……なにを言えば、いいのか……」

「べつになんでもいい。おまえが好きなものとか、嫌いなものとか」


 感極まって涙ぐむわたしを、宵月さまは急かさない。

 向かいあうように寝ころんで、大きな手のひらでわたしの背をさするだけだ。


「そう、ですね……嫌いな食べ物は、ありません。なんでも食べます。ただ……」


 ──得体の知れない北方民族の血を引く娘なんて、だれも相手にするわけないでしょう。

 ──いやだわ、あんなぼろ布のために。


「寂しかったり、だれかの大事なものをないがしろにするひとは、嫌いです」


 無自覚のうちに、暗い表情をしていたのだろうか。

 瞳からこぼれそうになった涙を、長い指先がぬぐう。


「おまえには、大事なものがあるんだな」

「……はい。母さまの、領巾が……舞が得意なひとだったから、わたしにも教えてくれました」

「舞ができるのか」

「……すこしだけなら」

「俺はまったく舞えん。それにくらべれば、えらいものだ」

「独特な価値観をお持ちですね……ふふっ」


 大真面目に言うものだから、笑ってしまった。

 すると宵月さまも「ふ……」と口もとをほころばせ、わたしを抱き込んだ。

 すりすり。宵月さまのほほが、わたしのほほに擦りつけられる。


「あの、宵月さま……なにを?」

「俺のにおいをつけている。変なやからが、俺のものに手を出さないように」

「おれの、もの…………えっ」


 カッと、全身が発火したかと。

 なんだかいま、ものすごく。

 この場から、逃げ出してしまいたい。


「宵月、さま……」

「おまえ、俺を誘惑しておいて逃げるつもりか? 逃げられたらちょっと寂しいぞ」

「寂しいのは、嫌ですね……」


 逃亡失敗。

 すごすごと、寝台の定位置に戻る。

 そうしてわたしは、すっぽりと宵月さまの腕におさまった。


「おまえを害するやつがいるなら、俺が守ってやる」


 さらり、さらり。

 長い指先は、いつしかわたしの髪を梳いていた。


「だから李花、気が向いたらでいい。おまえの舞を、俺に見せてくれ」


 たくましい胸に抱かれ、思いきり呼吸する。

 宵月さまの香りが、ぬくもりが、わたしを満たす。

 生きているのだと、実感した。


「はい、宵月さま……きっと」


 わたしという存在は、このとき、産声を上げたのかもしれない。






 淡青の空が、どこまでも広がる朝。

 わたしが東宮にやってきて、ふた月を迎える。


「というわけで。李花ちゃんに贈り物でーす!」

「まぁ……!」


 色とりどりの衣に、絹の(くつ)、宝玉の花簪。

 さらには地方特産の茶葉だとか果物だとかが、これでもかとばかりに並べられている。


「『よく食ってすくすく育て』──だってさ。もうちょっと色気のあること書けばいいのにね」

「ご多忙なあいまを縫って、贈り物を見繕っていただいたんですもの。宵月さまには感謝ばかりです」


 四蓮さまから、贈り物とともに文を受け取る。

 文には続きがあり、『追伸 俺は淡い衣が似合うと思う』と短文が添えられていた。

 わたしが読むときに四苦八苦しないように、簡潔に記してくださったのだろう。


「宵月さま……お仕事が大変なのですね」

「んー、それは建前で、ほんとは李花ちゃんのためってのが本音かな」

「わたしのため、ですか?」

「明日は満月だろ? 前後を含めた三日間、狼族は自制が効きづらくなる。あえて距離を置かなきゃいけないときもあるんだよ。わかってやってくれる?」

「はい……」


 近ごろ、宵月さまは気もそぞろな様子だった。


(宵月さまの優しさに、甘えていたわ……)


 毎晩添い寝していたから、会えなくて寂しい、だなんて。

 ……わたしの、わがままよね。


「そうそう、これは俺からの贈り物!」


 ふと思い出したように、四蓮さまがふところから『それ』を取り出す。

 手渡されたのは、さらりとした手ざわりの白筆だった。


「文字を読む勉強を始めて、上達がめざましいからさ。そろそろ字の練習もしたいだろうと思って」

「こ、高級そうな筆です……」

「そんなたいそうなもんじゃないけど。俺が生まれたときから持ってるから、それなりの年季ものではあるかな」

「それってお祝いの品では……いいんですか? いただいてしまって」

「いいのいいの。筆なんか使ってなんぼなんだから」

「では、ありがたく」


 あらためて、筆に視線を落としてみる。

 目利きの自信があるわけではないけれど。


(この白い毛、四蓮さまの髪みたいな色)


 ふと、そんなことを思った。


「にしても、宵月のやつ、はりきって贈りすぎだろ」

「そうですね。特に衣はもともと持っていた数が少ないので、収納用の行李(こうり)が……」

「持ってくるよ。待ってて」


 やれやれと肩をすくめて、四蓮さまは足早に部屋を出る。

 ひとりになると、積み上げられた贈り物に圧倒されてしまう。


「あら、この衣……すてき」


 そのなかで、ひときわ目を奪うものがあった。

 色は白。裾にかけて薄桃に色づく淡色(あわいろ)の衣で、桃の花が金糸で刺繍されていた。


 ──俺は、淡い衣が似合うと思う。

 ──おまえの舞を、俺に見せてくれ。


 わたしにお返しできることがあるとすれば、舞うことだけ。

 ならばそのときは、いただいた薄桃の衣をまとって、あの方のためだけに舞おう。

 母の形見が、きっと後押しをしてくれるはずだから。


「…………あれ」


 寝台の下にしまっておいた行李のふたを開けて、思考停止する。


「見間違い……」


 じゃ、ない。


「ない、ない……どうして、ないの!?」


 そこにあるべきものが、なかった。

 一瞬にして、全身の血の気が引く。


「母さまっ……!」


 もう夢中で、部屋を飛び出した。




  *  *  *




 狼族は、実力主義の種族だ。

 より強い者が実権をにぎる。

 ゆえに、気性の荒い者が多い。

 そのさまを「(けだもの)だ」と、人間どもは忌み嫌っていたらしいが。

 (そし)りを一身に受けてなお、誇りを失わないひとがいた。

 俺の祖父。

 お祖父さまのことを、俺も幼心に慕っていた。


 ──いいか、宵月。

 ──かならずしも、すべての人間が悪ではない。


 なぜ?

 どうしてそう言いきれるのですか?


 問う俺の頭をなでながら、お祖父さまは語った。


 ──救ってもらったことがあるからだ。


 その言葉が意味することを理解できないまま、二十年。


「…………そんな」


 俺は唐突に、祖父の言葉を理解した。

 古びた日記を持つ手が震える。

 つたない字で記された一文から、目が離せない。

 これは俺が、遠いむかしに祖父から伝え聞いたこと。


「……『李霞』」


 彼女の母の名が、たしかにそこに記されていた。

 眠っていた記憶が、呼び起こされる。


「伝説は、真実だった。ならば李花は…………うっ!」


 きびすを返そうとした刹那、頭痛にみまわれる。


「っ……こんなときに、くそ……っ!」


 全身から汗が吹き出す。

 血が沸騰したように、からだが熱い。


 ──狼族特有の、発作だ。


 まだ日は高いというのに。

 月の気配にすら惑わされる俺は、飢えた獣も同然。


「このまま、李花のところへ行くわけには……」

「──宵月! おい宵月!」


 熱に浮かされたうわごとは、けたたましい叫びにかき消される。

 書斎に駆け込んできたのは、四蓮だ。

 こんなに慌ただしいこいつの姿は、めずらしい。


「……なんだ。そんなに大声を張らずとも、聞こえて……」

「李花ちゃんが部屋からいなくなった」


 ──は?

 李花が、いなくなった?

 そう言ったか、こいつは。


「嫌な予感がしてたまらない……」


 そうだな。

 嫌な予感というものは、やけによく当たる。


「悪い、目を離した俺の責任──」

「あれこれ考えるのは後だ」

「──宵月!」


 追い立てられるように、書斎を飛び出す。


(どこだ……どこにいる、李花!)


 嗅覚を研ぎ澄ませ、彼女の痕跡をさぐる。

 回廊を駆けて駆けて駆けて。

 ふわり。

 甘い香りが、ふいに庭院(にわ)からただよってくる。


「李花!」


 すぐさま駆けつけた庭院に、李花の姿を見つけた。

 そして、戦慄する。


「なにを……っ!」


 裸足になった李花が、ぺたり、ぺたりと、池に向かっていたのだ。


「かあさま……」


 虚ろな視線の先にあるもの──

 枯れ枝に結びつけられた布のようなものが、池に浮いていた。


 ──母さまは、舞が得意なひとだったので。


 その瞬間、すべてを理解する。


「──李花ッ!」


 俺が叫ぶのと、池に浸かった李花が体勢を崩すのは、同時だった。

 水しぶきに呑まれる李花を目にしたら、頭が真っ白になり。


 ──それからのことは、よく覚えていない。




  *  *  *




 鼻を刺すようなにおいがする。

 これは……薬草のにおい?


「……李花ちゃん」


 ぼんやりとした視界に真っ先に映ったのは、まばゆい白金の髪に、紫水晶の瞳をした美青年。


「……四蓮、さま?」

「……目が覚めた?」

「えぇ、ごらんのとおり……?」

「よかったーっ!」

「ふぎゅっ……」


 がばりと抱きつかれる。

 起き抜けに熱烈な抱擁をされ、盛大に意味がわからない。


「ちゃんと見てなくてごめんね。宵月にブチ殺されるかもだけど、もうちょっとこのままでいさせて」

「四蓮さま……」


 抱きしめる腕は痛いくらい。

 しばし身をゆだねてわかったのは、四蓮さまが、心底わたしを心配してくださっているようだということ。


「李花ちゃんね、池に落ちたんだよ。覚えてる?」

「池に……あっ」


 四蓮さまの言葉に、わたしはピシリとからだが凍りつくのを感じた。


「母さまの領巾がなくなって、慌ててさがして、それで……!」

「お母さんの形見ならここにある。安心して」


 顔面蒼白だろうわたしに、四蓮さまはきれいに畳まれた領巾を差し出した。


「これっ……!」

「拾ったのは宵月。池に落ちた李花ちゃんを助けたのもね」

「宵月さまが……」

「李花ちゃん、なにか起きたら、まず俺たちに教えてね? 高熱を出して、三日間寝込んでたんだから」

「……ごめんなさい」


 勝手な真似をして、迷惑をかけてしまった。


「責めてるわけじゃない。きみになにかあったら、俺たちも悲しいから。さ、まだ本調子じゃないでしょ。これ飲んで」

「ありがとう、ございます……」


 四蓮さまが煎じてくれた薬湯を飲み下す。

 とろりとした液体が、咽頭を滑り落ちた。

 胸が悶々とするのは、薬が苦いからじゃない。


「あの……宵月さまは、どちらに?」

「宵月ね。それならさっき、出ていったけど」


 四蓮さまはため息をついて、部屋の入り口を指でさし示す。

 目を向けて、首をかしげていると──


「──だれの許しがあって、この部屋を訪れるか」


 宵月さまの声が、響いた。

 氷よりも冷たい声だ。


「東宮さま、違うのです! わたくしはただ、東宮妃さまのお部屋のお掃除をと……!」

「言い訳は聞かん。貴様が手を出したのは、李花が命よりも大切に扱う想い出の品だ」


 あの声は……湯殿の一件で、宵月さまにお叱りを受けた侍女のひとりだろうか。

 たしか、謹慎を言い渡されていたと聞いたけれど……


「即刻荷物をまとめ、出て行け。今日中にだ。──さもなくば、その喉笛を掻き切る」

「ひッ……!」


 冷徹な通告だった。

 こんなに低く、唸るように憤る宵月さまの声を、聞いたことがない……


「宵月ー、あんま殺気立ってると、李花ちゃんが怖がるからやめなー」

「あ、あの、四蓮さま……!」


 わざとらしく四蓮さまが声を上げた、次の瞬間。

 部屋の扉が、開け放たれる。


「……李花」


 わたしを映した月色の瞳が、大きく揺らぐ。

 ばつが悪いわたしは、まごついて。


「その……ご迷惑を、おかけしまして」

「そんなことはどうでもいい!」


 耐えかねた様子で声を張り上げた宵月さまが、あっという間に距離を詰める。

 そうしてわたしは、まばたきのうちに抱きしめられていた。


「ひ弱な人間のくせに、おまえは!」

「……ごめんなさい」

「ちょっと溺れたくらいで、すぐ死ぬくせに……!」

「宵月さま……」

「……おまえを、失うかと思って、俺は……っ」


 わたしを掻き抱く腕は、小刻みに震えていた。

 こうなってはじめて、わたしは自分のしでかした事の重大さに気づく。


「ごめんなさい……ごめん、なさい……っ!」


 幼子のように泣きじゃくるわたしを、宵月さまは、ただただきつく抱きしめていた。






 どれくらい泣いたのだろう。

 赤く腫らしたわたしの目もとを、宵月さまが濡らした手ぬぐいで冷やしてくださった。

 いつの間にか、四蓮さまの姿はなくなっていた。

 気を遣って、わたしたちだけにしてくれたのかもしれない。


「母君の形見を持ち出した侍女は、相応の処分を下している。……俺の目が行き届かないばかりに、すまない」

「いえ。宵月さまも大変な時期であったことは、重々承知しております」


 宵月さまとふたり、寝台に並び座る。


(ただでさえ満月が近く、心穏やかではなかったはず)


 わたしが眠りこけているあいだに、満月は過ぎ去った。

 その間も、多大な心労があったはずだ。

 事実、宵月さまの顔には、疲労が色濃く浮かんでいる。


「宵月さま、すこしお休みになられては──」

「…………」

「……宵月さま?」

「あぁ、悪い……考え事をしていた」


 まさに、心ここにあらず、といった様子だ。


「……濁したところで、いつか明かさねばならないというのにな」


 こぶしを固くにぎりしめ、宵月さまが独りごちる。

 ひとつ深呼吸をしたのち、宵月さまはわたしへ向き直った。


「李花、おまえに話さなければならないことがある。おまえの母君と……俺たち狼族の、つながりについて」

「……どういうことですか? どうして、わたしの母が急に……」


 困惑するしかないわたしへ、宵月さまは語る。

 にわかには信じがたい、『真実』を。

 

「李霞殿──おまえの母君は、俺の祖父をかばって、亡くなった」




  *  *  *




 ──いいか、宵月。

 これから話すことは、私がたしかに経験したことだ。

 私は字が書けないから、おまえがしかと記してほしい。


 私が彼女に出会ったのは、まだ若かったころ。

 身寄りのない獣人の若造だ。

 稼ぎがあるはずもない。

 仕方なく人に扮し、下級武官として皇城につとめていた。


 あぁ、わかっている。

 そのときはまだ、人の世の最盛期。

 柳王朝の時代だ。

 獣人だとばれたなら、私は投獄されていただろう。

 獣人であるというだけで。そんなばかげた時代だった。


 あるとき。

 運の悪いことに、出征地で病をもらってきてね。

 流行り病だった。

 皇城では、病人は隔離される。

 まるで罪人のごとくね。

 この牢屋のような場所で、死ぬのか……

 そう思ったよ。


 そんなとき、彼女が──李霞がやってきたんだ。

 李霞は私に、ひと言だけ告げた。

「私の血を、お飲みなさい」……と。


 意味がわからなかった。

 けれど、彼女の放つ甘い香りに逆らえず。

 気づけば、私は李霞の首に牙を突き立てていた。

 李霞の血は、みずみずしい果実の味がした。

 熟した桃にかじりついたときのような。


 私をむしばむ病は、たちどころに消え去った。

 そこで私は気づいたんだ。

 李霞は、伝説の乙女、『桃娘』の血を引く娘なのだと。

 あぁ、その話はよく知っていたとも。

 私も、かつては雪深い地で暮らしていたから。


 李霞は、なぜか私の名を知っていた。

 そういえば、むかし。

 雪山で遭難した女の子を見たことがあった。

 不憫に思い、ふもとの里まで送り届けたのだったか。

 その女の子も、彼女と同じ桃色の髪をしていた。


 そう……あのときの狼が私なのだと、李霞は理解していた。

 そんな李霞の命のともしびは、いまにもついえようとしていた。

『桃娘』の血を引く娘は、たぐいまれなる癒やしの力を持つ。

 その力は、生命力とも同義。

 つまり己が命を投げうってまで、李霞は私の病を治してくれたんだ。


 息絶えるそのときまで、彼女はしきりに口にしていた。

 娘を、助けてほしい……と。

 李霞は皇城で酷い扱いを受けていた。

 彼女の娘もだ。


 ──忌々しいと思った。

 こんなにも健気な彼女らを、無下に扱ってしまえる人間が。

 だから私は、獣人族を集めて兵をおこした。

 悪しき柳王朝を、負の連鎖を、断ち切るために。


 悲願は、達成された。

 永い夜が終わり、獣人の時代は訪れた。


 李霞。私の命を救った気高き乙女。

 彼女がいなければ、私は家族を持つこともなく、おまえも生まれていなかっただろう。


 これまでの人生、恥ずべきことはないけれど。

 ひそかにさがしていた彼女の娘を見つけることは、ついぞ叶わなかった。

 そればかりが、心残りだ。


 宵月。これだけは覚えておきなさい。

 かならずしも、すべての人間が悪ではない。

 人と獣人も、わかりあうことはできる。


 だから、宵月。

 その目で、真実を見極めろ。

 そして強くなれ。

 困難に屈することのないように。

 心から愛しい者を、守れるように──




  *  *  *




「わたしの母さまが、宵月さまのお祖父さまの病を治した……」

「彼女がいなければ、俺はここに存在すらしなかった。まさしく狼族の恩人と呼べる人物だ」


 衝撃的な告白だった。

 けれど宵月さまの真摯な表情を見れば、すべてが真実なのだと思い知らされる。

 しだいに状況が飲み込めてくると、『違和感』に気づく。


「待って、ください……母さまが死んでしまったのは、病を治したから、なのですか? 狼族に噛まれたからではなく……?」

「呪いのせいではない。なぜなら、そのときの狼族は、まだ呪われていなかったからだ」

「どういうこと、でしょう……?」

「お祖父さまが……狼族がその身に猛毒を宿したのは、柳王朝を討ち果たした後。皇城にひそんでいた呪術師が、死に際に放った呪詛が原因らしい。それ以降、狼族は呪いを受けた男児が生まれるようになった」


 それは、いくさの功労者である宵月さまのお祖父さまを、狼族を、末代まで呪うという行為だ。

 ……なんと、恐ろしい。


「李花、おまえは間違いなく、『桃娘』の血を引く娘だ」

「わたしには、癒やしの力がある、ということですか……?」

「あぁ。だがこの事実が知れ渡れば、ほかの獣人族も黙ってはいないだろう。俺は……おまえがだれかに利用されて、悲しむさまを見たくない」


 とつとつと心情を吐露する宵月さま。

 その面持ちは、切実なものだった。


「ご心配には及びません、宵月さま。母は、きちんと人生をまっとうしていた。そのことを知れて、よかった」

「李花……だが」

「『桃娘』のことも、朗報でした。わたしに癒やしの力があるなら、宵月さまの呪いを、とくことができるかもしれませんし──」

「ばかを言うな! それがどういう意味か、わかって言っているのか!?」


 ……えぇ、わかっています。

 傷や病を治すには、『桃娘』の血が必要。

 さらに代償として、命を失うことになると。


「……もとより、三月のあいだに子が宿らねば、朽ち果てる身。それならば、宵月さまのために命を捧げることこそが、本望でございます」

「俺は、そんな言葉が聞きたいんじゃないっ!」


 ダンッと、鈍い音が鳴り響く。

 壁を殴りつけた宵月さまは、肩で息をしている。

 ……宵月さまが、こんなに取り乱すなんて。


「俺が悪かった……おまえのことをよく知ろうともせず、契約などさせたから……」

「宵月さま、」

「もういい! おまえを失うくらいなら、子など要らない!」


 ぱしり、と。

 伸ばした手は、振り払われてしまった。


「これ以上は我慢がきかない。しばらく俺に関わらないでくれ。……頼む」


 絞り出すように告げて……

 くちびるを噛みしめた宵月さまは、足早に部屋を去った。

 わたしはといえば。


「宵月さま……そんな……」


 拒絶されたという事実に、ただ打ちひしがれるだけだった。






 さぁさぁと、雨粒のはじける音がする。

 連日降り続く霧雨により、窓の外は灰色に(けぶ)っていた。


「なにやってんだよ、宵月のやつ……!」


 わたしの部屋を訪れた四蓮さまは、憤慨していた。


「自分の妃を、二週間も露骨に無視するか!? あぁもう! あの馬鹿ぶっ飛ばしてくる!」

「四蓮さま! いいのです。気にさわることを言ってしまった、わたしが悪いのです……」


 ──しばらく俺に関わらないでくれ。


 あれから二週間。

 宵月さまは、わたしを一切部屋に立ち入らせない。

 寝所を訪れることもない。


(宵月さまの子を生むことだけが、わたしの存在意義だったのに……それも失ってしまったら)


 わたしはやっぱり、なにも残せず、何者にもなれない。

 せっかく持ってきていただいた朝食も、口に運ぶ気になれなかった。


「ねぇ、李花ちゃん」


 うなだれていたわたしは、間近で聞こえた声にはっとする。

 四蓮さまが、わたしをのぞき込んでいた、

 いつになく真剣な面持ちだ。


「前に、筆をあげたでしょ」

「え、えぇ……いただきました」

「それで俺の名前を書いて。そうしたら、きみは俺のお姫さまになる」

「はい……?」


 四蓮さまは、なにを言っているのか。

 困惑するわたしを逃すまいと、しなやかな手が、わたしの手の甲に重ねられる。


「猫族はみんな、自分が赤ん坊だったときの髪で筆をつくる。それを大切に持ち歩いて、意中の相手に贈るんだ。つまり、求婚のしるし」

「求婚……!?」

「もう見てられない。俺の名前を書いて。それで婚姻が成立する。あの馬鹿なんかより、ずっと李花ちゃんを大事にする」


 ……本気だ。

 四蓮さまは、本気でそう言っている。


 ふわりと、白金の髪がひたいをかすめる。

 紫水晶の輝きに、吸い込まれてしまいそう。


「俺を選んで──李花ちゃん」


 吐息が、ふれる。

 近づくくちびるが、わたしのくちびるに重なり──


『──李花』


 ──重なることは、なかった。

 すんでのところで、わたしが押しとどめたから。


「ごめんなさい……できません」

「……どうして? そんなに辛そうなのに」

「自分でも、不思議です……」


 ただひとつ、たしかなことは。


『堂々としていろ。おまえは俺の妃なのだから』


 宵月さまは、わたしを認めて、必要としてくださった。

 そうだ。

 そんな宵月さまだからこそ、わたしは。


「お慕いしているんです……!」


 寄り添うぬくもりを知ってしまった。

 もう、孤独なあのころには戻りたくない。


「宵月さまと、離れたくない……っ!」


 あぁ……わたしは。

 とんでもなく、貪欲になってしまったみたいだ。


「……そっか」


 ぽんと、頭に手がのせられる。


「その涙をぬぐってあげるのは、俺の役割じゃないんだよな」

「……四蓮、さま……?」


 にじむ視界に、四蓮さまの笑みが映る。

 夕凪のように、穏やかで、やさしい笑みだった。


「健気な李花ちゃんに、助言をひとつ。……宵月が意地になってるのは、きみのことが大事だから」

「わたし、が……」

「『守りたい』って気持ちが強すぎて、まわりが見えなくなってる。あいつ不器用だからさ、愛情表現が下手くそなの」

「……!」


 もしかして、最初から?

 それを伝えるために、四蓮さまはここに……


「だからね、李花ちゃんが、あいつの目を覚まさせてやってくれる?」


 わたしはもう、独りじゃない。

 あれこれ悲観するのは、もうおしまい。


「宵月さまと、お話をさせてください」


 独りで背負わないでほしい、と。

 伝えなくちゃ。

 わたしの想いを、宵月さまに。


「東宮妃さまの、おおせのままに」


 四蓮さまは、恭しく一礼。

 そしていつものように、いたずらっぽく笑ったのだった。






 曇天が、さめざめとすすり泣いている。

 狼族の住まう宮において、香りの強い草花は好まれない。

 しかし最近になって、東宮さまのお部屋の近くに金木犀が植えられたという。

 強烈な甘い香りで、なにかを拒むように。


「宵月、俺だ。寝酒を持ってきてやったぞ」

「あぁ……」


 長椅子の背にもたれていた宵月さまは、気だるげな様子から一変。

 はじかれたように立ち上がり、四蓮さまを睨みつけた。


「……なんの真似だ」

「言ったろ。寝酒を持ってきてやったって」

「答えになっていない。──なぜここへ来た、李花」


 四蓮さまに次いでわたしを映した月色の瞳が、険しく細まる。

 宵月さまのお怒りはごもっともだ。

 なんの断りもなく、部屋に押しかけたのだから。


「お疲れの宵月さまに、果実酒を、と」

「おまえまでふざけているのか!」


 憤慨した宵月さまが大股で詰め寄り、盆をかかえたわたしの手首をつかむ。

 その拍子に、盆の上でがちゃりと盃が揺れた。


「いますぐに出て行け──!」


 そうしてわたしを追い出そうとする宵月さまだけれど、はたと息を止める。

 気づいたのだろう。

 つかんだわたしの左手首に、包帯が巻かれていることを。


「おまえ……その傷は、どうした」


 わたしは、答えなかった。


「どうしたのかと聞いている! だれにやられた!」


 焦れた宵月さまが怒りをあらわにする。

 血走る月色の瞳をまっすぐに見つめ、わたしは口をひらいた。


「宵月さま、ここ数日はお加減がよろしかったようですね。こちらのお酒が、お口に合いましたでしょうか」

「なにを……!」

「わたしが宵月さまのためにご用意した、特別な果実酒でございます」

「──!」


 宵月さまが血相を変える。

 わたしがなにを言わんとしているのか、察したのだろう。


「そうです。こちらのお酒には、わたしの血が入っております」


『桃娘』の癒やしの力は、その血に宿るという。

 確証などなかった。

 けれど、わたしの血の上澄みを混ぜた酒を口にしたことで、宵月さまの疲弊も軽減されるようになったなら。

 その結果が、真実を証明している。


「俺は、なんということを……」

「宵月」

「血酒を美味と思うなんて……これでは、理性のかけらもない(けだもの)じゃないか!」

「逃げんな」


 顔面蒼白で後ずさる宵月さまを、四蓮さまが羽交い締めにする。

 わたしは卓に盆を置き、宵月さまへ歩み寄る。

 そしてわたしを拒む手を取り、しかとにぎってみせた。


「宵月さま、わたしは可哀想ですか?」

「……は……」

「宵月さまのために傷をつけたわたしは、可哀想に見えますか?」


 宵月さまが押し黙る。

 それもそうでしょう。


 ──このわたしが、可哀想だなんて言わせない。


「宵月さまは、わたしに『守る』と言ってくださいましたね」


 本当に、うれしかった……


「わたしも同じ気持ちです。わたしだって、宵月さまをお守りしたいのです。それは、命を投げ打つという意味では断じてありません!」


 この百年、だれもが呪いに苦しめられ、涙を流してきた。

 宵月さまも、そんな未来を恐れているのだろう。

 けれども、わたしは。


「この呪縛を、断ち切りたいのです! 宵月さまとともに!」


 月色の瞳が、極限まで見ひらかれ。


「っ……李花……っ!」


 悲痛に歪んだ表情で、宵月さまがくちびるを噛みしめる。


「たしかに、おまえの血は、月夜の発作を軽減させる……だが呪いをとけるという確証は、どこにもない……!」

「確証がなくてもやるんです。一歩をふみ出さなければ、なにも成し遂げられはしません!」


 かつて宵月さまのお祖父さまを苦しめた病を、母さまが救った。

 そのことを、宵月さまが伝えてくれた。

 ならばわたしは、母を、わたし自身を、信じる。

 宵月さまを、信じている。


「宵月さま、ふたつ約束をしてください。ひとつは、中秋節までの残り二週間、この血酒を欠かさず飲むこと」


 気休めでも、それで宵月さまの負担が軽減されるなら、意味のあることだ。


「……もうひとつは?」

「中秋節の夜。わたしのもとへ、かならずいらしてください。──『約束』を、果たしましょう」

「いけない、李花。満月を目にしたら、俺は……」


 月色の瞳は、いまだに揺れ動いている。


「大丈夫です」


 不安が拭えないなら、抱きしめますから。


「わたしを、信じて」


 もうあなたを、独りにはさせない。






 宵月さまのために、なにができるのか。

 それを自問したところで、わたしにできることは数少ない。

 だけれども。

 ひとつだけ、自信を持って誇れることがある。


『おまえの舞を、俺に見せてくれ』


 わたしを、わたしたらしめるもの。

 それを、あなたが思い出させてくれた。






 長く降り続いた雨が上がる。

 頭上を仰げば、雲ひとつない夜空に、満月がぽつねんと浮かんでいる。


「なんて美しい月夜なのかしら……」


 ここへ来て、三月がたつ。

 はじまりの夜も、満月だった。

 まぶたを閉じれば、あの夜のことが鮮明によみがえる。


(本当に、いろんなことがあった)

 

 ふいに吹きつける肌寒い秋の風が、愛しいひとのぬくもりを思い出させる。


 わたしは、なにも持たないちっぽけな娘だった。

 けれど、変わることができた。

 だれかのために思い悩み。

 だれかのために怒る。

 そして、だれかを想う尊さを知った。


 ──宵月さま。

 わたしは今宵、あなたにいただいた薄桃の衣に袖を通し、絹の(くつ)を履いて、ここに立っています。

 あなたが守ってくださった、母の領巾もまとって。


 ……さくり、さくり。

 落ち葉を踏みしめる音に、まぶたを持ち上げる。

 静寂に包まれた池の岸辺に、待ちわびた彼の姿があった。


「ようこそおいでくださいました、宵月さま」


 夜闇の向こうから、艶めく夜色の毛並みの狼が現れた。

 月明かりに照らされた岸辺で、月色の瞳が、爛爛(らんらん)とわたしを捉える。


「……グルル」


 それは、獲物を狙う捕食者のまなざしだった。

 生死のはざまに立たされてもなお、わたしのこころは凪いでいた。


「美しい月夜に、遊興をごらんにいれます」


 袖を合わせ、静かに一礼。

 針の落ちる音すら拾える静寂をへて、まっすぐに姿勢を正す。


「さぁ宵月さま、わたしと舞い踊りましょう。──月が眠るまで」


 月を映した水面が揺れる。

 そうしてわたしは、そよぐ夜風に、領巾をひるがえした。






『李花は筋がいいわね』

『でも、うまくおどれない……』


 身軽さだけが取り柄だった。

 だけど、母のように優雅で華やかな舞にはほど遠くて。


『どうしたら、母さまみたいにおどれるの?』


 きっと泣きそうな顔をしていたと思う。

 そんなわたしの頭を優しくなでながら、母は言った。


『大切なひとを、思い浮かべてみて』

『たいせつな、ひと……?』

『そう。舞はね、見てくれるだれかがいるからこそ、意味を持つの。李花は、だれに舞を届けたいの?』

『……わかんない』


 当然だ。

 母の舞に憧れて、やってみたい、うまくなりたいと思った。

 そんな漠然とした理由しか、思い浮かばなかったから。


『大丈夫。李花もいつか、きっとわかる日が来るわ』

『ほんとうに……?』

『えぇ、きっと』


 母の言葉は、いつだって、愛情に満ちあふれていた。

 大切な存在を胸に宿しているから、どんな苦境にあっても優しさを失わない強さを持っていたのだ。


『あなたの舞は、心から大切だと思うひとに届けるのよ、李花』


 ……はい、母さま。

 たくさん遠回りをしたけれど。

 その言葉の意味が、いまならわかります。


 ──わたしは今宵、最愛の宵月さまのために、舞う。






 楽のしらべも、歌い手もない。

 しめやかな月明かりのもとで、ただ舞い踊る。


 浅く、深く。

 遅く、速く。

 緩急をつけて。


「ガルゥッ!」


 牙を剥き出して襲い来る影を、くるりと身を反転させてかわす。


 鼓動の速さで土を蹴り。

 袖のひと振りで岸辺に咲く小花の花弁を舞い上げ。

 静寂の波に領巾をたゆたわせる。


(傷つけることを彼が恐れるなら、わたしが傷つけさせない)


 その一心で、何時間も何時間も、舞い続ける。

 不思議と、息は上がらなかった。

 からだが軽く、羽が生えたようだった。


 牙を剥かれようと、爪を振りかざされようと、恐ろしくはなかった。

 そうだ。

 なにを恐れることがある。


(わたしの舞は、宵月さまのためだけにある)


 ……宵月さま。

 すきです。

 あなたのことが、好きです。

 たとえ運命に引き裂かれようと。

 わたしの魂が、あなたのそばを離れることはない。


 月が、輝く。

 きらめく水面の上で、わたしは舞っていた。

 月を映す水鏡を蹴るたび、音もなく波紋が広がる。


『李花。──李花』


 あぁ、宵月さま。

 そのお優しいお声で、わたしの名を呼んでください。

 わたしは、ここにいますから。


「グゥ……グルァッ!」


 響き渡る咆哮。

 黒い影が、視界を覆う。


 時が、止まったようだった。

 ひらりと、水面に領巾が舞い落ちる。


「ふふ……熱烈なお方」


 薄く笑った直後、焼けるような痛みが右肩に走る。

 ずぷりと牙が食い込んだ肩口が、見る間に赤く染まる。

 夜色の三角耳に、手を伸ばす。

 一度、二度となでれば、びくりと反応した。


 さぁっと風が吹き抜け、木々がそよぐ。

 見上げた空は、白んでいた。


「夜明けの……時間です」

「……李花……そん、な」


 視界に紗がかかる。

 達成感で満たされたら……

 酷く、眠くなってきた。


「宵月、さま……わたし、は……宵月さま、を……」


 あいしています。


 言葉にできたか、わからないけれど。


「──李花ッ!」


 この世でもっとも愛しいひとに、名を呼んでもらえた。

 それだけで、胸を張って言える。

 いまこの瞬間が、一番幸せだった、と。






 なんだか、まぶしい……


「んん……」


 気だるいまぶたを持ち上げる。

 すると、おぼろげな視界に人影が映り込む。

 夜色の髪をした、美しいひと。

 彼の腕に抱かれて、わたしは陽のあたる寝台に横たわっていた。


 あたたかい……

 なんてすてきな夢なのかしら。


「ふふっ……宵月さまぁ」


 うれしくなって、すり寄ると。


「……気がついたのか、李花」


 唐突に、宵月さまが目をかっ開いた。

 月色の瞳はまばたきひとつせず、わたしを見つめている。


「李花……」

「あら……?」

「李花李花李花李花」

「あらあら……!?」


 がばり。

 苦しいくらいに抱擁されては、寝ぼけまなこも覚めるというもの。


「この馬鹿っ! おまえは本当に、無茶をして……っ!」


 言葉を詰まらせた宵月さまが、くちびるを噛みしめる。

 澄んだ月色の瞳から、ぽろりとこぼれ落ちるものがあった。

 ……はじめて目にする、宵月さまの涙。


「宵月がうるさいと思えば、やっぱり」


 呆れたような、それでいて穏やかな声が耳に届く。

 いつの間にだろう。

 寝台のかたわらには、朝陽にきらめく白金の髪の青年がたたずんでいた。


「おはよう、李花ちゃん」

「四蓮さま……」

「……無事で、よかった」


 四蓮さまの紫水晶の瞳も、揺らめいていた。


「……はい。おはようございます、おふたりとも」


 どうやらわたしは、とても長いあいだ眠っていたみたい。

 胸がじんと熱く、きゅっと切なくなるのは、夢じゃないわ。






 淡青の空のもと。

 わたしは宵月さまに手を引かれ、『幽池』を訪れていた。

 季節は、木々が朱に恥じらいはじめたころ。

 ほのかに色づいた葉が、はらりと水面に舞い落ちる。


「宵月さま、お加減のほうは、よろしいのですか?」

「無論だ。俺のことより、自分のからだを労れ」


 中秋節の夜。

 わたしは宵月さまのために、夜もすがら舞った。

 その末に牙を突き立てられ、倒れたのだった。


「狼族の毒は、噛みついた相手を三日で死に至らせる猛毒だ」


 宵月さまも、気が気ではなかったはずだ。

 けれど、わたしは死ななかった。


「──奇跡が、起きた」


 七日七晩をへて、目覚めたのだ。


「おまえが、俺を呪いから解き放ってくれた」

「宵月さま……」

「ありがとう、李花……っ!」


 感極まったように、宵月さまに抱きすくめられる。


「ふふ、苦しいです」

「……心配なんだ。おまえがまた、どこかへ行ってしまわないかと」


 わたしが目覚めてからというもの。

 宵月さまは、ひとときもそばを離れようとしなかった。


「おまえの血をじかに口にしたとき、全身にしみわたる清廉な力を感じた。渇きを潤す、桃の香り──あれが『桃娘』の持つ、癒やしの力なのだろう」


 わたしにもたれた宵月さまは、右の肩口に鼻先をうずめ、すん、と嗅ぐ。

 夜色の髪が首すじをかすめ、くすぐったくて。

 けれど、身をよじっても、わたしを抱く腕はびくともしない。


「李花。俺は、おまえの蜜のように甘美な血の味を、知ってしまった」

「……宵月さま」

「俺はもう、おまえのいない世界など耐えられない……」


 月色の瞳が、近くにある。

 ……熱を宿した月に、呑み込まれてしまいそう。


「すまない。俺はおまえを、逃してやれそうにない」 


 あんまりにも切実に告げられるから。 


「いまさらですよ」


 と、おどけてみせた。


「宵月さま、わたしたちが出会って、三月がたちます。だけど残念なことに、わたしは契約の条件を達成することができませんでした」

「契約……」

「はい。ですので、自由の身にしていただかなくともけっこうです」


 三月以内に子を宿すことはできなかった。

 だから。


「残りの生涯、宵月さまに囚われましょう」


 月色のまなざしが見ひらかれる。


「あぁ……こんなに、うれしいことはない」


 感嘆のような吐息が、くちびるにふれ。


「……んっ」


 しっとりと、呼吸を奪われる。

 夢などではなく。

 たしかな温度が、そこにあった。


「あぁ……おまえに、好きなだけふれられる」

「宵月、さま……」

「だめだ……まだ」

「んんっ……」


 はじめは恐る恐るふれていたくちびるが、ふたたび重ねられる。

 腰を絡めとられたわたしは、逃げられるはずもなく。

 何度も何度も降り注ぐ深い口づけの雨に、溺れるだけ。

 ……からだが、溶けてしまうかと思った。


「狼族の男は、噛みついた相手の血の味とにおいを、けっして忘れない。どこにいても、つがいを守り抜くために」


 凛と決意に満ちた声音が、追い討ちをかけるように、わたしの胸を震わせる。


「俺のものだ──李花」


 それはきっと、この世でもっとも優しい独占欲。






「李花ちゃん、宵月の姿が見えないんだけど、こっちに来てたり──でしょうね」


 時は移ろい、ちらちらと粉雪の舞う季節。

 わたしの部屋を訪れた四蓮さまは、大げさに肩をすくめた。

 長椅子に腰かけ、苦笑しながら見上げるわたし──のひざを枕にして、宵月さまが横たわっているのを見つけたためだ。


「まったく、うちの東宮さまは……獣人族の長が一堂に会する春節を来月にひかえてるってこと、わかってんのかね」

「このところは根を詰めたご様子でしたし、ご容赦いただけませんか?」

「よし。李花ちゃんに免じて、今日は見逃してやりましょう」


 四蓮さまは、慈悲深いお方だ。

 口ではああだこうだ言いつつ、こうして毎回見逃して──


「俺の優しさに感謝しろ。そして明日、大量に襲い来る書類の山に頭を抱えるがいい──なぁ、狸寝入りわんこ?」


 ──見逃して、くださるわけもなく。

 四蓮さまはハッと不敵な笑みを浮かべて、颯爽と立ち去ってしまった。

 静まり返った部屋に、火鉢がぱちぱちと()ぜること、しばらく。


「……やっと行ったか、邪魔者め」


 低くうなりながら、宵月さまがむくりと起き上がった。

「おちおち午睡(ひるね)もできやしない」と、不機嫌そうに前髪を掻き上げている。


「宵月さま、御髪が」


 手を伸ばして、寝癖をととのえる。


「ん……」


 すると宵月さまが月色の瞳を細め、わたしにもたれかかってくる。

 さらり、さらり。

 夜色の髪は、手ざわりがいい。

 宵月さまもうっとりとした表情でほほをすり寄せてくるから、まるで大型犬とじゃれているような気分になる。

 ……すねられるから、言わないけれど。


「李花」

「はい? ……きゃっ!?」


 すんすんと首すじを嗅がれ。

 かと思えば、かぷ、と耳朶にやわい痛みが走る。


「宵月さま……!」

「痛かったか。加減が難しいな」

「いえ、痛くはないですが……ひゃあっ!」


 まだ熱を持つ部位に、今度はぺろりと舌が這う。


「李花、あんまり可愛い声を出すと、俺もいろいろと滾ってくるんだが」

「わたしのせいなのですか……!?」


 ……宵月さまはお優しくて、すてきな方だけれど、ひとつ困ったところがあって。


「こら、じっとしていろ。おまえを味わえんだろう」

「ひぅッ……!」


 ……そう。

 事あるごとに、わたしを腕で囲って、甘噛みをしてくるのだ。


(呪いで満足にふれられなかった反動だとしても、これは……っ!)


 気づけば宵月さまのひざに抱え上げられて、耳を、ほほを甘噛みされ、舐められている。


「なんだ。夜毎もっとすごいことをしているというのに、うぶだな」

「なっ……宵月さまは、意地悪です……!」

「泣いても可愛いだけだ」


 わたしが反抗しても、まなじりににじむものを舐め取られるだけ。


「なるほど。俺の理性もここまでのようだ」


 他人事のようにつぶやいて、宵月さまがわたしの肩をとんっと押す。

 とさり。

 わたしはあっけなく長椅子に倒れ込み、宵月さまに組み敷かれてしまう。


「さて、いまからおまえは喰われるわけだが。なにか要望はあるか」

「……やさしく、してください」


 苦しまぎれに、そう絞り出せば。


「当然だ」


 ぎゅっと、指先を絡められる。

 わたしは脱力し、身をゆだねる。


「李花……」


 ぺろりと、右肩に舌を這わされた直後。

 ずぷ……と、鈍い痛みが襲う。


「あ……ッ」


 傷が薄れれば、ふたたび突き立てられる牙。

 そのたびに、わたしのからだは、くらくらするほどの甘い痺れに支配される。


「あぁ、甘い……桃の果実からあふれる、蜜のようだ……」


 恍惚とした月色のまなざしが、わたしを捉えて離さない。


永久(とわ)に俺とともにあれ。──愛している、李花」


 どうせ逃げられやしないのだ。

 いっそのこと、月に呑まれてしまおう。

 

「わたしも、愛しています──宵月さま」


 飾らない言葉でいい。

 こうしてふれあえることが、奇跡なのだから。


 唯一無二の愛しいひとと、手を取り合って未来を歩む。

 甘く胸を焦がすわたしたちの物語は、これからも続いてゆく。



【了】

虐げられていたヒロインが百年後の世にタイムスリップし、自らを虐げていた王朝を滅ぼした獣人族の皇帝であるヒーローと出会い、困難を乗り越えて愛し合うシンデレラストーリーでした。いかがでしたでしょうか。


異類婚姻奇譚ということで、ヒーローの宵月は王道の狼の獣人です。狼はつがいを大切にする種族。エモいですよね……作中でもちらりと出していますが、四蓮が生まれた猫族にも、それなりにガッツリと設定があったりします。他作品「社則でモブ専なんですが(以下略)」では、そちらについてふれております。獣人……書いても書いても書ききれない、魅力的な存在ですね。


今回は短編ということで、孤独を克服しあった李花と宵月のハッピーエンドまで描かせていただきました。みなさまの心に響くものがありましたら、幸いです。


あらためまして、ここまでご覧いただき、ありがとうございました!

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