結婚式で魚屋の女のために俺を捨てた夫、振り向いた私は彼の実家に100億円の負債を負わせた
結婚式で魚屋の女のために俺を捨てた夫、振り向いた私は彼の実家に100億円の負債を負わせた
導入
昔から潔癖なところのあった夫が、突然、古い商店街の鮮魚店へ現場研修に行くと言い出した時点で、私は悟っていた。彼は、その店にいる女性に心を奪われている。泣きもしなかったし、騒ぎもしなかった。ただ、白石家と久世家の出資契約書を彼の前に置き、二つの選択肢を示した。
「今日の披露宴を中止して、すぐに離婚手続きを進める。そして、白石家から久世グループへの資金支援をすべて手放す」
「それとも、その女性を久世グループ傘下の商店街プロジェクトから外す」
久世祈人は、ベランダで一晩中煙草を吸っていた。翌朝、疲れ切った顔で、彼は答えを出した。
「披露宴は予定どおり行う」
赤くなった彼の目を見て、私は最後にもう一度だけ彼を信じた。
けれど指輪を交換する、その瞬間だった。一枚の招待状が披露宴会場に運び込まれ、彼の手に渡された。そこに書かれていた花嫁の名前は、私ではなかった。
魚住桃香。
私に指輪をはめようとしていた彼の手が大きく震え、リングは絨毯の上に落ちた。小さな音がして、彼はそのまま背を向けた。私は白石家と久世家が招いた客たちの前で、初めて声を乱した。
「祈人、今日ここで行くなら、私たちは本当に終わりよ」
彼の足が、一瞬だけ止まった。けれど次の瞬間、彼は振り返らずに会場を出ていった。
1.差し替えられた花嫁
東都湾岸区の高級ホテルで、数百人の招待客が静まり返っていた。大きなスクリーンには、まだ私と祈人の婚礼写真が流れている。海辺に立つ私たちの写真の中で、彼は私を見下ろし、世界中を騙せそうなほど優しい目をしていた。テーブルの脚元まで転がった指輪だけが、暗い影の中に取り残されていた。
二年かけて準備した披露宴は、衆人環視の中で、ただの笑いものに変わった。久世宗一郎さんと玲子さんは、招待客に何度も頭を下げながら、祈人へ電話をかけ続けていた。電話がつながらない時間が長くなるほど、二人の顔から申し訳なさは薄れ、焦りだけが濃くなっていった。
私はもう待たなかった。ホテルのスタッフに、招待客を退場させるよう頼もうとした時、会場の扉がもう一度開いた。
祈人が戻ってきた。
彼の隣には、白いワンピースを着た若い女性が立っていた。丈の短い裾に、季節外れの薄いカーディガン。赤く潤んだ目で、彼女は別の招待状を握りしめていた。
「祈人さん、私はただ、お別れを言いに来ただけです。どうしてここへ連れてきたんですか」
声は大きくなかった。それでも、前列の招待客には十分聞こえる大きさだった。会場のあちこちで、押し殺したざわめきが起きる。玲子さんの顔色が、一瞬で変わった。
「祈人、その方はどなた? ここへ連れてくるなんて、何を考えているの」
宗一郎さんは招待客の方へ視線を走らせ、低い声で言った。
「すぐにお帰りいただきなさい。今日は、お前が勝手なことをしていい場ではない」
魚住桃香は、ひどく傷ついたように指先を強く握り込んだ。
「そんな目で見ないでください。私は、お金持ちの家に入りたいわけじゃありません。祈人さんが、どうしても放してくれなかったんです」
そう言って背を向ける素振りをした。けれど、足は動かなかった。
祈人は慌てたように彼女の前に立った。
「今日、久世家の財産をすべて失うとしても、俺は桃香と誓約を交わす。彼女は俺の子を身ごもっている。俺が守らなければ、別の男との結婚に引きずり込まれるんだ」
会場が凍りついた。次の瞬間、久世家の指示を受けたホテルスタッフが壇上へ呼ばれた。私と祈人の名前が書かれていた装花プレートは撤去され、スクリーンの写真は、祈人と桃香のものへ切り替わった。招待客の席に置かれていた進行表まで、新しいものに差し替えられていく。
私の手元にも、一枚の進行表が差し出された。新郎は、久世祈人のままだった。けれど新婦は、魚住桃香になっていた。
私はその紙を見下ろし、ふっと笑った。目の奥が痛くなるほど、笑った。
2.旧財閥令嬢と鮮魚店の彼女
私と祈人の結婚は、もともと白石家と久世家の資本提携を兼ねたものだった。それでも、魚住桃香が現れる前、私たちの間に感情がなかったわけではない。幼い頃から一緒に育ち、彼はまだうまく立てない年齢の頃でさえ、私をいじめる男の子たちの前に立ちはだかってくれた。
その後、私が海外へ留学した時も、彼は十数時間も飛行機に乗って会いに来た。誰かに告白されたらしいと聞いただけで、彼は学生寮の前に立っていた。ひどく不器用で、それでも真剣だった。
「詩乃、幼なじみのままではいたくない」
私は彼を受け入れた。それから私は、久世家からの催促をすべて引き受け、久世グループの見苦しい数字も表に出ないよう支え続けた。祈人は経営を嫌い、レースや旅行、意味のない社交ばかりを好んだ。私は彼の代わりに案件を管理しながら、披露宴をまだ挙げたくないのは自分の意思だと周囲に説明してきた。
彼が遊び飽きれば、いつか私のもとへ戻ってくると思っていた。今になって思えば、私が与えた自由は、最後にはすべて私を刺す刃になった。
魚住桃香を初めて見たのは、久世グループが買収した古い商店街のプロジェクト現場だった。港区の古い埠頭に近いその商店街には、小さな鮮魚店があった。桃香は仕事に向かない短いスカートを履き、足元はヒール、爪は長く整えられていて、安い香水の匂いがした。魚箱の横に立っていても、包丁の持ち方すら危なっかしかった。
私は彼女について調べさせた。彼女は、かつて少しだけ名前の知られた配信者だった。商店街の再開発計画が久世グループの手に渡ると噂になった後、あの鮮魚店を借りたという。普段はほとんど店を開けず、祈人が現場視察に来る日だけ姿を見せていた。
その時の私は、祈人の見る目がそこまで悪いはずはないと思っていた。結果として、私は彼を買いかぶっていた。
桃香は一枚の産婦人科の書類を、祈人の胸元へ押しつけた。
「私があなたの子を身ごもったからって、久世家に縛られるつもりはありません。私はいつでも出ていけます」
胸の奥が、何かに重く押しつぶされるようだった。隣に立っていた篠宮紗奈が、冷たく笑った。
「ずいぶん清らかな言い方ね。相手がもう婚姻届を出していると知りながら、妊娠した身で披露宴に現れる。魚住さん、それは無垢なの? それとも計算なの?」
桃香は涙を浮かべたまま、こぼさなかった。祈人は彼女をかばうように抱き寄せ、会場にいる全員を見回した。
「君たちは何も知らない。彼女を侮辱する資格なんてない。桃香は久世家の金を欲しがっているわけじゃない。ただ、俺を愛しているだけだ」
最後に彼は、私を見た。その目には、責めるような色さえあった。
久世宗一郎さんと玲子さんは、しばらく迷った末に、私の前へ来た。玲子さんは硬い笑みを浮かべ、声を落とした。
「詩乃さん、あなたと祈人はもう入籍しているでしょう。今日は披露宴だけなのだから、ここは少しだけ譲ってちょうだい」
私はゆっくりと顔を上げた。彼女は視線をそらしたまま続けた。
「今日さえ済ませれば、あの人と子どもは、誰にも分からない場所へ移すわ。白石家と久世家の提携を、こんなことで壊すわけにはいかないの」
その時ようやく分かった。幼い頃から私をかわいがってくれた人たちは、利益が傷つかない限りにおいて、私をかわいがっていただけだった。
「玲子さん、これは久世家の醜聞でしょう。なぜ私が、それを隠す役目をしなければならないんですか」
宗一郎さんの顔が険しくなった。
「詩乃さん、ご両親が亡くなってから、久世家がどれだけあなたを支えてきたと思っている。今日ここで事を荒立てるなら、その結果もよく考えなさい」
指先が、ゆっくりと冷たくなる。彼らは当然知っている。私の両親が、なぜ死んだのかを。あの火災で、祈人は倉庫の奥に閉じ込められ、私の両親が彼を助けに入った。祈人は生きて戻った。けれど両親は、二度と帰ってこなかった。
久世家はその時、遺影を抱いて泣きながら誓った。これからは詩乃を実の娘のように守る、と。けれど今、彼らは私がいちばん惨めな日に、その恩を使って私を黙らせようとしている。
桃香は腹に手を添え、目の奥にかすかな勝ち誇りを隠していた。祈人も、ようやく背筋を伸ばした。
「俺と詩乃が入籍したのは事実だ。でも、それは白石家が久世家にしてくれた恩を盾に取られたからだ。今なら分かる。俺は恩返しの道具じゃない。愛のない結婚に人生を埋めるわけにはいかない」
あまりにも被害者のような言い方だった。まるで捨てられたのは、彼の方であるかのように。私は彼をしばらく見つめ、手を上げた。乾いた音が会場に響き、全員が息をのんだ。
「政略結婚が嫌なら、入籍する前になぜ言わなかったの」
祈人の顔から血の気が引いた。私は彼に言葉を差し込ませなかった。
「言えば、白石家の資金支援を受けられなかったからでしょう?」
私は手にしていた進行表を、彼の足元へ落とした。
「久世祈人。あなたは白石家の金を受け取りながら、外で女を囲い、子どもまで作った。そのうえ、ここで結婚に縛られた被害者のような顔をするの。いつまで芝居を続けるつもり? 劇場でも押さえてあげましょうか」
桃香の頬が怒りで赤くなった。
「私と祈人さんは本当に愛し合っているんです。私たちは、ただ互いを苦しみから救っただけです」
紗奈が笑った。
「救う場所が、他人の披露宴会場なのね。魚住さんの善良さは、ずいぶん独特だわ」
祈人が怒鳴るように遮った。
「もういい。俺のことはどう言っても構わない。でも桃香は純粋なんだ。久世家に囲われたいなんて、一度も思っていない」
私は急に疲れた。目の前にいる男は、もう私の記憶の中で湯たんぽを用意し、細かな癖まで覚えていてくれた祈人ではなかった。
久世家の人間が、まだ私を端へ引こうとした。私は一歩下がり、誰にでも聞こえる声で言った。
「披露宴を譲る必要はありません」
手袋を外し、まだ指にはめていなかった指輪を、シャンパンタワーの横のトレーへ置いた。
「その夫なら、もういりません」
桃香が顔を上げる。その目に、一瞬だけ警戒が走った。私は手にしていたブーケを、彼女の腕の中へ投げた。
「どうぞ、お幸せに。できれば一生、離れないで」
そう言って、私は紗奈の手を取って会場を出た。背後では、新しい誓約式の音楽が流れ始めていた。私は一度も振り返らなかった。
3.白石家の退出条項
会場を出て、最初にしたことは、弁護士への連絡だった。
白石家から久世グループへの資金支援は、無条件の出資ではない。父が生きていた頃、契約書には明確な条項が盛り込まれていた。久世グループに重大な信用不安、経営混乱、または中核経営陣の重大な不適切行為があった場合、白石側は融資を停止し、期限前返済を求め、担保権を行使できる。
祈人が鮮魚店へ頻繁に通うようになった頃から、私は資料を集め始めていた。あの披露宴が無事に終わり、祈人が戻ってくるなら、私はそれらを眠らせておくつもりだった。
結局、私はまだ甘かった。
披露宴の数日後、祈人と桃香の話題がネットニュースを埋めた。二人は同じホテルで、いわゆる誓約式を行った。祈人は桃香のために湾岸区の高級マンションを買い、輸入車と宝石を用意した。メディアは彼女を、政略結婚を捨てさせた“純愛の相手”として持ち上げた。
そして私は、差し替えられた花嫁になった。
さらに滑稽なことに、祈人は桃香を久世グループへ連れていき、会長補佐という名ばかりの肩書きまで与えた。彼女には実務経験など何もない。それでも社内では、すぐに自分が女主人であるかのように振る舞い始めた。空気を読むのが早い社員たちは、表向きは魚住さんと呼びながら、内心では次の社長夫人として扱っていた。
彼女が私の執務室を奪いに来た時、私は白石側の退出計画を読んでいた。桃香は入口に立ち、まだ目立たない腹に手を添えていた。
「白石さん。この部屋、これから私が使うように祈人さんに言われています。まさか、困るなんておっしゃいませんよね?」
私はファイルを閉じた。
「困ります」
桃香の笑みが固まった。
「でも祈人さんは、あなたはいずれ久世グループを出ていくって」
「なら、私が出てからにしてください」
彼女は唇を噛み、被害者のような顔をした。私はもう彼女を見なかった。
私がやろうとしているのは、久世グループの金をこっそり移すことではない。白石家が注いできた資金、資源、顧客、人脈、そして信用を、法に従って少しずつ引き上げることだった。祈人は、金を稼ぐのがどれほど難しいか知らない。ここ数年、銀行との交渉、株主への説明、腐った帳簿の整理まで、すべて私が担ってきた。久世グループがまだ体面を保てていたのは、白石家が背後で血を流し続けていたからだ。
彼は、白石家の金が永遠にそこにあると思っていた。彼は間違っていた。
祈人は経営に興味がないくせに、久世家によって取締役会に入れられ、名目上は常務取締役の立場にあった。大口の資金移動、関連会社との契約、プロジェクト承認の多くに、彼の名義が使われていた。これまでは私が後始末をしていたせいで、彼は本気で、それらの署名をただの形式だと思っていた。
桃香の誕生日、祈人は東都湾岸区のドローン広告を押さえ、夜空いっぱいに彼女への祝福を流した。私は執務室で、取引銀行から届いたリスク警告を見ながら、冷めきったコーヒーをゆっくり飲み干した。
SNSでは、私を擁護する声もあった。
「白石さんを愛していなかったなら、なぜ入籍まで引き延ばしたんだ」
「久世家が今使っている金のうち、どれだけが白石家のおかげなんだ?」
そうしたコメントは、すぐに削除された。祈人は公開声明を出した。
「生まれに貴賤はない。愛されていない人間こそが、余計な存在だ。桃香は俺にとって何より大切な人であり、彼女を侮辱する者は、久世グループの敵とみなす」
その一文を読んだ時、指先がかすかに冷たくなった。心は一度で死ぬわけではない。何度も踏みにじられた末に、痛みの輪郭が分からなくなるだけだ。
その夜、腹部にひどい痛みが走った。以前なら、祈人は使い捨てカイロや湯たんぽ、温かい飲み物を用意してくれた。周期まで私より正確に覚えていた。けれど今、引き出しを開けても、残っていたのは空の箱だけだった。
あとになって、私は桃香のSNS投稿でその箱を見た。彼女は写真にこう添えていた。
【祈人さんって本当に気が利くの。こんなことまで用意してくれるなんて】
私は夜中まで耐えたが、痛みは引かず、むしろ鋭くなっていった。鎮痛薬も効かない。体を丸めながら祈人へ電話をかけた。十三回目までは切られ、十四回目でようやくつながった時、電話の向こうから苛立った息遣いが聞こえた。
「こんな夜中に、今度は何だ」
背後では、桃香の笑い声がしていた。自分が惨めだと、ふと思った。
「お腹が痛いの。病院に行った方がいいかもしれない」
祈人は鼻で笑った。
「白石詩乃、久世家とはもう関係を切ったつもりだったんじゃないのか。今さら体調不良を使って、俺を揺さぶる気か?」
通話は切れた。私は暗くなった画面を見つめ、それから救急へ連絡した。
4.夜間救急
救急車で、白石家がかつて寄付に関わった総合病院へ運ばれた時、私はもう体をまっすぐにできなかった。夜間当直の医師は急性虫垂炎と判断し、できるだけ早く手術が必要だと言った。けれど救急受付はなかなか処置室へ通してくれず、看護師は何度も廊下の奥へ視線を向け、困った顔をしていた。
あとで知ったことだが、祈人は桃香を連れて同じ病院に来ていた。久世家は長年、その医療法人に運営支援を行っていた。夜間当直の責任者は理事会関係者への忖度から、医師と処置室を先に桃香へ回した。救急受付は私を明確に拒んだわけではない。ただ、何度も待つようにと言い続けた。
私は壁に手をつき、額から冷たい汗を流していた。廊下の向こうから祈人が歩いてきて、私を見た瞬間だけ足を止めたが、すぐに眉をひそめた。
「情報が早いな。俺が病院にいることまで知っていたのか」
彼と言い合う力は残っていなかった。
「救急は久世家の私物じゃない。手術の手配をさせて」
私の青ざめた顔を見て、彼は一瞬だけ迷ったように見えた。その時、病室の方から桃香の泣き声が聞こえた。
「祈人さん、痛いです……さっきの電話で驚いたせいでしょうか」
祈人の顔色が変わった。もう一度私を見た時、その目にあった迷いは消えていた。
「披露宴の日から、君はずっと桃香を追い詰めている。今日も同じだ」
私は腹部を押さえ、低い声で言った。
「祈人、急性虫垂炎なの。放置すれば穿孔する」
彼は数秒沈黙した。
「なら、桃香に謝れ」
私は顔を上げた。白い廊下の照明が眩しかった。光の中に立つ彼の顔には、私の知っている温度がもうなかった。
「皆の前で彼女に謝るなら、手配してやる」
私は彼を見つめた。失望することさえ、無駄に思えた。
その時、エレベーターの方から何人もの足音が近づいてきた。先頭を歩いていた院長は、私を見るなり足を止め、深く頭を下げた。
「白石様、大変申し訳ございません。当院の管理不備により、つらい思いをさせてしまいました」
祈人の表情が固まる。院長は当直責任者へ向き直った。
「ただちに夜間救急の通常対応へ戻しなさい。処置区域から、関係者以外を退出させてください」
桃香の病室の扉が開き、看護師と警備員が中へ入った。祈人は青ざめた怒りを顔に浮かべた。
「久世家はこの医療法人の主要支援者だ。どういう権限で俺を追い出す」
院長は退かなかった。
「三日前より、白石ホールディングスの関連基金が、当医療法人の主要な運営支援先となりました。久世家のご意向を優先する扱いは、今後いたしません」
祈人の顔から、少しずつ血の気が引いていった。
手術室へ運ばれる直前、私は弁護士に資産精算書を渡した。弁護士は祈人の前へ進み、書類を差し出した。彼が一ページ目を開いた時、その指がわずかに震えた。
そこには、白石側が回収できる債権、担保、優先株、退出条項、融資停止の時期がすべて記されていた。久世グループは、帳簿の上ではまだ華やかに見える。けれど実際に動かせる現金は、ほとんど残っていなかった。
私はストレッチャーの上から彼を見た。
「祈人。私が支えてきた久世グループを、返してもらうわ」
彼は何か言おうとした。私はもう聞かなかった。麻酔が体に入り、意識がゆっくり沈んでいった。
手術は成功した。医師は、もう少し遅ければ穿孔していたかもしれないと言った。紗奈は病室のそばに座り、冷え切った顔で私の手を握っていた。痛かったかとも、我慢しろとも言わなかった。
「詩乃、次はもうないからね」
私は彼女を見て、小さくうなずいた。
退院して三日後、白石側は正式に退出条項を発動した。久世グループと深く結びついていた十数件の提携契約が停止または解除された。理由は明確だった。中核経営陣の不適切行為、経営リスクの上昇、そして信用基盤の毀損。久世グループの銀行与信と取引先評価は同時に悪化した。
監査法人は追加資料を求め、主要な取引先は契約リスクを再評価し始めた。白石側の弁護士は、旧契約、請求書、研修旅行費、接待費の資料を報告書にまとめ、税務署へ情報提供を行った。ほどなくして、久世グループには税務署から説明を求める連絡が入り、工場関連の過去資料も再確認の対象になった。
久世宗一郎さんの電話は、鳴りやまなかった。私に連絡がつかないと分かると、彼は紗奈を訪ねた。紗奈の秘書は一階ロビーで彼を止め、礼儀正しく、温度のない声で告げた。
「篠宮社長、本日の面会予定はございません」
宗一郎さんが秘書に頭を下げたのは、それが初めてだった。
「どうか伝えてください。本当に大事な用件なのです」
秘書は内線をつないだ。電話の向こうで、紗奈は一言だけ答えた。
「篠宮グループは、白石ホールディングスの判断を尊重します」
通話は終わった。ロビーに立ち尽くした宗一郎さんは、久世家が本当に崖際まで追い込まれたことを、ようやく理解した。
5.久世家の現実
宗一郎さんが久世家へ戻ると、祈人はリビングに座っていた。桃香はソファにもたれ、腹に手を添えている。顔色は数日前よりも白かった。寵愛されている興奮から少し醒め、久世グループの報道を見て、事態が制御できなくなっていると理解し始めていた。
宗一郎さんは祈人の頬を叩いた。リビングは、グラスの震える音まで聞こえるほど静かになった。祈人は幼い頃から一度もそんな叱責を受けたことがなく、全身をこわばらせた。
「自分が何をしたか、分かっているのか」
宗一郎さんの手は怒りで震えていた。
「たった一人の女のために、久世家をここまで追い込んだ。白石詩乃がいなければ、お前に何が残ると思っている」
祈人は頬を押さえ、怒りと屈辱をにじませた。
「父さん、先に追い詰めたのは詩乃だ。彼女は最初から俺を見下していた。久世家を支配したかっただけだ」
「支配だと?」
宗一郎さんが乾いた笑いを漏らした。声は、歯の隙間から絞り出すようだった。
「彼女がいなければ、久世家はこの数年、銀行与信すら維持できなかった。お前の配当程度で、その女と腹の子を何日養える」
桃香の顔が白くなった。祈人が彼女を見る目に、初めて小さな迷いが浮かぶ。宗一郎さんは容赦しなかった。
「すぐ詩乃さんに謝りに行け。くだらない自尊心など捨てろ。このままでは、久世家の跡取りどころか、誰にも電話を取ってもらえない名ばかりの御曹司になるぞ」
祈人はその場に立ち尽くし、指を強く握った。
彼はずっと、愛と身分を同時に持てると思っていた。桃香は新鮮さを与え、白石家は体面を与える。白石詩乃は幼い頃からそばにいて、決して離れない家族のような存在で、あらゆる後始末をしてくれる後ろ盾だった。
私が本当に去るとは、彼は考えたこともなかった。まして、去る時に白石家のすべてを連れていくなど、想像すらしていなかった。
桃香は目を伏せた。
「祈人さん、お父様も焦っているだけです。今の状況が悪いのは、本当ですから」
祈人は彼女を見据えた。
「怖くなったのか」
桃香はすぐに首を振った。
「あなたが心配なんです。子どものことも」
その言葉に間違いはない。けれど声はあまりにも軽く、言っている本人さえ説得できていなかった。その後の半月、久世家には毎日のように悪い知らせが届いた。税務署から説明を求められ、環境関連部署が久世グループ傘下の工場を確認し、金融機関は信用評価を見直し始めた。これまで久世家に群がっていた小さな会社も、ひそかに距離を取り始めた。
久世家の光は、急速に曇っていった。高級マンションと別荘は次々に売りに出され、祈人の車は競売の手続きに回された。彼が通っていた会員制クラブは、信用維持を理由に資格を一時停止した。かつて親しげに祈人君と呼んでいた人々は、今では電話にすら出なかった。
祈人はようやく、桃香の子どものために設定した信託資金を思い出した。彼は、そこから一部を回してほしいと言った。桃香は腹を抱えたまま、長い時間泣いた。
「それは子どものためのお金です。今それを取り上げるなんて、私とこの子を行き場のないところへ追い込む気ですか」
祈人は彼女を見て、初めて疑いを抱いた。けれど彼には、もう争う力もなかった。
世間の見方も変わっていった。桃香は、政略結婚を捨てさせた“純愛の相手”から、正妻を押しのけて久世家に入り込んだ元配信者になった。かつて清らかさを装っていた発言は一つずつ掘り返され、彼女が受け取ったマンションや宝石の写真と並べて拡散された。
彼女は弁解しようとしたが、誰かを納得させられる証拠は一つもなかった。
祈人と桃香の口論は増えていった。彼女は彼を、私と子どもを守れない男だと責めた。彼は彼女を、控えめにできず、すべてを手に負えないところまで広げた女だと責めた。ある日、口論の最中、祈人は彼女の腹を見て、思わず言った。
「この子さえいなければ、ここまでにはならなかった」
桃香の顔色が変わった。
「祈人さん、自分が何を言っているか分かっていますか」
彼自身も、自分の言葉に怯えたようだった。けれど、口から出たものは戻らない。
彼は床にしゃがみ込み、両手を髪に差し入れた。声は、ほとんど聞こえないほど低かった。
「どうしろっていうんだ。父さんには毎日責められる。皆が俺を笑っている。詩乃は本気で久世家を壊すつもりなんだ」
桃香は近づかなかった。数歩離れた場所に立ち、腹を押さえたまま、かつての確信を失った目をしていた。
6.子どもの父親
桃香が子どもを産んだ日、久世家は一時だけ喜びに包まれた。宗一郎さんと玲子さんは赤ん坊を抱き、最後の希望をつかんだような顔をした。祈人も目を赤くし、産着に包まれた子どもを見下ろして、ようやく自分にも完全な家庭が残っていると信じたようだった。
私が待っていたのも、その日だった。
披露宴の映像がネットニュースに流れた後、田辺翔太という男が私の弁護士に接触してきた。桃香の元婚約者だった。彼の手元には、妊娠初期のメッセージ履歴、同棲していた頃の支払い記録、桃香が彼に送っていた産婦人科の写真が残っていた。桃香は祈人に近づくために彼との関係を断ち切ったが、自分が残した痕跡の多さを忘れていた。
子どもが生まれた後、田辺は弁護士を通じて、正式に親子関係の確認を申し立てた。親子関係に関する資料が弁護士のもとへ届いた日、祈人は久世家のリビングで、十分間まったく言葉を発しなかった。
子どもは、彼の子ではなかった。
桃香は床に膝をつき、血の気のない顔をしていた。田辺が病院へ駆けつけた時、現場はひどく荒れた。警備員と警察が呼ばれ、記者も噂を聞きつけて集まった。桃香はカメラの前で、子どもは田辺の子である可能性が高いと認めざるを得なかった。
久世家に残っていた最後の体面は、そこで完全に破れた。
信託資金は凍結され、弁護士は、祈人が信託を設定した際に資金流用や虚偽説明がなかったかを調べ始めた。白石家の資金支援の一部が、桃香に関わる口座へ流れていたことは、彼を追い詰める決定的な証拠の一つになった。
私は執務室で、弁護士から進捗を聞いていた。
「久世祈人氏には、特別背任、業務上横領、資金流用に関する虚偽説明の疑いがあります。税務面については、久世宗一郎氏の過去の処理についても追加資料の提出を求められています」
私は資料を一枚めくった。
「検察の方は?」
「資料は段階的に提出します。重婚は主線にしません。婚姻届が出されていない以上、そこを押すと逆に弱くなります」
私はうなずいた。
「なら、重婚は要らないわ」
弁護士が私を見た。
私は古い久世家の家族写真を机に置いた。写真の中で、宗一郎さんと玲子さんは私の後ろに立ち、本当の家族のように笑っていた。祈人は私の手を握っていて、その目には少年の頃の頼りなさが残っている。
しばらく眺めてから、私は写真を伏せた。
「欲しいのは、聞こえのいい罪名じゃありません」
私は顔を上げた。
「代償を払わせたいんです」
弁護士は資料を閉じた。
「承知しました」
その日から、久世家が静まることはなかった。桃香は外に出られず、祈人と毎日のように争った。彼女は、私が自分を壊したのだと言った。私さえいなければ、自分は幸せになれたはずだと。
祈人は、狭い仮住まいの部屋に積み上がった弁当の容器を見て、ようやく彼女と“純粋”という言葉を結びつけられなくなった。
「最初は、何もいらないって言っていたな」
祈人の声はかすれていた。
「でも君は、誰より多くを欲しがった」
桃香は甲高く言い返した。
「守ってくれるって言ったのはあなたでしょう。あなたがそう言わなければ、私はこんなことにならなかった」
子どもは田辺のもとで、親子関係に関する手続きを進めることになった。桃香は最後の切り札を失った。久世グループの破綻に関するニュースが流れる中、祈人は床に座り込み、空っぽの目をしていた。
「全部、終わった」
その三文字を口にしてから、彼は初めて私を思い出した。私の優しさを思い出したのではない。自分がどれほどの風雨を、私に防がせていたのかを思い出したのだ。
7.遅すぎた謝罪
祈人と宗一郎さんは、白石ホールディングスのビルの前に三日間いた。一日目は、通行人が立ち止まって写真を撮った。二日目には、メディアが来た。三日目、祈人には久世家の跡取りとしての体面など、もう残っていなかった。
彼は自分の頬を何度も叩き、かすれた声で私の名前を呼んだ。
「詩乃、俺が間違っていた。一度だけでいい、会ってくれ」
私は上階から見下ろしたまま、降りなかった。
夕方、数人の捜査員が広場へ入ってきた。祈人が顔を上げた時、その表情にはまだ状況を理解できていない茫然さがあった。
「久世祈人さん、久世宗一郎さん。資金流用および虚偽申告に関する件で、お話を伺いたい。ご同行いただけますか」
祈人がビルの入口へ視線を向けた。ちょうど私が、回転扉から出てくるところだった。
彼の目が赤くなった。
「君が?」
私は彼の前で足を止めた。
「私が資料を提出しました」
彼は何かに強く殴られたように、その場で固まった。私はそれ以上彼を見ず、社内へ戻った。背後で、裂けるような声がした。
「詩乃!」
その声は、披露宴の日、私が彼を呼び止めた時の声に似ていた。
あの日、彼は私のために立ち止まらなかった。
だから今日、私も彼のためには止まらない。
祈人が任意同行を求められた後、玲子さんから何度も電話が来た。彼女は泣きながら、祈人を助けてほしい、宗一郎さんだけでも許してほしいと訴えた。久世家はもう分かった、私の両親にも、私にも申し訳ないと言った。
私はただ、スマートフォンを両親の遺影の前に置き、スピーカーにした。
彼女が泣き終えるのを待ってから、静かに言った。
「これは、久世家が払うべき代償です」
それ以来、彼女から連絡は来なくなった。
事件の進みは、思っていたより早かった。祈人が起訴された時、罪名は一つではなかった。特別背任、業務上横領、虚偽資料の提出、関連資金の不正流用。そのすべてが、久世グループの空っぽな体面につながっていた。
宗一郎さんもまた、過去の税務処理や取締役としての責任を問われた。検察の求刑は重かった。これは数か月で終わる話ではなく、彼らの人生の中で最も体面を保ちたかった年月を壊すだけのものだった。
その知らせを聞いた時、想像していたほどの快感はなかった。ただ、一部がようやく終わったのだと思った。
8.黒い服
祈人は弁護士を通じて、私に一度会いたいと伝えてきた。私は応じた。拘置所へ面会に行った日、私は黒い服を選んだ。黒いシャツに、黒いパンツ。アクセサリーは何もつけなかった。
鏡の中の私は、ひどく落ち着いて見えた。まるで、自分とは関係のない葬儀へ向かう人のようだった。
面会室のガラス越しに私を見た瞬間、祈人の目が赤くなった。
「詩乃、俺が悪かった。頼む、許してくれ」
私は何も言わなかった。彼はガラスに手を当て、声を少しずつ低くした。
「この数日、ずっと昔の夢を見るんだ。俺たちが付き合い始めた頃の夢だ。あの頃に戻りたい」
私は彼を見て、かすかに笑った。
「どうして今日、私が黒い服を着てきたと思う?」
彼の顔色が変わっていく。
「過去の私を、弔いに来たからよ」
「詩乃、お前はそこまでして、俺を壊したいのか。幼い頃から一緒だったじゃないか。離婚するにしても、もっと穏やかに終われたはずだ。なのに君は、俺をここまで追い込んだ」
私は顔を上げた。
「私があなたをここへ送ったんじゃない」
彼の唇が動いた。
「あなたが、自分の足で一歩ずつここまで来たの」
声は上げなかった。
「私と入籍した後、披露宴で花嫁を差し替え、白石家の資金を別の女性のために流し、病院の救急対応まで遅らせ、会社を自分の玩具のように扱った。祈人、私はあなたに機会を与えたわ」
ガラスの向こうで、彼の肩が落ちていく。私は立ち上がった。
「あなたは一度も、大切にしなかっただけ」
彼は泣き出した。押し殺した、みじめな泣き声だった。私は背を向け、そのまま振り返らなかった。
拘置所を出た後、私は病院へ向かった。
桃香もそこにいた。彼女は久世家を失い、子どもを失い、かつて自分を持ち上げていた人々も失った。病室には花も見舞客もなく、弁護士だけがベッドのそばに座り、困り切った顔をしていた。
扉の外で、私は彼女の低い声を聞いた。
「子どものことを白石詩乃のせいにできませんか。証人がいないなら、誰かに証言させればいいでしょう」
弁護士の顔色は悪かった。
「魚住さん、そういう発言はお控えください。偽証や虚偽告訴は、あなたの立場をさらに悪くします」
私は扉を開けた。桃香は私を見るなり、険しい目を向けた。
「白石詩乃、何をしに来たんですか。祈人さんも、私も、あなたが壊したんでしょう」
私は書類の束を、彼女のベッド脇の棚に置いた。
「口論をしに来たのではありません」
桃香は警戒した目で私を見た。
「あなた名義の会社に残っている債務資料です。祈人が一部の事業をあなたへ移した時、あなたは代表者として書類に署名している。会社が清算されても、知らなかったふりで消える債務ではありません」
桃香の顔が、一瞬で青ざめた。
「私は何も知りません。祈人さんに言われて署名しただけです」
「それは、裁判所が判断します」
私は彼女を見下ろし、声の調子を変えなかった。
「どうぞ、弁護士にそう説明してください」
桃香の体が震え始めた。私が病室を出る時、背後から彼女の崩れた泣き声が聞こえた。
私は止まらなかった。
数か月後、祈人への判決が出た。久世グループは分割清算され、白石家がかつて投入した資金と担保資産は、長い手続きを経て私の管理下へ戻ってきた。桃香は債務と訴訟を背負い、もう清らかさや純愛という言葉で自分を包むことはできなくなった。
誰かに、復讐が成功して幸せかと聞かれたことがある。私はしばらく考えた。そうでもなかった。誰かを恨み続ける時間は、自分自身もその場に縛りつける。
裁判所を出た日、東都の陽射しは明るかった。紗奈が車のそばで待っていて、白いトルコキキョウの花束を持っていた。彼女は何も聞かず、ただ花を差し出した。
「行こう」
花を受け取った時、風が軽く感じられた。記憶の中の人たちは、ようやく色褪せ始めていた。
私の道は、まだ長い。
陽射しも、花も、本当に私を愛してくれる人も。
私はもう一度、手に入れる。
――完――




