3章:真実の魔導と自律の契約
師匠と呼ばれた男は、焚き火の爆ぜる音を背景に、ジョッキに残ったエールを飲み干した。その瞳には、夜の闇よりも深い、それでいて澄み渡った虚無が宿っている。
「ノアール、と言ったか。あんたがこれまで学んできた魔法、そしてこの世界の魔導師たちが金科玉条としている理――ぶっちゃけて言えば、そのほとんどが『うそ』だ」
その断言に、ノアールの思考は一瞬停止した。師から受け継いだ知識、三年の研鑽、そして魔導書に記された数々の法則。それらすべてを、この男は「うそ」と切り捨てたのだ。
「いいか、今の魔法学ってのはな、自然界にある強大な力を『型』という小さな箱に無理やり詰め込んで、人間が扱いやすいように薄めた代物だ。杖を持つのも、呪文を唱えるのも、そうしなきゃ制御できないほど人間が弱くなった証拠に過ぎねえ。……俺の魔法とは、根本から違う」
男は焚き火の揺らめく炎に手をかざした。
「例えば、火魔法。今の奴らは『空気中の魔素を励起させ燃焼現象を引き起こす』なんて理屈を並べる。だが、俺に言わせればそんなのは回りくどい。火が欲しいなら、世界の一部を『熱く』するだけでいい。そこに理屈はいらねえ。ただの結果だ」
男が指をパチンと鳴らすと、焚き火の炎が物理的な重力に従わず、空中で美しい大輪の薔薇の形に固まった。熱量はそのままだが、煙も出ず、崩れもしない。火という事象が、男の意志そのものとして固定されている。
「ノアール、あんたの闇魔法もそうだ。あんたは糸で人形を縛り、無理やり動かしているな。それは『支配』だ。だが、闇の本質ってのは『受容』なんだ。光に弾き出されたものをすべて受け入れ、静寂の中に溶かし込む。支配しようとするから、糸が張り詰め、MPが枯渇するんだよ」
男は、ノアールの影から半身を出していた「狩人」の人形に、ひょいと手を伸ばした。ノアールが制止する間もなく、男の指先が人形の額に触れる。
「俺の魔法は、世界との対話だ。闇を、ただそこに『ある』ものとして受け入れろ。あんたが糸を引くんじゃない。闇自身に、あんたの望む動きを『思い出させて』やるんだ」
男の指先から、黒とも紫ともつかぬ、見たこともないほど濃密で静かな魔力が流れ込んだ。すると、ノアールの魔力供給が途絶えているはずの人形が、滑らかに、まるで自ら呼吸を始めたかのように首を傾げたのだ。
「……これが、あなたの魔法?」
「ああ。うそっぱちの詠唱や、杖という増幅器に頼った『借り物の力』じゃない。自分の魂を直接世界に響かせる、純粋な意志の力だ」
男は立ち上がり、夜空の月を見上げた。
「この世界の魔法使いは、みんな『魔法という名の道具』を使っているに過ぎねえ。だが、俺たちは違う。魔法そのものになるんだ。……ノアール、あんたもその域に来いよ。人形に糸を繋ぐのをやめて、世界そのものに糸を編み込むんだ」
ノアールは、自らの指先を見つめた。これまで誇りとしてきた「精密な操作」が、急に幼稚な遊びのように思えてきた。しかし、絶望はない。この男が語る「真実の魔法」の先には、まだ誰も見たことがない闇の地平が広がっている。それを確信した彼女の心は、かつてないほど静かに、そして激しく昂ぶっていた。
焚き火の爆ぜる音が、一瞬、ノアールの鼓動と重なった。男は身を乗り出し、その深い瞳でノアールを射抜くように見つめた。
「そもそも、闇ってのは何だ? 何も無い空間か? 違う。それは、あらゆる可能性が形を成さずに眠っている『苗床』だ。あんたの闇魔法は、その苗床から無理やり形を掘り起こそうとしている。だから疲れるし、限界がある」
男は立ち上がり、ノアールの影を指差した。
「俺の魔法は、あんたの魔法と相当相性がいい。俺は無から有を作るのが得意だが、あんたはその『有』を繋ぎ、形を保つのが天才的に上手い。どうだ、俺の魔法を使ってみたくないか?」
「……使ってみたい、と言えば教えてくれるの?」
ノアールは、自身の指先が微かに震えているのに気づいた。これは恐怖ではない。見たこともない頂を目の当たりにした登山家のような、純粋な知への渇望だ。
男は不敵に笑い、ノアールの目の前に大きな掌をかざした。
「教えるんじゃねえ。……『写す』んだ」
男がそう言った瞬間、彼の掌から漆黒の霧が溢れ出した。だが、それはノアールの知る闇魔法とは明らかに異なっていた。重く、冷たく、それでいてどこか「無垢」な魔力。
「いいか、糸を引くんじゃない。闇の中に、人形が『最初からそこにいた』という記憶を流し込め。あんたの意志を、糸という導線ではなく、闇という空間そのものに伝播させるんだ。属性は闇でも、俺の『事象改変』のコツを合わせれば、殲滅できない敵なんていなくなるぜ」
男の手がノアールの額に触れる。その瞬間、ノアールの脳内に、言葉では到底説明できない膨大な「感覚」が流れ込んできた。
それは、魔法という名の道具を操るマニュアルではない。世界という巨大なパズルを、どうやってバラし、どうやって組み替えるかという、神の視点に近い「認識」の変革だった。
(……ああ、そうか)
ノアールは、これまで自分が「糸」という細い線でしか世界を見ていなかったことに気づいた。しかし、男の魔法に触れた今、視界が開ける。糸は線ではなく、面になり、さらには空間そのものへと溶け込んでいく。
「さあ、やってみな。目の前のトカゲの死骸でいい。あんたの闇で、それを『再構成』してみろ」
ノアールは導かれるまま、地面に転がっていたアーマーリザードの死骸へ手を向けた。いつもなら、糸を伸ばして強制的に動かすところだ。だが、今は違う。
彼女はただ、そこにある闇に「問いかけた」。
死骸という結果を、材料という過程に戻し、新たな形を「想起」する。
バキバキと、恐ろしい音が響いた。
アーマーリザードの鋼の鱗が剥がれ、骨が軋み、ノアールの魔力と混ざり合いながら、一体の漆黒の巨像へと作り替えられていく。それは、彼女が持っていたどの人形よりも重厚で、どの人形よりも生命力に満ちていた。
「ははっ! 飲み込みが早いな、おい!」
男の快活な笑い声が、夜の渓谷に響き渡る。
ノアールは、自分の内側から溢れ出す、底なしの魔力の奔流を感じていた。杖も詠唱もいらない。ただ、世界に望む形を囁くだけで、闇がそれに答えてくれる。
「これが……本当の、魔法……」
「そうだ。ようこそ、うそっぱちの無い世界へ」
ノアールが進むべき道は、もはや「伝説の工房」をただ探すことだけではなかった。彼女は今、自らが「伝説」そのものを編み出すための、真実の鍵を手に入れたのだ。
男は、自らの手で形を変えた漆黒の巨像を見つめるノアールの肩を、ポンと叩いた。
「いいか、ノアール。あんたは今まで、精巧な糸で人形を操る『マリオネットマスター』だった。だが、俺が教えたのはその先だ。あんたは今日、本物の『パペットマスター』になれる切符を手にしたんだぜ」
「マリオネットではなく、パペット……?」
ノアールがその言葉を繰り返すと、男は焚き火に新しい薪を放り込みながら頷いた。
「マリオネットってのはな、常に主が糸を引いてなきゃならねえ。糸が切れればただの木屑だ。だが、パペットマスター、それも『本物』ってのは違う。器となる人形に、闇そのものを流し込み、そこに疑似的な『意思』と『魂』を宿らせる。あんたが糸を引かなくても、人形が自ら考え、あんたの影として動くようになるのさ」
男は、先ほどノアールが再構成した漆黒の巨像に視線を向けた。
「今のあんたならわかるはずだ。糸は導線じゃない。それは、主と人形を繋ぐ『神経』であり、魔力を循環させる『血管』だ。あん力を流し込み続けろ。人形を『物』として扱うのをやめ、自分の一部……切り離された『腕』や『脚』だと思ってみな」
ノアールは、静かに目を閉じた。
これまで、五体の人形を操ることは、五つの楽器を同時に演奏するような苦行だった。常に意識を分割し、一本一本の糸に神経を研ぎ澄ませていた。
だが、男の教えに従い、闇の魔力を「神経」として循環させてみる。
すると、どうだろう。
影の中に眠る五体の人形たちが、まるで深い眠りから覚めるように、微かな鼓動を刻み始めたのを感じた。
(……ああ、重くない)
これまで感じていた凄まじい魔力消費(MP)の重圧が、嘘のように消えていく。糸で「動かす」のではなく、彼ら自身に「動く力」を与え、自分はただ、進むべき方向を指し示すだけでいい。
「これなら……五体どころか、十体、百体だって……」
「その通りだ。あんたの闇は、無限の軍勢を宿すゆりかごになる。俺の事象改変で作り出した『核』を埋め込み、あんたの闇で育てる。それが本物のパペットマスター、あるいは『人形師』の真髄だ」
男は立ち上がり、夜空に浮かぶ銀の月を指差した。
「さあ、旅の続きだ。伝説の魔導鍛冶師アルジェントの工房を目指していたんだろ? あそこに行けば、あんたの新しい『家族』を作るための極上の素材が転がってるはずだ。俺も、少しだけ付き合ってやるよ。本物の魔法が、世界をどう塗り替えるか、間近で見せてやる」
ノアールは、自らの内に広がる静かな闇を愛おしく感じた。
おぞましいと忌み嫌われた闇。それは、誰よりも自由で、誰よりも優しい「生命の源」だった。
「……行きましょう、師匠」
ノアールは初めて、その男を師と呼んだ。
背後では、五体の人形たちが主の言葉を待つこともなく、自らの意思で整列し、夜霧の中へと足を踏み出していた。
「漆黒の指揮者」の物語は終わり、今ここに、万物を影に変える「真なる人形師」が誕生した。
師匠と「深紅の薔薇」の面々と共に、ノアールは『忘却の渓谷』のさらに深部へと足を踏み入れた。
昨日までのノアールなら、この一歩一歩に神経を削り、霧の奥に潜む魔物の気配に怯えていただろう。だが今の彼女は違う。背後に従える五体の人形たちからは、糸による強制的な駆動音ではなく、まるで生き物が微睡んでいるかのような静かな魔力の拍動が聞こえていた。
「いいか、ノアール。霧が深いってことは、それだけ『闇』の密度が高いってことだ。視界が効かないことを嘆くのは三流だ。一流は、その視界を遮る霧そのものに、自分の神経を染み渡らせるのさ」
師匠は手ぶらで、鼻歌まじりに岩場を歩いていく。
ノアールはその言葉を反芻し、自身の魔力回路を外側へと開放した。闇の魔力を「放出」するのではなく、周囲の霧や影の中に「溶かす」。すると、視覚を頼らずとも、数百メートル先の岩の亀裂や、そこに潜む小型の魔物の震えが、まるで自分の肌を撫でられたかのように克明に伝わってきた。
「……見えます。世界が、線じゃなくて網目で繋がっているのが」
「へへっ、上出来だ。マリオネットマスターからパペットマスターへの第一歩だな」
道中、再びアーマーリザードの群れが姿を現したが、今回は「深紅の薔薇」の出る幕はなかった。
ノアールが指を一つ、ピアノの鍵盤を叩くように動かす。
すると、彼女の影から「狩人」が弾丸のように飛び出した。ノアールが細かく糸を引く必要はない。狩人は自らの意思で霧に溶け、魔物の死角へと回り込み、その急所を確実に、かつ流麗な動作で断ち切った。
「私の……意思が、そのまま人形の反射速度になっている……」
「それが『自分の一部』として扱うってことだ。今まであんたがやってたのは、遠隔操作のラジコン。今やってるのは、自分の手を伸ばして掴むのと同じ。どっちが速くて正確か、言うまでもねえだろ?」
やがて、渓谷の最深部、断崖絶壁に埋め込まれるようにして鎮座する巨大な鉄の扉が見えてきた。伝説の魔導鍛冶師アルジェントの「黄昏の工房」だ。
扉には、複雑な魔法陣が刻まれているが、今のノアールにはそれが単なる「鍵」ではなく、解かれるのを待っている「言葉」のように見えた。
「さあ、ノアール。あんたの闇で、その扉に挨拶してこい。アルジェントが遺した『うそ』の奥にある、本物の素材を掴み取るんだ」
ノアールは扉の前に立ち、冷たい鉄に掌を触れた。
詠唱はいらない。杖も必要ない。
彼女はただ、自らの闇を扉の中へと流し込み、硬く閉ざされた機構に「開け」という純粋な意思を響かせた。
重厚な金属音が響き、数百年閉ざされていた歴史の扉が、ゆっくりと、だが確実に、一人の少女を招き入れるようにして開き始めた。
扉の向こう側に広がっていたのは、数世紀の時を止めたまま、魔力の残光に照らされた銀色の世界だった。
「黄昏の工房」――その名の通り、内部は沈まぬ夕陽のような魔導灯に満たされ、壁一面には巨大な歯車と、血管のように巡らされた魔力伝導管が脈動していた。中央の鋳造台には、かつてアルジェントが最後に手掛けていたと思われる、未完成の「核」が静かに鎮座している。
「ほう……アルジェントの野郎、最後はここまで辿り着いてたのか」
師匠が珍しく感心したように声を漏らす。ノアールは吸い寄せられるようにその台へと歩み寄った。そこにあったのは、物理的な重さを持たない、影を凝縮したような不思議な塊だった。
「ノアール、それが『幽質銀』の原石だ。霊体に干渉でき、持ち主の意志に反応して無限に形状を変える。あんたがずっと欲しがっていた『本物』の素材だぜ」
ノアールはその石に触れた。瞬間、凍てつくような冷気と、熱を帯びた感情が同時に彼女の脳内へ流れ込んでくる。これまで使ってきた木材や市販の魔導合金とは比較にならない、圧倒的な魔力親和性。
「……これなら、作れる。私の、六体目の家族を」
ノアールは無詠唱で闇の魔力を解放した。これまでの「操作」のための魔力ではない。世界から要素を借り、新たな形を定義する「事象改変」の拍動だ。
影の中から五体の人形たちが現れ、主を囲むようにして円陣を組む。ノアールは「幽質銀」を空中に浮かべると、自身の闇の糸をその中心へと編み込んでいった。糸は銀の塊を侵食し、複雑な神経網を形成していく。さらには「深紅の薔薇」のメンバーが見せた、属性を生活に溶け込ませるような柔軟なイメージを投影した。
銀の塊は、ノアールの望むままに姿を変えていく。
ある時は流動する霧のように、ある時は硬質な騎士の鎧のように、そして最後には、リィネと呼ばれていた幼い頃の彼女を彷彿とさせる、一人の少女の形へと収束した。
だが、その瞳にはノアールの闇が宿っている。
「名付けなさい、ノアール。それがパペットマスターとしての、最初の『契約』だ」
師匠の言葉に、ノアールは静かに微笑んだ。
「名前は……『エクリプス(蝕)』。私の光と闇、そのすべてを繋ぐ者」
エクリプスが目を開けた。彼女は糸を必要とせず、ノアールの意識と直接リンクして、優雅にその場に膝をつく。これまでの人形が「精巧な機械」だったなら、エクリプスは「分身」そのものだった。彼女が立ち上がると、その手には幽質銀で形成された、霊体をも断ち切る漆黒の鎌が握られていた。
「いい出来だ。これで、殲滅できない敵はいなくなったな」
師匠は満足げに頷くと、工房の奥へと視線を向けた。
「だが、ここにあるのは素材だけじゃねえ。アルジェントが隠した、この世界の『魔法のうそ』を暴くための記録が眠ってるはずだぜ」
ノアールはエクリプスの小さな手を握った。その手は、冷たい銀のはずなのに、不思議と温かかった。
「おぞましい」と捨てられた少女は、今や伝説の工房の主として、そして真実を知る者として、世界という大きな舞台の幕を、自らの手で上げようとしていた。
工房の最奥、巨大な歯車の影に隠されるようにして、その「記録」は安置されていた。それは紙の書物ではなく、一つの巨大な水晶体に封印された「記憶の残滓」だった。
ノアールがエクリプスを伴って歩み寄ると、師匠は水晶を指差し、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「さあ、見てみな。この世界の賢者様たちが、必死に隠してきた『魔法の正体』だ」
ノアールが水晶に手を触れると、視界が真っ白な光に包まれ、膨大な情報の激流が脳内に直接流れ込んできた。それは、数千年前の「魔法」の形だった。
かつて、魔法とは誰もが呼吸するように扱える「自然の一部」だった。人々は詠唱などせず、杖も持たず、ただ自らの意志を世界に響かせていた。しかし、ある時期を境に、一部の特権階級――現在の「魔法大家」の先祖たちが、その強大な力を独占するために、ある壮大な「うそ」を仕掛けたのだ。
彼らは世界に漂う魔素の濃度を操作し、あえて「効率の悪い回路」を流布した。それが、現代の常識である「属性の固定」であり、「杖」であり、「詠唱」だった。
あえて不自由な型を押し付けることで、魔法を「選ばれた才能」だけのものに作り替え、一般の民が真の理に辿り着けないよう檻に閉じ込めたのだ。
「……属性の適性なんて、最初からなかった。闇も、火も、光も……すべては一つの源から分かれた現象に過ぎない」
ノアールは呆然と呟いた。ロレーヌ家が火を神聖視し、闇を不浄として彼女を捨てたことも、すべては支配者たちが作り上げた偽りの序列に過ぎなかったのだ。
「その通りだ。奴らは世界を細切れにして、自分たちの都合のいいラベルを貼った。あんたが『おぞましい』と言われたのも、その狭いラベルの中に収まらなかったからだよ」
師匠の声が、静かな怒りを孕んで響く。
「この工房の主、アルジェントはそれに気づいた。だから彼は、どんな属性の魔力にも反応し、自在に形を変える『幽質銀』を作り出し、この真実を後世に残そうとしたんだ」
水晶の光が収まると、ノアールの瞳には、以前とは違う冷徹な光が宿っていた。
これまでの自分は、偽りのルールの中で「優秀な駒」になろうと必死だった。だが、もう違う。ルールそのものが欺瞞であったなら、自分はそれを塗り替える「筆」になればいい。
「師匠……私は、この工房を拠点にするわ」
ノアールはエクリプスを見つめ、決意を口にした。
「アルジェントがやり残した、真実の魔導具の製作を引き継ぐ。そして、私の闇で、この世界の偽りの光をすべて塗り潰してやる」
エクリプスが主の意志に呼応するように、手にした黒鎌を低く構えた。幽質銀の刃が、世界の境界を切り裂くように銀色に煌めく。
「ははっ! 面白くなってきたじゃねえか。深紅の薔薇の連中も、いい実験台……いや、協力者になってくれるだろうぜ」
師匠は愉快そうに笑い、工房の出口を指差した。
「まずは、その力を試すいい機会が来てるようだ。外の霧が、不自然に揺れてやがる。奴ら……『真実』を隠し通したい連中が、嗅ぎつけてきたらしい」
ノアールの闇が、工房の影と一体化し、入り口へと静かに広がっていく。
「おぞましい娘」と呼ばれた少女は、今、歴史の裏側に隠された真実をその手に握り、偽りの世界へと反撃の産声を上げようとしていた。
工房を囲む『忘却の渓谷』の霧が、不自然な金色に染まっていく。それは日の光ではなく、高密度の魔力を強制的に励起させた「火」と「光」の混成結界だった。
「出てきなさい、異端の娘! そして伝説の遺産を王立魔導院へ差し出すのです!」
響き渡る声には、隠しきれない傲慢さと焦燥が混じっていた。ノアールは無言のまま、新しく「家族」となったエクリプスの手を引き、工房の重い扉を再び開いた。
外にいたのは、白銀の甲冑に身を包んだ王宮魔導騎士団の一団だった。その中央、ひと際豪華な法衣を纏った男が、嫌悪を剥き出しにしてノアールを指差す。
「やはり生きていたか、ロレーヌ家の出来損ない。その忌まわしい闇で、アルジェントの工房を汚すとは万死に値する。大人しく捕らわれ、その技術のすべてを我らに献上せよ」
ノアールは冷たい瞳で彼らを見つめた。かつてなら、この「正義」を象徴する光の輝きに、自分は汚れた存在だと俯いただろう。だが今の彼女には、その光がいかに脆く、欺瞞に満ちたものかが見えていた。
「献上? ……断るわ。これは、あなたたちの『うそ』を暴くための道具だもの」
ノアールの指先が、静かに空を掻いた。
「エクリプス、掃除をして。糸はいらない。あなたの自由に」
その瞬間、ノアールの影から六体の人形が一斉に躍り出た。以前の五体は「守護者」や「狩人」としてそれぞれの役割を演じていたが、今の彼らは幽質銀の力を得たエクリプスと魔力を共有し、独立した自律意志を持つ「影の生命体」へと進化していた。
「なっ……詠唱も、魔法陣もなしにこれほどの人形を!? 構わん、焼き尽くせ!」
魔導騎士団が一斉に杖を掲げ、極大の火球と光の矢を放つ。だが、それらがノアールに届くことはなかった。エクリプスが手にした漆黒の鎌を横一文字に振るうと、空間そのものが「影」に塗り替えられ、あらゆる魔法攻撃が虚無の深淵へと吸い込まれて霧散したのだ。
「そんな……我が王宮魔導の奥義が、一撃で!?」
「あなたの魔法は、型に嵌められた偽物。私の闇は、世界の理そのものよ」
ノアールは一歩も動かない。ただ、彼女の意志に呼応した人形たちが、光の軍勢を圧倒していく。「狩人」は光の矢よりも速く背後を取り、「重圧の巨像」は騎士たちの自慢の甲冑を紙細工のように押し潰す。そしてエクリプスは、絶望に目を見開く魔導師たちの足元から影を伸ばし、彼らの魔力供給路そのものを物理的に「切断」していった。
わずか数分。百人を越える精鋭騎士団は、一人として命を奪われることなく、しかし二度と魔法を扱えぬほど完膚なきまでに無力化され、地面に這いつくばっていた。
「おぞましい……。お前はやはり、魔王の申し子か……!」
男の呪詛を、ノアールは鼻で笑った。
「そう呼びたければ呼べばいい。私はただ、本当の魔法を知っただけ」
師匠が背後で「へっ、いい捌きだ」と快活に笑い、深紅の薔薇の面々も「私たちの出番、全然なかったわね」と肩をすくめている。
ノアールは、倒れ伏す騎士たちの先に広がる、偽りの光に満ちた世界を見据えた。
今日、この渓谷で起きたことは、やがて大陸全土に知れ渡るだろう。闇の糸で世界を縫い直す人形師の再臨を。
「さあ、行きましょう。まずは、この世界の『うそ』の総本山から塗り潰すわ」
彼女の歩みに合わせ、六体の人形が音もなく影に沈む。ノアールの物語は、今ここから、世界を革命する「静かな夜の進撃」へと変わっていった。




