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真実の人形師(パペットマスター)  作者: 慈架太子


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2章:常識の崩壊と未知なる練度


『忘却の渓谷』へと続く険しい断崖の道。湿り気を帯びた空気の中に、突如として硬質な金属音が響き渡った。


(剣劇の音……。この先に誰かいるのね)


ノアールは即座に気配を殺し、影を滑るように音の源へと向かった。岩陰から階下を見下ろすと、そこには砂塵と火花が舞う凄惨な戦場が広がっていた。


五人の冒険者パーティーが、土煙を上げて迫る「アーマーリザード」の群れに包囲されている。

アーマーリザード。その名の通り、全身を鋼鉄に匹敵する硬度の鱗で覆った大トカゲだ。単体でも脅威度Bランクに指定されるこの魔物は、その突進力と牙の破壊力から、熟練の冒険者でも複数を相手にするのは避けるべき難敵である。


だが、目の前の惨状は「複数」という言葉では生ぬるかった。


「クソッ、次から次へと……! きりがないぞ!」


前衛で大剣を振るう重戦士が毒づくが、その背後からはさらに十数体、計三十体は下らないであろう鱗の群れが、獲物を囲い込むようにじりじりと距離を詰めていた。パーティーの実力は低くない。魔導師の放つ火球が炸裂し、軽戦士の短剣が急所を突くたびに数体は沈むが、いかんせん数による暴力が彼らのスタミナを確実に削り取っている。


(三十体……。あのパーティーが全滅するまで、そう時間はかからないわね)


ノアールの瞳が冷徹に戦況を分析する。

前衛の盾にはすでに亀裂が入り、後衛の魔導師は魔力枯渇で顔を青ざめさせている。放置すれば、彼らはこの渓谷の露と消えるだろう。


ノアールは溜息をつき、自らの影に意識を沈めた。

「……五体、同時展開フルデプロイ


彼女の背後の影が爆発するように広がり、そこから五つの異形が音もなく這い出した。

「守護者」が盾を打ち鳴らし、「狩人」が双刃を抜き放つ。「重圧の巨像」の関節が重低音を響かせ、「影の奏者」が不可視の振動を周囲に撒き散らす。そして「癒し手」が、いつでも糸を伸ばせるよう指先を震わせた。


「助太刀は不要と言いたいけれど、私の目的地の前で死なれるのも寝覚めが悪いのよ」


ノアールは岩場から音もなく跳躍した。

空中で彼女の両手から五十本の闇の糸が放射状に放たれ、五体の人形へと接続される。着地と同時に、戦場の「指揮権」は完全に彼女の手へと移った。


「重圧、展開。彼らの周囲を固定して」


ノアールの指示に呼応し、巨像が地面を叩く。瞬間、アーマーリザードたちの周囲に数十倍の重力負荷がのしかかり、鋼の鱗が悲鳴を上げて地面にめり込んだ。


驚愕に目を見開く冒険者たちの中心に、黒い法衣を翻した少女が降り立つ。

三十体のBランクモンスターを前にして、彼女の心臓は平時と変わらぬ鼓動を刻んでいた。


「ここからは、私の舞台よ」


指先が鍵盤を叩くように激しく、かつ正確に動き始める。

五体の人形が、絶望に染まりかけていた戦場を漆黒の美学で塗り替え始めた。






岩陰から飛び出そうとしたノアールの足が、一瞬止まった。眼下の戦場で、予想だにしない光景が繰り広げられたからだ。


「……無詠唱?」


パーティーの一人、防具を最小限に留めた女性魔導士が、両手をしなやかに空へかざした。次の瞬間、轟音と共に大地が牙を剥くように隆起する。アーマーリザードの群れを両脇から挟み込むように、巨大な土壁が蛇行しながら突き進み、広大だった戦場を一瞬にして狭隘な「通路」へと変え、魔物たちの導線を強制的に絞り込んだ。


杖も、詠唱も、複雑な魔法陣の展開すらない。ただ意思のままに大地を捻じ曲げるその手際に、ノアールは直感した。彼女もまた、自分と同じく「属性の深淵」を覗いた者なのだと。


驚くべきはそこからだった。彼女が再び両手を叩き合わせると、無詠唱の連鎖が大地を震わせる。隆起した土塊が意思を持つかのように凝縮され、五メートル級の巨大なゴーレムが、一体、また一体と、合計十体もが連続して生成されたのだ。


「叩き潰せ!」


女性魔導士の鋭い号令と共に、十体のゴーレムが通路の出口に壁となって立ちはだかる。逃げ場を失い、雪崩のように押し寄せるアーマーリザードに対し、ゴーレムたちが一斉にその剛腕を振り下ろした。


ドゴォッ! という、肉と鉄がひしゃげる凄まじい衝撃音が渓谷に反響する。


Bランクの脅威を誇るアーマーリザードの硬質な鱗が、ゴーレムの重い一撃の前では紙細工も同然だった。一撃で頭部が陥没し、脊椎が砕け、魔物たちは悲鳴を上げる暇もなく絶命していく。ゴーレムたちは無機質な動作で、息絶えた個体をゴミのように後方へ放り投げると、次なる獲物を機械的な正確さでタコ殴りにし始めた。その破壊力はもはや「戦闘」ではなく、純粋な「圧殺」であった。


(あの魔導士、相当な出力ね……。でも、まだ後ろがつまっているわ)


呆然とする他の冒険者たちを余所に、ノアールは自身の役割を瞬時に切り替えた。正面がゴーレムによって完全に封鎖された今、パニックを起こして後方へ逃げ出そうとする個体や、壁を乗り越えようとする個体を仕留めるのが合理的だ。


「五体、連動開始。……後方を断つわよ」


ノアールが指先を踊らせると、五体の人形が影から滑り出した。「狩人」の両刃が、逃げようとしたアーマーリザードの関節の隙間を銀光となって通り抜ける。硬い鱗で守られていない喉元や腹部を、正確無比な速度で切り裂いていく。


「重圧」の巨像が後方の地面に強烈な重力を叩きつけ、逃走を封じる。その隙を逃さず、ノアールの魔力糸に接続された「影の奏者」が不可視の振動を糸に伝播させ、アーマーリザードの巨体を外側からではなく、内部の臓腑から破砕していった。


ゴーレムによる剛の破壊と、ノアールの人形による柔の精密作業。

二つの異なる強大な力が合致した戦場では、三十体のアーマーリザードはもはや「群れ」ではなく、解体を待つだけの「肉塊」に成り果てていた。


ノアールは、返り血一つ浴びぬまま、五体の人形を自身の周囲に浮遊させ、ゴーレムを指揮する女性魔導士の方へと視線を向けた。渓谷の霧の中に、二人の術者の沈黙が流れた。




戦場に立ち込めていた土煙と魔力の残滓が、渓谷の冷たい風に流されていく。ゴーレムたちはその巨体を崩して土塊へと戻り、アーマーリザードの死骸だけが静まり返った通路に転がっていた。


「加勢してくれてありがとう、助かったわ」


凛とした声に、ノアールは指先をわずかに動かして人形たちを自身の背後に引き寄せた。


声をかけてきたのは、先ほどまで十体のゴーレムを無詠唱で指揮していた女性魔導士だった。近づいてくる彼女を見て、ノアールは微かに目を見張った。魔導士といえば、書物に埋もれて育ったような線の細い者が多いが、彼女は違った。


魔導士にしては驚くほど体格がいい。といっても鈍重な印象はなく、厳しい修練で鍛え上げられたしなやかな筋肉が、その肌に健康的な艶を与えている。整った顔立ちはどこか彫刻のように美しく、その瞳には理知的な光と、戦士としての強固な意志が宿っていた。


「私はアイリス。私たちは『深紅の薔薇』。見ての通り、メンバーは全員女性のパーティーよ」


アイリスと名乗った彼女が周囲を指し示すと、息を整えていた他の四人の女性たちが、それぞれ武器を収めてこちらに会釈した。重戦士、軽戦士、射手、そして神官。どの顔ぶれも一線級の冒険者であることは、先ほどの立ち回りを見れば明らかだった。


ノアールはフードの奥から、彼女たちを冷静に観察した。

「……ノアールよ。一匹狼の冒険者。礼には及ばないわ。私の進路にこのトカゲたちがいた、それだけのことだから」


ぶっきらぼうとも取れるノアールの返答に、アイリスは気を悪くした様子もなく、むしろ興味深げにノアールの背後に浮かぶ五体の人形を見つめた。


「『一匹狼』ね。その若さで、これほど精巧な自動人形オートマタを五体同時に、しかもあれだけ精密に操るなんて。さっきの糸の捌き、正直言って見惚れたわ。私たちのゴーレムが力任せに殴るだけの野蛮なものに見えてしまったくらいに」


アイリスは快活に笑い、大きな掌を差し出した。

「どうかしら。目的地の途中だというなら、せめて渓谷のキャンプ地までご一緒しない? この辺りはアーマーリザードだけじゃない。一人の夜より、女五……いえ、六人の方が賑やかで安全よ」


ノアールは差し出された手を見つめ、少しだけ思案した。

本来なら馴れ合いを嫌う性格だが、アイリスの魔力操作には学ぶべき点が多いと感じていた。何より、あの無詠唱の土魔法と、圧倒的な出力。


(五体の人形を動かし続ける私の魔力運用(MP)の課題……。彼女のような高出力の魔導士と一緒にいれば、何かヒントが得られるかもしれない)


「……キャンプ地までなら」


ノアールがその手を取ると、アイリスは「決まりね!」と嬉しそうにその手を握り返した。

闇の中で一人、糸を紡ぎ続けてきたノアール。その隣に、太陽のように明るい大地の魔導士が並んで歩き出す。


「深紅の薔薇」と「漆黒の指揮者」。

霧の深い『忘却の渓谷』で、正反対の色を持つ彼女たちの奇妙な共旅が始まった。




渓谷の断崖に張り出したわずかな平地で、キャンプの準備が始まった。しかし、そこで繰り広げられた光景は、ノアールのこれまでの常識を根底から覆すものだった。


「さて、まずは居場所の確保ね」


アイリスの言葉に反応したのは、大剣を背負った重戦士の女性だった。彼女は呪文を唱えることも、魔方陣を描くこともなく、ただ地面を軽く踏みつけた。


「『ストーンボード』」


その一言と共に、地中から巨大な石の塊が隆起し、瞬く間に滑らかな表面を持つ大テーブルと、人数分の椅子へと形を変えた。それだけではない。調理用のかまどまでもが、一寸の狂いもなく生成される。ノアールがその「無詠唱」の精度に息を呑んでいる間に、さらなる異常が起きた。


軽戦士の女性が、何もない虚空へ無造作に手を伸ばしたのだ。

すると、何の前触れもなく宙から引きずり出されるように、先ほど狩ったばかりのアーマーリザードの巨体がその場に現れた。


(……アイテムボックス? 魔導具すら介さずに、空間から直接?)


驚愕するノアールを余所に、軽戦士の女性は指先をナイフのように振るった。彼女が手を動かすたびに、無詠唱の風魔法が目に見えぬ刃となって空を舞う。凄まじい風の断裁音が数秒間だけ響き、次の瞬間には、アーマーリザードの全身が驚くべき精度で分別されていた。


硬い鱗のついた皮、巨大な骨、鮮烈な赤身の肉、そして丁寧に分けられた内臓。それらがまるで最初からそうであったかのように、整然と石板の上に並べられていく。


ノアールは、自身の背後に浮かぶ五体の人形を動かすことさえ忘れ、その場に釘付けになった。


(何なの、この人たちは……)


冒険者ギルドにおいて、戦士がこれほど高度な魔法を操る例など聞いたことがない。ましてや、空間魔法を当然のように使いこなし、解体専用に風魔法を極め、一瞬で素材化する技術。それはもはや職人の領域すら超えている。


ノアールがこれまで必死に研鑽してきたのは、闇という属性の深淵、そして多重操作という「技術」の極致だった。だが、彼女たちが今見せたのは、日常の一部として魔法を呼吸するように使いこなす、圧倒的な「練度」と「自由」だった。


「驚いた? 私たちのパーティーはね、全員が『魔法は生活を豊かにするための技術』っていう考え方なの」


アイリスが、竈に火を熾しながら快活に笑いかけた。

「戦うためだけの魔法は疲れるでしょう? 美味しいものを食べて、ふかふかの椅子で休む。そのために魔法を工夫していたら、いつの間にかこうなっちゃったのよ」


石板の上では、アーマーリザードの肉がじゅうじゅうと音を立てて焼け、食欲をそそる香りが霧の中に広がっていく。


ノアールは、自分が抱えていた「魔力不足」や「効率」という悩みが、いかに狭い視野でのものだったかを痛感していた。彼女たちの無駄のない動き、魔法を道具として完璧に御する姿。


(……私が一人で辿り着けなかった答えが、ここにあるのかもしれない)


差し出された木の皿の上には、完璧に焼き上げられた肉が載っている。

ノアールは震える指先でそれを受け取った。漆黒の指揮者の心の中に、正体不明の焦燥感と、それ以上に強い「新しい知への渇望」が、闇の魔力と共に渦巻いていた。






立ち込める肉の焼ける香りに混じり、今度は清冽な魔力の気配が鼻腔をくすぐった。


「味付けがまだだったわね。私がやるわ」


そう言って立ち上がったのは、慈愛に満ちた微笑みを湛える神官の女性だった。彼女もまた、このパーティーの例に漏れず、見惚れるような美貌の持ち主だった。だが、彼女が次に見せた御業は、聖職者という言葉から連想される「祈り」や「加護」とは、あまりにかけ離れたものだった。


彼女は優雅な所作で地面に指先を触れた。

「『ピュリフケーション』」


低く、心地よい声でトリガーワードだけが告げられる。詠唱はない。その瞬間、足元の土が生き物のように盛り上がり、螺旋を描きながら空中で濾過されるように白く輝き始めた。


(土の中から……成分だけを抽出しているの!?)


ノアールの驚愕を余所に、宙に浮く土塊から不純物が瞬時に排され、スノーパウダーのような真っ白な粒子が降り注いだ。それは土魔法による超高精度の物質精製――地中に含まれるミネラル分を強制的に結晶化させた、高純度の岩塩だった。


神官の女性は流れるような手つきで、再び無詠唱の土魔法を行使した。今度は足元の粘土質が瞬時に焼き固められたような質感に変わり、滑らかな曲線を持つ美しい塩入れ(器)が完成する。降り注ぐ岩塩を完璧にその器へ収めると、彼女は休むことなく指先を躍らせた。


カラン、カランと、硬質な音がテーブルに響く。

土魔法によって分子構造を組み替えられたかのような、鈍い銀光を放つカトラリー。ナイフ、フォーク、スプーンのセットが、パーティーの人数に加えてノアールの分まで、寸分の狂いもなくテーブルに整列した。


「さあ、これで準備万端よ。召し上がれ」


神官の女性は、まるでお茶でも淹れたかのような気軽さで微笑んだ。


(……ありえない)


ノアールは、目の前の「食器」を手に取り、その手触りを確認した。ザラつき一つない。重さも重心も、食事をするのに最適なバランスで設計されている。


闇魔法を極めれば、影を固体化させ、一時的な武器や道具を作ることは可能だ。しかし、彼女たちがやっているのは「一時的な創造」ではない。自然界にある物質に干渉し、無詠唱で、かつ一瞬で「完成品」へと再構築する、極めて密度の高い事象改変だ。


しかも、本来なら治癒や浄化を司るはずの神官までもが、当然のように土魔法を「生活の道具」として極めている。


「……あなたたちは、全員が全属性を使えるの?」


ノアールは、喉の奥から絞り出すように問いかけた。自分の知る魔導の常識――一つの属性を一生かけて研鑽し、ようやく深淵に辿り着けるという「真理」が、この賑やかな食卓の前でガラガラと崩れ去っていく。


「全属性? うーん、得意不得意はあるけど、便利だから一通りは練習するわね。だって、お箸がないと困るじゃない?」


アイリスが事も無げに答え、焼きたての肉に精製されたばかりの岩塩をパラリと振りかけた。


ノアールは、自身の影に潜む五体の人形を思った。彼らは戦闘において無類の強さを誇る。だが、彼女の魔法はこれまで「破壊」と「統制」のためにしかなかった。


「……いただきます」


銀色のフォークを肉に刺し、口へ運ぶ。岩塩の尖った塩気が肉の旨みを引き立て、驚くほど美味だった。だが、その味以上にノアールを震わせたのは、自分の知らない「魔法の地平」が、この渓谷の夜に確かに存在しているという事実だった。





静寂に包まれた渓谷の夜に、またしても新たな魔力の拍動が走った。


「肉があるなら、やっぱりこれがなきゃ始まらないわよね」


快活に笑いながら立ち上がったのは、背中に大弓を背負った射手の女性だった。彼女は他のメンバーと同じく無詠唱で、流れるような所作を空中で描く。その瞬間、夜の湿った空気が一箇所に凝集し、結晶化の音を立てて六つの物体が形作られた。


「……氷のジョッキ?」


ノアールが呟いた通り、そこには持ち手まで完璧に細工された、透明度の高い氷の器が並んでいた。水魔法による氷結の固定。それも、単に凍らせるのではなく、飲み口が唇に馴染むよう計算された、極めて精緻な造形だ。


射手の女性はそのまま、何もない虚空へ無造作に腕を差し込んだ。まるで透明なカーテンを捲り上げるようにして彼女が取り出したのは、ずっしりと重そうな、年季の入った木製のエールの樽だった。


(まただわ……「アイテムボックス」。伝説の魔導師でも稀にしか持たない空間収納を、この人たちは当然のように使いこなしている)


彼女は慣れた手つきで樽の栓を抜く。黄金色の液体が、冷やされたばかりの氷のジョッキへと注ぎ込まれた。シュワシュワと白い泡が立ち上がり、ジョッキの表面が夜の冷気で白く結露していく。その清涼感に満ちた光景は、ここが魔物の潜む険しい渓谷であることを一瞬で忘れさせるほどだった。


「はい、ノアール。あんたの分よ。冷たいうちに飲んじゃって」


手渡されたジョッキは驚くほど軽く、そして心地よい冷たさを掌に伝えてきた。


ノアールは、一口その液体を口に含んだ。喉を焼くようなエールの刺激と、氷の器がもたらす極限の冷気が混ざり合い、体中の細胞が覚醒するような感覚に陥る。


(……信じられない。何なの、このゆとりは)


ノアールがこれまで過ごしてきた夜は、常に緊張と隣り合わせだった。乏しい魔力を温存し、最低限の食事を口にし、闇の中に五体の人形を潜ませて敵を警戒する。それが彼女の知る「正しい魔導師」の姿だった。


しかし、目の前の女性たちは違う。

彼女たちにとって魔法とは、血を吐くような研鑽の果てに掴む「武器」であると同時に、今この瞬間を最高に楽しむための「魔法の杖」でもあった。射手が水魔法で氷を作り、重戦士が土魔法で椅子を作り、神官が浄化で塩を作る。それぞれの属性が、まるで一つの音楽を奏でるように組み合わさり、贅沢な晩餐を作り上げている。


「そんなに難しい顔をして飲まないで。せっかく美味しいお酒なんだから」


アイリスが自分のジョッキをノアールのそれに軽くぶつけた。キィン、と氷同士が触れ合う澄んだ音が夜霧に溶けていく。


ノアールは、自分の影の中で待機している「守護者」や「狩人」たちの気配を感じた。彼らは戦闘において無敵の盾であり矛だが、今のこの食卓において、自分は彼らを使って何ができるだろうか。


闇魔法でジョッキを冷やすことはできるか。

魔力糸で、彼女たちの疲れを癒すマッサージをすることはできるか。


「……美味しいわ」


ノアールは短く、本心を零した。

師匠に教わった「闇の真理」のさらに外側に、広大な魔法の世界が広がっている。それを教えてくれたのは、高名な賢者ではなく、戦場で豪快に笑い、無詠唱で夕食の準備を整える規格外の女性冒険者たちだった。


ノアールは二口目を飲み干すと、少しだけ肩の力を抜いた。この夜が終わる頃、自分の「糸」が何を見出し、どう変わっていくのか。彼女は自分でも驚くほど、明日の到来を待ち遠しく感じていた。




エールを一口飲み、喉を鳴らしたノアールは、ずっと胸に溜まっていた問いを口にした。


「……ねえ、質問していい?」


焚き火の爆ぜる音が響く中、アイリスがジョッキを置いてこちらを見た。ノアールは背後の人形たちの存在を感じながら、視線を彼女たちに向ける。


「あなたたち、全員が無詠唱で魔法を使えるの? それに、誰一人として杖を持っていない。……魔法使いにとって、詠唱も杖も常識のはずよ」


アイリスは隣の仲間たちと顔を見合わせると、可笑しそうに、けれど誇らしげに目を細めた。


「ああ、それね。私たちの師匠が言ったのよ。『詠唱と杖は百害あって一利なし』って」


「百害あって……一利なし?」


ノアールは耳を疑った。王立の魔導学院であれ、街の魔導師ギルドであれ、杖は魔力を増幅させ、詠唱は魔法を安定させる不可欠なプロセスだと教えられる。それを全否定するなど、既存の魔導体系への宣戦布告に近い。


「ええ。師匠曰く、詠唱は敵に手の内を明かす隙になり、杖という道具に頼れば自分の魔力回路の感覚が鈍る。自分の意思をダイレクトに現象へ繋げることこそが、魔法の真髄だって。だから私たちは、呼吸をするのと同じ感覚で魔法が使えるようになるまで、徹底的に叩き込まれたわ」


アイリスは焚き火の炎を指先で弄んでみせた。まるで手懐けられた小鳥のように、炎は彼女の指に絡みつく。


「でも、不安じゃないの?」


ノアールは問いを重ねた。


「そうやって生活の中で当たり前のように魔法を使って、MP(魔力)を消費して……いざという戦闘の時に、魔力が足りなくなることはないの?」


ノアール自身、五体の人形を同時に操る際の魔力負荷には常に悩まされてきた。だからこそ、彼女たちの「魔法の無駄遣い」とも思える日常が信じられなかったのだ。


すると、重戦士の女性が肉を咀嚼しながら、事も無げに笑った。


「逆よ、ノアール。魔法を『特別なもの』として出し惜しみするから、魔力の最大値が増えないし、運用が下手になるの。生活のあらゆる場面で限界まで魔力を使い、精密にコントロールする。これが一番の特訓なのよ。筋肉と同じで、使えば使うほど器は大きくなるし、燃費も良くなるわ」


「そう。それにね……」


アイリスが言葉を継ぐ。


「美味しいものを食べて、快適に眠る。それだけで精神の回復速度は跳動的に上がる。ストレスでガチガチの状態で戦場に立つより、満たされた心で挑む方が、魔法のキレは数段上よ」


ノアールは、目の前の岩塩の器や、氷のジョッキを見つめた。

これらは単なる贅沢品ではなかった。彼女たちにとっては、日常のすべてが「修行」であり、同時に「回復」でもあったのだ。


師匠から教わった「闇の研鑽」とは、孤独に深く潜ることだと思っていた。しかし、彼女たちは「生活」という横の広がりの中で、魔法を極めていた。


(百害あって一利なし……。私は、型に縛られすぎていたのかもしれない)


ノアールは、自身の指先をじっと見つめた。闇の魔力糸。これをただの人形操作に留めるのではなく、もっと自在に、もっと生活に密着した形に変えられないか。


「……あなたの師匠、面白い人ね。いつか会ってみたいわ」


ノアールの言葉に、アイリスは満面の笑みでジョッキを掲げた。

「その時は、盛大な晩餐で迎えてくれるはずよ。もちろん、全員無詠唱でね!」


夜の渓谷に、氷のぶつかる澄んだ音と、女たちの笑い声が響き渡った。ノアールの心にこびりついていた「魔力不足」への恐怖が、エールの泡と共に少しずつ溶けていくようだった。




焚き火を囲んでの談笑が一段落し、ノアールが彼女たちの魔法観について深い思索に沈みかけた、その時だった。


「よーすっ」


場違いなほどに軽快な声が、夜霧の向こうから響いた。


「「「「「あ、師匠!!」」」」」


アイリスをはじめとする「深紅の薔薇」の五人が、一斉に立ち上がる。ノアールは反射的に影から五体の人形を半ばまで浮上させ、全方位への警戒態勢をとった。


だが、霧の中から現れたその人物を見て、ノアールは思わず目を見開いた。


そこにいたのは、伝説の賢者のような威厳を纏った人物でも、筋骨隆々の武人でもなかった。どこか飄々とした空気を纏い、まるで行きつけの酒場にでも立ち寄るかのような気軽さで歩いてくる一人の男だった。


「なんだ、えらい盛り上がってるな。俺の分のエールも残ってるか?」


男はノアールの人形たちを一瞥したが、怯えるどころか「ほう、面白い糸使いだな」と楽しそうに目を細めた。彼はそのまま、重戦士の女性が作った石の椅子にどっしりと腰を下ろした。


(気配が……全くなかった。これだけの距離まで近づかれるまで、私の『探査糸』が一切反応しないなんて!)


ノアールの背中を冷たい汗が伝う。彼女がこれまでの旅で出会ったどんな強者よりも、この男は「底」が見えない。魔力の揺らぎが自然界の空気と完全に同化しており、まるでそこに存在しない透明な風が喋っているかのようだった。


「師匠、急にどうしたのよ! 別の場所で調査してるんじゃなかったの?」


アイリスが呆れ顔でエールのジョッキを差し出すと、師匠と呼ばれた男はそれを一気に煽り、「プハッ!」と満足げに息を吐いた。


「いやぁ、ちょっとそこの角を曲がったらお前らの美味そうな肉の匂いがしてなぁ。これも『生活を豊かにする魔法』の一環だ。弟子が宴会やってるなら、師匠が顔を出さないわけにはいかないだろ?」


男は笑いながら、驚愕で固まっているノアールに視線を向けた。


「あんたが、うちの馬鹿弟子たちを助けてくれたっていう『漆黒の指揮者』か。いい闇だ。研鑽の跡が指先に見える。だが、ちょっと肩の力が入りすぎだな。糸がピンと張りすぎて、風情がねえ」


男はひょいと指を動かした。詠唱もトリガーワードも、指の動きすらほとんど見えなかった。

次の瞬間、ノアールが展開していた五体の人形の関節が、ふわりと脱力するように緩んだのだ。


(私の魔力接続を、外部から強制的に『中和』したの……!?)


「魔法ってのはな、支配するもんじゃない。寄り添うもんだ。闇属性ならなおさらだぜ。夜は無理やり作るもんじゃねえ、光が去れば勝手に降りてくるもんだろ?」


男はそう言って、焚き火で焼かれていたアーマーリザードの肉を素手で掴み、豪快に頬張った。


ノアールは戦慄していた。彼女たちの「無詠唱」も「アイテムボックス」も、すべてはこの男から始まったのだ。そして、自分を救ってくれた「闇の賢者」が語らなかった、もう一つの魔法の真理を、この男は体現している。


「……あなたの弟子たちは、杖も詠唱も『百害あって一利なし』だと言っていました」


ノアールが震える声で問いかけると、師匠は肉を飲み込み、ニカッと笑った。


「おう、当たり前だ。杖はただの棒切れ、詠唱はただの独り言だ。そんなもんに頼ってたら、本当の意味で魔法と『友達』にはなれねえ。……どうだ、ノアール。あんたのその闇の糸、もっと自由に遊ばせてみる気はねえか?」


その言葉は、ノアールが三年間積み上げてきた「孤高の努力」という氷を、一瞬で溶かしてしまうほどの熱量を持っていた。漆黒の衣を纏った少女の横で、世界最強と言っても過言ではない、あまりにも自由な師匠との夜が深まっていく。



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