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二度と聞かなくなる音

作者: しゅんまる
掲載日:2026/02/05

 その店に、看板はなかった。


 街外れの坂を下りきった先、

 昼でも薄暗い路地に、ぽつんと一軒だけ残っている。


 扉を開けると、鈴の音は鳴らない。

 代わりに、何かが「耳の奥で」揺れた。


「いらっしゃい」


 店主は、音のしない声で言った。


 棚には、瓶や小箱が並んでいる。

 どれもラベルには、短い言葉だけが書かれていた。


 笑い声

 雨

 駅のアナウンス

 さよなら


「……ここは?」


「音を売る店です」


 店主は当たり前のように言った。


「買う人もいれば、売る人もいます。

 大切な音ほど、高く売れますよ」


 私は、拳を握った。


「世界で一番、美しい音はありますか」


 店主の目が、わずかに細くなる。


「あります」


「それをください」


「――理由を聞いても?」


 私は、鞄の中の補聴器に触れた。


「娘が、事故で聴覚を失いました。

 もう、何も聞こえません」


 七歳。

 信号の音が聞こえず、車に気づかなかった。


「せめて一度だけでも……

 世界が、きれいだってことを」


 言葉が、震えた。


 店主はしばらく黙り、奥へ消えた。



 戻ってきた店主の手には、何もなかった。


「お望みの音は、これです」


「……?」


「世界で最も美しい音。

 それは」


 店主は、私を見た。


「二度と聞けなくなる音です」


 理解できず、息を呑む。


「たとえば」


 店主は静かに言う。


「あなたが今、普通に聞いている音。

 娘さんの声。

 風。

 自分の足音」


「それを……売れって言うんですか」


「はい」


 胸の奥が、ざわつく。


「失うと決めた瞬間、

 その音は、途方もなく美しくなる」


 店主は続けた。


「価値とは、

 失われることでしか測れないものですから」



 私は、帰ろうとした。


 だが、扉に手をかけた瞬間。


「お母さん」


 背後で、声がした。


 振り返る。


 そこに、娘はいない。


 ――幻聴だ。


 それでも、胸が裂けそうになる。


 私は、音を“当たり前”だと思っていた。


 娘が失って初めて、

 どれほどのものを持っていたか、気づいた。


 店主が、最後に言った。


「売る音は、一つだけです。

 全部は要りません」


「……何を?」


「あなたが、一番聞き慣れている音」


 答えは、すぐ出た。



 翌朝。


 病室で、娘が目を覚ます。


 私は、彼女の耳元で、そっと囁いた。


「おはよう」


 その瞬間。


 娘の目が、見開かれる。


「……え?」


 涙が、溢れた。


「聞こえる……」


 彼女は笑った。

 声を出して、泣いた。


 私は、ただ抱きしめる。


 ――聞こえない。


 自分の声が、

 彼女の泣き声が、

 心臓の鼓動が。


 世界は、無音だった。



 数日後、私は気づく。


 娘の声は、

 私にとって、世界で一番美しい音だった。


 そして同時に。


 二度と聞けなくなる音だった。


 街外れの店は、もう見つからない。


 でも、時々、思う。


 価値は、

 手放した瞬間に、完成するのだと。


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