二度と聞かなくなる音
その店に、看板はなかった。
街外れの坂を下りきった先、
昼でも薄暗い路地に、ぽつんと一軒だけ残っている。
扉を開けると、鈴の音は鳴らない。
代わりに、何かが「耳の奥で」揺れた。
「いらっしゃい」
店主は、音のしない声で言った。
棚には、瓶や小箱が並んでいる。
どれもラベルには、短い言葉だけが書かれていた。
笑い声
雨
駅のアナウンス
さよなら
「……ここは?」
「音を売る店です」
店主は当たり前のように言った。
「買う人もいれば、売る人もいます。
大切な音ほど、高く売れますよ」
私は、拳を握った。
「世界で一番、美しい音はありますか」
店主の目が、わずかに細くなる。
「あります」
「それをください」
「――理由を聞いても?」
私は、鞄の中の補聴器に触れた。
「娘が、事故で聴覚を失いました。
もう、何も聞こえません」
七歳。
信号の音が聞こえず、車に気づかなかった。
「せめて一度だけでも……
世界が、きれいだってことを」
言葉が、震えた。
店主はしばらく黙り、奥へ消えた。
⸻
戻ってきた店主の手には、何もなかった。
「お望みの音は、これです」
「……?」
「世界で最も美しい音。
それは」
店主は、私を見た。
「二度と聞けなくなる音です」
理解できず、息を呑む。
「たとえば」
店主は静かに言う。
「あなたが今、普通に聞いている音。
娘さんの声。
風。
自分の足音」
「それを……売れって言うんですか」
「はい」
胸の奥が、ざわつく。
「失うと決めた瞬間、
その音は、途方もなく美しくなる」
店主は続けた。
「価値とは、
失われることでしか測れないものですから」
⸻
私は、帰ろうとした。
だが、扉に手をかけた瞬間。
「お母さん」
背後で、声がした。
振り返る。
そこに、娘はいない。
――幻聴だ。
それでも、胸が裂けそうになる。
私は、音を“当たり前”だと思っていた。
娘が失って初めて、
どれほどのものを持っていたか、気づいた。
店主が、最後に言った。
「売る音は、一つだけです。
全部は要りません」
「……何を?」
「あなたが、一番聞き慣れている音」
答えは、すぐ出た。
⸻
翌朝。
病室で、娘が目を覚ます。
私は、彼女の耳元で、そっと囁いた。
「おはよう」
その瞬間。
娘の目が、見開かれる。
「……え?」
涙が、溢れた。
「聞こえる……」
彼女は笑った。
声を出して、泣いた。
私は、ただ抱きしめる。
――聞こえない。
自分の声が、
彼女の泣き声が、
心臓の鼓動が。
世界は、無音だった。
⸻
数日後、私は気づく。
娘の声は、
私にとって、世界で一番美しい音だった。
そして同時に。
二度と聞けなくなる音だった。
街外れの店は、もう見つからない。
でも、時々、思う。
価値は、
手放した瞬間に、完成するのだと。




