あの時助けていただいた、たぬきです
「あの時助けていただいた、たぬきです」
よく日に焼けた、見るからに活発そうな美少女は、悠真を見るやいなや、溌剌とした声でそんな奇妙な第一声を発した。
時は少しだけ遡る。
「今日は事前に話していた通り、転校生がやって来ます。職員室前で待機しているので、呼んできますね」
妙齢の担任教師は、教卓に手をついてそう言うと、静かに待っていてくださいね、と言い残して教室を出て行った。しかし悲しいかな、静粛にしろなんていう忠告が高校生に通用するはずがない。教室中は先生が教室内からいなくなるのを待ってました!と言わんばかりに、まるで動物園かのように騒々しくなる。
「なあなあ、永見。転入生ってどんな子だと思う? 女の子らしいけど、可愛いかな〜?」
悠真がお気に入りのミステリーを読んでいると、一つ前の席の男子が振り返ってきた。
「さあね。でも可愛い転入生なんて、漫画や小説の世界だけだよ」
「くぅ〜。永見は相変わらず夢がないなぁ」
悠真が冷淡に切り捨てると、彼は他の男子にも意見を求めに行く。悠真としては、この小説を読み進めたくて仕方がないので、読書の邪魔をされるのは、内心では大変不快である。暫くの間、悠真が読書に没頭していると、担任が一人で帰ってきた。転入生は廊下で待機しているらしく、担任がそれでは入ってきて、と声をかけると、ガラガラとドアを開く鈍い音が響いた。
そしてその姿が教室に現れた途端、クラス中の誰もが息を呑んだ。その少女は悠真がこれまで歩んできた人生の中で目にした事のない美しさを放っていた。高い鼻にぱっちりとした大きな瞳、そして瑞々しい桜色の唇。肩の少し上で切り揃えられた、茶色がかった髪はサラサラと揺れており、後ろ髪と同じ長さの前髪が、紅色のカチューシャによって爽快にかきあげられている。並大抵の事では動じない悠真までもが、彼女に目を奪われた。それは決して悠真が美少女好きであるという訳ではなく、彼女だからこそ目が離せなかった。彼女は誰かを探すように、教室中をぐるりと見回し、ピタ、と悠真と目が合った。その途端、悠真はその大きなヘーゼル色の瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた。なぜだろう、どこかで見たことのある光景。確かに悠真はあのヘーゼルアイと目を合わせたことがある、そんな既視感を覚えた。
「あの時助けていただいた、たぬきです」
鈴の音のような音が教室中に響いた。脳内でその音声が意味を持つ言葉を紡ぐのに、悠真は数秒費やした。聞き間違いかと思った。しかし、周囲のざわめきを見るに、それは確かに彼女の口から発せられた言葉なのだろう。更に彼女の視線は依然として悠真に注がれており、口元には微笑が浮かべられていた。
「は?」
対して悠真の口からも素っ頓狂な声が漏れる。だが、悠真の説明を求める声は虚しくも虚空に消え、彼女からそれ以上の説明はなかった。周囲が騒然とする中、彼女は構わず白チョークを手に取り、黒板に小気味の良い音を響かせて文字を綴る。そこには小鳥遊みすずと、実に丁寧な楷書で名が書かれていた。
「初めまして、小鳥遊みすずです。日焼けしてる所から分かると思うんですが、運動系女子です。前の学校では陸上部に入っていたので、ここでも続けようと思っています。趣味は意外にも読書です。仲良くしてくれると嬉しいです。よろしくお願いします」
用意されていたように淀みなく自己紹介を終え、ぺこりと深くお辞儀をするみすず。これだけなら立派なものだが、彼女は既に不可解な一文を口走るという失態を犯している。同級生らは皆困惑し、あちこちでざわめきの波がウェーブを起こしていた。
「はい、皆さん。これから一年間、同じクラスで過ごす小鳥遊みすずさんです。小鳥遊さん、永見くんの知り合いなのでしょか? ちょうどあなたの席は彼の隣ですよ」
担任が指差した空間は、窓際の最後尾に腰掛ける悠真の席の隣。そこには彼女の為に新たに用意された椅子と机が備えられていた。みすずは「はい」と元気よく返事をして、悠真の隣の席まで歩み、姿勢良く腰掛けた。悠真は彼女からまた何か奇妙な言葉をぶつけられるのではないかと構えたが、懸念していたような事は起きず、朝のホームルームの時間は終わった。
そして一日中、みすずは特に怪奇な言動をする事はなかった。むしろ転校生として模範的な振る舞いをした。一言目が衝撃だったので初めは逡巡していたものの、徐々に彼女の周りにできる輪っかは大きくなっていった。昼休みには、変わらず自席でミステリー本を開く悠真と、その他数人を除く同級生が彼女の周りを囲んでいた。元よりあの美貌なので、注目を浴びるのも当然である。しかもみすずはかなりのコミュ力の持ち主のようで、一軍女子ともぽんぽん会話が弾んでいた。
だから悠真には、あの一言がまるで幻のように感じられた。そう、放課後までは。
「永見くん」
帰りのホームルームを終え、リュックを背負って帰ろうとしていた時の事。同じく隣で鞄を背負ったみすずに声をかけられた。
「あのさ、私いいの持ってるんだけど」
彼女はそう言って鞄の中をゴソゴソと漁り、何やら一冊の本を取り出した。そういや自己紹介で趣味が読書だと言っていたな、とぼんやりと思い出していると、みすずにその本を差し出された。悠真はわけも分からず受け取ると、その題名は見慣れたものだった。
「あ。これ、僕の好きなミステリーシリーズだ。今日発売の新刊じゃないか。僕、これから買いに行こうと思ってたんだよ。小鳥遊さんも好きなの?」
悠真は体育会系にも関わらず、意外にも重い本を好むのだな、と内心驚きながら尋ねる。
「うん、好き。でもそれは永見くんにプレゼントする為に買ってきた。私の分もあるから遠慮しないで。永見くん、本読んでる時に邪魔されるの嫌いだろうから、読み終わったらまた感想共有しよ。じゃあまた明日!」
みすずはそう言い残して颯爽と教室を去っていった。放課後までクラスメートに囲まれ、下校時刻を遅らせない為だろう。悠真は狐につままれたようにその場から動けなかった。
(僕にプレゼントする為ってことは…事前に僕が好きな本を知ってたのか? …でも、いつ、どこで…? 僕は彼女とは初対面だ…。やっぱり、たぬきがどうたらこうたら、っていうのと関係しているのか…? いつの間にファンタジーに首突っ込んでたんだ?)
みすずのヘーゼル色の瞳を見た時、なぜかデジャブを感じたが、第一声を聞いてそれが人違いであると確信した。あんな奇妙な発言をする知り合いなど記憶にない。それ以前に、あれほどの美少女ならば、一度目にしたら記憶から抜け落ちる事はないだろう。悠真は手元にある単行本を見つめた。
翌朝、悠真が登校すると、クラスに馴染みのない光景が出来上がっていた。見慣れた顔ぶれの一軍女子の中に、今日はその中心にみすずがいたのだ。呆気に取られつつ自席に着くと、悠真の登校に気づいたみすずが彼女たちに断りを入れ、悠真の元へ近寄ってきた。
「永見くん、おはよ。どうだった? 私も今日永見くんと感想共有できるように、昨日頑張って読んできたんだよ〜。私は永見くんと違ってあんまり読むの早くないからさ〜」
「…どうって、昨日の本のこと? まるでもう読み終わってる前提みたいに話すんだね」
「だって知ってるもん」
悠真が謎に絡んでくるみすずに面倒臭さを覚え、つれない態度で言葉を返すと、彼女はミステリアスな微笑を讃えた。
「…君さ、なんで僕のこと知ってるの?」
「さあね。当ててみてよ」
みすずは口角を上げた唇に人差し指を添えた。
「大体たぬきを助けたってなんだよ。僕は人間に化けるたぬきを助けた覚えはないぞ」
「化けられないたぬきならあるんだ?」
「言葉の綾だ。いい加減教えてよ」
くすくすと笑い、揚げ足をとるみすずに、悠真は若干の苛つきを覚えて返答する。
「だーめ。永見くんは覚えてないかもだけど、私というたぬきを助けたの。自分で思い出してよ。てかそんなことより、昨日のミステリー小説の感想共有しようよ!」
「…感想言い合うのはいいけど、この本はやっぱ返すよ。申し訳ない」
「昨日言ったでしょ。贈り物なの。私は貴方に助けられたんだから、ささやかなお礼」
せっかくファンタジーから抜け出したのに、再着陸してしまうこの有様。悠真はつかみどころのないみすずに苛立ちを覚えた。
「…わかったよ。有り難く受け取っておく」
悠真は元たぬきだと言い張る彼女とこれ以上口論を続けても飄々と返されるだけだと早々に諦め、お言葉に甘えて頂戴することにした。そして彼女の望み通り、二人で感想を交わした。すると驚くほど彼女と意見が合い、また、読んできた本も悠真に寄せてきているのではないかと疑うほど似通っていた。そうして時間も忘れて楽しいひと時を過ごし、担任がやってくる頃には、彼女をうざったらしいと思う気持ちは一切合切無くなっていた。
それからというもの、悠真はミステリー小説を読み終えると、一番にみすずに感想を語りに行くほど親しくなった。とはいえど、ずっと二人一緒にいるわけではない。休み時間は相変わらず一人で読書をしているのだが、そんな時、みすずは読書中に声をかけてくることは絶対にしない。そんな気遣いの出来るところが、悠真は気に入ったのだった。また、みすずのほうも目新しいミステリー小説を見つけると、そのたびに悠真に報告してくれた。
また、みすずはずっと昔からこのクラスにいたのではないかと錯覚するほど、クラスメートになじんでいた。いまや本来ならば悠真が関わることのない一軍女子の一人である。
「みすずさぁ〜」
悠真が教室前の廊下を歩いていると、〝みすず〟という名前が耳に飛び込んできた。
「なんで髪伸ばさないの?」
続く言葉に耳を澄ますと、そんな台詞が聞こえてくる。
「あ、それわかる! みすずって髪サラサラなのにもったいな〜い」
別の陽キャ女子の声が続いた。どうやらみすずの髪について話しているようだ。
「えっへん。ちゃんと毎日お手入れしてるんでね〜。昔はずっと髪伸ばしてたんだけど、心機一転っていうか、思い切ってバッサリ切ってみたんだよね〜。そうしたら思いの外これが気持ちよくてさ〜」
悠真が教室のドアを開けると、彼女らの会話に対するみすずの澄んだ声が耳に入り込んできた。ドアの開閉音でちらとこちらを見たみすずは、登校してきたのが悠真だとわかると、ぱっと笑顔を咲かせ、こちらへ駆け寄ってきた。みすずとお喋りしていた彼女らは途中で会話から抜けたみすずを非難することなく、彼女を温かい目で見守っている。どうやら、みすずが悠真に好意を寄せていて、日々アプローチしていると思われているらしい。
「おっはよ~、永見!」
「ああ。おはよう、小鳥遊」
悠真が挨拶を返して名前を呼ぶと、彼女はにっこりと目を細める。
「ねぇ永見、私、この間お勧めしてくれたミステリー小説読み終わったよ!」
「読んでくれてありがとう。どうだった?」
嬉々として報告してくるみすずに、悠真が顔を綻ばせて感想を求めると、彼女は滔々と印象に残った箇所を語り出した。
「わかるわかる。そうだ、ここも伏線になってるんだけど気づいた?」
「えっ、嘘、本当だ! 気づかなかった! 相変わらず永見はすごいなぁ。いつも解説前に犯人わかるって、ほんと尊敬に値するよ」
悠真がみすずの話を聞いて、おそらく気づいていないであろう、隠された伏線を教えると、彼女はオーバーなほどに目を見開いた。みすずはいつも悠真の期待以上の反応を示してくれて、悠真は彼女といるととても楽しかった。
(…やっぱり、普通の人だ)
また、そうしてみすずと共に過ごす時間が長くなればなるほど、彼女が常識人である事がわかる。そうなると余計に、自己紹介の奇妙な発言が頭の中でぐるぐると渦巻く。
その日、学年全体で道徳の授業が行われた。外部から特別講師がやってきて、あるテーマについて講習をしてくれるというものだ。今回のテーマは「いじめ」で、できれば聞きたくない重い内容だった。
また、長々しい説明に飽きてあくびを噛み締めていた頃、ふと、一列前の斜め右に座るみすずが目に飛び込んできた。出席番号順なので「小鳥遊」は「永見」のちょうど一列前のようだった。
みすずは普段、退屈になると授業中にノートに落書きをする癖がある。そのイラストがこれまた上手なのだが、褒められた行為ではない。そんな堪え性のないみすずが、かつてないほど真剣な表情で、一言でも聞き漏らすまいといった様子で傾聴していた。悠真でさえ飽き飽きしてしまう講習で、熱心に耳を傾けるみすずの様子にただただ瞠目した。
悠真はそれから授業が終わるまで、講師の話を傾聴するどころか、みすずの真剣な横顔を眺めていた。普段陽気なみすずが真面目に話を聞いていたことが珍しく思ったわけではない。彼女は真剣さの中に時折、寂しさや苦しさなど、悲しみを含んだ表情を滲ませていたからだった。目を背けたくなる悲惨さ、だけれども助けを求めているような必死さに目が離せなくなり、又彼女に対してある疑惑を抱いた。それと同時に、悠真の頭の中である光景がフラッシュバックし、一人で頭を押さえた。
放課後、悠真は友達と帰ろうとするみすずに声をかけた。
「…小鳥遊、ちょっといいか?」
すると、みすずが悠真に好意を寄せていると思い込んでいる彼女の友人らは、本人を差し置いて興奮し出した。
「みすずぅ〜! よかったじゃん!」
「私ら先帰るね! また明日話聞かせて〜!」
明らかに勘違いしているが、放課後誰もいない教室で二人きり、となると、そちら方面へ話が飛躍してもなんらおかしくはない。悠真は期待させてしまったら悪いな、とみすずを一瞥すると、彼女は何かを悟ったような諦観した顔つきで微笑みを浮かべて首肯した。
「とうとう私の正体がわかったのかな?」
その後、クラスメートが悠真とみすずの他にいなくなるのを確認し、悠真が切り出そうとすると、みすずがニヤつきながら本題に触れたので、悠真は反射的に姿勢を正した。
「いや…そういうわけじゃないんだけど…。あのさ、これから僕が話すことで気を悪くしたらごめん」
「何よ、改まって」
みすずは突然の悠真の台詞に対し、いつもとなんら変わらぬ口調で返す。
「小鳥遊…さっきの授業で思ったんだけど…もしかして君…いじめられた経験がある?」
悠真が恐る恐るといった様子で尋ねると、みすずは渋面を作るどころか、口角をあげた。
「うん、あるよ」
みすずは隠そうともせず、平然と頷いた。
「もう私の正体はわかった?」
そして、にっこりと笑ってそう続ける。
「…いいや。全く。僕にはいじめられたたぬきを助けた覚えなんてないから」
悠真は素直に首を横に振った。すると、
「そっか。じゃあヒントあげる。実は私、いじめだけじゃなくてね、父親から虐待も受けてたんだ。そんで両親は離婚してる」
「え…」
悠真が思わぬ新たな情報に混乱していると、みすずは眉を下げた。
「これだけ言ってもわかんないか。じゃ、まだ答え合わせには早いかな」
みすずはそう言うと、ひょいと椅子から腰を上げた。そしてトコトコ歩いて悠真の後ろまでやってきて、くるりと後ろを振り向く。
「じゃあまた明日ね、永見」
みすずは憂いの感情を見せず、いつもの太陽のような笑顔で手を振って教室を出て行った。
翌日、もやもやした気持ちで登校すると、みすずはこれまでと何ら変わらない態度で接してきて、それが何とも居た堪れなかった。頭をフル稼働していじめや虐待から連想される人物、もとい狸を想像するも、ただ一人思い当たった小学校の同級生はみすずとはかけ離れた女の子だった。そして悠真は彼女がいじめられていると知っていたのに、は役に助けることをしなかった。いや、それも言い訳がましい。偶然が重ならなければ、悠真は彼女を最後に助けることさえもしなかっただろう。あの時の後悔は、今でもずっと胸の奥で燻り続けていて、だからこそ今の悠真があった。
何も解決しないまま時は流れ、おかげでミステリー小説もなかなか進まない。いい加減真実に辿り着きたかった。
そんなある日のこと、登校中に突然雨が降り出した。天気予報では晴れと予報されていたので長傘は持ってきていなかったが、折りたたみ傘ならリュックに常備してある。悠真は自分のまめな性格に感謝し、黒色の折りたたみ傘を差した。しばらく歩いていると、さらに雨足が強まってきた。車軸を転がすような雨、といったような土砂降り。急いで学校に向かおうとすると、背後からドタドタと激しい足音が聞こえてきた。悠真は思わず足を止めて振り返ると、鞄を頭の上に乗せ、濡れないよう必死に走るみすずの姿があった。
「小鳥遊!」
悠真がたまらず声をかけると、みすずはハッとして足を止めた。
「永見!」
しっかり立ち止まりながらも、濡れるので早く向かいたいオーラを醸し出していたみすずに、悠真はずいっと右手を前に差し出した。
「これ、使いなよ」
その手には折り畳み傘が握られていた。
「え? でも、永見が濡れちゃうよ」
「いいって。学校までそんな距離ないし」
目を見開いて驚くみすずに、悠真は再び手をグッと前に出す。みすずは逡巡した後、傘を受け取ろうと手を前に出すも、寸前で止めた。
「…やっぱ申し訳ないよ。こんな土砂降りの中。…じゃあさ、二人で入らない?」
みすずは申し訳なさそうな顔をした後、名案だという風に、俗に言う相合傘を提案した。悠真は断ろうとするも、強引に中に入れられ、仕方なく二人で一つの傘に入って歩き出した。しばらく他愛もない話をしながら歩いていていたが、突然クシュンと可愛らしい音をたててみすずがくしゃみをした。
「大丈夫? 寒い?」
「ちょっと冷えたかも。部活で使う汗拭き用のタオルがリュックに入ってるから、それで髪とか拭こうかな」
悠真が気遣って声をかけると、みすずはにっこりと微笑んで鞄をゴソゴソと漁り、下の方に埋もれていたスポーツタオルを取り出した。そしてカチューシャを取り、髪を豪快に拭き出す。その後、制服の水分を吸い取っていく。その様子を隣で眺めていた悠真の瞳は揺れていた。みすずがカチューシャをとった瞬間が頭からこびりついて離れなかったのだ。カチューシャによって掻き上げられていた後ろ髪と同じ長さの前髪を下ろし、顔にかかった瞬間が。その途端、悠真は既視感に襲われた。ほとんど見えない顔の中に、時々覗く物憂げなヘーゼルアイ。ぐるぐると頭の中で渦巻く。
「ん? 永見、どうかした?」
体を拭き終え、悠真に視線を戻したみすずにの台詞で、悠真はハッと我に返った。
「いや…、な、何でもない」
慌てて平然を取り繕うと、みすずは特に気に留めた様子も見せず、そう、と返した。
その後、しばらくして学校に到着し、入り口前で水を切るために傘を開いたり閉じたりを繰り返す。同じように水切りをしている生徒でごった返していて、男子生徒が女子生徒にぶつかってしまった。彼女はそのまま尻餅をついてしまうも、彼は見なかったふりをして立ち去ろうとする。
「…謝ったらどうですか?」
その様子を始終見ていてイラつきを覚えた悠真は、できるだけキツくないようにそう声をかけると、男子生徒はビクッと振り返った。彼は指摘されたことが恥ずかしかったのか、口をぱくぱくさせた後、すぐに彼女に謝った。悠真はそれを見届けた後、みすずと共に教室へと足を運ぶ。その間、みすずの顔は心なしか綻んでいるように見えた。
「おー、みすずおはよ〜」
みすずが教室のドアを開けると、すぐさま彼女の友人らに声をかけられる。
「おはよ〜」
みすずも挨拶を返し、彼女らの元へ駆け寄ろうとし、その前にこそっと耳打ちされた。
「今日の放課後、ちょっと時間ちょうだい」
みすずはそう言い残して隣から去っていった。
その日の放課後、悠真はみすずと二人きりになるのを待つ間、いつものようにミステリー小説を読んでいた。やがて教室に誰もいなくなり、隣に座るみすずへと視線を向ける。今回はみすずの方から引き留めたので、悠真は彼女の言葉を待った。
「永見、芯があるところも優しいところも、やっぱり何も変わってない。朝、男子生徒に注意した時、格好良かったよ。普通はとばっちりくらっちゃったら嫌だし、素通りするのに、やっぱり強いなぁ。あの時、私を助けてくれた時のまんま」
すると、みすずは唐突にそんなことを言い出した。だが、もう悠真はまた謎のファンタジー展開が、なんて突飛なことは考えない。それはもはや確信に近かった。
「あれ? いい加減ファンタジーはやめて、真面目に話して、とか言わないんだね」
みすずはさも不思議そうに首を傾げた。
「小鳥遊…、いや、田貫」
言い直した瞬間、みすずの口角が上がった。
「ようやくわかったんだね。私を思い出してくれてありがとう」
「いや…今まで気づかなくてごめん」
嬉しそうに顔を綻ばせるみすずに、悠真は視線を合わせられずに顔を背ける。
田貫を書いて〝たつら〟と読む苗字を持つ彼女は、悠真の小学三年生の時の同級生だった。小学校の頃の、それも異性の下の名前を覚えていなかったとしても仕方がないと思うが、どうして顔を見ても一発でわからなかったのかというと。
「私さぁ、今から考えてもあの頃は身だしなみとか酷かったと思うんだよね。わからなくても無理ないよ」
そう、彼女はお世辞にも綺麗と言えないボサボサの髪を腰まで伸ばしており、おまけに前髪まで伸ばしっぱなしにしていた。服はあちこちがよれ、又不健康なほどに痩せていた。
さらに、体育会系で溌剌としている今のみすずとは打って変わり、当時は友達という友達がいない大人しい性格だった。ずっと一人で本を読んでいるような子だったのだ。今のみすずとは印象が天地の差なのだ。
趣味が共通していて興味が惹かれたものの、やはり清潔感に欠けていたみすずには近寄りがたいオーラがあった。当時、同時に、清潔感に欠けていた彼女に疑問を抱いていたが、今ならその所以がわかる。
「まぁあの頃は…お父さんからの暴力とか酷かったからな…」
その理由はまさしく、以前にも彼女が漏らしたように、みすずは当時父親から虐待を受けていたからだった。何気なくこぼしたみすずの発言に、悠真がいたわるような表情を向けると、彼女は両手を振って大丈夫大丈夫、と笑った。
「前にも言ったけどさ、両親はもう離婚してるから。今はお母さんと一緒に幸せに暮らしてるよ。転校したのはいじめだけが理由じゃなくて、離婚したのがきっかけだったの」
みすずは小学三年生の終わりに転校していった。何度も耳にしてきたが、しみじみと語るように、みすずはいじめを受けていた。ただでさえ不潔で近寄りがたい雰囲気があるのに、極め付けはその苗字。〝たつら〟が正しい読み方だが、小学生が考えそうな発想で〝たぬき〟とも読むことができる。みすずがいじめられているという事実は知ってはいたものの、女子の陰湿ないじめの中に割り込んで止める勇気を当時の悠真は持ち合わせていなかった。
「当時はさ…みすずがいじめられてるって知ってたのに…止めないで本当にごめん…」
「仕方ないよ。女子の中に割り込むのって難しいよね。でも、私が転校する前日にさ、私のこと助けてくれたじゃん。あの時、すっごく嬉しかったんだよ。もしかして、もう少し早かったら、私が転校しないで済んだだとか考えて後悔してた?」
悠真はコクっと首肯した。悠真の人間性に影響を与え、ずっと胸の奥で燻っていたあの出来事…ある小学三年生の放課後、忘れ物をとりに教室へ戻った時、悠真はみすずがいじめられる現場に出会した。靴箱で忘れ物に気づき、急足で教室の前に帰ってくると、教室の中から何やらすすり泣く声と、数人の笑い声が聞こえる。悠真は幼いながらに理解して引き返そうとしたが、
「やめてぇぇ‼︎」
と、悠真の耳に、耳をつんざくような悲痛なみすずの叫びがそれを妨げた。思い切って扉を開けると、中では同級生の女子がみすずの長い髪を引っ張り、手に持ったハサミでそれを切ろうとしていた。ハサミという凶器が目に止まり、悠真はすぐさまみすず達の元へと駆け寄った。そして同級生の女子からハサミを取り上げるも、その後どうすれば良いかわからず、ハサミを持って教室を去っていった。教室を出る直前、一瞬だけ覗いた教室の中では、長髪から覗いたみすずのヘーゼルアイが爛々と輝いていた。その翌日登校すると、みすずの姿は無くなっていた。
「僕、助けたって言えるほど助けてないし。ただハサミを取り上げて逃げただけだから」
「ううん。それでも私にとってはヒーロー以外の何者でもなかったよ。私、どうしても髪を切りたくなかったの。おかげで余計に不潔に見えたよねー。でもそれだけは譲れなくて。しかもあの後さ、狐につままれたみたいにいじめっ子達が呆けて固まってさ、私、その隙に逃げ出したんだよね。初めていじめっ子達より先に帰ったの。いい気分だったなぁ。今でも鮮烈ないい思い出」
悠真が弱々しく返すと、みすずはぶんぶんと首を横に振った。その拍子に乱れた髪を整えるみすずを見て、ふと疑問が生じる。
「あのさ…そんなに髪を切られたくなかったのに、なんで今はそんなに短いの?」
「あぁ。じゃあね、まずなんで私が長い髪にこだわってたか教えるね。実はさ、お父さんが私やお母さんに暴力を振るい始めるずーっと前…そう、まだ家族仲が良かった頃。お父さんね、私の髪を梳かしてくれたことがあって。虐待が始まってからは、いつかあの頃の優しいお父さんが戻ってきてくれるんじゃないかって期待してて、その頃から唯一変わらないで残っているものが髪だったの」
何気なく訪ねたつもりだったのに、思いの外重いエピソードが返って、悠真は罪悪感から背筋をピンと伸ばし、続きを待った。
「それで、なんで今は短くしたのか、って疑問だったよね。それはね、私が永見に憧れていたからだよ」
「? どういうこと?」
なぜか自分の名前が出てきて悠真は戸惑う。
「私はね、利益にもならない、むしろ逆恨みされてもおかしくないのに、いじめを止められる永見の強さに憧れたんだ。それから私も永見みたいに芯を持った強い人になりたいと思った。それで過去に引っ張られないように、まず髪を切ったの。それから、色々変わろうと努力して、今の私があるんだ。どう? 見違えたでしょ。それなのに永見ったら、全然私のこと思い出してくれないんだもん。私、滅茶苦茶ヒント与えた上に、永見に興味持ってもらえるよう苦手だったミステリーにも挑戦したのに。ま、今では大好物だけどねー」
悠真は幼い自分がとった、今でも胸の中に燻り続けていた行動が、憧憬の眼差しを向けられる現在のみすずを作る契機になっていた事に瞠目し、また同時に安堵した。
「最初からずっと、本当のこと言ってただけだったんだね。ていうか僕に気づいて欲しかったんなら、こんな回りくどいことしないで、最初から名乗ってくれれば良かったのに」
「えー。でもさ、あんなに大嫌いだった〝たぬき〟っていうあだ名をさ、今ではこんなに軽々しく、ネタにできるくらいになったんだって考えたら感動ものでしょ?」
いつもの笑顔でケラケラと笑うみすずに、悠真もつられてそんなものか、と思ってしまう。
「でも、よくまた会えたね」
こんな奇跡のような偶然もあるんだな、と悠真が感慨深く思っていると、
「何を勘違いしてるか知らないけど、これは偶然なんかじゃないよ」
と、みすずは諦観の境地に至ったような表情で上品に微笑み、ゆっくりと続きを紡いだ。
「あの時助けていただいたたぬきは、もう一度ヒーローにお会いしたかったんだよ」
それは悠真にみすずの第一声を思い出させた。
最後まで読んでいただいて誠にありがとうございました!!
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