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月光を纏うあなたへ

作者: 草餅

「待って!!お母さん!!」


 灰煙渦巻く空の元、母は僕を置いて出ていった。僕がいくら呼び掛けても決して後ろを振り返りはしない。速足で歩く母がどんな表情をしていたか、今やそれを知るすべはない。謝罪を伝えることもできず、僕は母の後姿を見送ることしか出来なかった。あの日、僕の信じていた星は光を失った。それでも、光を失った星を胸に宿しここまで歩んできた。何度0に押し流されようと、1に潰されようとも、僕はこの星があったからここまで進んでいけた。その答えが、正面に鎮座する扉の先にある。僕は滾る不安を押し殺し扉を開く。待ち受けているのは0か1かその答えを知るために。




 波の音が聞こえる砂浜の上で僕、月野灯つきのあかりは静かに目を開けた。僕はハンモックから体を起こし、頭も回らないまま目の前に広がる海を眺めた。海、それは巨大な水の塊のはずだ。しかし僕が見つめる海には水が一滴も存在しない。ただ音の波形が美しい音色を奏でながら揺らめいている。時々不協和音も混じることがあるが、大抵は美しい音が流れている。その波の中に不協和音とは違う何かが揺らめいている。


 「来たか……」


 僕はハンモックの横に立てかけていた槍を手に取った。持ち手には髑髏が描かれており、刀身は釣り針の様に大きく湾曲している。お世辞にも槍とは呼べない槍を海に向かって力強く投げつけた。槍は僕の手元から離れた瞬間曲がった刀身を伸ばし、空中を途轍もない速度で飛んでいく。音を乱しながら進む槍が目指す先は波に潜る正体不明の物体。標的が避ける動作を取る間もなく槍は標的を深く刺し貫いていた。


 「お、珍しい。一発で仕留められるなんて」


 僕は右腕を正面に突き出すと、槍は標的を貫いたまま海から舞い戻った。再び槍を手に持つと、刀身は釣り針のような形に戻ってしまった。刀身に刺さった標的は全身が緑一色で統一されており、ウサギのような外見をしている。一見無害な様に見えるが、僕がその口元を少し開くと、鋭い歯が口の中を埋め尽くしていた。


 「“ドラエナ”かぁ。中々性能が高いな」


 ドラエナは槍先から外されると、緑色の粒子となって砂浜へと降り積もった。


 「ということは、まだたくさんいるね」


 海に視線を戻すと、先程まで音で埋め尽くされていた海が今や緑色の物体に浸食されている。ウサギのような耳が波を作り出し、その波の中で無限に増殖を繰り返している。


 「僕を駆除しに来たんだろう?ウサギさん!」


 ドラエナたちは凶悪な歯を突き立てようと群がってきたが、僕はそれを一匹一匹正確に貫く。柄で叩き落とし、槍で周囲を薙ぎ払う。緑の粒子を巻き起こしながらドラエナたちを駆逐していく。僕の周囲に集まる緑の塊は徐々に小さくなっていく。


 「案外時間かかった……」


 塊は分解され、残ったドラエナは三匹ほどになった。ドラエナは僕を仰ぎ見ながら体を分裂させようともがいている。少し深い息をついた僕に一匹のドラエナが右腕目掛けて飛び込んできた。歯は皮膚に深く突き刺さり、傷口からは赤い粒子が流れていく。


 「ッ!!離れろ!!」


 嚙みつくドラエナを柄で叩き落とすと、そのまま足で踏みつけた。残ったドラエナも槍で突き刺し、大きく息を吐いた。少しよろめきながらハンモックに体を預ける。


 「あーあ。結構深くやられちゃった。治るの遅いだろうなぁ」


 微かに流れる赤い粒子を見つめながら、ハンモックを揺らす。右腕についた歯形は骨にまで達していたが、それでも僕は何も感じなかった。痛みは当の昔に摩耗し、感情もある程度しか残っていない。それほどまでに、僕は現実から離れすぎていた。


 「そろそろここも潮時か……」


 僕は首にぶら下げた小さなラジオを手に取った。赤いカバーに青いアンテナ、黄色のつまみなど、まるで全く違う部品を強引に取り付けたかのような不格好なつくりをしている。色が統一されていないラジオの液晶には528と書かれており、僕はつまみを捻りその数字を1へと戻す。すると、音の海は細かな粒子となってラジオのスピーカーに吞み込まれていく。流れていた音の波は全てなくなり、残ったのは波の無いただの静寂。音の残骸を吸い込んだラジオを見つめながら無機質な空間に座り込む。しばらくすると、ラジオはスピーカーから細かな粒子を吐き出した。それらは宙を漂いながら空間一面に広がり、新たな次元を構築していく。白が占領していた空間は、ネオンが広がる夜の街へと姿を変えていく。僕が座る床もピンクのネオンで彩られた看板へと移り変わっていた。音の世界は最初からなかったかのように姿を消した。


 「次はどこを探そうかな」


 ネオンの看板から飛び降りた。およそ10mはあろう高さから飛び降りたが、恐怖は微塵も感じられない。自由落下しながら次に向かうべき場所を見定め、脱力しながら地面へと着地した。落下の衝撃もなく、僕はそのまま夜の街を闊歩する。ネオンの街には様々な見た目の人とすれ違ったが、誰も僕には関心を示さない。きっと彼らの眼には僕の姿は小さなドットにでも見えているのだろう。夜の街に吹く電子の風を感じていると、何やら見覚えのある広告が目に留まった。


 「なるほど。さっきのはこれが原因か……」


 広告には『大特価!!!高性能ウイルスバスター“DORAENA”が今だけ45,000$!!!』と大きく書かれている。わざわざウサギマークの会社ロゴまで入れて絶対に買わせるという気概を感じるが、値段を下げない限り一般人には到底買うことはできないだろう。


 「一般の人が買えないなら広告の意味ないよな……」


 広告のフィードバック欄を開き『高すぎます。もう少し安くしてください』と書き込むと、広告はエラー表示を出してしまった。


 「やっべ」


 素知らぬふりをしながら僕は再び街中を歩き出した。




 「うーん……あの世界じゃ何にも成果出なかったなぁ……」


 『セレクトショップ』と書かれた店の中でディスクを手に取りながら一人呟く。僕は次に向かう世界の吟味をしていた。前回、この店で選んだディスクには“音の次元”が刻まれていた。雨音から木の葉がこすれる音、有名女優の寝言まであらゆるジャンルの音を聞くことのできる正に音の大海とも呼べる次元。そのディスクをラジオに挿入することで僕は次元を渡り歩くことができた。その中で僕はある一人の声を探していた。今でも耳に残っている声。眠れない夜にそっと隣で絵本を読み聞かせてくれたあの声。いつも聞いていた声を音の海に潜りながら必死に探していた。しかし、いくら探しても見つからなかった。途方に暮れて一眠りしていたところ“DORAENA”に襲われたのだ。


 「次はどこに……お?」


 僕は右横に置いてあるディスクを手に取った。ディスクの表面は白に染まっており、題名なども見当たらない。ディスクを少し傾けてみると、基盤の内部には途轍もない量の情報が敷き詰められている。僕はディスクに槍を軽く当てた。すると、槍はディスクの内部に合った情報を引き抜き、床にまき散らした。


 「まーたやっちゃった……」


床に散らばる情報を拾い集め、それをつなぎ合わせていく。適当な文字の羅列が続いていくが、僕はそれを迷わず繋げていく。


「風景画かぁ……」


完成した文章には“風景画”という単語は一つも現れていないが、僕にはそれが“風景画”を示す文だと一目でわかった。でたらめな文章は複雑に暗号化されていたがある一定の規則性があり、その解読方法さえわかれば情報を読み取ることなど簡単にできる。


「よし、次はここにしよう!」


床に並べた情報を再び槍ですくい上げると、今度は床に落とさないように慎重にディスクに流し込むと、それを手に持ち店の出口へ向かう。出口にはレジも置いてあったがわざと無視し、平然と自動ドアの前に立つ。しかし、ドアは開かず逆に警報が鳴り響いた。けたたましい警報を聞いたのか、店のバックヤードから警棒を持ったロボットが飛び出してきた。目は丸く、警備員よりも愛玩具としてかわいがられそうな見た目のロボットは、僕の左足に短い警棒を振り続ける。


 「あーあーやっすいやつ買うから……次はせめてDORAENAクラスのやつ買いなよ。じゃなきゃこうやって盗まれちゃうんだから」


 僕は手に持った槍を優しくロボットに当てた。抵抗する間もなく、ロボットは静かに塵となった。


 「こういう店にこそ、もっと性能のいいやつを置かないとね」


ラジオにディスクを差し込んでから店を出ると、店の周りを多くの警官に包囲されていた。警官と言ったが、実際は先ほどのロボットが警察官の帽子を可愛らしくかぶっているだけだった。


 「そこで止まれ!お前は包囲されている!」


大声を出せば聞こえる距離なのに、警官はわざわざ拡声器をもって話しかけている。耳障りな声に僕は思わず耳を塞いだ。


「そんなにしなくても聞こえてますよぉ!」


「子供のような見た目と灰色の髪、そして手に持つ対ウイルスバスターの槍……お前が“Crater”だな!!」


「うーん……まぁそうっちゃそうですけど……」


「三秒待つ!槍を地面に置いて投降しろ!そうすれば駆除しない!」


「置くから!置くから拡声器使うのやめて!耳がキンキンする!」


 僕は警官の密集した場所に槍を優しく投げ込んだ。投げ込まれた場所からは警官が四方に散らばり、槍を怯えた顔で観察している。その中の一人が槍に恐る恐る触れると、触れた部分が緑の粒子となって消えてしまった。


「ほら、拾ってみなよ」


多くの警官は槍に盾を構えるだけで一向に槍を回収しない。勇気を振り絞って槍を触った警官も右腕だった粒子を見つめて泣いている。そのうちの一人が無線で何かを伝えているが、負傷した警官を誰も助けようとしない。


「じゃあ拾いに行っちゃおうかな……」


「止まれ!!そこから動くんじゃない!!」


「そんな声荒げないでよ。僕はただ善意で行動しただけなんだよ?それを怒鳴りつけてやめさせるなんて警官のやることかなぁ?」


「黙れ!軽口を叩く暇があったら両手をあげろ!」


「はあそうですか……わかった、悪かったよ。もう動かないから銃を下ろしてよ」


しぶしぶ両手を挙げたが、警官は片眼を閉じながら銃口を僕の額に向けている。震える指が引き金に掛かっているこの状況。それでも僕には逃げ切る自信があった。


 「……そうそう。槍もそうだけどこのラジオも特別製でねぇ」


 「黙れ!!次はないぞ!!」


 「座標を入れ込むとね、触っている人をその場所へ転送してくれるんだ」


首にかかったラジオが震え出すと、僕は槍を引き戻した。槍が手元に戻った瞬間銃声が鳴り響いたが、ラジオのスピーカーから生じた砂嵐がそれをかすめ取り、風景のすべてをただのノイズへと変えた。


 「こんな風にね」


空間は随分拡張し、ドームのような場所へと作り変えられていく。流氷の上に立つ白くまや、小麦畑で遊ぶ子供たちなど、様々なジャンルの写真が湾曲した壁に隙間なく張り付けられている。


 「なるほど。風景画ってそう言うことね」


 僕は近くに貼られている写真の前で立ち止まった。桜が優美に咲き乱れる公園で男女のカップルが楽しそうに話し込んでいる。その話し声、公園に漂う春のにおい、ただの写真であるはずなのに、四角いフィルムから春が顔をのぞかせている。右手を写真の中で舞う花びらへ伸ばすと、薄い膜を破る感触と共に右手は花びらを掴んでいた。


 「技術の進歩ってやつかな。僕がいた頃はこんなの考えもしなかったのに、今じゃ当たり前に出来るんだなぁ……」


 花びらを指先で遊ばせながら、現実へと思いをはせる。




ウイルスになる前、僕は人間だった。外の世界で過ごした記憶は残っているのに、この世界へと至った記憶だけが抜け落ちている。積み重ねてきた記憶の上に二重の線が覆いかぶさっているような、そんな薄気味の悪さだけが感じ取れた。ここへ来る前の最後の記憶は、灰色の病棟の窓から公園を眺めていたというなんてことの無い記憶だった。僕自身、自分がここに来た経緯には特段興味はない。唯一興味があったのは、母の行方だけだった。僕が十歳の頃、母は戦争に駆り出された。人員が足りなかったのだろう、親世代のほとんどは出兵し、そしてそこで命を落とした。僕の両親も例外じゃない。父は片腕が失いながらも辛うじて生きて帰って来た。ただ、母の遺体や衣服などは返ってこなかった。新聞を見ても母の情報はどこにもなく、行方不明者の中にも母の名前は載っていない。生きているのかと思って家でおとなしく待ってもみた。車が走り去る音を聞いては窓から身を乗り出して母を探しても見た。桜が五度散った時、僕はようやく母が帰ってこないと悟った。いや、本当はずっと前から分かっていた。けど認めたくなかった。いつまでも情けなく母を待つ自分に『帰ってくる』などと何の確証もない妄言を言い聞かせた。けれど、現実は噓をつかなかった。あの日、僕が母に浴びせた心無い言葉を取り返すこともできず、母との仲も険悪なまま別れた自分を何度も何度も痛めつけた。自分を責めている時だけは、ほんの少しだけ許されているような気がした。それでも、心に刺さった棘は何をしても抜けることはなかった。




 「桜に、海、こっちは蝶かぁ。まだ写真って需要あるんだなぁ」


 ドームに展示された写真を一つ一つ嚙み締めるように鑑賞する。時々、写真の中に手を入れては植物を千切って写真の外へ持ってこようとしたが、写真に張られた薄い膜がそれを拒む。写真から吹いてくる暖かな風、暖炉で焼ける薪の芳醇な匂い、多種多様な情報が混在する空間に、ただ一人自我を持った情報がそれらを吟味して回る。そのコンピュータウイルスは情報を抜き取るわけでも、罠を仕掛けるわけでもなく、美術館に来た老人の様にそれらを感じている。


 「電子の風景画……中々面白いね」


 ここに来た目的すら忘れてしまいそうなほど、この空間は知的好奇心をくすぐるもので溢れている。この座標を知るために大金を払うのも納得できるほど素晴らしい場所だ。母の手がかりさえ見つかれば更にいいのだが……


 「ッ!」


 視界の端に煌めく何かを見た。その場所に目を向けると、白い髪をなびかせた女の後ろ姿が写っている。それは遠い日に見た母の髪と限りなく酷似していた。僕は写真の下へ向かうと、写真の額縁に手をかけて登っていく。無数にある額縁に手をかけ、自分の体を上へ運ぶ。何度も落ちかけながらも、僕は写真の元へ辿り着いた。


 「やっとみつけ――」


 写真の女を見た瞬間、全身の力が抜けた。確かに女は母と似た髪と顔をしていた。けれど、母とは微妙に違う。背中から落下しながら、僕は再び現実を突きつけられた。


 「もう……見つからないのかな……」


 地面に落下し、天井を見上げながら小さく呟いた。天井の周りには先程の母に似た女の写真が各所に貼られている。その中に求める答えなどありはしない。


 「もう……もういいや……」


ここまで来るまでに一体いくつの次元を超えただろうか。風景、音、匂い、それらの情報が集まったデータベースに飛んでは、たった一人の手がかりだけを探し続けている。きっと何十年も経ったのだろう。けれど、結果は変わらない。五年も待ったあの無駄な時間と同じことをしている。あの日から何も成長していない。その事実をあの写真の女は痛いほど突きつけた。もう終わってもいいかもしれない。このままデータの流れに身を任せて一体化してもいいかもしれない……


 「……いや、待て」


 何かがおかしい。母を探してきた過程で母と似た者とは幾度も出会ってきた。しかし、それがここまで連続したことはない。なのに、ドームには母と似た女が複数存在する。そんなことがあり得るだろうか。ここはデータの世界。データとは数字。現実と違って奇跡だなんて天文学的な確率、数字の世界ではそうそう起きはしない。


 「もう一度、もう一度だ……」


 僕は再び女の映る写真の元へ戻り、写真へ向けて槍を突き入れた。槍が明滅し、やがて幾つもの文字の羅列を吐き出した。それを暗記し、母に似た女が映る別の写真へ飛び移り、もう一度槍を突き立てる。それを何度も繰り返し、ドームに貼られた母もどきの写真の全てに槍を突き刺した。母と似た女が憎かったわけではない。欲しかったのは文字の羅列、写真の出どころだ。


 「これは……!」


 文字の羅列をすべて見比べたが、どれも同じ端末から送り出されている。一枚や二枚なら偶然と片付けたかもしれない。しかし、何十枚も同じのなら話は違ってくる。


 「はは……!!これが偶然なわけない!!」


 いつぶりだろうか、こんなに心躍ったのは。今まで存在しなかった母への手がかりが今、突然目の前に舞い込んできた。唐突に表れた奇跡は、摩耗していた僕の感情を少しずつ溶かしていく。ラジオからディスクを取り出し、抜き取った端末の情報をディスクへ入れ込む。ラジオからディスクが外されたため、写真で彩られたドームが白い空間へ置き換わっていく。そのことを気にも留めず、ひたすらディスクへ文字の羅列をはめ込んでいく。もとから刻まれている座標が違う座標へ書き換えられていくと共に、ディスクの色が赤く染まっていく。


 「ちゃんと機能するよなこれ……?」


 恐る恐るラジオに差し込み、景色が変わるのを待つ。しかし、いくら待っても白い空間から移り変わる気配はなく、ラジオは沈黙を貫いている。


 「このタイミングで壊れましたとかやめてよ?」


 ラジオを手に取りディスクを取り出そうとしたが、ディスクの差込口が開かない。首をかしげていると、ラジオが急に動き出し、スピーカーからいつものように小さな粒子を吐き出した。しかし、いつもよりも明らかに量が少なく、白の背景に黒い扉を描写するだけだった。


 「これだけ?」


 いつものように風景が丸ごと変化するとばかり思っていたので、白い背景に現れた簡素な扉にあっけにとられてしまった。僕は苦笑いしながら黒い扉の前に立った。扉は何かの木材でできており、その向こうからどこか暖かさを感じる。


 「この先に……答えが……」


 ここまで長かった。この先に求める答えがきっとある。深く息を吸い込み、ドアノブに手をかけようとしたその瞬間、僕は後ろに大きく飛び下がっていた。触れていたドアノブがひとりでに回りだし、やがて扉から黒づくめの男が現れた。


 「誰だ!?」


 思わず声が上ずってしまった。男の手には小さな手斧が握られ、刀身は鈍く光っている。僕は身構えた。ウイルスバスターとは今まで幾度も戦ってきたが、目の前の男からはウイルスバスターのような匂いが感じない。まるで生きているかのような、そんな薄気味の悪さを感じた。その黒づくめの男は異物でも見るかのような顔をしている。


 「どこから入り込んだ?ここは見つけることすら困難だというのに」


 「さあね、適当に打ち込んだ文字が偶然ここと同じだった、とかじゃないかな」


 「口だけは回るな。怯えてるくせに」


 淡々と話しながらも男の持つ斧の切っ先は僕から離れない。ここから一歩でも動けば確実に襲われる、そう確信させるほど男の眼はひどく冷たい。


 「さて、ここで俺の姿を見られるのはまずいんだ」


 「まずいって何が――」


 返答を待たずに男は斧を僕目掛けて投げつけた。顔を逸らして間一髪避けたが、斧と共に近づいてきたことに気が付かず男の拳を顔面に受けてしまった。吹き飛ぶ体を空中でねじり、かろうじて受け身を取った。顔を上げると、男は回収した斧を振り上げている。振り下ろされる斧をねじ曲がった槍先で引っ掛けると、そのまま斧を遠くに吹き飛ばす。


 「これで詰みだ!!」


 ねじ曲がった槍を男の腹へ突き立てる。しかし、槍先は男の腹へ突き刺さることなく半透明となって腹をすり抜けていた。


 「馬鹿な――」


 困惑する間もなく鳩尾に男の膝がめり込み、また顔面に強い衝撃が走る。僕の体は大きく後ろに吹き飛び、受け身を取ることもかなわなかった。


 「なぜ……なぜ槍が……」


 「お前、もしかしてウイルスか何かか?」


 男は落ち着き払った声で言い放つ。汗一つかいていない男に対し、僕の口からは赤い粒子が垂れている。プログラムされた動きとは到底思えず、明らかに戦闘慣れしていた。


 「あんた……ウイルスバスターじゃないな……」


 「そうだが?もしかして本当にウイルスなのか?」


男は斧を拾い直すと、刀身を胸ポケットから取り出したハンカチで几帳面に拭いている。その動作は無駄を省いたプログラムの動きではなく、意思を持った人間の動作だった。


「自ら意思をもって対話するコンピュータウイルス……長年生きているがこんなもの見たことがない。是非ともサンプルが欲しい……」


 「初めて言われたよそんなこと……」


 膝に手を突きながら体を起こす。顔に電撃でも走っているかのような痺れ、腹に蠢く不快な塊、失って久しいものが今蘇っていた。だが、手も足もまだ動く。まだ負けちゃいない。


 「悪いけど、一歩も引けないんだよ!!」


 槍を男目掛け強く投げ飛ばし、槍の軌跡を追いかける。男は高速で迫りくる槍先を斧で引っ掛けると、その場で回転させて勢いを殺した。


「捕まえた」


そう言い放つと、男は自身に投げ込まれた槍を僕の元へ投げ返そうと構えた。


 「“Crater”!!!」


その瞬間、僕の呼びかけに呼応した槍は男の手元から勢いよく離れ、僕の手元へ舞い戻った。男がよろめいたことを確認すると、僕は右こぶしを固く握りしめ、男の鳩尾へ叩き込んだ。こぶしが深くめり込むたび、男の口から嗚咽が漏れていく。間髪入れずもう一発拳を振り上げた瞬間、右腕に違和感が走った。


「つ、か、ま、え、た」


右腕は男に掴まれている。引きはがそうと男の腕をつかんだ時にはもう遅かった。


「ッッアア!!!」


赤い粒子をまき散らしながら、僕の右腕は宙を舞った。思わず後退りしたが男の蹴りがわき腹に入り、僕の視界は一瞬黒く歪んだ。


「中々いい動きしたじゃないか。ウイルスにしては、だがな」


男が何か言うたびに僕の腹に重たい衝撃が伝わってくる。腹に一撃入るたび、僕の口から赤い粒子が飛び散っていく。


 「もうこれくらいでいいだろう」


 男は息も絶え絶えの僕を強く蹴り飛ばした。ラジオが首から外れて地面に落ちてしまうほどに。ゆっくり近づく男の足音を聞きながら、僕は必死に思考していた。ここで逃げてしまったら、今までの行動が本当に水の泡となってしまう。何かこいつを倒す方法を……何か策を……


 「そう怖がるな、そこまで悪いことはしない。貴様には聞きたいことが山ほどあるが、まずはここから離れなければな」


 「ここを……どうやって……?」


 「なんだっていいだろう。貴様にもついてきてもらうからな」


 今、頭上に何かが駆けた。そうか、倒さなくたっていいんだ。今状況を切り抜ければそれでいい。僕がどうなろうと、こいつをここから追い出せば僕の勝ちだ。


 「貴様何を……!!」


 いつの間にか笑みがこぼれていた。僕は手元に転がっているラジオをそっと持ち上げ、中のディスクを引き抜いた。


 「ここから出たいんだ……?」


 手に持ったラジオを男に気づかれないように静かに男の足元へ転がす。


 「あんたがどうやってここに入ってきた知らないけどさ……僕も結構特殊なもの持ってるんだ……」


 「何を訳の分からないことを……」


「まあ聞けよ……そいつは僕を別の次元へ連れて行ってくれる……けどさ……僕以外の人間がそれに触れていたのなら……どうなると思う?」


男の返答が変える間もなく、ラジオのスピーカーは渦を吐き出して男を吞み込んでいく。それに飲み込まれる前に男の手から離れ、男が細かな粒子となってラジオに吸い込まれるのを見届けた。ラジオ自体もただのノイズとなって白い空間に溶けて消えた。


 「はは……傍からはこんな風に見えていたのか……」


 僕を囲んでいた警官は困惑しただろう。目の前の物体が急にラジオに吸い込まれ、そのラジオもノイズとなって消えたのだから。男をラジオごと転送させる。ただの思い付きだったが、あれほど凶悪だった男を容易く無効化したことに驚きが隠せなかった。帰る手段はなくなってしまったが、ここで奴に連れ去られるよりも何倍もマシだ。切り取られた腕を抑えながら、もう一度黒い扉の前に立つ。ようやく答えに辿り着く。久しく感じる痛みを抑えながら、僕は静かに扉を開いた。




 「これは……」


 黒い扉の先には、実に簡素な空間が広がっていた。分厚い本が雑に積まれ、写真ファイルは細かいほこりがかぶっている。空間は少し薄暗く、壁の一面がガラス張りになっている。


 「この部屋に手がかりが……」


 床に置いてある写真ファイルを手に取り、一枚一枚じっくり観察していく。手前から奥へ向かうほど新しくなるようで、最初のページにはドームで見た女の写真が挟まっている。ファイルのどのページにも母に似た女が写っており、中には肩を組みながら笑い合っている写真もあった。ページをめくるたび、僕の疑念は確信へと変わっていく。


 「やっぱり、この中に答えが!」


 めくる速度を早め、奥へとたどり着かんと読み進めていく。しかし、十何ページほどめくったところで急に空白が現れた。最後のページまでめくっても写真は見当たらず、写真はある地点からぶつ切りになったかのように消えていた。


 「ファイルが破損してる……?」


 男はこの部屋から出ていた。もし男がファイルの写真を持ち去っていたのなら、その中に母の写真があったかもしれない。しかし、それを確かめるすべは残ってはいない。ファイルを床に戻し、積まれた本に目を向ける。


 「残った手掛かりはあれか」


本は三冊あり、どれも表紙には何も書かれていない。ページをめくると、一枚一枚に文字が敷き詰められている。その日に起きたことや、身の回りの友人などが事細かに書かれている。


「三冊全部日記か?」


本に目を通していると、不意に部屋が明るくなった。本を急いで所定の位置に戻し、僕は部屋の隅で目立たないように座り込んだ。部屋が極限まで明るくなると、ガラスに外の映像が映った。


「あぁ……!!ああ!!!」


月明かりの如く輝く髪に三日月の様に引き締まった目尻、太陽にも勝る朗らかな笑み。ガラス一面に映る女は思い出と同じ顔立ちをしている。視界に入る情報すべてが、その女が母だと叫んでいた。


「お母さん!!」


部屋の隅から起き上がり、ガラスの元へ駆け寄る。足をもつらせながら、それでも母の元へ近づきたかった。ガラスを叩き、大声で叫ぶ。


「僕だよ!!わかる!?ねえ!!」


眼からは悲しみのデータが豪雨の様に降り注ぐ。声をひしゃげさせながら大声で母を呼ぶ。だが、その声が母に届くことはない。彼女の眼にはきっと、ただのデスクトップが映し出されているだけだろう。己を求めて泣き叫ぶウイルスがいるなどとふざけた妄想などするはずもなく。


「なんで!!??ねえなんで!!お願い……返事をして……」


ガラスに頭を打ち付けながら懇願した。どんなに傷つけられても、どんな仕打ちを受けても、この瞬間だけを頼りに生きてきた。僕はただ謝りたかった。『ごめんなさい』その一言だけを伝えるために、幾つもの世界を渡り歩いた。なのに、母は僕を認識すらしてくれない。月に手を伸ばしても掴めないように、僕の求めたものはもう届きはしない。


「嫌だ……こんなの……」


うずくまりながら、悲しみに溺れていく。痛みなんてとうに消えたはずなのに、胸の痛みだけは消えてくれなかった。


『何かしらこれ?』


画面の向こうで声がする。画面に表示されたカーソルが示していたのは、紛れもなく僕だった。


「お母さん!!ここだよ!!」


残された腕で必死に手を振るが、母は返事を返さない。代わりに僕をカーソルでゴミ箱へ近づけた。そうだ。何を思い過していたのか。僕はただのコンピュータウイルス。きっと母からは画面に急に表れた異質な何かなのだろう。このままゴミ箱に叩きこまれる方が母としては安心なのかもしれない。僕はそっと目を瞑り、自分の運命を受け入れた。


『……やっぱりいいや。このままで』


カーソルは僕から外れ、代わりに写真フォルダを選択した。画面に映る写真を見ながら、僕は静かに泣いた。きっと母は気まぐれで捨てなかったのだろう。しかし、その気まぐれがどれほど僕の心を潤しただろうか。僕のことがわからなくても、見えなくても、見えない線でつながっているような気がした。


「そっか……ここに居ていいんだ……」


心に刺さった棘が花開いていくような、そんな心地よさを感じた。たとえ母に見えなくても、そばにいるだけでよかった。それに気が付くまでにこんなに時間がかかってしまった。それでも、もう無駄な時間は過ごさなくて済む。僕の前に、いつ見ても飽きない満月がいるのだから。


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