第一話 雨の日、蓮は沼に落ちる。
俺は雨の日が嫌いだ。
ジメジメとした雰囲気も気候も、傘をささないといけない面倒も、雨の音も全て。
唯一嬉しい事と言えば、野球部の練習が休みになる事くらい。
今日は大雨。そう、最悪だ。
◇
その日は偶然通りがかった美術部の顧問である美波先生の手伝いで美術室に用があった。面倒だなと言う気持ちが無いわけでは無かったけど、別に誰かを助けるのも悪い気分じゃない。
普段なら野球部の練習でこの時間はグラウンドにいるんだが、今日は監督が家族旅行で不在なのと、この大雨で休みと言うことになった。
どうせ家に帰っても軽く筋トレしてただろうし、重い荷物を運ぶ程度なら……と普段は中々目にしない大量のスケッチブックを抱えて別校舎の美術室に美波先生と共に足を運ぶ。
「普段は授業でしか来ないから、部活中の教室に入るのは緊張しますね」
「ははは、そうかもね。いや〜それにしても、あたし一人じゃ運ぶの大変でさぁ。君と会えて助かったよ。後で野球部の塚田先生に口利きしとくからね」
「っはは、マジすか。それなら俺は来年キャプテンでエースですかね」
まあ別に実力で勝ち取るけど。なんて心の中で呟きながら先生がガラッと開けてくれた教室に入る。
おお、やっぱり美術部も賑やかなんだや。ただ野球部と違って女子が多くて新鮮だ。運動部じゃない部室に入るのも。
「あれっ蓮沼くんじゃん」
「な、なんで居るの!」
「えぇっ!? ホントだ!」
部室の女子が一斉に俺を見て反応する。まあ急に部員でも無い奴が入って来たらびっくりするよな。ざわつく部室を宥める様に美波先生が手を叩く。
「はいはーい、みんな作業に集中して。あ、蓮沼くんはこっちの部屋に来てちょーだい」
「分かりました」
どよめきが収まらない中、入り口のすぐ右の部屋に案内される。ここは準備室とかだろうか。初めて入ったな。
「このダンボールに入れちゃって」
「っす」
「ごめんね、重たかったでしょ」
「いえ、こんくらいマジで平気ですよ」
ここはいつも授業で使ってる美術室より一回りくらい狭いな。見た事ない専門風な物が沢山置かれてて、ちょっとワクワクする。
あれ、誰か一人いる。部員かな、絵を描いているのか。一体どんな奴が……。
「っ……!」
美術部員のような男子が目の前のスケッチブックに一心不乱に筆をぶつけていた。描いているのは、風景画? 周りに落ちている絵は人が描かれている物もあれば、なんか抽象画のような物もある。
でも、俺は何より。描いている姿の方に目を奪われてしまった。
それはまるで、命を振り絞っている様な、存在をこの世に示そうと叫んでいる様な。
何と言うか、ずっと目が離せない。
「凄いでしょ」
「えっ」
「鏡野景汰くんって言うのよ、彼。君と同じ高校二年生」
「そうなんですか」
「あの子が描いた作品は、本当に独創的で情熱的。何回もコンクールに出した方が良いって言ってるんだけど、本人が断り続けるのよ」
「……確かに、上手ですね」
情熱的、と言うより暴力的。独創的、と言うより孤独感のある絵だな、と俺は思ってしまった。自分が持っている全てを使って絵を描いているような。自分の衝動を止められないかのような。
「鏡野くん、鏡野くーん」
「……なんですか」
目の前の鏡野はピタリと筆を止めて、高校二年生にしては高めの声で返事をした。
「ここにいる蓮沼くんがね、君のためにこーんなにスケッチブック持って来てくれたのよ。一言お礼言ったげて」
あ、この大量のスケッチブックって鏡野くんの為のだったのか。いや、めちゃくちゃ多かったぞ!? 俺なら多分二十年くらいないと使いきれないだろうな……て言うかお礼とか別に要らないんだけどな。
「……なんで」
「君のために頑張ってくれたんだから、当然でしょ。こう言う礼儀は大事なのよ」
「……」
鏡野くんはゆっくりと立ち上がり俺の前にのそのそと歩いて来た。俺より十五センチくらいは小さいか、絵を描いていた時は物凄い迫力だったからギャップに驚いた。
「……ありがと」
「いや、これくらい大丈夫だよ。凄い量の絵を描くんだね」
「……これでいい?」
「えっ」
「ちょっ鏡野くん! はあ、全くもう……」
俺の質問に答える事なく、さっき座っていた椅子に戻っていった。まあ別に良いけど、なんかマイペースな人なんだな。
「この子いっつもこの調子なのよね……ちょっと部内でも孤立気味なのよ」
「なるほど、何というか独特な感性を持ってるんですね」
「それで済むなら良いんだけど……ま、ありがとね蓮沼くん。はい、これスケッチブック一個あげる」
「はあ、ありがとうございます」
いやなんでだ。しかもこれ俺が運んで来た奴の一つだし。
「もし良かったら入部してよ、この学校って部活の掛け持ち大丈夫だし。ウチの美術部って男子ホント少ないのよねー」
「なるほど……。まあ、授業で何回か絵描いたときも楽しかったし良いですよ」
「ホント!? ありがと〜! 君スタイル良いし、たまにモデルとかお願いして良い?」
「……全然大丈夫です」
いや、完全にそれが目当てでは? まあ、俺も疲れてる日とか休みに来れるし良いか。
「じゃあ入部届も渡しとくから、いつでも書いて持って来てよ」
「分かりました。じゃあ俺はこれで」
「うん、またね〜」
準備室から出ると、美術部の女の子達が何人か駆け寄って来た。
「あ、あの!」
「? どうしたの」
「えっと……蓮沼くん、美術部入ってくれるって、ほんと?」
「聞こえてたんだ。うん、そうだよ。たまにしか来れないと思うけど、よろしくね」
「う、うんっ!!」
そう答えた瞬間、悲鳴のような歓声が部内に響き渡り、少しビックリしてしまう。こんなに喜んでくれるなんて、男子部員が少ないのを先生だけじゃなく他の子達も気にしてたんだな。
「コラーッッ!! うるさいよ!!」
「うおっ」
凄い形相で美波先生が準備室から出て来る。確かに結構な声量だったし聞こえちゃうよな。
「あ、ごめーん。みっちゃんセンセー」
「だってマジびっくりしたんだもん」
へえ、部員には「みっちゃん」って呼ばれてるのか。
「蓮沼くん、ごめんね。今日のところは帰って良いから」
「分かりました」
「「えーっ! なんでー!」」
「いや、まだ正式な部員じゃないし。何よりこのままじゃ作業にならんでしょ!」
「あはは……じゃあお言葉に甘えて」
◇
帰り道。傘に当たる煩わしい雨の音なんか気にならない程、アイツの姿が頭から離れなかった。
鏡野景汰がスケッチブックに向かっている時の表情が頭から離れない。
あのまま絵を描き続けたら、人間性さえ失ってしまいそうな危うい表情。そんなにも絵が好きなのか……いやアレは好きとかそんな生半可なモノじゃない。
執着、そう執着だろう。
でも、なんて言うか、初めてだ。こんな気持ちになっているのは。
興味が湧いた? 違う、そんな軽い感情じゃない。何と言うか、まるで、全身の毛が逆立つ様な。心臓を射抜かれた様な。そしてそれを数倍に複雑にした様な。
結局その日は鏡野が絵を描いている時の表情が浮かび続け、頭から消えなかった。
そして、俺の心に湧き上がる感情に名前を付ける事も出来なかった。
普段はあんなにうるさい雨の音なんて、まるで気にならなかった。