器
その夜も、雨だった。
しとしとと、まるで世界が息を潜めているように、静かな雨だったよ。
私たちは、そこにいた。
廃れた神社の奥、もう誰も参らぬ祭殿の前で、黒塚縁は立っていた。
彼の周りには、不浄が渦巻いていた。
だけど、それは暴れてはいなかった。ただ――集まっていたんだ。彼という「器」に、応えるように。
「来たね」
彼はそう言った。
その声にはもう迷いがなかった。悲しみでも怒りでもない。ただ、決意だけが宿っていた。
「本気でやるつもりか」
大樹が問う。声は低く、だが震えていた。
そうだね。わたしも少し、震えていた。
「“あれ”を呼び寄せ、自分を器にするなんて、ただの自殺だ」
「うん。自殺、かもね。でも、僕は“生き延びるために”これを選ぶんだ」
黒塚は、袖を捲った両腕を広げる。
その掌から、不浄の痕が、ひとつ、またひとつと空へ昇っていく。
「これは僕の意思だ。
この世界にただひとつの、“名前を持たぬ喰らい手”を迎え、そして、終わらせる。
何も奪わせない。誰も、これ以上、失わせない」
その言葉の強さに、不浄の渦が呼応した。
雨が止んだ。雲の向こうで、月が震えた。
そして――開いたんだ。
空が、裂けたように。
ず、と、何かが降りてくる音がした。
形のない存在。声もなく、名もなく、ただ“災い”として世界に滲み出してくる。
「あれが……名前なきもの」
大樹が呟いた。
黒塚は一歩、前へ出た。
両の手を天へ広げる。
「──来い、“名もなきもの”。
この身を器として、おまえを受け容れよう。
そして、そのすべてを、終わらせよう」
見ていて、私は思ったよ。
彼は本当に、「それ」を浄化するつもりなんだ。
誰にも頼らず、独りで。世界を相手に、命を賭けて。
でもね、黒塚。
ひとは独りじゃ終われない。独りじゃ、救われない。
だから私は、大樹の肩を押した。
「行け」って。
彼は頷いて、前に出た。
そして叫んだ。
「黒塚! おまえを“止めに”来たんじゃない。
おまえを“救いに”来たんだ!」
黒塚は、振り返らなかった。
けれど、たった一度だけ、微笑んだよ。
その笑みに――私は確かに、希望を見たんだ。
【つづく】