対話の夜
あの夜は、月も星も出ていなかった。
不浄の気配が地を這っていたから、私と大樹は、その源を探していた。
いたんだよ、そこに。黒塚縁が。
「やあ」と、まるで昨日も会ったような声で、彼は言った。
橙色の街灯に照らされて、黒いコートの裾が雨に濡れていた。
「また会えたね、赤い目の男。そして……君も」
彼は、私のほうを見た。見えているのか、感じているのか。
私の存在を、確かにそこにあるものとして受け止めていた。
「黒塚縁。どういうつもりで、こんなことをしてる」
大樹の声は低くて、でも怒ってはいなかった。ただ、確かめようとしていたんだ。
「“こんなこと”? ふふ。僕はただ……不浄を集めてるだけさ。そこに理由があるから」
「理由?」
黒塚は、遠くを見るように目を細めた。
風が吹いた。濡れた髪が頬に張りついた。私は、感じた。彼の中に眠る、古く、苦い記憶を。
「……君は誰かを救えたかい? 大事な人を、全部守れたかい?」
その問いは、大樹に向けられたものだった。でも同時に、私にも響いてきた。
私たちは、そういう問いを背負っている。
「俺は……」
大樹は答えかけて、言葉を呑んだ。
「僕には、できなかったよ」
そう言って、彼は左手の袖をまくった。
そこには、焼けただれたような痕があった。魔でも、呪でもない。もっと深く、魂に刻まれたやけど。
「不浄が、街を喰った夜があった。僕の傍にいた人は、みんな──消えたよ」
「おまえはそれを……」
「どうしても許せなかった。運命を、世界を、そして……自分自身を」
彼の声は柔らかかったけれど、奥にあるものは、鋭く、痛く、よく知っていた。
私も似たものを、見てきたから。
「だからお前も、あの“なにか”を呼ぶのか」
大樹の問いに、彼は笑った。
「呼ぶんじゃない。“迎える”んだよ。ずっと、そう決めていた。
僕は、“名前のないそれ”を迎えて、そして終わらせる。すべてを」
私は、大樹の肩に触れた。
だいじょうぶ。落ち着いて。伝えたくて。
「……でも、そうじゃない道がある」
大樹が言った。ゆっくりと、でも真っ直ぐに。
「お前が一人で背負ってきたもの、全部じゃない。少なくとも今は、俺がいる」
黒塚は、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。
「……君は、強いね」
それは、遠い日を思い出すような声だった。
そしてその一言だけで、彼がどれほど長く、独りで戦ってきたかがわかる。
「僕は……また、君に会えてよかったよ」
そう言って、彼は振り返り、闇の中へ歩き出した。
でも私は知っていた。
彼はもう逃げてなんかいない。次の夜には、きっとここに戻ってくる。
不浄の宴に、名もなきものに、自分という賭けをして。
私たちは、その時を待つしかなかった。
でも、月が戻るのを信じながら。
【つづく】