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神の声が聞こえる

作者: 百瀬 和海

 とあるアーケード通りの広場の噴水前で、一人の中年男性がたくさんの人々に囲まれていた。それ以外の道行く通行人たちも、立ち止まりはしなくとも横目で男を見ていく。

 と言うのもこの男、何も衣服を着ておらず、錬磨を微塵も感じさせない裸の身体は素肌が殆ど覗けない程の毛深さをしており、髪はボサボサで腰の辺りまで伸び、もみあげとの境界が分からない濃くて長い髭を生やしているのだ。その姿はさながら仙人のようでもあり、ホモサピエンスにまで到達できなかった類人猿のようでもあった。

 ある者が卑猥なものを見たとして悲鳴を上げれば、またある者は己の好奇心を刺激するものとして歓声を上げたり野次を飛ばしたりなどした。ただ静観している連中にしても、それは夢か現かの判断ができなくて惚けている者や、誰かが呼んだであろう警察官が来るまで逃亡しないかどうか監視していようと勝手な正義感を抱く者もいた。

 どこかの科学施設で遺伝子操作の研究だか何かに使われて変態したゴリラ辺りが逃げてきたのではないかと思う者もいたが、その推測はすぐに否定された。男がしっかりとした言語で周りの野次馬に向けて声を発したのだ。

「珍妙なものを観賞するような目で俺を見るな。俺だってお前らと同じ人間だぞ」

 野次馬の中に驚嘆の波が広がった。先頭にいるカップルの男の方が訊いた。「そうは言うが、その珍奇な姿を見せられては誰でも目に留めてしまうだろう」

 男は真摯な顔で言った。「別に俺は窃盗や殺人をした訳ではないぞ。何の文句があるというのだ」

 今度はカップルの女の方が言った。「でも、淫猥な格好をしているわ。わたしは大学で法律を専攻しているんだけど、これは刑法第百七十四条の公然わいせつ罪にあたるの。つまり、あなたがやっていることは立派な犯罪よ」

 野次馬の中から「そうだそうだ」と同意する声が多く上がった。しかし、男は動じない。「ふん、俺は生まれた時と同じ姿をしているだけだというのにな。生まれたての赤ん坊は裸でも許されて、俺は公然わいせつ罪とは。堪ったものじゃないな」

 そこで観衆たちはこの奇人に何を言っても無駄だと感づいた。先頭にいたカップルや数人は呆れ果て、人々の輪から抜け出してそのままアーケード通りの雑踏の中に消えていった。また様々な野次が飛び交うようになった。

 カップルが抜けて空白になった部分に人が二人入ってきた。今度はその内の初老の男が丁寧な言葉使いで尋ねる。「何故そのようなお姿になってしまったのか、是非とも聞かせてくれませんか?」

「神の声が聞こえたからだ」奇人は平然と言ってのけた。人々はまた再び驚嘆の声を出した。

「神の声、ですか?」初老の男は落ち着いて訊く。

「そう、神の声だ。ある日突然、ベッドで寝ているところに神の声が舞い降りてきたのだ。『虚で着飾っている限りは真実に辿り着けない』とな」

「にわか信じがたい話ではありますが、仮にそれが神の声だったとしましょう。どうしてあなたはそれに従うことにしたのですか? 当然、拒絶することだって可能だった筈ですよね?」

「いや、拒否することなど俺にはできなかったのだ。気付いた時には、既に身体に貼り付くものが何もかも消滅していたのだからな。そうしたら従う他ないだろ?」

 これは駄目だ、本当に頭が沸いてしまっている。初老の男を始め、観ていた十数人がアーケード通りの人々の流れの中に消えていった。

 今度は髪の毛をカールさせた中年の女性が質問する。「あなたは最終的に何をしたいの?」

「同志を探しに来たのだ」奇人は堂々と胸を張った。

「同志?」中年女性は小首を傾げた。

 すると奇人は両手を広げ、周りの人間に向かって大声で叫んだ。「俺を取り巻く飽満どもよ、よく聞け! お前らが纏っているのは常識という名の『虚構』だ! 神が今なお俺の耳に囁いているぞ、『今こそ稚気を自覚して生まれ変わる時だ』とな」

 こいつに関わったら危険だ、道連れにされるぞ。野次馬たちは理解し、皆一斉にその場から去っていった。アーケード通りは蟻の行列がやってきたことで一時的に小さなパニックを起こした。

 最初は百人はゆうにいたというのに、現在、広場の噴水前にはたったの八名しか残っていない。あれ程大量に飛び交っていた声も今はもう途絶えてしまっている。

 奇人の気違いな発言を聞いても未だその場に留まっていた者は、自慰行為じみた正義感を抱く者と、奇人の思想に本当に同感してしまった者の二種類だった。

 静かに見つめてくる連中の顔を見渡しながら、奇人はにやりと笑いだした。「なるほど、お前たちは選び抜かれた精鋭のようだ。そろそろお前たちにも神の声が聞こえ始める頃だろう。大丈夫、案ずることなどないぞ。元来人間はそれを持っていたが、人間自身が封じてしまっていただけなのだ。さあ同志たちよ、全ての真実を見抜く審美眼を解放するのだ!」


 とある者の通報により、五人の警察官がアーケード通りに駆けつけてきた。通報した者によれば、裸の中年男の所為でパニックになっているとのことだったが、アーケード通りは至って閑静としていて、平和そのものだった。

 不思議に思った警察官の一人が道行く若い女性を掴まえ、警察手帳を見せて尋ねる。「すみませんがお尋ねします。この辺りに全裸の男が現れたと通報があったのですが、ご存知ないですか?」

 女性は広場の方を指差し、「あちらの広場に噴水があります。そこにいましたよ」と言った。警察官は女性に一礼し、噴水のある広場へと走り出した。

 広場に着いた警察官たちが目にしたのは、噴水の中でぷかぷかと海藻のように浮かぶ九つの死体だった。皆して完全な裸になっており、各々の猿のように濃くて長い体毛が水面で優雅に泳いでいた。男も女もいたが、局部を確認しなければ区別がつかなかった。

 その後、警察官が必死に付近を捜索したが、彼らの衣服はどこからも発見されなかった。

 それから一週間後、広場の噴水の前では、何事もなかったように楽しそうに追いかけっこをする子供たちの姿があった。

 平和な日常は、異常を嫌ったのだった。

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