03 紅之蘭 著 『預言者ノストラダムスのレシピ』
連日教会の鐘がなり、墓地では、墓掘り人夫が忙しく土を掘り起こしている一方で、海鳥のような嘴の長い防疫服を来た医者が、患者宅をひっきりなく訪問した。
一五三五年、フランス・アジャンの町で流行り病があり、師ミシェル・ド・ノートルダムは、妻と子供二人を亡くした。――すると、今まで、師の診察を受けていた町の人たちは、師を見下し、「家族すら救えなかった者が、町衆を救えるのか?」と悪口を言って、診療所に来なくなった。
――他の医者が患者宅を行かないから、御師匠様が病人を看てたんじゃないか。服に着いた病が、奥様やお子様方にうつったんだ。それなのに!
悪口が悪口を呼び、異端審問官が師に目を付ける。三年後、ついに教会から裁判のための召喚状がやってきた。
「ジャン君、ジャン・ド・ジロー君。火やぶりはごめんだ。私は夜逃げします」
そういうわけで、師ノートルダムは、唯一の弟子である僕と、ロバ一頭を従えて、フランスからイタリアにかけて彷徨う羽目になったわけだ。
道すがら病人がいると、診察して、路銀を得る日々が八年も続いた。
***
師と僕は、調剤用器材をロバに乗せ、安宿や民家を点々とした。
「ジャン、手を出せ」師が、「フィレンツェ産のスミレの根、赤い薔薇、クローブ(丁字)、シナモン、菖蒲、ラヴェンダーの花、龍涎香、ジャ香を粉に挽き、ヴェネチアグラスの容器に入れ、良好の薔薇水とダイダイの香り水に四日間漬けておいたものだ」と言って、薬液を手の甲にちょっとだけ塗る。そんな実験もして、行く先々の領主夫人や大商人の奥方に売りつけたが、効能のほどは定かじゃない。
師は、貴族・上流階級層に取り入るため、占星術をやった。もともとは余興として楽しむ手合いのものだが、どこの国の王侯貴族も迷信深く、公国や辺境伯領の宮廷で適当なことを言うだけなのに歓迎された。
占いというのは、未来予知という手合いのものではなく、被験者と会話をしていれば、おのずと相手の性癖が分かるようになるので、その人がやっちゃいそうなことを言えば、半分くらいは当たってしまうのだ。
後に、師は、それっぽい抽象的な四行詩を綴った『預言書』を書くわけだが、同書を書いた結果、ベストセラー詩人になり、王母カトリーヌ・ド・メディシスとそのサロンにおいて、熱狂的な信者を獲得することになる。
一五四六年、フランス・プロバンス地方の都市エクサン・プロヴァンスで、ペストが蔓延する。ここで師は男を見せた。
「ペストは汚れた空気で拡がるのだから、病室の空気をきれいにしておけば、やがて治る」
修道院附属病院に行って、新薬〈薔薇の丸薬〉を調合、病に倒れた者の治療を行って信頼を得た。また、町の周囲の森を焼くとともに、病死者の土葬をやめて、火葬にするように取り計らった。
薔薇の丸薬の調合は次の通りだ。
「できるだけ緑の濃いイトスギのおが屑、フィレンツェのアイリス、クローブ、菖蒲の根、樹脂分の多いアロエの木。――これに、秋のトワイライトな朝に摘んだ薔薇の花三百から四百個を潰したペーストに混ぜ、乾燥させる。調合の際は空気を混ぜない」
師によれば、患者にこの丸薬を絶えず口に含ませることで、口の中を常に清潔に保つことができるのだそうだが、後の研究者は、病を媒介する鼠が、強い丸薬の匂いを嫌って、部屋に近づかなくなったことが要因ではないかと言っている。
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一五六四年、師は、シャルル九世国王陛下の宮廷に招かれ、「常任侍医兼顧問」を拝命。二年後、病気により六二歳で亡くなる。
こうして宮廷医師兼宮廷占星術師となった師は、ミシェル・ド・ノートルダムの名を、ラテン語風に、ノストラダムス師とも呼ばれるようになった。
了