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自作小説倶楽部 第26冊/2023年上半期(第151-156集)  作者: 自作小説倶楽部
第156集(2023年6月)/テーマ「大願成就・神の祝福」
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03 紅之蘭 著  『戦争論:クラウゼヴィッツの嫁』

〈梗概〉

現代にも影響を与えている軍事学の名著『戦争論』はクラウゼビッツの著作となってはいるが、実際には、妻マリー夫人との共著であった。本編が著された軌跡を追う。


挿絵(By みてみん)

挿図/(C)奄美「秘密の花園」

 ナポレオン戦争終結間もない一八一八年、夫カール・クラウゼヴィッツは陸軍大学校校長に就任。少将に昇進するとともに貴族に取り立てられた。このころからカールは、当時の最先端軍事学研究の成果たる『戦争論』を執筆し始め、私は草稿を清書した。――後継ぎを得られなかった私にとってこの本は彼との間にできた子供のようなものだった。


 文体は、哲学者カントが提唱した原則、成功例テーゼ失敗例アンチテーゼの二律背反論法で、成功例をプロイセンのフリードリヒ大王と、フランス皇帝ナポレオン一世に求め、失敗例をあまたいる凡将を引き合いに出す。

 夫カールは本編を、戦争の本性、理論、戦略、戦闘、戦闘力、防御、攻撃、戦争計画の八篇にする構想だった。


 ところが、三〇年、カールが『戦争論』第六編が脱稿し、続きを書き始めた翌年の一一月、勤務地ブレスラウ軍管区自宅で急死する。

 ここで、夫カール・クラウゼヴィッツの生涯を振り返ってみたい。


               ***


 「戦争の本性」は、国家と国家との決闘だ。


 一八〇六年一〇月、ナポレオン戦争で、プロイセン軍はフランス軍に敗北する。イエナ、アウエルシュタット会戦で、プロイセンは半数の兵員からなるフランス軍に敗れたことで衝撃を受けた。

 カールが副官(秘書役)としてお仕えしていた親王様の部隊は、本隊降伏後もしばらく抵抗を試みたが、湿地帯に阻まれて行軍不能となり降伏。彼は、親王様とフランス北東部ナンシーに捕虜として抑留された。


 ナポレオンが、自由とはどんなものか捕虜に知らしめたかったのか、抑留生活は案外緩かった。そのため、パリ見物、フランス語学習、著作研究までできたのだった。


 翌年七月、捕虜交換により親王様とともに解放され、フランス軍占領下のベルリンに帰還。敗戦を経て変革の必要を訴える軍事改革派が結集するケーニヒスベルクに、親王様と移動。――どうすればナポレオンに勝つことが出来るのかを模索した。

 三年後、フランスに降伏したスペインやオーストリアが反旗を翻し、ナポレオンに制圧されたかに思えた欧州は、再び硝煙の匂いが立ち込める。カールは、親王様の副官を解かれ、ベルリンの陸軍省へ転属となった。

 ベルリンでは、自国を破ったフランスに倣い、プロイセンの教育・行政・軍事に渡る諸改革が準備されていた。軍制改革では、領袖・シャルンホルスト将軍により、フランス流の国民軍創設が計画され、軍隊内の貴族的特権の廃止、指揮官養成のための陸軍大学校創設といった改革案を提示していた。一〇年一〇月、カールは陸軍大学校の教官に任命された。だが、この諸改革は、占領軍フランスによって潰されることになる。


 ナポレオン戦争前から、親王様の副官であり、シャルンホルスト将軍にも可愛がられていたカール・クラウゼヴィッツは、平民出自ながら頻繁に宮廷を訪れ、プロイセン王国宮廷で女官長をしていた私、マリー・フォン・ブリュールと出会い、一八〇五年に私と婚約、ベルリン勤務をしていた一〇年に結婚した。

 婚約に際して伯爵家の実家や取り巻き貴族の門閥派は、平民出の夫とは家格が合わないとして反対したのだけれども、お仕えしていた王妃陛下のお計らいで、国王陛下の仲介を得て、挙式を執り行い、ハネムーン後、ベルリンに新居を構えた。夫・カールは、職務では認められていたものの、宮廷社交界で必要な教養があまり備わっていなかった。だから、私が実家から持参した『ファウスト』以下ゲーテの諸作品を薦めた。


 一八一二年、フランスの間接的な圧力により、プロイセン改革派は弾圧され、カールも著作の発表を禁止されてしまった。

 カールは、

「プロイセンを存続させるためには、同盟という名のフランスの傀儡状態から脱する必要ある」

 ロシアは、フランスと対決姿勢を強めている。彼がそこへ向かおうとするのを私は引き留めたが、決意が固いので、持参金から馬車を用立てる。そして四月に辞職が受理されると、カールは私を残し、ロシアへと旅立った。


 当時のロシア司令部はウィルナにあった。カールが、シャルンホルスト将軍の推薦状をロシア皇帝に渡すと、皇帝はカールを中佐に任じた。

「カール・クラウゼヴィッツ中佐、無敵のフランス軍にわがロシアが勝つ方法はあるか?」

「カルタゴのハンニバルに対し、ローマがとった方法。――広大なロシアの奥地に、フランス軍を引き込み、補給線を引き伸ばし疲弊させしかありますまい」

「つまるところは、焦土作戦か!」

 カールは、第一騎兵軍団長ウヴァロフ将軍の参謀次長として兵站を担当。ロシア遠征を開始したフランス皇帝ナポレオン麾下のフランス軍四四万と、ボロジノで会戦し敗退した。――だがそれはロシアにとって想定内だった。ここでカールが立案した罠が張られる。――九月、モスクワに退却したロシア軍はそこを焼き捨て、カルーガへと後退した。予想通り、フランス軍は焦土作戦で疲弊し、一〇月にはでロシアからの撤退を余儀なくされた。フランス軍にとって災難だったのは、冬の到来が例年よりも早かったこと、後方兵站が遮断されたことで、同国軍は瓦解。モスクワにいた三〇の軍勢が七万にまで減った。――いわゆる〈冬将軍〉が到来したのだった。

 このタイミングで、カールは、ロシア軍の特使としてプロイセンに派遣された。――結果、一二月、プロイセンは、フランスの支配から脱し、同盟を破棄することになる。


 一八一三年一月、プロイセンで新政権が樹立されると、ケーニヒスベルクで国土防衛軍が組織された。三月、シャルンホルスト将軍が国防軍の領袖に返り咲くと、腹心であるカールは参謀総長になった。そして同年の、秋季戦役でフランス軍が敗退すると、翌年、国王陛下はカールをプロイセン軍大佐として正式に復帰させた。プロイセン軍に復帰した復帰カールは、第三軍団参謀長を命じられる。


 二年後の一五年。ナポレオンが、流刑先のエルバ島から脱出し、フランス皇帝に返り咲いた。対仏同盟軍はこれを阻止に出る。同盟側のプロイセン王国も参戦。六月、カールのいる第三軍団は、フランスとリニーで会戦して敗北する。――だがこれは、従来の傭兵を抱えた欧州諸国でありがちな、前近代的な潰走ではなく、対ナポレオン戦争で習得した愛国心の強い国民軍ならではの、戦略的撤退だった。――プロイセン第三軍団は、友軍・欧州各国からなる同盟諸国軍とともに、ワーテルローの戦いでナポレオン麾下フランス軍を撃破。その人を大西洋の孤島セントヘレナへ追いやることに貢献する。


 生前、夫カールは、前線の詳細な状況を手紙に綴って私に送ってくれたものだった。

 『戦争論』の第六編までの清書を私がしたことと、第一次資料であるカールの手紙を読み返すことで、最高の教師から軍事学を学ぶことができた。――『戦争論』の第七編「攻撃」と第八編「戦争計画」は、夫の草稿に、それらピースを埋めてゆくことで編集でき、遺稿集出版にこぎつけることが出来た。


               ***


 クラウゼヴィッツ夫妻の『戦争論』は、ナポレオン三世との戦争・普仏戦争に従軍した大モルトケ将軍が、ドイツ国防軍参謀本部を立ち上げると、軍事学のテキストになった。


               「戦争論:クラウゼヴィッツの嫁」了

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