03 紅之蘭 著 『肥満王ルイ』
一〇九三年の春、フランス王国カペー朝第四代国王フィリップⅠ世の御世のこと。
パリの北郊に歴代フランス国王を祀る霊廟サン=ドニ教会堂がある。司教座聖堂が置かれ、大修道院が付設している。
私はシュジェール。農民の倅だ。父は小金持ちだったが平民であることには違いない。実家は私を口減らしも兼ねて、大修道院に入れた。そんな私には、ルイという学友がおり、ときたま、連れ立っては町はずれの街道を散策したものだった。
「シュジェール、町中の石畳路が郊外に出ると、途切れてしまったかと思うと、また出てくる。不思議だと思わないか?」
「ローマ街道ってやつだ。ローマ時代に使われていた古道で、使われている部分もあるが、路線の大半は埋もれて、藪に覆われている」
「なぜ使わなくなったんだろうな?」
「ローマ街道は、商路というよりは軍用路だからな。商人たちにとっては、拠点間をまっすぐにつなぐローマ街道よりも、未舗装でも小さな町や集落を迂回したほうが利益になるんだ」
「そういうものか。――それにしてもシュジェールは博識だな」
肥った友が感心して私を見やった。
わが友・ルイはフィリップⅠ世の嫡子だ。
ルイの母親・王妃ベルトは、ルイを産むと体形が崩れ、肥った。父王フィリップは、彼女が醜くなったという理由で離縁し、モントルイユの町の要塞に軟禁。悲嘆にくれた母親は翌年に亡くなった。他方で、母親を離縁した父王はベルトラードという夫のある愛人を王妃に迎える。極めて美しいが妖婦だった。――フィリップⅠ世はこのため、好色王の二つ名がついた。
――王太子様、実の母君みたいに、無駄についた肉がなくなりますよう質素倹約にお励みくださいませ――
王太子になったルイは、帝王学を学ぶため一時、宮廷に戻るのだが、継母は彼を迫害。自分の子供たちにはふかふかのベッドと、十分な食事を与えたが、継子のルイには与えない。そのためルイは、自室でマントにくるまって寝ていた。居場所のないルイが、宮廷を逃げ出したのは言うでもない。
パリから北へ向かうとルーアンの町にたどり着くのだが、街道の途中にボントワーズという町がある。ルイは避難先であるボントワーズの離宮に王太子府を開設する。
ルイが雌伏している間、私は、サン=ドニ教会分院長の肩書で、パリからそう遠くないところころにあるシャルトル近郊の教会領荘園を運営に従事した。
この間にもルイの父王、フィリップⅠ世の悪評をよく耳にしたものだった。イタリア商人がパリ‐オルレアン間各王領地の都市で催される大市にやってくると、兵士に命じ、難癖をつけては身ぐるみを剥いだもので、めっきりイタリア商人は来なくなってしまった。
ついにリヨン司教猊下、さらにはローマ教皇猊下が、好色王フィリップの不貞と非道に憤慨して破門状を突き付ける。すると王は恐れおののき、後妻ベルトラードを離婚するのだが、教会が破門を取り消すと、すぐに復縁。王が復縁すると教会は破門状を出すといった行為が繰り返された。
その間、フランス王国の西にあり、ノルマンジー公国をも領有するイングランド王国と、東にあるドイツ=神聖ローマ帝国の挟撃を受け、祖国は弱体化。やがて、好色王フィリップⅠ世が崩御する。離宮・ムラン城で臨終の床にあって好色王は、
「余は不徳の王だ。王家霊廟サン=ドニ教会堂に遺体を収めるなど、祖先に恥ずかしくて出来ようものか」
一一〇八年、王の葬儀の後、遺言通り亡骸は、サン=ドニ教会堂ではなく、サン=ブノワ=シュル=ロワール修道院に収められた。
フランス国王戴冠式はランス司教座で行うのが慣例だ。私は、そこでルイと再会した。
「おめでとうございます、陛下」
「よせ、シュジェール、これまで通りルイでいい」
式典の直前、部下の司祭たちが、ベルトラード謀反を私に報せた。
継母ベルトラード大后は、イングランドに密書を送り、王太子暗殺を依頼する一方で、自らの息がかかった諸侯をランスで蜂起させ、ルイの国王戴冠を妨害した。
私は司教にそのことを伝えた。司教はルイを逃がし、オルレアンの町で戴冠させる。――これより彼は、ルイⅥ世を名乗るようになる。
失脚した大后は、新国王に恭順の意を示すため、フォントヴローの町の修道院に入った。腹違いの弟二人は領地を没収され、大后の弟・モンフォール卿に預けられる。――だが新国王は優しい。この人は、継母や異母弟たちに対し謀反の罪を赦す。直後、待ってましたとばかりに、継母ベルトラードは、戒律厳しい女子修道院から逃げ出して還俗すると、とっかえひっかえ複数の王侯貴族たちと再婚した。――これにはルイならずとも、彼女の異母弟たちも呆れ返ったことだろう。
即位直後のルイは、諸侯の反乱に悩まされた。
足元を見るように、ドイツ=神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒⅤ世麾下の軍勢が、国境を侵してきた。
私は、サンドニ修道院長に就任するとともに、学識と荘園経営の手腕を買われ、国王ルイの政治顧問となっていた。
この国土防衛戦に関し、国王ルイの意を受けた私は、反抗的な諸侯たちに、聖ドニの加護のもとの「聖戦」を訴えた。そして、どうにか諸侯を糾合したルイは、帝国軍を撃退することに成功する。
それから――
一一三七年、三十年近い治世において、各種の改革を行い、国内を安定させた我が友ルイは、ベティシー=サン=ピエールの城で崩御する。享年五五歳。――彼を「肥満王」と呼んでいた人々は「戦士王」と呼び改めるようになった。
――神よ、願わくば王国が永遠に繁栄しますことを――
「肥満王ルイ」完