悪夢から始まるプロローグ
ぼんやりとした視界に広がる光景を、俺は『これは夢だ』という確信をもって眺めていた。
これは夢だ。これは夢だ。夢であってくれ。こんなもの、現実なわけがない。
なにせ手足を生やしたトランプの群れが、俺に忠誠を誓うかのように片膝をつき頭を垂れているのだ。夢でなかったら発狂する自信がある。
夢どころか悪夢でしかないが、しかし『現実ではない』という事実が最低限の余裕を生んでくれたのか、この時の俺には周囲を見渡して状況を把握するくらいの冷静さは残されていた。
スペード、ハート、ダイヤ、クラブ……スートごとにきれいな一列を作る52枚の群れの異様さは言うまでもないが、何より奇妙なのは先頭に立つのがKではなく2で、その後ろにA、三番目にやっとKが来て、そこから数字通り順番に並んで3が最後尾にいることくらいか。なぜ先頭がKでもAでもなくよりによって2なの?
何か思い浮かびそうな並びではあるが、しかし夢という空間では思考にもキレがなく、まあ夢だしいっかと納得することにした。
『……! ……? ……、…………っ!』
いつになったらこの悪夢が覚めるのかとぼんやりしていると、スペードの2が必死に身振り手振りして何かを伝えようとしていた。しかし俺にはトランプ語など知らないため何を言いたいのかさっぱり分からず、すると今度は後ろのAがまた『……! ……!』と理解不能なボディーランゲージをし始めた。だから分からないって。
『主よ』
次はKだ。今度はきちんと言葉にしてくれた。
『どうか彼らを責めないでやってください。彼ら数字族は我ら絵柄族と違い、口がないため言語を発することが出来ないのです。ですので我らKが彼らの言葉を代弁させていただきます』
絵柄の中の男が口を動かしそう言う。どうやら2とAが何を言おうとしているのか翻訳してくれるようだ。
『……! ……!』
『……、…………。……!』
『ふむ……「ようこそ我らの王よ! 貴方様の登場を心待ちにしておりました!」と言っている、と言っていますね』
王? 俺のことか?
『……! …………、…………!』
『…………! …………!』
『「その通りです! そして我らは貴方様の忠実なるシモベであり、御身を守る力です!」と言っております』
通訳の通訳とか面倒だな。もう最初からKが喋れよ。ほら前に出てさ。
『かしこまりました。ここからはこのスペードのKが代表してしゃべらせていただきます。しかし主よ。我が先頭に立つことはいくら主のご命令としても従うことが出来ないのです。それが掟、絶対のルールですので』
なんて融通の利かない夢だろうか。というかほんと、いつになったらこの覚めるんだこの悪夢は。
『ご安心ください主よ。もうじきに覚めることでしょう。なにより主と我らはまだ完全にリンクしたわけではありません。この空間を保っていられるのもあとわずかなのです』
それはいいことを聞いた。夢とはいえトランプと真面目に会話しているこの状況に、いい加減自分が正気か心配になってきたところだ。どうか二度とこんな悪夢は見たくない。
『別れる前に一つ。主よ、これは夢であっても決して幻ではありません。機会が訪れれば我らは助力を惜しみません故、どうかその時は我らを思い出してくださいませ』
言い終わると、トランプの群れは少しづつ透けていくように消えていった。
思い出せと言われても、出来ることならこんな悪夢はすぐに忘れたい。そんなことを思いながら、俺は浮上する意識に身を任せ、ゆっくりと目を覚ますのだった。
○
自慢ではないが、家にある俺の自室はそれなりに広い方だ。裕福な家庭だからではなく、田舎特有の安く広い土地に建つ家で生まれ育ったから、という理由なのだが。
さておき、いくら広いとは言っても所詮は部屋に対しての尺度である。あくまでも広い部屋なだけで、決して広い空間ではないのだ。
もう一度、改めて言おう。
俺の自室は四方を壁で囲まれた広い『部屋』であり、決して地平線が見えるような広い『空間』ではないのだ。
「えぇ……どこ、ここ……」
部屋の布団で寝ていたはずが、目を覚ませばそこは地平線が覗けてしまうほど先の見えない謎空間だった。あまりの突拍子のなさに思わず情けないぼやきも出てしまうというものだ。
俺はまだ夢の中にいるのだろうか。もしくは最近技術の発達が目覚ましいバーチャル空間とやらの可能性。そんなゲーム機買った覚えはないけど。
「夢ではなく現実です。バーチャルではなくリアルですよ、疋金幸樹さん。とりあえず、ようこそと言っておきましょうか」
背後から鈴を転がしたような声音が聞こえて来た。マイナスイオンでも含まれていそうな、心に落ち着きを運んでくれそうな声だ。
思わず振り返ってしまいそうになるが、しかしその行動は果たして正解と言えるのだろうか。こんな得体のしれない空間で聞こえてくる声の主なんてやはり得体が知れないし、ここが夢の中ではなく現実だというのなら、この声の主こそ俺をここに連れ去って来た下手人に違いないはずだ。ここで好奇心のままに振り向きでもして、そこにいるのがクトゥルフ神も裸足で逃げ出すようなおぞましい造形の生命体でもいたらどうする。俺は正気を保っていられるのか?
君子危うきに近寄らず。好奇心は猫をも殺す。ここは昔から受け継がれる教訓にのっとって、安全を第一に動くべきなんじゃないのか。
「お、おぞましいとは失礼な! 女神相手になんて罰当たりなことを言うんですか! これでも神様学校ではクラスで三番目に可愛いと男子からもモテてたんですからねっ!」
振り返らなくて正解だったかもしれない。自分を女神だというやつがまともな精神をしているはずがないからな。せめてクラスで一番になってから出直して来い。
「うう……話を信じてもらえないことは予想してましたが、まさかこっちを見ようともしないなんて…………せっかく先輩のアドバイス通りに、恥ずかしいのを我慢してこんな格好してきたのに」
――ほう? 恥ずかしい格好とな。
「上はセーラー服で下はブルマなんていう組み合わせ、これを着るのに私がどれだけの覚悟で――」
「なんだって!?」
「うわっ反応早! こわっ!」
もう速攻で振り向いたよね。だってセーラー服にブルマだよ? 王道無敵のセーラー服に絶滅危惧種のブルマだよ? 君子危うきに近寄らずとか言ってる場合じゃないでしょ。
おのれの欲求の赴くままに視線を向けた先には、見た目十五歳くらいでショートカットの少女が言葉通りの格好で恥ずかしそうに立っていた。
ブルマという事前情報を持っていても、一見スカートを剥ぎ取られパンツ丸出しになったセーラー服女子高生に見えてしまう。ここが何もない謎空間ではなく普通に街中なら、俺の両手に鉄の枷が嵌められていたかもしれない。そこはかとない犯罪臭だ。少々刺激的すぎる光景である。
しかしあれはパンツではなくブルマ。パンツじゃないから恥ずかしくありません! とりあえずこいつの先輩とやらにはグッジョブと言っておこう。
「あ、あのぅ。そんなまじまじと見られると恥ずかしさが限界を超えてしまいそうなのですが……」
「あ、いや、その恰好が目を引くのもそうなんだが、それより……その、地毛か? その髪。なんというか、随分攻めた色合いだが」
「これですか? そうですけど」
自称女神はピンク色の髪を指先でいじりながら頷いた。
なんということだろうか。ピンク髪である。アバンギャルドにも程があるだろ。
「お前が神だという信憑性が増してきたな……」
「なぜ髪色でその判断が生まれるんですか!? いや話が早く進められそうで助かりはしますけども!」
地毛が茶色や金色ではなくピンクなんて聞いたことがない。しかも目の色までピンクだ。多分あいつは頭の中もピンク色なのだろう。
「誰の頭がお花畑ですか! 女神に対して失礼すぎますよ!」
「はっ! だったらなんだ! 神らしく天罰でも与えてみるか? 言っておくがそんなコスプレ大全にでてきそうな格好の女神なんて俺は怖くもなんとも――」
「えいっ」
可愛らしい掛け声とともに耳元でビュオンッ! と風を切る音が聞こえた。グーパンである。目に見えぬ速さで振り抜かれた拳は、俺の身体には当たらなくとも心にきちんとダメージを与えてきた。どうやらこいつの頭の中はお花畑ではなく筋肉のようだ。
「す、すみませんでした……」
「分かればいいのです」
認めよう。こいつは間違いなく人間ではない。神であるかはまだ定かではないが、不興を買いたくないしこいつの言い分を信じて女神ということにしておこう。
「そ、それで女神さま。ここはいったいどこなのでしょうか? わたくしめは一体なぜこんな場所にいるのでしょうか」
「あれ、ちょっと怖がらせ過ぎちゃいましたかね。そこまでかしこまる必要はないですよ? 私が女神であることを理解してくれればそれでよいのです。どうぞ自然体で楽に接してください」
「ヘイヘイ女神様よぉ。ここはいったいどこなんだ、あぁん? 人をこんなわけわかんないとこに拉致っといてよぉ、法廷で戦う覚悟は出来てんだろぉなぁ?」
「落差! 誰がそこまで態度を崩せと言いましたか!」
なんて注文の多い奴だ。ああしろこうしろと、神というのはみんなこんなにわがままな存在なのか?
「ま、まさかこんなに手のかかる人を選んでしまうとは……このエリン、一生の不覚……!」
エリン……なるほど、それがこいつの名前か。しかし神が一生の不覚とか言うと重みが違うな――待て。
「選んだ? やっぱここに俺を連れてきたのはお前か。いつか絶対訴えてやるからな」
「出来るものならやってみなさい。証拠不十分で不起訴です……と、いつまでもこんなくだらない話をしてるわけにもいかないんでした。いいですかヒキガネさん。これから真面目な話をするんで、茶化したりしちゃだめですよ?」
本題に入るということか。望むところだ。俺もいい加減、どうしてこんな場所にいるのか知りたい。
女神エリンはもったいぶるようにコホンと一つ息を入れ、本人が言うところの真面目な話、その導入を口にした。
「異世界転生というものを知ってますか?」