第三章 無秩序(じゆう)の末に生まれた正義4
ふわりと何かをかけられた感触で目を覚ました。
俺はソファーに座ったまま、眠っていたようだ。
「伊賀、風邪をひくぞ」
「あぁ、ありがとう。俺の事はいいから、先輩も寝た方がいい」
「傷口が火照てってな」と黒瀬先輩は、はにかんだ。
「お腹を見せて」
少しばかり面食らった先輩だったが、シャツを少しあげて包帯をほどいた。ゴブリンから受けた傷口は塞がっているが、それとは別に青いあざができていた。ひなたを守るときに棍棒を受けてできたものなのだろう。浮浪者共は、先輩の傷口ばかりを狙ってきたのか。卑怯な奴らだ。俺は『応急手当』のスキルを発動させた。先輩の白い腹部――おへその少し下に青いポイントが浮かび上がった。回復のツボだ。俺は優しく指で押した。先輩は「あっ」と声を漏らして、背を弓なりにのけ反る。
「……すごい。痛みがひいていく。……そ、それに」
そこまで言うと一度言葉を切り、俺の指に手を添えた。
「そなたの指。暖かくて、なんとも気持ちいぃ……。例えるなら……まるで……。……いや、なんでもない」
頬を赤く染め、目を細めた先輩の顔は、ちょっぴり色っぽかった。
「ひなたにやったのもこれなのか? だから、あやつは……。……いや、そんなことより、お前は鍼灸師の心得もあったのか?」
「いえ、このスキルはゲームで手に入れました。患部の近くを押せば痛みがとれ、HPが多少回復するようなのです」
この応急手当スキル――今、分かったのだが、負荷も用意されている。指一本で使用できる便利な仕様ではある反面、かなりの体力を必要とするようなのだ。実はひなたにこれを使った直後、猛烈なめまいがしたのだ。その時は単に疲れている程度にしか思っていなかったのだが、実はそうではない事を実感した。ついさっき50あったHPが35まで減っているのだ。おそらくこれは、自分に発動させても無意味な設定にしているのだろう。無限に回復できないように。一方、ダメージを与えるツボもある。――ということは、逆に諸刃の剣のように、身を削って攻撃に転じることもできるということなのか。
「そなたはひなたの事が好きか?」
唐突な先輩の質問に、「心配だ」と短く答えた。
この回答は卑怯だったのだろうか。だけど暗くうつむいた先輩の次の言葉をかき消すように、俺はおもむろにソファーから立ち上がって唇を奪った。抱き合ったまま床に沈んだ。それはまさに獣のようだった。夢中で舌を絡め合った。まるで不安をかき消すように。この世界は不安しかない。すべてが脅威だ。先輩の胸に手を添えた。手に収まらないくらいの大きなふくらみ。それはとても柔らかくて暖かかった。だけどトクントクンと震える鼓動が、俺の右手に伝わってくる。
「怖い?」
「……いや、そなたとなら……」
俺は先輩の胸のボタンに指をかける。同時に先輩も俺の頬に手を添えた。互いの同意を求めるかのように、唇を重ねる。ボタンをすべて外すと、「綺麗です」と言った。
「そんなこと言わないでくれ」と頬を染める先輩を一層可愛く感じた。
先輩の膨らみに右手を添え、左手で背中のホックに指をかけた。場所がよく分からない。指をゴソゴソさせていると、先輩も手を背中に回してきて「意外に不器用なんだな」と俺の指を案内しながらクスッと頬をほころばせた。
その時だった。
コン、コン、コン。
どこかの戸が、三回ほどノックされた。
どこかと言ったが、紛れもなく俺たちの部屋だ。その音でびくっとする。ノックは続く。
俺達は体を抱き寄せた。いったいどこの誰がこの部屋に用があるっていうのだ。この世界に知人なんていないし、ノックされる用件などあるはずもない。意味が分からない。機械的な反応しかしないNPCが、連絡事項を告げにきた……?
ありえない。
知っているとしたら、ユーチェン……くらいしか。あいつが何をしにきたというのだ!?
戸はもう一度ノックされた。
「伊賀……」
先輩の声は震えていた。ノックする音はしばらくして消えた。
「きっと部屋を間違えたんでしょう」
「……そうだな」
さっきまでの恐怖心が、互いの感情を高揚させたのかもしれない。唐突に訪れる妙な安心感。顔を見つめ合って小さく笑った。抱きしめている先輩の肌が、ちょっぴり熱をもったように感じた。
「せ、先輩!?」
「……どうした? これからそなたはするのであろう?」
黒瀬先輩はそう言ってズボンの上から、俺のを指の腹でなでた。
「……先輩。あの……。先輩のお姉さんの形見の……。えーと……。……ゴム、全部使っちゃった」
クスリと微笑を浮かべた。
「誰に?」
それって冗談のつもりなんだろうか。昼間、煙幕として使っただけなのに。
「ゴブリンに」
短くそう答えた。
「フフ、では、そなたは経験者だな。リードしてくれ」
先輩の肌が、柔らかいランプの光でほのかに照らされている。俺はランプを開き、灯に息を吹きかける。まわりは暗い闇へと変わる。俺には先ほど手に入れた『暗視スキル』があった。まるで昼間のように、先輩の顔が良く見える。先輩の体を抱きかかえ、ソファーに彼女の背中を預けた。もう一度キスをかわし、胸を覆い隠すシルクを奪い去る。即座に先輩は胸を隠して恥ずかしそうに目をそらした。
「見せて」
「……うん」
ゆっくり首を縦に振る先輩。愛し合う承諾をもらった次の瞬間――
再び戸をノックされたのだ。トン、トン、トン。ノックは続く。息を殺してじっと待った。
「ミスター、シュージ。ミスター、シュージ」
それは戸の外から聞こえた。そして俺の名を呼んでいるのだ。どうして俺の名を知っているんだ? 名乗ったことがあるのは、すでに死んだロイだけだ。声は続いた。その声は男のものだ。高く張りはあるが、軽さを微塵も感じさせない。おそらく二十代後半、もしくは三十代前半くらいか。日本語で話しかけているが、発音に西洋人独特のなまりがある。
「まだ起きているのだろう? 夜遅くすまないが、どうしても君に話しておかなくてはならないことがある」
俺に話? いったい何の用なのだ?
「私はギルドの幹部、監査長のレオン。ミスターシュージ。君をスカウトしに来た」
スカウト? 何を言っているのだ!?
「ミスターシュージ。ここを開けてくれないかな? あまり手荒なことはしたくない。私にはアンロックスキルがあるので、この戸を開けることなど容易にできる」
黒瀬先輩は乱れた服を整えると、コクリとひとつ頷いた。レオンという男に不気味さを覚えたものの、まだ敵だとハッキリ宣言されたわけではない。それに、ここは三階の高さ。皆を連れて飛び降りることは困難だ。渋々ではあったが、戸を視界分だけ開けた。
レオンの装備は意外であった。監査長と名乗っていたくらいだから他のプレーヤーのように仰々しい重装備、もしくは派手な法衣でも身に着けているのだと思っていた。だけど彼は、黒いスーツに青いネクタイといった、ビジネスマンさながらの清潔感のある風貌である。鼻は高く精悍な顔立ちで、金色の長髪をオールバックに固めてうしろで束ねている。もう片方の手には果物とボトルの入ったバスケットがある。外界を連想させるその恰好だと、初心者狩りのターゲットになりかねない。だが、そのようなチンピラをまるで寄せ付けない圧倒的な存在感を、その全身から放っている。
俺と目が合うと、レオンは黒いハットを取り一礼する。
「君のご友人が怪我をしていると知ってね。よかったらこれを」
レオンは微笑を浮かべてバスケットを差し出してきた。
俺はレオンを応接間に通した。黒瀬先輩は部屋の隅で貰ったリンゴの皮をむき一口サイズに細断すると、テーブルの上に置き、俺の横に座った。
レオンの話は俺を驚かせるものばかりだった。
最初のひとことが、「この街のNPCをのぞいた人口は約六万人。君はその中で九番目に強い」だったからだ。悪い冗談だとしか思えなかった。俺がレベル上げに費やした時間は、一日にも満たない。それにこの宿にだって、派手な装備の連中がうようよしていた。それを問うと、レオンは右の頬に小さなしわを浮かべて笑った。
「この宿に泊まっている全員と君が戦ったら十秒以内でケリがつくだろう。もちろん君の圧勝。まぁ私が彼らに加わったら話は変わるが、私が『アシスト』に手を貸すことはない」
分からない言葉が連発している。それを問うと、レオンは丁寧に教えてくれた。
彼の話をまとめると――
まず『アシスト』というのは、レベル上げを手伝ってもらった者を指す。今では禁止されている行為なのだが、『サード・デス・ステージ』以前は当たり前のように行われてきた。
ちなみに自力でレベルを上げた者を『マイスター』と呼ぶらしい。
「レベル4まで到達した君なら分かるだろうが、レベルが上がる度に飛躍的な成長をとげる。私がうまく序盤を乗り越えたのは比較的育成の容易な『オーラ』タイプだったからだ。とにかくレベル2へ到達することが、最初の壁であることは言うまでもないが、その次なる段階を登ることも決して容易ではない。そもそもレベルを上げるには、自分より強い敵を倒さなくてはならないのだから。なんとかゴブリンは倒せても、知能を持つオークを倒すことは困難だ。この街に住む人間の92%がレベル1。2%がレベル2。5.9%がレベル3。残り0.1%が、君や私という訳だ」
俺が上位0.1%に食い込んでいるなんて……。
「そして君のタイプ『シャドー』とは、レアかつ、もっとも育成が難しいと言われている。迅速な足を持っているが、最前列で戦う近距離戦タイプのわりには、攻撃力、体力共に、狩人どころか魔法使いよりも低い」
「魔法は高額だった。魔法使いの方が、育成は困難なのでは?」
「ははっ、この世界に来たばかりにしては色々と詳しいようだけど、どうも偏った知識しか持っていないようだね。いいかい? 魔法使いタイプはMagic(魔力)及び、Intelligence(知力)にポイントを投入するだけで魔法を習得できる。高額な道具を必要とするのは、魔法使いタイプ以外の者が魔法を習得する場合のみだ。それだけに魔法使いタイプに成れたものは、まさに当たりクジをひいたようなものだ。序盤の育成はたやすいが、君のように一点突破のような優れた能力はない。単に扱いやすいだけだ」
「で、あなたはどうして俺の名前、そしてタイプまで分かった?」
「簡単さ。レベルが3つ離れると、他人のHPやMPの状況が分かる。そしてレベル4つ離れると、ステータスまで分かる。5つ。これだけ離れると、過去に行った会話の内容まで閲覧できるようになる」
なるほど。こうして情報の閲覧できる奴らが、逐次、プレーヤー達を見張っているのか。しかし不便だな。レベルが違うだけで、それほどまでの情報を渡してしまうとは……。
言われてみれば俺も、黒瀬先輩やひなたのHPが回復したのが感覚的に分かった。それよりも脅威なことは、つまりレオンは少なく見積もってもレベル9以上はあるってことだ。
レベルが上がる度に、二倍近くのボーナスポイントがもらえた。単純計算にはなるが、その成長はまるで指数関数のようである。仮にレオンがレベル10だと仮定すれば、二の十乗。要するに一般人の千倍以上強いことになる。振り分け方にもよるだろうが、伸びやすい能力へ集中的にポイントを投下しているのならば、もはや千倍どころの騒ぎではない。
「今日来たのは、君をギルドにスカウトしに来た。どうだろう? 我々の傘下に加わらないか?」
なんて答えるべきか? どういう思惑があるのかは知らないが、向こうから頭を下げているのだ。条件を突き付けてやるべきだろう。
「入ってもいいが、仲間のレベルアップを支援することを許して欲しい」
レベル1のままだと、永久に浮浪者に狙われ続ける。一刻も早く、みんなをレベル2くらいにしてあげないと、おちおち街で一人歩きすらできない。
「それは駄目だ。規則を覆すことはできない。恐らく明日、君はそのような行動に出るだろう。それは当然の心理だと思う。だから私は釘を刺しておく為にも、ここにきた。もしそのような行動をとったら――」
そこまで言って俺を指さした。
「君、そして君の仲間を、即、抹消する」
「ど、どうしてそんなことをするんだ?」
「簡単さ。我々は『アシスト』の存在を許していない。すでになってしまっている者まで咎めるのは少々乱暴だから、手を出さないし、ギルドへの入会だって拒まない。だけど、これ以上増殖させる訳にはいかないのだ」
「どうして?」
「いつも問題を起こすのはアシスト。自らの手で力を手にしていない者は、すぐに勘違いをする。君が夕刻戦った中国人だってそうさ。アシストは他人をうまく利用し、自分だけおいしい思いをしようとする」
「それは偏見だ」
「――かもしれない。だが偏見とは、確率から用いる方程式。暴走する七割強がアシストであれば、アシストが悪い。そう考えて行動しなくてはならない」
「どうして?」
「この世界は容赦ないデスゲームなのだから」
「俺は仲間を見捨てる訳にはいかない」
「分かっている。だから選択肢を持ってきた。唯一『アシスト』の行為を認められている役職がある。その任務に従事するなら、君は堂々と仲間のレベル上げをサポートすることができる」
なんだよ。あるんじゃねぇか! 頭が痛くなるような深刻な話ばかりしてくるから、どうしようもできないのかと愕然としていた。あはは。そっか。なかなか話を切り出さなかったということは、多少難しい任務なのかもしれないな。だが、少々のことならやってやる。それにレオンのようなこの世界を熟知したハイレベルの者から知識や情報を手にすることは、これから未知なるこの異世界で生活するうえで重要な事だ。レオンの話に半分以上――いや、九割方乗り気な俺がいた。
だがレオンが次に発した言葉で、それは絶望へと変わった。
「その役職の名は、奴隷長。彼女達を奴隷にするのなら、彼女達の育成は許可される」
「お、おい。奴隷ってなんだよ?」
「言葉の通りだ。ギルドの為に、絶対服従の契約を結んだ者を奴隷と呼ぶ。もしギルドに命が必要なときには、身も体も差し出す定めにある。奴隷になる者には、あらかじめ血の盟約を執り行い、もし盟約を破棄すれば、体内の血が蒸発して死に至る。それを育成・支援する者が、奴隷長だ」
なんて卑劣な……。人の命を何だと思ってやがる!
「ならねぇぞ……。絶対に俺は……」
「奴隷長になるためには、まずギルドに入り、そこで試験を受け、合格しなくてはならない」
「お、おい、俺はならないって言っているだろうが!!」
レオンは俺を完全に無視して、無表情のまま淡々と話を続けている。
「奴隷長のテリトリーを東西南北で分けており、西地区には西の奴隷長、東地区には東の奴隷長といった形で管轄している。現在、北の奴隷長の席が空いている。その席を巡って、近々試験が行われる予定だ。それにエントリーせよ。奴隷長を目指す者は少なくないが、そのほとんどが似つかわしくない存在だ。強靭なシャドーこそ、真の奴隷長に相応しい」
俺はレオンを睨めつけた。考えるまでもない。だって俺は――
「なるほど、考える時間が欲しいのか。ふふ、確かにこの決断は今後、君の人生を大きく左右する。考える猶予を一日渡す。明日の夕刻、街の中央に位置するセントレイズ教会まで答えをもって来るがよい。そこが我々ギルドの集会所でもある」
レオンは立ち上がると「ミスターシュージ、覚えておきたまえ。この無秩序な世界に、新たなる秩序を生み出しているものこそ我らがギルド――オルゼスだ。我らが更なる発展を遂げるために、君の協力が欲しい。セントレイズで待っている」と告げ、背中を向けた。
「最後にひとつ聞きたい。失った器官を戻す方法はあるのか?」
「君のご友人は利き腕をなくしているんだったね。この手の高度な情報提供は、アシスト行為になる。だがギルドに入ったらそれくらいの些細なことなら特別教えてあげてもいい」
「やっぱ、失った器官を取り戻す方法はあるんだよな?」
そう乗り出して聞く俺に、レオンは顔だけ振り返ると、冷ややかな笑みを浮かべたまま「入会後なら話そう。まず、無駄な努力になるか、否か、その辺りから」と短く答え、部屋を後にした。つまり、失った器官を取り戻す方法などないってことだろ。ふざけた野郎だ。
俺は奴がいたソファーを蹴飛ばした。なにが奴隷長だ!? ギルドに命を差し出すってなんだよ!? ギルドがこの世界に秩序をもたらす組織だと!? その屁理屈、マジで笑える。もっとも犯罪をしているのは、ギルドの連中じゃないのか!? レベル1のプレーヤーに一切のサポートなしで野放し。ゴブリンすらまともに倒せないのだから、生活ができるわけない。だから野盗に成り下がる以外、生きていく道はない。
散々御託を並べていたが、要するに自分たちにとって脅威な存在になるうるレベル2以上のプレーヤーを排除したいというのが本音なのだろう。それでも増やすと言うのなら、血の盟約を交わした従順な奴隷としてならば許すということか。奴らこそ、正真正銘の悪魔だ。
だが、時間を貰えたのはありがたい。その間に、みんなを連れて逃げてやる。