六十七 神の紙はカミングスーン(印刷と製紙)
嵐学園第二キャンパス第二棟三階。そこに定員五十名の教室がある。
第二棟の二階と三階には、同じサイズの教室が十三。要するに、日本の大学の語学用の教室を再現したもので、実際には三十名ほどで使用する想定になっている。
もっとも、現時点で大半の教室は空いたままだ。嵐学園ではエラン語と日本語の授業が設定されているし、需要はあるけど教員が足りない。一度に十三人の語学教師を集めることができないのだ。
ちなみに、エラン語教員は非常勤を含めて七人。日本語は二人。日本語はさておき、エラン語教員の数は、これでもイデワ王国で一番多い。というか、嵐学園の教員数自体が、今やこの星で一番多いらしい。
「では今日の実験を始めます。講師…ではありませんが、まずは代行者より提供物について説明がありますので、よろしくお願いします」
「はーい、ただいまご紹介にあずかりました代行者でーす」
「真面目にやってくれ、美由紀」
「どうもすいません」
「だから真面目に…」
で、十三ある部屋とは別に、特殊用途の教室が一つ。書道や絵画に対応できるよう、大型の机と水洗場が設置されている。日本でなら特殊というほどの教室ではないけど、この世界では教室に水道が通っているだけですごいのだ。
そんな教室に各国の技術者を集めて、みんなで習字…なわけはない。机をどけた端に、巨大な何かが鎮座していて、その横に美由紀が立っている。ついでに、なぜか司会進行の俺もいる。司会が必要とは全く思えないのは言うまでもない。
それに、素人のコントほど寒いものはないんだよ! 今どき三平の真似なんて地球でも伝わらないんだよ! なぁ美由紀。
なお、俺が美由紀と呼び捨てした瞬間、若干のざわつきがあった。
図らずも、今や女神と崇められる女と、金魚の糞みたいな男の関係性が明るみになった…のかも知れない。
「では各国の皆さん、さっそくですがこの機械の前に集まってくださいね。今から配布資料を作ります」
「作る?」
「はい、急いで急いでー」
相変わらずやる気のない声の美由紀が用意したのは、輪転機だ。これは日本から持ち帰ったものではなく、文献を元に管理者の力で再現した。
グーテンベルグの頃に遡る必要はないし、ああいう初期の印刷機の方が資料も乏しい。とりあえず、電気を必要としない百年ぐらい前の機械を選んでいる。
そしてもちろん、美由紀は印刷の方法を知らない。輪転機すら使ったことはない。ないけれど、解説する文献があれば作るだけなら何とかなるからすごい。
とはいえ、管理者の能力は万能ではなかった。
例えば、中古屋で幾つか買って持ち帰ったスマホは、管理者の能力で複製可能だったが、カタログに載っている最高級スマホを作ろうとしても無理だった。
印刷というプロセスは基本的に目に見えるので、理解が及ぶ範囲だから再現できるのではないだろうか。
「おお!」
「すごい速さだ!」
ガタンガタンと音を立てて印刷される様子を、集まった技術者たちは大騒ぎしながら実況した。
とはいっても、この輪転機は手動。はっきり言って、ちっとも速くはない。手彫りの木版印刷との比較なので、まぁ確かに速いのかも知れないが。
そうして印刷された紙は、本日の講義のレジュメ。大きく二つの分野についてまとめられている。
一つは言うまでもなく印刷技術だ。木版印刷からオフセット印刷までの歴史とメリット、デメリットを記してある。
もう一つは、印刷の前提となる紙の製造法。安く品質の良い紙が供給されなければ話にならないからな。
ちなみにイデワ王国では、百年ほど前には植物を原料とする紙が生産されていたらしい。それ以前は、貝陀羅樹みたいな乾燥した葉や、パピルスのように潰した紙もどきが使われていた。というか、今でも使われている。荷札には竹簡もある。
「それぞれの国によって紙の種類や流通状況は異なると思います。ここで実験する内容は共有していただきますが、その先は各国の裁量になります」
「我が国では全く生産されていないのですが…」
「そこも各国の事情ですから。輸入するのか国内生産を目指すのか、その辺の事情に神は立ち入りません。神だけに」
「それ、何のダジャレにもなってないよな?」
「みんな笑ってるわ。むしろ、どうして貴方は笑わないのかしら」
いい加減にしてくれよ美由紀。女神様が余りにバカな発言をするから、みんな反応に困って苦笑いしているだろうに。
ところで紙と言えば、日本の手漉き和紙の手法も一足先に伝えられ、既に各国の紙生産に影響を与えているらしい。
実は、イデワで百年前から生産されている紙は、日本の来訪者の知識が元になった和紙だった。なので、その補完程度の情報にしかならなかったはずだが、技術者の反応は大きかったという。紙すき体験をしただけの素人の記憶と、専門書の違いなのだろう。
ただ、手漉き和紙の印刷では生産量が知れている。紙が贅沢品である限り、書籍の形で知識を広めていくことは難しい。どこかの世界のように、知識をギルドや貴族が占有しては困るからな。
イデワ王国とその周辺には、ギルドも座も既に存在しないけど王侯貴族はいる。それに今後の参加国に、ギルドと都市国家…みたいな人たちが混じる可能性はある。
「ところで、写真とは…」
「たとえば、このような本があります。御覧ください」
「………おおっ! な、何ですかこれは!」
そして、印刷を学ぶ上で避けて通れないのが写真だ。
木板や活版は、この世界の技術でも実現可能だ。わざわざ神の恵みを騙って、その程度でお茶を濁すわけにはいかない。最低でもオフセット印刷の仕組みは伝えられるべきだろう。
「これは何かの花でしょうか?」
「さぁ…、何なの、弘一?」
「丸投げするなよ、エニシダって書いてあるだろ。………この星の植物じゃないから、名前を知ってもしょうがないと思いますよ」
恐らくは二十世紀初頭の本。写真と言ってもぶつぶつだらけで、紙質も悪いので判別困難。辛うじて名前が書いてあるから、そうだろうという程度のクオリティだ。
もう少しマシなサンプルが…というか、これより酷いサンプルはないと思う。
銀板写真を伝えれば、その先には映画もある。どっちにしろ、すぐに実用化するわけではない。そういう可能性があるという知識を得て、あとは各国で工夫してもらう。
まぁあれだ。
美由紀も俺も化学方面の知識は乏しい。まして、地球と同じ星ですらないのだから、何があってどう生産できるのか、それを考えるのはあくまでこの星の住人の仕事だ。
それ以前の問題として、俺たちは「願いの楽園」をスマホで遊んでいた。デジタル機器の時代の住人にとって、ここで見せているものはどれも過去の歴史上の遺産だ。鉄道のように興味関心でもない限り、同じ目線で検討することは難しい。
「当面の目標としては、翻訳本と教科書の出版をお願いします。もちろん、誰かが原稿を作ってくれなければ印刷できません。たとえば出版関係なら、ここにいる皆さんが翻訳に参加していただくことになるでしょうね」
「わ、我々には日本語が読めません」
「その割には熱心に写し取っていませんでしたか? 文字が分からなくとも、皆さんの知識で理解できるところはあるのでしょう」
「………確かにそうです」
「文章の翻訳は、学生たちがいずれ主力になってくれると思います。皆さんはそこに、専門知識をもつ者として加わってください。もちろん、皆さん自身が日本語を学んでもらえれば一番ですが、今は困ったことに百人以上の順番待ちなので…」
順番待ちという言葉に、皆さん複雑な表情を見せている。年輩の人が多いので、今から新しい言語を覚えると言われれば躊躇するのは仕方がない。
なお、百人以上というのは嘘ではないが正確とも言えない。実際のところ、語学教室の順番待ちは千人以上らしい。高速鉄道線の完成後に倍増、この第二キャンパスでさらに倍増というから大変な状況にある。
それだけ期待されている授業の担当が俺たちなんだから、笑えない冗談だ。さっさと講師を育成して逃げたい。
第二キャンパスでの特別講義を終えた二人は、門前から第一キャンパス行きの鉄道馬車に乗る。美由紀が目的も決まらぬうちに敷いたレールを利用したものだ。
ちなみに、馬車鉄道ではなく鉄道馬車らしい。鉄道の動力が馬なのか、馬車が鉄道上を走るのかと、その違いを主張した関係者がいたわけだ。きっとその人は、この星の鉄ヲタ第一世代だと思う。
「そのうちポンポン馬車が走るのねー」
「馬車じゃないだろ、それ」
「分からないわよー。あれをポンポン馬って呼ぶかも知れないし」
ここでの「あれ」は言うまでもなく、ガラワウドで試作中の焼き球エンジンだ。ポンポン馬なんて悪夢のような名前も、案外有りうるから嫌だ。というか、それを美由紀が言ってしまえば、きっと女神様のご託宣扱いで定着してしまう。
正直言って、日に日に美由紀信仰は高まっている。
「頼むから人前でそれ言わないでくれよ」
「貴方のお願いにはできれば応えたいわー」
やる気のない返事。きっと守れない約束。
まぁ、本人にとっては呼び名なんてどうでもいい話だから、仕方ないのかも知れない。
「結局、代行者ってのに無理があったのかなぁ」
「大丈夫。何やったって無理なのよ。巨大竜を倒した時点で世界の脅威なんだし」
「そりゃそうだが」
「そこは「違うぞ」って言うところじゃない?」
「無茶なこと要求するな。というかあちこち触るな」
「代行者だからいいの」
何の代行者だよ。鉄道馬車は貸切だけど、御者はすぐ前にいる。せめて公衆の面前で、いかがわしい真似はやめていただきたいです…。
※このところテンション下がり気味で、ついでに体調不良も続いた。おかげで短い文面になってしまったよ。
ちなみに、和紙の作り方をギルドに売るみたいな話は、複数読んだ記憶がある。そういう話でも、最初から紙らしきものは出てくるけど、あれは何なのだろう。いや、羊皮紙を日常使いするような信じ難い世界もあるし、いちいちつっこむのは野暮だと思うが。




