八 つかの間の家庭内別居の始まりです
城門からまっすぐシラハタ地区に向かって歩いて行く。職場からは徒歩で二十分ぐらいかかる。独身寮は目の前だったから、ずいぶん通勤時間は増えたが、別にそれは気にしていない。
城門に近い地区は、夜になれば露店が並ぶ。いつもなら、その辺で何かアテを買っている。さすがに今日は我慢するけどな。
帰った先で何が待っているか分からないのだから。
それでも、露店街の活気は嫌いじゃない。
こういう場所は犯罪が増える傾向があり、ここでもタマに客を騙す連中が現れる。それでも、キノーワの治安は、周辺都市に比べて良いという。
俺たちもその一翼を担っている…と言えるほどではないが、楽しそうな人々を眺めるのは悪くない。大した理由じゃないな。
「おぅ衛兵さん、いいの入ってるぜ」
「そういうのは興味ないし、許可取ってんのか?」
「堅いお人やなぁ。捕まるようなことはしませんぜ」
「捕まらないようなことしかさせないってか? そりゃ健全だな」
「こりゃ一本取られましたなぁ」
………時々、こういう良からぬ客引きもいるんだよな。
まぁ本当に捕まるような商売なら、いくら何でも衛兵に声はかけないだろう…と思いたいが、たまに引っかかるバカがいる。むしろ、そうやって弱みを握って、お目こぼしをしてもらうわけだ。
どっちにしろ、今日の俺に声をかけるなんて愚かにも程がある。自分の命と女遊びを天秤にかけるわけないだろう。まぁこいつに言ってもしょうがないが。
やがて高級住宅街に入っていく。朝は出て行くからいいけど、侵入するのはまだ慣れない。
さっき町に入ったキワコー子爵の屋敷は…、確か伯爵家の近くだったな。何となく思い出したので、歩くついでに確認する。
そして―――。子爵邱はあった。そう、美由紀が買った「我が家」の斜め向かいだった。これはきつい。顔を合わせないよう気をつけないと。
「た…、ただいま」
「おかえり、弘一」
「あぁ」
恐る恐る扉を開けて、小声で告げたのだが、はっきり聞こえていた。
というか、目の前に立っている。玄関に仁王立ち…じゃないから、怒ってはいないよな?
「お仕事は楽しかった?」
「あぁ、うん」
まさかのエプロン姿。長い髪を後ろで束ねて、まるで親しい友人のように語りかけてくる。
親しい友人というか…、まぁなんだ、その。
「それは良かった。じゃあ食事でいい?」
「………」
「何? 言ってほしいの? それともワ、タ、シって」
「そ、それはない」
正直、油断していた。もうそろそろ慣れるかと思ったのに、彼女の笑顔にしっかり記憶が飛んだ。
勘弁してくれ。
俺だって年頃の男の子なんだよ。いや、男の子とか言われる年齢はもう過ぎたつもりなんだよ。理性が吹っ飛べば何するか分からないヤツなんだよ。分かって…るんだろうな、きっと。
屋敷には、食事をする専用の部屋が用意されている。それだけでもあり得ないのだが、大きなテーブルには肉料理、スープ、温野菜などが並んでいた。
独身寮では見たこともない。いや、それは口にしたら失礼な台詞だよな。さすがに。
「これはア…、美由紀が作ったのか?」
「お口に合うか分からないけど、頑張ってみたよ」
「あ…、ありがとう。美由紀」
呼び方の約束を忘れかけた俺を許してくれ。謎の大五郎が出てくる前に二度言ったし。それと、本当に手作りなのか、店から運ばせたんじゃないかと、一瞬でも疑った俺も許してくれ。
いや、疑うのも仕方ないと思うのだ。
高級レストラン「セーゲン」で食べたあのメニュー。その中でも、たぶん俺が好みだと思ったものだけが選ばれている。そして―――、明らかに店の料理よりおいしそうに見える。
ものすごく緊張しながら、椅子に腰かけて二人だけの夕食が始まった。まずはスープ。滅多に食えないごちそうだった、ポタージュを一口。
「うまい!」
「…そう?」
「いや、うまい。うまいって!」
何だよこれ。あまりに味が違いすぎて、手作りだとはっきり分かる。それに、口に運んだ時の温かさ…。
「これ、もしかして…」
「保温してるのよ。便利でしょ?」
魔法で適温を保つなんて、聞いたことがない。というか、普通はできない。
しかし、その威力はすごい。
俺はむさぼった。美由紀の視線を忘れるほどに、うまい。うますぎる。風が語りかけるほどにうまい。
「何でもできるんだな、美由紀は」
「そう? 弘一に心を開いてもらえない女ですけど」
「そ、それはまた話が違うだろ。あの…、何というか物事には順序というものがだな」
しどろもどろに弁解していると、美由紀は笑いだした。
何だろう。食事の時間に、こんな気分になったことは初めてだった。
初めて。
だけど別にそれは、理不尽でも、わけの分からないものでもなかった。
食事の後は風呂に入る。これまたものすごく立派な浴室に気後れしたが、彼女を待たせるわけにもいかないのでさっさと済ませた。
ちなみに「彼女を待たせる」というのは、単に順番に入浴するという意味である。良からぬ想像はしないでもらいたい。
俺たちは「まずはお友だちから」で始めることにしたのだ。
いきなり同居せざるを得ない状況に追い込み、その上周囲には結婚したと言いふらした。うむ。そこは基本的に美由紀の暴走と言っていい。
しかし、そこに俺の意志が全く反映されていなかったわけではない。
俺はその気になれば、ある程度は拒絶できた。美由紀と話した感触から考えると、ここまで自分が従ったのは予想外だった可能性すらある。
たぶん彼女は、彼女自身の目が届く範囲に俺を囲いたかった。何らかの理由で、だ。結婚はその方便の一つだった……は、違うか。
違うな。
美由紀は、その目的が俺の妻になることだと断言した。ああ…、そこの辺りは考えたくない。理性的な発言とは思えないし…。
「寝る前に、今日もいくつか聞いておきたい」
「なんでも聞いて。答えられないこともあるけど」
ソファーに腰掛けて、恒例の質問タイムに入る。
なお、同じソファーの両端に、二人は座っている。美由紀は密着したいと言ったが、俺の理性がそれを押し留めた。まだ早い、早いと思う。
そもそも美由紀の格好がすごすぎる。
いや、それはまぁ、要するにネグリジェというものだ。一応、俺だって知識としては知っているし、カワモの話では、こんな衣装の女性が相手をしてくれるお店もあるらしい…が、そんな伝聞と、目の前の本物は比較にならない。湯上がりでいつもに増して艶やかな髪、赤みを帯びた肌はいつもより露出して、そして――、吸い込まれそうな谷間。もうダメだ…とうつむこうとすれば、太ももが待ち受ける罠。
正直、一度たがが外れれば、その先の俺が何をするか分からない。その欲求は日に日に強まっている。
けれど、まだ我慢だ。
だって俺はまだ、―――――美由紀を信じる段階にないからだ。
まずはこの家のこと。
でかい屋敷だが、当面は人を雇う予定はなし。最低限の維持なら、美由紀一人でできると言う。もちろん、魔法を使ってということらしい。
その辺は俺の理解を超えるからいいとして、そもそもなぜこんな豪邸を選んだのか。美由紀はどうやら貴族と同等以上の身分らしいが、そんな生活をしたいようには見えない。率直に聞いてみると、答えは簡単かつよく分からないものだった。
「安全地帯を確保したかったというだけ。どうせなら広い方がいい」
「それを一から説明してもらわないと理解できない」
「でしょうね」
何から守るのか。消えそうに燃えそうなものか。肝心の対象は分からないままだが、美由紀の能力で防御された空間に、俺を確保しておきたいということのようだ。
「えーと、つまり俺は狙われてるのか? 殺されるのか?」
「そこはまだすべてを話せないけど、これから狙われるかどうかは分からない。ただし、過去に貴方は狙われた」
「…………過去に?」
何を言っているのか。この俺は、同僚や上司にちょっかいはかけられるが、今の今まで五体満足、平穏な日々を送っている。そう、美由紀が現れるまでは。
しかし、この件は平行線を辿りそうなので深追いはやめておく。
とりあえず、何らかの理由で美由紀は俺を保護したくなった。そこに悪意がないというぐらいは、そろそろ信じても良さそうな気がしてきた。
いや――――――。
本音を言えば、そこを疑ったことはない。何の根拠もない動物的本能でしかないが。
「そうやって俺を確保するなら、なぜ衛兵の仕事はそのままなんだ? むしろ、家にいる時より危険だと思うが」
「貴方が狙われるのは命じゃない。それに、離れていても私が護ってるから」
「護る?」
「出会った時に、防護魔法をかけてあるわ。それから、その指輪も弘一を護るため……、これは分かってたと思うけど。一応、この世界で危害を加えられることはないはずよ。…私以外からは」
そうして事後報告を詫びる美由紀。とはいえ、こちらとしては防護されている感覚が分からない。指輪は確かに薄々そうかと思っていたけどな。
防護魔法といえば、少し前に一度だけかけてもらったことがある。少し危険な見張り任務に、数合わせで加わった時だ。魔法が使える衛兵は、一応それぞれの町に何人か配置されているので、ダメージが多少軽減される程度の魔法をかけてもらったわけだ。
ただ、その時は何かに自分が覆われている感覚があって、少しだけ動きづらかった。それが普通なんだと聞いた記憶もある。現在とはまるで違う。
「たとえば外で酔っ払いに絡まれたらどうなる?」
「さぁ…、口論になってそのうち殴り合うの? 弘一って今は武闘派?」
「そんなつもりはない」
どうやら、軽いケンカ程度では働かない防護魔法らしい。それこそモンスターの攻撃、あるいは罠にはまった時、そしてはっきり殺意を向けられた時ぐらいしか発動しないだろう、と。
「それなら当面は気にする必要はないか」
「それとも今、試してみる?」
美由紀が軽くつぶやいた瞬間、全身が一気に硬直した。息もできない…と、数秒で元に戻る。
戻りはしたが、胸の辺りが苦しいまま。じっとり油汗をかき始めている。何だよこれは。
「どう?」
「…普通に死ぬと思った」
「殺意ってそういうものだからね。私も弘一に向けるのは心が痛むから、もうしない」
「そ、そうしてくれ」
あー怖かった。子どものような感想しか出て来ない。人生に絶望した時に思い出せば、きっと引き返せそうだ。
まぁ……。
ここまでやってくれる美由紀。その能力は底知れないけど、悪気はないんだよな。
「殺しかけたおわびじゃないけど、プレゼントがあるわ。二階に来て」
「プレゼント?」
苦笑いしながら、美由紀は先に立ち上がる。
何から何まで与えられてばかりの状況で、プレゼントと言われてもピンとこないけれど、仕方なく俺も後を追う。何度か深呼吸をして、どうにかさっきの動揺をおさめながら。
なお、後を追ってはいるが、なるべく姿は見ないように注意もしている。違う意味で卒倒しそうな格好だからな。
階段をのぼった美由紀が向かったのは…、右奥の「物置」だった。
「どうぞ」
「あ、ああ………」
独身寮から運び出したままの荷物が置かれた部屋。その中央には、ま新しいベッドがあった。一人用、特に豪華な装飾などはない。
とりあえず腰掛けてみる。程よく沈む身体。かなり良いクッションのようだ…と、隣に独身寮から持ち込んだベッドが並んでいることに気づく。
「てっきり、古い方は処分したのかと…」
「弘一のものなんだから、私が処分するのはおかしいでしょ」
「まぁ…そうかな。ありがとう。これは素直に嬉しい」
「良かった」
軽く頭を下げて謝意を伝えると、美由紀はにっこり微笑んだ。う、やばい、可愛い。
………うむ、今は冷静になろう。狼になるにはまだ早い。というか、狼になれるなら、この部屋に新しいベッドなんて要らないからな。はぁ。
それにしても――――。
この部屋に新しいベッドということは、当面は別々に寝るという意志表示だろう。いきなりの結婚宣言から三日でこうなるとは思わなかったが、保護下に置くことが目的だったというのは嘘ではなさそうだ。
しかも、無断で捨てられても文句を言うヤツがなさそうな、あの小汚いベッドすらそのままだ。気に入らなければ今まで通りに寝ろと言うつもりに違いない。
手作りの夕食といいベッドといい、さすがに申し訳なくなってくる。
「今は…、貴方の友人ぐらいにはなれた?」
「お、おぉ…。友だち…だし、恩人、だな」
控え目に言っても、自分には縁のない世界を見せてくれる存在。
今さらそこを否定するつもりはない。
「恩を売ったつもりはないわ」
「いや、それは言い方が悪かった」
「むしろ私が恩を返してる。でも責任も取ってほしいかな」
「え?」
何?
予想外の「責任」という言葉に、凍りつく自分。
「も、もしかして知らないうちに俺は…」
「知らないうちに熟睡してた」
「………じゃあ違うんだな?」
「違うわ。そんなどうでもいいことじゃない。だいたい、貴方が理性をなくしたって私は構わないし、むしろ襲ってほしいんだけどなー」
「そ、それは善処するってことで」
良かった。知らないうちに俺が野獣になっていたなんて事実が判明したら、誰よりもショックを受ける自信がある。
基本的に、女には免役がないんだ。いや、ないから野獣に変じてしまうのか? ああ、とりあえず深く考えるのはよそう。
「じゃあ、今日はここで寝るのね?」
「……おう。今日は、な」
「いつでも待ってる、弘一」
………………。
いつまで理性を保てるだろう。どんどん自信がなくなってくるよ。
こうして始まった、突然の「新婚」生活。
しかしそれは、二人が世界の秘密に迫るきっかけでしかなかった。
…と言えば格好いいか?
美由紀がそう言ってるんだから、きっとこの先そんな話になるんだろう。俺はただ、いつでも独身寮の生活に戻れるよう、この恵まれた状況に慣れすぎないよう努力するのみだ。
※顔見せの第一章完結です。感想などありましたらぜひ。
第二章の冒頭は遠からず公開予定。