五十八 小牧先生の初体験
オッス、オラ小牧弘一。もう逃げたい…。
「パワーホールが必要なの?」
「どこの革命戦士だ!」
「貴方は噛ませ馬じゃないわ。その調子で頑張ってね、ヤングマグマさん」
ちぇ。
今日は昼から門番という逆転人生。いや、人生というほど日数は経過していないが、ともかくいつもと違うのは、午前中に嵐学園で授業があるからだ。
受ける方ならどれだけ気楽だったことか!
サークル入って合コンして楽しく過ごすはずの学生生活を一年半で終えてしまった俺が、楽しくやってる連中に週に一度の苦痛をお届けする。よく考えてみれば、そんなサークルに入った記憶はないし、仮にそんなものに入って楽しくやったら、長髪のオッサンの代わりにウチの女神様が鬼の形相で睨みつけた上にストンピングで即タップとなるに違いないが、この際その辺は深く考えないでくれ。
嵐学園の第二棟は、重厚な石造りの三階建だ。
創立者の太郎兵衛さんが、傘下に抱える商会の儲けをすべてつぎ込んだという嵐学園。その最も古い建物の一つで、外観は悪くないが中味はボロい。あまりにボロいので、神の恵み計画に明け渡して、自分たちは第二キャンパスへ…ともいかないらしい。
まぁどうでもいいな。
現実逃避ってやつだ。
「二-一三」と書かれた教室に到着する。ちなみに、この辺の国の共通語であるエラン語は十進法で、数字も地球の算用数字とほぼ同じ。これも来訪者の知識なのかと言えば、そうでもなさそうなのが不思議なところ。美由紀や俺にとっては助かるけど。
ああ困った。
どんなに逃避を重ねても教室に着いてしまう。というか初日に教師が遅刻するわけにもいかないし。ああどうしたものか。人という字は…とか適当にしゃべって終わるほど、俺のしゃべりはうまくないんだ。
結局、何の工夫もなく扉を開けた。
教室は、日本の小中学校のそれと同じような形。語学の授業だし、大教室でやるはずはない。といっても、五十人のクラスが二つなので、思ったよりは広い。
…………。
一瞬、記憶が飛ぶ。
五十人の視線を感じる。やばい、この星のエリートたちに品定めされている。ど、どうしたら………っと。
最前列の中央に、見慣れた顔があった。
ちぇ。
一度だけ大きく深呼吸をして、うつむき加減に教壇へと進んだ。
「おはようございます!」
仕方なく大声で挨拶。この世界にマイクというものはないので、声を張り上げる。幸い、門番の特訓で声量は問題ない。危うく「キノーワの町へようこそ」まで叫びそうになったが。
しばらく様子を見ると、数人が小声で挨拶を返してきた。まぁ上出来?
「今日から日本語基礎を担当する小牧です。皆さんが世界初の生徒になるので、頑張ってください」
何をしゃべっていいやらよく分からず、当り障りのない言葉を探す。考えてみれば、俺は挨拶を聞く側しか経験がないのだ。
相変わらず、教室の空気は微妙。最前列の一人だけ笑いをこらえていて、かなり腹立たしいけどほっとする。この伯爵令嬢が焦った表情をしなければ、まぁ問題はないだろうし。
「皆さんの手元に教材はありますか?」
「先生」
「な、なんでしょうか」
学生は十六歳から十七歳。高校と大学の間みたいなこの学校で、どういう距離感で接していいのか分からない…と思っていたら、最前の女がまさかの挙手。何だよイズミ、初めての学校で興奮してんのか?
「表紙に何が書いてあるのか読めません」
「あぁ…」
「ですから」
「そこから説明してほしい、ということですね?」
念のため周囲を見渡すと、何人かが頷いていた。
なるほど。やるじゃないかイズミ。
編入生が一人だけ日本の女子大生みたいな格好をして、明らかに目立っているが、気にする様子もなく教室を代表している。伊達に伯爵令嬢はやってないようだ。
「えーと、では表紙ですが、縦書きで」
いきなり教室がざわつく。
ああそういえば、エラン語は横書きだった。そこでつまずいていたわけか。これは大変な授業になりそうだ………。
「やさしい日本語」と書かれた表紙の説明で十分以上かかった。
表紙には漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、算用数字があって、それぞれをエラン語に対応させるのだから、はっきり言えば一度の授業では覚えられるはずもない。
もちろん、表紙には出版物の情報が書かれているだけ。これは日本語を覚えるための本だと分かればいいのであって、出版に関する記述などは読む必要もない。
日本の大学で初めてドイツ語やフランス語のテキストを手にした学生なら、表紙なんて見もしないだろう?
ただ――――。
これは俺に対する試験のようなものだ。地方都市の衛兵をやってるだけの若造が、エリートたちの前に立つ資格があるのか、という。
小牧弘一がなぜ日本語を教えるのか。
つい先日、神によって独自の言語だと伝えられるまで、由来不明の記号扱いだった日本語。それなのに、いきなり教師が二人も出現するなど、普通に考えてもおかしな話だ。
百歩譲って、美由紀には言い訳もたつ。代行者なので神に教えてもらったと言えば、もやもやは残っても一応納得するだろう。しかし、俺はどうだ。
代行者の夫だから一緒に教えてもらった? それなら、もっとふさわしい人材を選んで教えてもらえばいい。エラン語の研究者が知ったなら、より適切に教えることができるはずではないか。
会議の場でも当然出された疑問に、美由紀はこう答えていた。
神は全能であるがゆえに、人間の言語習得に時間がかかることを理解していない、と。分かりやすく言えば、道具の使い方を一人に教えたように、言語も一人に教えた。弘一はその場に居合せただけで、神は最初から私一人にしか教えるつもりはなかったのだ、と。
それは嘘ではない。管理者はバカで全能だし、言語能力なんて記憶を抜き取ればいいと思っているからな。
そうして問題は、門前の小僧である俺に、授業を担当する技量があるかという疑問に変わっていく。
だから初回の授業は、学生の質問を受け付けては読解していく作業になった。
おかげでこちらの緊張は解けた。
当たり前だ。記憶さえ取り戻せば、日本なら小学生レベルの教材が読めないはずはない。むしろエラン語の方が不安だったけど、そちらも問題はない。何しろ、エラン語の解説を作ったのは俺自身だからな。
ちなみに、俺がエラン語を読み書きできるのは、管理者が植え付けた偽の記憶の一部による。
この世界に、言語能力を量るものさしはないが、かつて潜り込まされた王都の学校の授業は問題なく理解できた。イズミの見立てでは、家庭教師にきっちり教えられたイズミより上だと言っていた。
その辺は判断のしようがないけれど、まともに学校に通ったことがないという設定にそぐわないレベルなのは間違いない。
何人か会った他の来訪者も、言語能力だけはしっかりしていた。管理者に感謝はしないが、単にコミュニケーションが取れればいいという発想にならなかったことは評価できる。
まぁ、実際にはそんな高尚な理念ではなく、サンプルの記憶が優秀だっただけだろうが。
「本当に日本語というものがあると、そこは理解していただけましたか?」
嵐学園の授業時間は七十五分。初回の授業の最後に、ようやく平仮名という文字の説明に至った。
そもそもエラン語しか知らない学生にとって、漢字までの道のりは遠い。一応、この星にも表意文字を使う国はあるらしいが、美由紀の話では星の反対側というぐらい遠くで、互いに存在すらまともに認識していない関係だ。
イデワ文字と呼ばれ、記号として使われているのだから、表意文字の利点は理解できると思うけどね。
なお、二十四時間、六十分六十秒と、この世界の時間は地球と基本的に同じだ。一秒の長さまで全く同じなのかは確かめようもないけれど、日本の高校の一限より長いはず。なのに終わってみればあっという間だったぞ。
「小牧先生、思ったよりちゃんと先生でしたわ」
「そりゃどうも。モリークさんは今日から…でしたね。この授業では頼りにしてますよ」
「ま、まだ学校に通い始めたばかり…ですのよ」
編入生のイズミは、慣れない教室で緊張感が伝わってくるけれど、隣の席の女子学生に避けられてる感じはないから大丈夫かな。
というか、他人の心配ができる程度には俺の緊張は解けた。十分後にはもう一つのクラスだけど、まぁ二度目は何とかなるさ。
こうしてイデワ王国、いや、このヨナイという星で初の日本語教室が始まった。
現時点で、専任の先生は誰もいない。学生への授業は俺と美由紀が週二回出勤で四コマずつ担当、後は宿題を出して対応する。そして日本語クラスが開設されれば、そっちの担当もまわって来るわけだ。
猫の手も借りたい状態なので、クラスの優秀な学生には随時補佐を頼むことになる。遠からず、イズミが同僚になってしまうだろう…と、当人は知る由もない。知ったら逃げられるから仕方ないだろう?
※漢字文化圏以外で育った人間が、外国語として日本語を習う感覚だと考えれば、地球でもよくある感じなのでしょうね。




