表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神は俺を奪還する  作者: UDG
第七章 キノーワの女神
81/94

五十五 協定発効

 イデワ王国の都市メーガと、コリエ王国の都市コサガが接する国境は、交易で賑わっている、一応、両国は比較的友好的な関係が続いているので、店を出す商会も多い。

 ただし過去には戦争もあった。従って現在も、川を挟む形の国境にはそれぞれ石塁や土塁が築かれ、軍の監視台も設置されている。

 そんな町の、軍の施設に囲まれたような場所に、ひときわ立派な建物がある。迎賓施設であり、美由紀の五段認定の場でもあった建物。そこに八ヶ国の代表が集まって、神の恵み案件についての協定を結ぶ。というか、既に集まっている。


 ここで予定されているのは、歴史的な条約の締結。

 歴史的というのは、その規模と内容の両方を含む。


 規模という点では前代未聞。八ヶ国で同一の条約を結ぶというのがこの世界では初めてだ。

 八ヶ国は、五段認定の四ヶ国であるイデワ、コリエ、ショウカ、ヤジュク。加えてテルネイ、ソロン、ヒメズ、ミホンキ。

 ソロン王国は、美由紀が最初にいた国だというから、一応知っている。最後の二ヶ国は、どこにあるのかも分からない。イデワとの外交関係もないという。

 さらに、これ以外の国もいずれ参加する…だろう。はっきり言えば、神の恵みの大半は、説明なしに与えられればただのオーパーツ。その程度に隔絶した技術を、隣の国が実用化していると知ったなら、五月雨式に参加国が増えて行くのではないか。

 管理者は分け隔てなく案内を送った。送ったというか、本人が全世界同時に語った。もちろん、この星にも無数の言語があるのだが、管理者の言葉はそれぞれの言語でちゃんと通じたらしい。お釈迦様のような話だ。

 まぁ管理者は、悟りはひらいてないが輪廻を解脱しているのは事実。当人は輪廻に加わりたいと望んでいるのだから、お釈迦様も呆れているはずだが、まぁその辺の問題は俺たちが考える問題ではない。



 さて。

 恐らくはお釈迦様もいないし三千大千世界にも含まれないこの星で、なぜか仏教を熱く語る男…小牧弘一は、地球の日本で生まれた、この世界にとっての来訪者だ。

 そして、忘れさせられた日本の記憶を思い出した俺は、ここで行なわれる協定会議に、国連のようなものを連想する。

 恐らく、我が妻でもあるこの条約の提案者も、似たようなイメージをもっている。

 しかし、馬車や船が交通手段という世界で、付き合いがあるのは「隣の隣」ぐらい。全世界なんて括りは存在しない。

 だから歴史的なのだ。


 そんな場に、なぜ俺がいるかって?

 言うまでもない。女神の付き添いだ。


「ヨコダイ様からは、君の席も用意するよう伝えられているが」

「同席したいとは全く思いませんが、恐らくは私がいた方が良いでしょう」

「そうか」


 会談は明日から。

 関係者が慌ただしく出入りするイデワの控え室で、背広姿のキジョー公爵と向かい合う俺も、一応は慣れないスーツ姿。一国の責任者と地方都市の門番。何の冗談だと思う。


「記憶を回復したと聞いたが」

「はい。今は詳しく説明できませんが、美由紀と過ごした過去の記憶を忘れていました」

「それは…、自然に思い出したのかね」

「いえ」


 公爵とは、以前の王都訪問以来の顔合わせ。あの時はただの門番だったから、恐縮するぐらいしかできることもなかったが、残念ながら今の俺は違う。

 もちろん、居心地は悪いし、さっさと帰りたい。

 だけど、公爵の申し出を平然と拒絶することはできる。公爵も、俺が別人のようだということはもう実感しているだろう。


「嵐学園の協力もありました。それ以上は、私の口からは申せません」

「ヨコダイ様も協力されたのだろうな」

「それはもちろんです。長い付き合いでしたから」


 いくら公爵相当の美由紀の伴侶だとしても、あり得ない態度。

 それでも、こうやって詳細を語らないのも今日の条約と深く関わっているから、俺は俺で頑張るしかない。

 横代美由紀が、神を名告る管理者の代行者として動く。俺は代行者の夫だからここにいるわけではない。管理者を知る者で、条約の内容も美由紀の次に理解できる。その役目を果たさなければならない。




 協定にあたっては、美由紀と管理者、ついでに俺とイズミも同席して、今後について検討した。

 まぁ正直言って、こんな四人が集まったところで、子どものままごと。

 いや、人と呼べない管理者は、もうちょっと賢くていいと思うんだが、人間並みの知能しか持ち合わせていない。

 ―――――管理者がもう少し賢かったら、そもそもこんな形の来訪者は存在しなかった。

 ただし、奴が賢くなかったから美由紀が生き長らえた。一つの星の未来と、一人の女を比較するのもおかしな話だが、その女が星を変えて行くのも事実。


 俺たちがやろうとしているのは、来訪者の記憶の整理、そして補完。

 馬車鉄道、高層建築、携帯電話、得体の知れない料理…。管理者によって飛ばされた来訪者――俺と同じゲームに没頭した同志たち――は、地球の知識を伝えている。どれも完全な形ではなく、そのままでは再現不可能な知識として。

 記憶をズタズタにした管理者は、その点では擁護のしようのないバカだと思う。俺もその被害者として、罵倒しても許されるはずだが、今はそれはどうでもいい。

 問題は、記憶をそのまま残して転移させていたら、それで良かったのかという点だ。


 不完全に伝えられた知識。そのすき間を埋めるために、俺と美由紀はできるだけの材料を持ち帰った。

 美由紀のカバンには、廃車予定の鉄道車両、スマホ、スーパーの惣菜やカレールーなどが入っている。実物があれば、理解ははかどるだろう。

 もちろん、適当に持ち帰っただけでは、途切れ途切れの知識と大して変わりがない。だから専門書を大量に持ち帰った。

 だが、これらをただ開放すれば良いのか? 四人のままごと会議で、はっきりした結論は出せなかった。


 俺たちが不安視しているのは、結局のところは一つ。

 戦争、侵略、殺人。補完された来訪者の記憶は、いずれ軍事目的に使われる。つまり俺たちが新たな戦争の火種を配り続けることになるだろう、ということだ。

 それは疑いではなく、確信。

 地球の歴史でも、この星の歴史でも、発明はそのまま軍事目的に向かう。カレールーはともかく、発電、モーター、大量輸送、そして建築技術、使えないはずがない。鉄道敷設と軍は、地球でも切っても切れない関係があったわけだし。

 日本のカレーすらも、軍が広めた側面があるが、さすがにそれはどうでもいいよな。


 そう考えると、来訪者の記憶がズタズタだったのは、この星のためには悪くなかったのかも知れない。

 いや―――――。

 仮に日本で暮らした記憶そのままだったとしても、地球の技術が素直に伝わったかは分からない。物質一つをとっても、元素表を暗記した人間と、神が創造したとか教えられた人間では、話が通じない。実際、国によっては錬金術が現役なのだ。

 それでも、いずれは理解する者が現れる。そして、たまたま先に理解した者、その理解した者のいる国が近代兵器をつくり出せば、この星は酷いことになっていたに違いない。

 それは無秩序、無計画に転移させた管理者の責任だ。この星を発展させるとか抜かすのなら、もっと頭を使うべきだった。とんでもない神の力をもつくせに、考えナシの子ども並みの知能って、タチが悪いにも程がある…って、話が戻ってしまった。



「弘一、これ読んで」

「……なぜ日本語なんだ?」

「私たちの母語だから…じゃダメ?」


 控え室で会話も続かず回想にふけっていると、主役が入ってきた。

 目の前の公爵には挨拶もせず、机に書面を置いて、さらにちょっと頬をくっつけて去っていく。あまりの大胆さに、さすがの公爵も呆気にとられている。


「お見苦しいものを披露しました。申し訳ありません」

「いや。面白い余興だった」


 美由紀と俺が夫婦なのは周知の事実。とはいえ地球の常識でも、条約締結の準備の場でキスする奴はいないと思う。

 それを当人に言っても一笑に付されるのが困る。

 ここは地球じゃないから、地球の常識は忘れた。そう言って、あれ以上のことをやらかしかねない。

 もっとも、美由紀には無茶な役目を負わせている。常人では耐えられないような役目の彼女が、多少のストレス解消をするのは仕方がないのかも知れない。


「まずはお目通しを」

「君が頼まれたのだろう? それに、私は一国の代表だ。今読むのはまずいのではないか?」

「それはそうですが…」


 公爵がいるのに、俺にだけ読ませようとしたのは、それが条約に関わる書類だから。一国だけ先に知るべきではないという理屈は正しい。

 しかし、俺はイデワの控え室でイデワの公爵に向かい合っている。そもそも、そこに持ち込むのがおかしいのだ。

 それに、美由紀は四ヶ国認定の五段冒険職だが、俺はイデワ王国の衛兵だ。確かに美由紀の伴侶だけど、れっきとしたイデワの関係者のはず。


「歴史的な条約の場にしては、いい加減だと思うかね」

「……正直言えば、そうですね」


 何もかもいい加減。大学生が衛兵に転じた程度の人間が呆れるほど、この世界の条約は杜撰なものだ。

 というか、国同士の条約に価値など認められていなかったのだろう。

 王族や貴族は、その出自を誇ることが仕事。そこでバックの神さまにでも物を言わせれば、とりあえずの統治はできる。もちろん、隣り合った間ではちゃんと取り決めを交わすけれど、どこにあるのか分からない国と条約を交わす意義を、真面目に考えろというのが無理だ。

 しかし、遠からずその認識は変わる。


「えーと、こちらはお読みになっても大丈夫なものかと思います」

「ほう」


 美由紀が渡した書類に、何枚かイデワ用と書かれたものがあった。

 ……………。


「コマキ君、これをどうやって調べたのかね」

「正直に申し上げますが、全く分かりません」


 それは各国参加者のリストだった。

 まぁ参加者自体は、管理者の魔法陣で送り届けているのだし把握は簡単だ。というか、誰がいるか分からないでは困るのだからリスト作成は当然の話。

 問題は、名前以外の情報だった。


「他国にも配られるのだろうか?」

「恐らくは…」

「生魚が食べられないという情報は必要かね?」

「……会食の場では役立つかも知れませんね」


 位階に職掌はともかく、趣味、好きな食べ物などが書かれたリスト。幸い、俺やワイトさんの趣味のような、外に出すとまずいやつは記されていないが、どうやって調べたのか謎だ。

 まぁイデワはまだマシだろう。公爵も、国王代理のハンライ殿下も、美由紀の非常識さはよく知っている。五段認定に参加していない国の人がこれを見て、どんな反応をするのか、想像するのも恐ろしい。




 ともかく表に裏に関係者が準備を続けて、いよいよ本番となった。

 かつて美由紀が五段認定を受けたという貴賓室に、長く大きなテーブルが置かれた。並べられた椅子に座るのは、各国の全権を受けた者が各一名。

 それぞれの後ろにも椅子や小さなテーブルが置かれ、関係者が陣取る。

 イデワは大テーブル側にハンライ殿下が座り、後ろにキジョー公爵が控える。公爵が控えの席なんて、なんの冗談かと思う配置だが、仕方がないのだ。

 何しろ集まった国は八つ。それらをすべて同格で扱うのだから、どこかの国だけ椅子を増やすわけにはいかない。

 なお、五段認定の四ヶ国とテルネイ王国は、王族と公爵クラスを送り込んでいる。ホスト役のイデワは、事前に参加メンバーを伝えたから、それに合わせたのだろう。

 対して、ソロン以下の三ヶ国は、少し格下の人間を送ってきた。


 正直言えば、格下を送り込んだ三ヶ国の方が自然と言えなくもない。

 呼びかけたのは、この星の神を名告る管理者。その神が、美由紀を代行者と定めて呼び寄せたわけだが、普通ならその程度の呼びかけでこの面子が集うはずがない。

 横代美由紀はまだ二十代前半の娘だ。しかも家柄で言えば、どこの馬の骨とも分からないわけだ。現に、八ヶ国以外に送ったメッセージは、大半が黙殺されている。


 一方で、五段認定の四ヶ国にとっては、国王が出向いて当然という認識になっている。イデワがどうにか我慢したので、他もせいぜい太子で済んでいるのだが。

 四ヶ国は、何よりも美由紀の力が等分に行き渡らないことを恐れている。敵に回れば国が滅ぶと知っているから当然だ。

 そしてもう一つ。これは今日の議題そのものでもあるが、美由紀が神と謀ってもたらすという何かに、大きな期待をかけている。

 来訪者太郎兵衛さんのあやふやな記憶から生まれたケーホ、つまり携帯電話は、美由紀の協力で実用化された。早馬で何日もかかる距離ですら、携帯電話ならすぐに連絡が取れる。そのすさまじい威力だけで、四ヶ国は美由紀を無視できなくなった。

 まぁ、ケーホは美由紀が作ったわけじゃなく、彼女は通話距離を延ばしたに過ぎない。とはいえ、ケーホに続いて画期的な新技術が紹介されるとなれば、飛びつくのは当然だろう。



「本日は遠方からお集まりいただき、ありがとうございます。神の代行者としてここにおります、横代美由紀です」


 中央の位置に美由紀。そしてすぐ横には、俺が座る椅子もある。

 さすがに椅子の格は落としてあるが、各国代表に次ぐ位置にいる俺は、どう考えても場違いだ。

 いや、そもそも美由紀に対しても、そういう認識の国はある。


「失礼ですが発言を求めたい」

「テルネイ王国ですね。何か」

「横代美由紀殿が…、確かに神の意を得ているという証明がほしいと、我が国は考えている」


 その発言に会場はざわつく。

 その通りと同意する者が半数程度。なんだ美由紀、信用されてないなぁ…と笑いはしない。こちらも準備はしているからな。

 ――――イデワに内緒で準備したのは、後で謝らなきゃいけないが。


「なるほど、皆さんの御疑念はもっともです。では神にもその旨伝えます」

「聞いておる」


 突然の声に、再びざわつく。

 どこからともなく聞こえたのは、「ヤ●トの諸君」とか言いそうなとても偉そうな声だった。管理者に誰か入れ知恵したんだろう。美由紀が。


「この場を主催した者として挨拶する。皆の国でさまざまに呼ばれる者である」


 怪しんでいた人々も、次第に聞き入り始めた。

 この世界に、離れた場所の声を増幅させる魔道具はある。ケーホもある…が、部屋中に響き渡らせる術はない。しかも、目の前にいるとしか思えないクリアな音だ。少なくとも、不思議な現象を体験していることは間違いない。

 もちろん、これは美由紀や俺と管理者が綿密に打ち合わせをした結果だが。

 管理者は、適当な台詞を述べた後、我が力を示そうという。次の瞬間に窓の外で閃光が見え、とてつもない震動。幾つかの国の代表は、吹き飛ばされるように倒れた。

 そして――――。


「我が力の一端をお見せした。よく確認すると良かろう」


 窓の外は草原が広がり、その奥に山が聳えていた。

 しかし今、山は消えて、黒煙が立ち上っている。

 管理者がその気になれば、あの程度は朝飯前。同じことを都市に対してやられれば、一瞬で国は滅亡する…と、テルネイの皆さんも青ざめている。

 まぁあれだ。事前に知っている俺でもビビる。管理者がそういう存在だと知っている俺でも。


「そのまま見ていたまえ。このような力をもって、時に我は神と呼ばれておる。本日が実り多き日となるよう、後は横代美由紀に委ねるとしよう」


 偉そうな言葉を連ねている間に、目の前の景色は「修復」されていく。

 破壊されて消えた山が元に戻り、動植物も生き返った。それは破壊すること以上に、とんでもない神の御業であった。

 うさん臭げだった人たちが、美由紀に向かって手を合わせて拝んだりしている。

 まぁあれだ。美由紀を拝むのは間違っていない。



 管理者の脅しは効き過ぎるほどに効いた。

 早い話、奇跡の瞬間に立ち合ったわけだから、それも当然だ。イデワの人間が苦笑いする程度で、神の存在を疑う者はなくなった。


 そこからは、淡々と話が進んでいく。

 あまりに情報量が多すぎて、是非を検討していられない。なので「神さまの思し召し」ですり抜ける。細かい調整をする機会はいくらでもあるのだし。



 この日、提案されたのは以下のような内容だ。


 神は嘆いている。この世界には、中途半端な知識がもたらした奇異なものが見受けられる、と。

 神としての自身は、世界に対して直接力を貸すことはできないが、目に余る誤解を解き、正確な知識を与える手助けをしたい。そこで、この星の生物で最も神に近い者を自分の代行者として、ごく限られた知識を授けようと考えた。

 その知識はすべての国、すべての人間に与えたい。そこで国家とは切り離された研究機関に、それぞれの国の人材が集まる形が良いだろう。

 幸い、代行者の横代美由紀が住むキノーワには、先進的な研究を行っている私立嵐学園がある。当面はそこを使わせる。

 ――――と、ここまでは神、つまり管理者に言わせた。研究機関をどこにおくかで議論されたら、永遠に結論は出ないのだから、不都合な部分は神のお告げで済ませておく。


 もちろん、嵐学園が今のままというわけにはいかない。

 キノーワのモリーク伯爵家によって創立、今も学校運営に関与している。ということは、そのままではやはりイデワ王国の学校に違いない。

 なので、学園の意思決定機関として理事会を設置。理事には、モリーク伯爵家の他に、コリエ、ショウカ、ヤジュク、テルネイから一人ずつ参加する。美由紀も加わり、また教職員の代表も入るので、四ヶ国の理事がだけで議事をひっくり返すことはできないが、イデワの勝手で運営はできないだろう。


 留学生枠も、もちろん増やす。理事を入れた四ヶ国からは最大十名、他の国の枠も設けるから、イデワからは四十名程度。ものすごく狭い門になってしまうが、当面は仕方がない。いずれ第二キャンパスが稼働すれば、定員を増やせるはず。

 四ヶ国には、学園整備の費用も一部負担してもらう。要するに、第二キャンパスの設置を予定していて、それが完成すれば多少の定員は増やせる予定。

 もっとも、学生を増やしても、教員不足が深刻だ。何しろ、神が与える知識を得るには、イデワ語…日本語の習得が必須だからだ。


「こちらは各国へのお土産です。中には、学園で研究に用いる言語の教本などが入っています。ご確認ください」

「……表紙はないのですか?」

「表紙は各国でつけてください。この文字は、それぞれ国ごとに呼び名が違います。イデワでは伝統的にイデワ文字と呼んでいたようですが、皆さんにそのような表紙で渡すわけにはいきませんよね?」

「なるほど…」


 美由紀が配布させたのは、はっきり言えば小学生向けドリルである。一応、複写する前に一部にエラン語のルビを付けた。そう、俺がやったんだぜ。


「ただ、表紙がない理由は他にもあります。これはただの記号文字ではなく、独自の文法をそなえた言語ですから、それにふさわしい呼び名が必要でしょう」

「独自の…。これも神さまがお与えになる知識でしょうか」

「その通りです。神はあの文字が、異なる文明世界の言葉の断片であるとお気づきになり、自らその世界へ赴いたと伺っております。神がお与えになる知識は、この言語で記されているのです。その世界では日本語と呼ばれています」

「ヨコダイ様は、それらを読めるのでしょうか」

「神よりある程度の知識は与えられました。また、皆さんに先んじて学んでおりますから、だいたいの書籍は読めます。ただし、私自身は鉄道や建築などに携っている専門家ではありません。それぞれの分野で知識のある者が、この言語を習得して、与えられた書籍を解読していくことが望ましいでしょう」

「なるほど…」


 淀みなく演説する美由紀の背中を、ぼんやり眺めている。

 素直に尊敬もするし、呆れもする。

 さんざん罵倒して、今も信心のかけらもない奴の代弁者。ボロが出るどころか、思ってもいないことを平然と並べ立てる。それは横代美由紀の、もって生まれた才能だ。

 美由紀が超常の力を得たのは偶然だし、それ自体は美由紀個人の資質に依るわけじゃない。だけど、その力と身体を得ても、ここまで使いこなすのは至難の業。十中八九、人類の敵として討伐対象になったはず。

 神の代行者を半ば偽装するという解決法も、通用する方がおかしい…けど、気味が悪いほどに予定通りに進んでいる。

 生まれついての美貌に、達者な口。ある意味では立派な詐欺師だけど、口だけの女ではなく、中身を伴っている。そういう信頼を得ながら、綱渡りを続けていくんだろう。




「疲れたー」

「そりゃそうだろうな」

「疲れたー」

「…………」


 控え室に入ってくるなり、抱きつかれた。そのまま唇を奪われる。

 殿下や公爵はいないけど、部屋には関係者が何人もいた。ちゃんと皆、目をそらしてくれたのはありがたいなぁ。

 …………。

 とはいえ、キスするな、人前だから抱きつくなとは言えない。美由紀が大仕事をやってのけたことは間違いないし、俺がここにいる理由の大半は、美由紀の精神安定剤なのだから。


 なお、協定そのものは今日のうちに結んでいる。一応、文面などは事前に打ち合わせていたし、今日は大枠で、詳細は今後という形だ。

 その後は、今後の人員派遣や連絡先の確認など、事務的な打ち合わせが続いていた。明日いっぱいは行われる予定だ。

 そして夕方となった現在は、各国代表同士の外交の場となっている。美由紀は立場上、外交の場にはいない方が良いということもあり、ようやく解放された。


 これだけの国の関係者が一堂に会する機会は滅多にないから、どの国もお抱え商人などを引き連れている。条約と経済交流のどちらも主目的と言っていいだろう。

 ちなみに、国によってはコリエ側に待機させている。会議中、関係者は国境を自由に行き来できる。商人たちも関係者として扱われているのに、なぜ隣国側に留まっているかって? 簡単な話。イデワが認めていない、あるいはグレーゾーンな物を扱う商人たちは、規制が緩いコリエで商談に臨んでいるのだ。

 こうやって多国間交流が進んで、世界は変わっていくんだろう。今はみんな笑顔。できればいつまでもそうあってほしい。


※ここまでが既公開分。引き続き公開していきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ