十二 異世界で名誉回復
「ミユキちゃん、定食二つ追加ね」
「はーい」
それから三ヶ月経った。
現在の宿の主人に頼まれて、食堂の仕事を補助するようになって一ヶ月。
自分がまさか、カレーのおじさんと同じような仕事をするとは思わなかった…というのは嘘だ。
むしろ、自分も一度はこういう客相手の仕事をしてみたかった。
病院のベッドにいた私にとって、夢のような時間。生きていること自体が夢みたいなものだけど、地球でもできる仕事をしているから嬉しくなる。
そして宿屋の食堂なら、要するに短期のアルバイトが成り立つ。その上、客から情報も引き出せる。今の自分にとって、メリットは多い。
無駄に目立たないよう、気配をうまく調整しながら、毎日夜の数時間は働いた。
「お兄さんたちも、冒険職なんですよねー」
「そうさ。これでもちょっとは有名なんだぜ」
「へぇ…」
「つれないなぁ。美人で料理の腕もいいのに」
「それとこれとは関係ないと思いますけど」
滞在中の宿は、それなりの格だ。
冒険職がよく顔を出すが、三級か二級に限られる。この四人組は三級で、ちっとも有名ではないという情報も得ているので、適当にあしらっておく。
料理の腕は…、別に大したことはない。ミユキの身体に、調理能力は特に備わっていなかった。
まぁ私も、病気になる前はバイトぐらいしたけど、その程度の素人だ。
相変わらず身分は最下層のまま。それでも長くいれば、いろいろ手段はある。町の平均以上の宿に、身分を半分隠して移れる程度には。
別に、誰かを騙しているというわけではない。身分によって宿が変わるのは、法律で決まった規則ではないのだから。
それなりの身なりで、それなりに金払いが良くて、あとはそれなりの愛嬌?
マオンの頃に戻るわけにはいかないけど、全く魅力を感じさせないのも、人付き合いでは困る。なので現在は、看板娘の一歩手前ぐらいに調整している。何が一歩手前なのかは企業秘密…というより、深く考えていないので追及しないでほしい。
「最近はよく来られてますね、皆さん」
「そりゃあ、ミユキちゃんが…」
「いい加減にしなさい、サチュー」
「痛ぇな、これだからルチカはいつまでたっても…」
「その先を口にしたらどうなるか分かってるわね?」
こちらは常連さん。全員二級で、そこそこ名は知れている。パーティ仲も良くて何よりですね、と。
全く恋愛に発展する気配はないそうだけど。
それはさておき、彼らが暇そうにしている理由の一つは、私にあった。
要するに、私がいろいろ実験のためにモンスターを狩っているため、その手の依頼が激減したらしい。
あんな状態の怪物でも、経済活動の一端を担っていたわけだ。反省反省。
「でもさぁ、ミユキちゃんって、本当は冒険職でしょ?」
「え? 違いますよ?」
「そう? 一人旅なんでしょ?」
「それはまぁ…。いろんな人の世話になりましたし」
そこそこ筋肉質で、地球の表現なら健康的な美人という感じのルチカさんは、最初に会った時から私を疑っている。
別に問い詰める感じでもないし、適当に受け流しているけど、なぜか確信しているらしい。
一人旅ができるのは、それなりに身を護る手段をもっているから? まぁその発想は悪くないけど、別に冒険職である必要はないよねー。
「いいよなぁ。俺もミユキちゃんの世話なら喜んでやるぜ」
「下心見え見えの方はお断りしまーす」
「し、し、下心なんか」
「あるでしょ。諦めなさい、バカ」
サチューさんも、そこまで本気ではなさそうだが、冒険職説を疑っていないようだ。
私の見た目は、どう考えても村娘。実は最近、コピーという反則的な魔法が使えることが判明したので、一張羅の「上等な服」をコピー、現地調達の服と組み合わせている。だから、街を歩けば、そのまま紛れてしまうぐらい普通の村娘。
……ただ一つ、身長だけは隠せないけど。
この世界の女性は、今の日本よりかなり背が低い。平均150cmあるかどうか。冒険職のルチカさんが160、サチューさんでも170ぐらいなので、私は下手すれば見世物小屋に売り飛ばされそうだ。はなちゃんになっちゃう。あれは違うか。
もちろん、この世界でも身体が大きければ強そうに見える。その意味では、背が高いから冒険職という、風が吹けばなんとやらの連想ゲームだったりする可能性はある。少なくとも、桶屋よりは簡単な連想だ。
ただ…。
ミユキは「冒険者」だ。その辺が何か同業者に分かってしまうのではないか。それも多少は疑っている。疑ったところで、こればかりはどうしようもないけど。
え? お前のやってることは冒険職そのものだろうって?
確かに、彼らの仕事を妨害しているのだから同業みたいなものだけど、あれは仕事じゃないから…。
「それにしても、ここの肉はうまいな。余所とは全然違う」
「沢山頼んで、稼いだお金を置いてってくださいねー」
「天使の笑顔、たまんねーなー」
ちなみに、この時の私は営業スマイルの裏で叫んでいた。
うまくない!
ここの肉はうまくない!
コリエ王国のヨウダイは、世界中のグルメが集まる街…ではない。むしろ、近隣諸国と比べても、メシがまずいことで有名だという。
わずかな異世界人生のなかで、三ヶ国を食べ歩いて流浪している私も、自信を持って言える。この国の食事は最悪だ。
そもそも食材が酷い。
冷蔵庫もない世界で、海からも遠いヨウダイ。タンパク質は、川魚か肉から摂取することになる…はず。
ちなみに、この星には豚も牛も鶏もいる。異世界の星なのになぜなのかは全く理解できないが、地球の三大家畜――そんな言い方するんだっけ?――は揃っている。
ところがヨウダイの人々は、牛と鶏を食べない。
なぜか? なんと、信仰の問題だった。
地球にもいろいろあるから、驚くような話じゃないけど。
この世界では、牛を食べる地域は少ないという。
宗教的な理由以前の問題として、牛や馬は家長の所有物。つまり家財の扱いなので、殺して食べることはできないという考え方のようだ。
全く食べないわけじゃない。けど、毎日食べているとか、焼肉屋があるとか言い出したら、ちょっと驚かれる。あ、さすがに言わないよ。
鶏は、コリエ教と関係がある。神の言葉を伝えた生き物が、鶏の姿をしていたらしい。
地球にも、鳥が何かを伝える神話は腐るほどあるから、それ自体は驚かない。けれど、それは金色の鶏とか、要するに特別な鳥だということにして、家畜とは区別するのが普通だと思っていた。だって、そうしないと鶏肉が食べられないし。
卵は食べてもいいが、肉はダメ。だからというわけでもないだろうけど、コリエ教はこの王国の一部でしか信仰されていない。王国の別の地方では無視されているから、もちろん国教でもない。
いろいろ御託を並べたところで、ヨウダイはその信仰の中心。
牛も鶏肉も食べない。そして豚は…、ついでのようにあまり食べられていない。どうも、養豚という行為にもあまり好意的ではないようだ。
結局、ヨウダイの住人は、豚を食える人とそうでない人で大別される。
ただし、豚を食べない側が菜食主義者というわけでもなく、卵は動物じゃないから大丈夫派、動物は全部ダメ派、そして野生動物は食べても良い派が存在している。最後の派閥は、どう考えても屁理屈だと思うんだけどね。
冒険職の皆さんは、その最後の派閥がけっこう多い。まぁ、出先で野生動物を食べないわけにはいかないだろうし。
宿屋のメニューは、豚と卵は扱っているし、野生肉料理も多い。冒険職御用達なのは、彼らが獲った野生動物を扱っているから、という側面もある。
しかし、ここで問題だ。
日本でも、野生動物の肉を扱う店はある。そういう店は、野獣の臭みを消すためにいろいろ工夫をするし、客もある程度は臭みを覚悟して来店する。
ところがどっこい。
思わず死語が飛び出すほど、この世界の「ジビエ」は過酷なのだよ。
その典型というべきメニュー。現在、私が主人にカイゼンを呼びかけているメニューがある。
唐揚げだ。
カラアゲ。どう考えても日本語。明らかに来訪者が伝えたもの。
そしてもちろん、私の脳裏にはカレーの悪夢が鮮やかに蘇る。ああ、あのまずいカレー…と思い出そうとしたら、既に記憶はほぼ排泄物だった。食べる前に飲むどころか、食べる前に食欲がなくなる。
しかし、意を決して私は注文した。
一人の旅人として、現地の名物にはチャレンジしなければならない。使命感に燃えてはいないが、使命感ぐらいもたないと耐えられない。
――――――そして。
出されたものを見て、まさしく一同驚愕した。
この世界で二度目の驚愕!
唐揚げ。それは、茶色くなった何かを油に漬けたようなシロモノだった。
全く食欲が湧かないまま、しぶしぶ口に運んで…、危うく吐き出しそうになった。ああ、これも二度目!
噛んでみても、原材料が分からない物体。ぬるっとした食感の奥に、胃液のような酸っぱさが襲ってくる。さらに強烈な野獣の臭み。グルメレポートは戦場なのよ。
…………。
誰がこんなものを…と、息も絶え絶えに聞いてみると、冒険職には人気があると答えが返ってきた。要するに、粗末な野外の携帯食を思い出させる味なのだという。
携帯食に似ているのは、まぁそうですか、としか言えない。しかし私は黙っていられない。
唐揚げという名前から考えて、日本に住んでいた人が伝えたことは確実。
そして冷静に分析すれば、肉料理で、茶色っぽく、調理に大量の油を使うなど、日本でよく食べる同名料理と共通する。これを肉とは呼びたくないけど、この際その辺は深く問わないでおく。
そう。
例によって来訪者は、料理名とあやふやなイメージだけを記憶して、肝心の味を忘れていたのだろう。その結果、名前だけが同じというトンデモ料理が発明されてしまった。
まぁ別に、この唐揚げがヨウダイ名物になるのは構わない。
本当にこれをうまいというのがこの町の味覚なら、それは私がとやかく言うことではないだろう。ただでさえメシのまずい町として有名なのだし、この料理もその一端を担っているに違いない。
しかし、個人的に唐揚げの名誉を回復したいという思いもある。いや、そんな仰々しい話じゃなくて、先生、まともな唐揚げが食べたいです。
そこで厨房に入って、改めてヨウダイ風唐揚げを確認した。
謎に満ちた材料は、近郊で冒険職が狩ってきた獣だ。届けられたものを見ると、四つ脚の小型獣で、日本ならイノシシの子どものような姿だった。名前はムルガ。
しかし、一目で分かるほどに状態が悪い。あちこち変色して、そして臭い。
持ち込んだ四級の冒険職に聞いてみると、弓で殺したものを、そのまま引きずって来て、事務所の裏でさばいたという。
さばいたというのは、内臓を取り出して、あとは一部の皮を剥がしただけ。後日、実演も見たけど、普通に吐き気がした。
この世界に来て、私も動物の解体をやる羽目になった。それがなければ卒倒していたと思うが、そんな経験があってもあり得ない処理だった。
明らかに腐敗した内臓が散らばり、毛をむしれば白くなりかかった肉。血抜きをするとかしないとかいう以前に、なぜこれを食べ物として認識できるのか。
いくらこの世界があれでも、これが普通なんて酷すぎる。
話を聞くと、この手の肉を食べる人々は限られているらしい。
どうせ高くも売れないから、腕の悪い冒険職の仕事になって、さらに品質が低下する。絵に描いたようなスパイラル。
そして宿屋には、あれを平気で食べるような味覚の麻痺した連中が集まってくる。
埒があかないので、ルチカさんに声をかけて、二人で一頭狩ることにした。
サチューさんにすればいい? そんな選択肢はない。
別に、女性として狙われているかどうかはどうでもいい。サチューさんは、あの唐揚げオブジェクトをうまいうまいと食べていた。その時点で失格だ。
ルチカさんは顔をしかめていたから、一応まだ信用できる…はず。
ルチカさんは二十八歳独身。別に知りたくはなかったけど、探知で余計な情報まで分かってしまうのが悲しい。
確かに、ゲーム内の情報としては年齢というのもよくあるけど、リアルにそんな機能は欲しくない。まして「独身」は余計にも程があるでしょ。
「後学のために伺いますが、サチューさんとは、おつき合いは?」
「するわけないでしょ! ミユキちゃんにあげるわ。のし付けて」
「丁重にお断りしまーす」
この世界にものしが存在することに感動…はしない。贈答品に紙を貼っているのは、何度か見たことがある。
地球に比べても紙は貴重だから、のしはあるだけで高級って感じになる。
「というかサチューさんって、モテますよね? 二級ですし」
「二級なんて大した肩書きじゃないわ。ミユキちゃんだってすぐになれるから」
「厨房手伝いに無茶言わないでください」
「厨房手伝いには全く見えないから」
………。
どうやら歴代の厨房手伝いには、客の冒険職とお近づきになる目的の人が多かったらしい。だから、全く興味がなさそうな私は逆に目立っているわけだ。
なるほど。
じゃあ、これからはサチューさんに色目でも使おうか。
……無理。
サチューさんの見た目とか性格とか、そんなものはどうでもいい。私は小牧弘一の恋人なんだ。弘一しか好きになれないんだ。
「ミユキちゃん、いつまで冒険職やってたの?」
「やってませんよ。ただの厨房手伝いの旅人ですから」
「厨房手伝いが、こんな速さで移動しないと思うなー」
「最近の手伝いは分かりませんよー」
ということで、二人でお出掛け。
さすがにミユキの力は使えないので、女性で二級の凄腕冒険職に任せてのんびりしようと思ったが、ルチカさんと同じ速さで走っただけで驚かれてしまった。
木を隠すには森の中…という意味でも、いずれ冒険職になるつもりの私だけど、なかなかその道は険しいのかも知れない。
到着した場所は、町から二十キロぐらい離れた山の中。
常緑の広葉樹が茂る森で、日本なら照葉樹林帯という感じ。谷筋の道はじめじめしていて、頭の上からあれが降ってきそうで嫌だなー……っと、本当に落ちて来た。
脛に付着したのは、山蛭。
普通の人間なら、蛭に血を吸われても気づかない。だけどミユキの身体は、攻撃とみなしてしまう。
仮に、直接肌に触れたなら、その瞬間にスキルが発動するだろう。小さな山蛭一匹で、周囲が更地になりかねない。
山蛭は肌に触れることはなく、足元に落ちた。
身体に張ってある結界に弾かれ、結果としてミユキに危害は加えられなかったので、何も発動しない。無数の山蛭をいちいち視認して対処していられないので、助かる。これなら大杉谷でも大丈夫。
―――――行けるはずのない場所の話はやめようね。
ルチカさんは、厚手のズボンに長い靴下で、足元は防御されている。それでも探知能力で確認すると、数匹潜り込んでいた。
さらに腕と首にもいる。私ならその時点で発狂しそう。こっそり取り除いた。
山蛭に悪意はないので、殺生はしない。少し離れた場所に動かせば、走って追いかけても来ないから楽な作業だった。
「ムルガはこういう茂みにいるのよ」
「これですか?」
「な、なんで素手で捕まえてるの!?」
そんなこと言われても、目の前にいたから捕まえただけ。探知能力で、居場所は分かるし、正面から攻撃しなければ危険も少ないようだ。
まぁミユキが危険を感じるような野生動物は、たぶん存在しないけど。
ともかく、脚を縛ってルチカさんに渡す。
暴れないよう眠らせようかとも思ったけど、怪しまれるのでそのまま。悲鳴が森にこだまして、まるで私たちが悪者のようだ。
…悪者なんだよ。今から命を奪うんだから。
「この手際の良さも、厨房手伝いだから?」
「当然です」
「すごい専門職なのね」
「宿の主人はもっとすごいんじゃないですか。たぶん」
だんだん会話が大喜利みたいになってきたけど、今さら気にしない。受け取ったルチカさんが、ひきつり気味に笑っているのも、もう気にしない。
………。
そんなおちゃらけた空気も、刃物を手にすれば変わる。
「この星の生き物は、また生まれ変われる。次の生命が良きものとなりますように」
「…………それは本当ですか?」
「え…」
ルチカさんがムルガの首に刃物を突きつけながらつぶやいたのは、命を奪うにあたっての儀式のようなものだったのだろう。
それでも私は聞いてしまう。
来訪者を探す来訪者に、今のつぶやきは重かった。
「不思議な子ね、ミユキちゃんは」
「す、すみません。作業の邪魔でしたね」
「別に構わないわ。そして…、輪廻の話は冒険職ならだいたい信じてるものよ」
ルチカさんは、ムルガの首を斬って逆さに吊るし、血を抜きながら話してくれた。内臓もきれいに取り除く。とても手際が良いのは、さすが二級という感じ。
そして、輪廻という言葉も使われていた。前世が動物だった人は、その動物に愛着が湧くとか、そんな話があるという。
噂話の信憑性はさておき、輪廻という熟語がわりと正確に使われている事実に驚いた。
「ルチカさん、何かいます」
「えっ?」
帰路。同じ道を引き返すだけなので、何も問題は起きないはずだった。
しかし、探知能力に大型の何かがかかる。
モンスターではないが…。
「赤熊だわ。よく分かったわね、ミユキちゃん」
「いえ、何となく…」
「そこの追及は後でさせてもらうからね」
赤熊。全然赤くはなく、こげ茶色の毛に覆われた、地球でいうところの熊だ。日本のヒグマも赤熊って意味だし、名前の付け方まで似ているらしい。
距離はまだ五十メートルぐらいある。
はっきり言って、でかい。ヒグマも見たことないけど、もっと大きそう。
「この場合、どうするのが正解ですか?」
「立ち去るのを待つ、ね」
「なるほど…」
赤熊は比較的大人しい動物で、むやみに人間を襲うことはない。その代わり、子育て中だったり空腹ならば、執拗に追ってくるという。
既に相手には気づかれているので、しばらく様子見することになった。
ちなみに、私は結界が効いているので、恐らく認識されていない。
ルチカさんは、たぶん気配を消すような訓練も積んでいるのだろうけど、野生動物相手では分が悪い。しかも、背負っているムルガの気配はダダ漏れだ。赤熊にとっては、ごちそうを運んで来たようにしか見えないだろう。
「襲って来たら、倒すしかないでしょうか?」
「逃げるわ。普通の人間では逃げ切れないけど、ミユキちゃんなら問題ないでしょ?」
「ずいぶん厚い信頼ですねー」
「当たり前よ。今が危機だと思ってないでしょ」
そこまで言い切られると、返す言葉もない。確かに危機だとは思ってないし。
とりあえず、二人を覆う結界を作っておく。気配を遮断するためだが、襲われた時には防御もできるような形で。
これ以上は、ルチカさんに内緒ではできないから、あとは赤熊さん、察してくれ。黙って去ってくれたら、森の熊さんと呼んであげるから。
結局、赤熊さんは数分こちらを眺めていたが、そのまま森に去って行った。
念のために、さらにしばらく辺りを警戒、戻って来ないのを確認して、早足で通り過ぎた。
ルチカさんの走りは、行きよりだいぶ速い。ムルガの肉をかついでいるのに、短距離ランナーになれそうなスピード。さすが二級は違う。
「本当について来るのね」
「置いていかれたら困りますから」
「そういう問題じゃないと思うわ」
今どきの厨房手伝いは、これぐらいできないと務まらないそうですよ、と適当に話を合わせて無事に帰還した。
ミユキの身体では、パーティーを組むにはいろいろ支障があることも判明した。しかし、今はそれはどうでも良かった。ルチカさんも忘れてほしい。
宿屋の裏にムルガを吊るして、ルチカさんが一気に皮を剥ぐ。相変わらず、見ていてキツいけど、この間のあれの後なのでずいぶんマシだ。きれいな赤身の肉が見えるだけで、こんなに印象が変わるとは。
ムルガさん、次はより良い生物になっておくれ。
解体された後は、宿の主人にバトンタッチ。私は素人なので手出しはしない。魔法を使った解体は、今は全く必要もないし。
新鮮な、そしてちゃんと処理された肉は、臭くない。
見た目も豚肉…というか猪肉に似ている。薄切りして並べれば、いつでもぼたん鍋が作れそう。
肉の準備が出来たところで、調味料や衣の材料を用意する。なんと、こちらに用意したものがございます、なんちゃって。前日に市場で探して集めていただけだ。
塩はある。芋のデンプン粉も見つけた。胡椒は見つからないが、似た感じの香辛料も発見。その上で、やっぱり醤油がほしいなぁ…と思ったら、魚醤が売られていた。醤油と同じではないけれど、まぁ代用品にはなりそう。生姜は、ほぼそのまんまのものを発見。糖分はハチミツがあった。本当に異世界なのかと思うぐらい、材料は集まった。
ちなみに日本の皆さんはご存じの通り、唐揚げは一般的に鶏肉を使う。豚肉っぽいムルガ肉よりも、本当ならここでも鶏肉が望ましい。
鶏はこの世界にもいるし、町で卵も売られている。できればそっちを使いたい…けれど、宗教上の理由で引っかかるから、今はムルガ肉の「唐揚げ」を名誉回復させなくてはならない。
この妙な使命感は何だろう。誰も日本なんて知らないんだから、名誉も何もあったもんじゃないはずなのに。
ともかく、豚の唐揚げもないわけじゃないから、少し薄めに切った肉をたれに漬けて、粉をまぶして揚げることにした。
そう、油に漬けるのではなく揚げると……。
素人料理だけに、見栄えは今一つ。だけどまぁ、来訪者の記憶の条件を満たしている。一方で、日本でこれを見せたら、下手くそだけど唐揚げのつもりなんでしょうね、と分かってもらえる程度の試作品が完成した。
「おいしいじゃない。ムルガの料理で一番だわ」
「そ、そうですか?」
「ミユキちゃん、本当に何者なの?」
「見ての通りの厨房手伝いです…」
味の方は…、私個人の感想は、微妙だった。やはり鶏肉の方がおいしい。ムルガの肉はかためで少しぱさつく。
もちろん、それでもあの自称唐揚げとは雲泥の差だ。店の主人も味を気に入ったので、試行錯誤しながらメニューに加える方向になった。
そうして半月ほどで、新唐揚げ二種類は食堂の名物になった。ムルガ肉と鶏肉の二種類だ。
鶏肉の方は御禁制の品なので、コリエ教信者以外の常連にこっそり提供する裏メニュー。そう、常連だけの裏メニューって、響きがいいよね。
…まぁ、そのうち教会関係者が押し掛けそうだけど。
実際のところ、教会内にも鶏肉解禁派は少なくないらしい。命を賭けない程度に戦うきっかけになるのかも。
素人の提案にプロが手を加え、それに常連が感想を伝える。
調味液の材料も少しずつ変え、漬け込む時間も調整し、油の種類も変えた。そして何よりも、現地で血抜きした腐っていない肉しか引き取らなくなった。
来訪者がもう少し確かな記憶をもっていれば、最初から唐揚げはまともな姿になったのだろう。
相変わらず、「あの」唐揚げもうまいとほざく連中もいるんだけどね。そう、サチュー、お前だよ。思わずガラが悪くなってしまう私を許してほしい。
―――――――で?
私は何をしに来たんだっけ?
大丈夫、いよいよ避けていたアレの話だから。
※牛を食べない人は今でも世界中にいるわけですので、美由紀が驚くのも認識不足と言えるでしょう。
国際線の機内食で「ジャイナ教信徒用機内食」をわざわざ食べた筆者としては、異世界だろうと屁理屈は屁理屈、何も変わらないと思うわけです。




