三 楽園の彼氏
日本に住んでいた大学二年生、小牧弘一。
二十歳、身長169cm、血液型はAB型。趣味は読書と答える典型的な文系で、痩せても太ってもいない、あまり特徴のない男だ。
ただ、私にとってはそうではない。
高校の同級生で、大学も同じ。
そして――――。
高校二年から、私と弘一はつき合っていた。
そんな彼は、今から一ヶ月半ほど前に「失踪」した。
私と彼は、ほぼ毎日顔を合わせていた。そしていつもSNSでもやり取りしていた。スマホがないと禁断症状を起こすほどの男だった。
それが、ある日を境に何の連絡もなくなり、既読もつかなくなった。あり得ない事態。事件に巻き込まれたのではないか。私はそう疑った。
ところが、その事件はものすごく不可解な経過を辿った。
すぐに私は、弘一の両親に連絡を取った。電話では、当然親の方から捜索願を出すという話になった。息子が連絡を絶ったのだから当たり前だ。その通りに動くのだと思っていた。
しかし、捜索願は出なかった。
それどころか、私以外は誰も弘一を探そうともしなかった。
まるで弘一が最初からいなかったかのように。
いえ、最初からいなかった? それは次第に、疑問を挟む余地がなくなっていく。いつの間にか、弘一の両親も、息子をすっかり忘れてしまっていたから。
私は焦った。
急いで彼を探さなければ、私の記憶からも小牧弘一がいなくなってしまう。
すぐにでも走り回りたかった…けれど、それはできなかった。
なぜかって?
私は入院中。点滴がつながった身体。
そして、余命半年の宣告を受けてから、もう五ヶ月を過ぎていた。
弘一は、一人暮らしの部屋に荷物をすべて残していた。
そこで私は、彼の部屋の合鍵を、見舞いに来た友人に渡して、カバンを取ってきてもらった。友人の女性は、無断で持ち出すことに不審を抱いてはいたけど、辛うじて「美由紀の彼氏の部屋」という記憶が残っていたようで、ちゃんと彼の部屋から持ち出してくれた。
見慣れた手提げカバンは、財布はなかったけど、他はそのままだった。
彼のスマホも入っていた。
勝手知ったる彼氏のスマホ。ロック画面のパスワードももちろん知っていたから、その中身は確認できた。
大量のメールが未読になっている。最後の既読は…、彼がいなくなった日だった。
私とのSNSのやり取りも、そこから未読のままだ。
………おかしいよ。
私とスマホのどっちが好きかって、真面目に腹を立てたぐらいに、弘一はスマホ依存症だった。その彼が、部屋に置いたままいなくなるなんて。
そのスマホに入っていたゲームアプリが、「願いの楽園」だった。
一応私は、そのアプリの存在は知っていたけど、どうしても彼は見せてくれなかった。まぁ私もあまり興味がなかったから、無理に見ようと思わなかったのだけど。
だから、彼の手がかりを探して開いてみた。
デイリーのプレゼント画面が出る。
ということは、少なくとも今日はログインしていないようだ。
――――――――で。
正直言えば、私は呆れていた。
だって、ゲーム画面にいきなり「ミユキ」だ。慌ててプロフィールを見れば、ぼかしてあるけどどう考えても私。あのバカ彼氏め、自分の彼女の名前で遊んで何をする気だと思うでしょ? ねぇ?
それでも、何かの手がかりがつかめるかも知れない。そこでゲームのアカウントを、自分のスマホに引き継がせた。
メールやSNSのデータはともかく、ゲームは他人のスマホで開き続けられるのか怪しかったから。その辺の無駄な知識は、だいたい弘一に教えてもらった。
そして数日、私は「願いの楽園」でミユキとして遊んでみた。
プロフィールを見た時に、レベルやスキルの一覧が載っていたから、最初はそういうゲームなのかと思ったけど、一度もバトル画面を見ることはなかった。
それに、デイリーでもらえる携帯食糧なども、使い道が全く分からなかった。やることといえば、画面上を指で上下左右に動かして移動するだけ。背景の景色が変わるのを眺めるだけ。
信じられないほど退屈なゲーム。
その評価は、やがて変わった。
評価が変わった時、弘一がなぜ「ミユキ」で遊んだのか、その理由を悟った。
「願いの楽園」は、プレイヤー同士が仲良くなる要素もなく、かといってNPCとふれあったりバトルができるわけでもない。戦いもないから、目標もない。
その代わり、フィールドは異様なほどにリアルで、NPCの表情も豊かで、見ていて飽きない。遊ぶというよりは、住人になった気分で異世界を旅する目的に向いていた。
そこでミユキは元気に歩き回っていた…という設定になる。
せめてアバターぐらいあればいいのに、と思うけど、仮に私に似たアバターだったら、それはそれで嫌だな。でもまぁ弘一は、私が頑張ってお洒落しても全然気づかないような男だし、似せること自体無理かも。
弘一はただ、元気な美由紀を見ていたかった。
それは、大学一年の秋に入院して、今年の春からは一時退院もできない私に対する当てつけだった? まさか。
弘一は…、私には勿体ないぐらい優しい人だ。
彼はきっと、こうしてミユキが動き回れば、美由紀も…と妄想していたのだ。
勝手な妄想。
だけど私にそれを責めることはできない。現実の横代美由紀は死ぬ運命で、もはやそれを覆す材料などなかったのだから。
こうして美由紀がミユキを手に入れ、毎日ログインするようになった。それは別に、いなくなった彼を偲ぶためではなかった。
実は「願いの楽園」には、怪しい噂があった。カンストしたプレイヤーが突然いなくなるというものだった。
ネットにはその噂に関する検証サイトもあった。二十人近くが消えたと主張する人もいる一方で、単に飽きてやめただけと一笑に付す人もいる。
そもそも、他のプレイヤーを知る機会は、あちこちに用意されている「宿屋」で、宿泊中のメンバー名が見える程度。いつも見かけた名前が、ある時を境に画面から消えたというだけで、騒ぐ方がどうかしている。つまらないからやめただけでしょう?
しかし、私が直面する現実はどうだ。
弘一は消えた。何の痕跡も残さずに消えただけでなく、彼に関する記憶が人々から消えつつあることを知った。どう考えても不可解だし、非科学的な事件が起きている。
その弘一は、「ミユキ」をカンストさせていた。だから、疑うしかない。
だけど、「ミユキ」を引き継いだだけの私は、ゲーム内のマップを確認して、一通り訪問してみただけ。
モンスターが出現する「試練の洞窟」にも、手がかりを求めて入ってみたけれど、分かったのは楽勝過ぎて何の試練にもならなかったということ。武器を使わずにクリアしてしまったし、宝箱に入っていた剣は、なんと百本以上も持っているゴミアイテムだった。
画面はきれいだし見ていて飽きないけれど、それだけ。
そして――――。
私には、そんな画面を眺めている時間が、もうなくなりかけていた。
一日のうちで、意識がはっきりしている時間が減っていく。
もう私に対する「治療」は終わっていて、一度だけ宗教の人が来たけど断わった。なんだか話が入ってこなかったし。
弘一がいない世界。
それなら別に、私も消えてもいいと思っていた。もう誰も憶えていない彼氏が、彼女の死と共に完全に消えてしまう。それでも最後まで憶えていたなら、それで十分な気がしていた。
そんな時に、ゲームの画面に何かを見つけた。
見たことのないゲートの表示。
もしかしたらそれは、意識が混濁しかかった自分だから見えた、ただの幻影だったのかも知れない。
その先には何の景色もなく、代わりに無数のメニュー画面があった。
わけの分からないまま、次々とメニューを開いていく。どれも、プレイヤーとして見たことのないもの。そして、パスワード変更という文字を見つけた私は、何の躊躇もなく変更した。
その部屋には、私しか入れなくなった。
実は同時刻、「願いの楽園」には致命的なバグが発生していた。
これは後に知ったことだが、「願いの楽園」というアプリは、通常のアプリとは異なり複数の管理画面が存在していた。それは、このアプリが出来上がった理由につながる大きな秘密だったが、運用後しばらくして、片方の管理画面は使われなくなった。そちら側の管理者が、一切アプリに関わらなくなった――本当は「関われなくなった」――のだ。
その結果。アプリは多数のバグを抱えるようになる。現在の運営側は、恐らくもう片方を切り離そうとしていただろう。しかし、画面に映るリアルな世界は、放棄された側が請け負っていた。切り離せば、アプリで唯一褒められる点がなくなってしまう。
イベントもまた、そのリアルな世界を利用していた。だから現在の運営は、過去のイベントを使い回すしかない。新規のイベントと言えば、落ちているアイテムを拾う、通称「ゴミ拾い」ぐらいだった。
。
そしてこの日。
放棄された側の管理画面は、なぜか一人のプレイヤーのログイン画面につながってしまい、そのまま権限を奪われてしまった。
横代美由紀が操る「ミユキ」は、まさかの「運営管理者」になった。そして、これ以降のすべてのイベントは、バグにより続行不可能となった。
管理者権限には、私が探していたものがあった。
そう。「転送」だ。
弘一の「失踪」は、アプリの機能がもたらしたのではないかと、この時の自分は確信していた。いや、もうそれ以外を考えるだけの力がなくなっていたんだけど。
これも後に知ったことだが、「願いの楽園」の表向きの運営は、普通のオンラインゲームとしてプログラムを作って動かしている。その裏でもう一人の管理者、つまり放棄した側は、とんでもないことを企んで、実行していた。
「楽園」の本当の目的。それは背景のように見せていた本物の異世界に、プレイヤーを転送する。転送したプレイヤーを、向こう側の世界の新たな住人に加え、そして向こうの世界をよりよく発展させる。
ネットで噂されていたすべてのプレイヤーが転送されたのかは分からない。それでも、このゲームには確かにそんな目的があり、そして弘一はこの世界から忘れ去られようとしていたのだ。
分からないことは沢山ある。というより、分からないことしかない。
それこそ――――。
なぜ彼は私を置いて消えたのか。
プレイヤーは、管理者の操作一つで転送されたわけじゃない。そもそも管理が放棄されていたのだから、管理者権限の「転送」は使われていなかった。
弘一は「失踪」時、どこかに出掛けた形跡があった。
恐らくは、アプリを通して彼を催眠状態にして、転送可能な場所に誘導したはず。なら、なぜ弘一は催眠状態になってしまったの? 疑問は尽きない。
もしもこの世に絶望したのなら、せめて私の死後にしてほしかった。
そんな図々しい思いもよぎってしまう。
ともかく、このゲームが望んだ転送の条件が何だったのか? 正確なことは、今になっても分からない。
ただ、その時の自分には、選択肢など一つしかなかった。
弘一を探し出す。いや―――――。
たとえ自分の余命が尽きても、弘一のいる世界で私は死にたい。
管理者メニュー「転送」の中に、アバターを転移させるという項目を見つけた瞬間、私はそれを選んでいた。
そして気が遠くなるような感覚があって、ここで目覚めた。
転移したのは「アバター」。
あのゲーム画面で、一度も見ることのなかったそれに、私の意識が上書きされていた。
※過去編、ここまでがプロローグ。
この先はR15描写が増えます。




