四十九 帰れない二人
「大丈夫か?」
「何とかなりそうよ。それで…、どこまで思い出せたの?」
「お前の姿がミユキだってことぐらいさ」
「そう…」
廃棄物のPCにこびりついていた、管理者の力の一部。目の前では、それを分離した美由紀が、自分が持つ力に融合しようと試みている。
それが成功しつつあるのか。美由紀の口調からどう判断していいのか、俺には分からない。
そして、俺はここまで隠されてきた過去を思い出した。
小牧弘一が地球を離れた契機。
いや、別に俺は、管理者のいる星に行きたいと思った記憶はないが、地球の将来に絶望したことならあった。
そう。
俺の大切な美由紀が、不治の病に冒されたその時だ。
高校の同級生だった横代美由紀。
女子と話すのも苦手だった俺にとって、女神のような彼女は、文字通り別世界の住人だと思っていた。
触れあうこともないはずの二人は、なぜか放課後の図書室で語り合う関係になり、やがておつき合いに発展してしまった。
そう。
美由紀と俺は釣り合うはずがない。そう思いながら、だけど俺はこの女神と一緒にいたくて仕方がなかった。そんなどうしようもないモヤモヤばかりを感じながら、二人は大学生になった。
大学生になっても、俺と美由紀の関係は変わらなかった。
なぜか同じ大学の文学部に入り、講義に出席して、いつも一緒にいた。社交的でどんどん友だちを増やしていく美由紀と、数人の男友だちができただけの俺。たぶん、いつも俺は自信がなさそうに席に座っていた。そんな記憶。
そして二年になり、美由紀は休学した。
美由紀は一年の頃から、体調が悪いという時があった。
高校の頃は、なぜか柔道部に顔を出していた彼女。細身の身体で、勝負強かったわけじゃないけれど、子どもの頃に習っていたという彼女は楽しそうだった。だから元気だと思い込んでいたのに、気がつけば入院して、そして医者は首を振った。
若く体力のある美由紀だから、進行も早い。そんな病気だった。
俺は毎日見舞いに行った。こんな男を自分の彼氏と呼んでくれる女神に対して、何ができるだろうと思いながら。
だけど、何もできることはなかった。
彼女が痩せ細っていく姿を、毎日目に焼き付けているだけの日々だった。
そして、俺はゲームにのめり込んでいった。
現実逃避で始めたゲーム。そこで俺は自分が動かすキャラに、ミユキと名前をつけた。もう元気に走り回ることもできない彼女の名を、勝手につけた。勝手につけて、勝手に育てて、勝手に動かした。
元気でいてほしいから、ゲームで遊ぶだけなら必要のないスキルもすべて取ったし、取れるアイテムも取った。当然、レベルも限界の300まで上げた。恐らくは、あのゲーム内で最強の一角にいただろう。それはもちろん、育てる必要がないゲームで、ただ意地になったバカがいたというだけの話だ。
いくら育てても、ミユキは美由紀じゃない――――。
今にして思えば、そんな俺の虚脱感が、あれに誘われてしまったきっかけなのだろう。いや、それでも俺は、決して地球を捨てたかったわけじゃない。少なくとも、まだ美由紀がいる地球だったのだから。
「こんな奇跡もあるんだな、美由紀」
「ふふ。…貴方の思った通りの私になってる?」
「俺のスマホ、勝手に触ったな?」
「当然でしょ。貴方の彼女なんだもの」
そして今、目の前にいる者。
その思考、その魂は、確かに横代美由紀。だが、余命宣告を受けた身体ではなく、健康そのものの肉体。それは恐らく、あのミユキが具現化した姿だ。
…なるほど。そう考えると、管理者の言い分も理解できる。
管理者の能力は、地球では弱められる。だから管理者の力だけで行動する奴にとって、地球は危険な場所だ。しかし美由紀がレベル300のミユキと一体化しているならば、ミユキがスキルとして獲得した武技も魔法も使える。
それにしても…。
「こんなに大きかったか?」
「貴方が願ったことでしょ。しぼんだって聞かされて」
「………あんな一文が適用されるのか」
巨大な胸。それは確かに、俺がミユキの紹介文に書いた、唯一の特徴らしい部分だった。
そしてもう一つ。女神のような美女…と、これも何も思いつかないまま書いた文。恐らくはそれも適用されたはずだ。地球の美由紀は間違いなく、俺にとっては世界一の女だったが、目が合っただけで気絶するようなことはなかった。そうだったのか。
「どうにか力は取り込んだわ。ちょっと強くなったかも、私」
「これ以上強くなられても困る」
「そう…ね。で、どうする? 貴方は地球に残る?」
「何のために」
「決まってるでしょ。それ…」
咄嗟の行動だった、と思う。
俺はただ、お前のそういうありきたりな台詞を聞きたくなかった。それだけだ。
「どうして…」
「お前は俺のために、俺が望んだ姿で現れて、そして俺を見つけてくれたんだ。こうするしかないだろ?」
「化け物よ、私は」
「怪人さ」
「何が違うの?」
「そうだなぁ…。例えば、子どもができたら大五郎って名前にするか」
「バカな人」
小さな机越しに、美由紀を抱きしめている。
体温も匂いも、心臓の鼓動だって聞こえる。そして震えている。何もかも、お前が俺のためにやったこと。そして、俺はそんなものをずっと受け入れている。今さら過去を追加されたぐらいで、何が変わるわけじゃない。
そうして何分過ぎただろうか。
彼女の震えは治まっていた。
少しだけぼーっとしていた俺は、気づいて腕の力を抜いた。
「美由紀」
「はい」
「一緒に生きて行こうぜ。プロポーズの言葉は要らないだろ? もう新婚なんだ」
「そうね、大好きよ。弘一」
「先に言うなよ」
「貴方はいつも遅すぎるの。高校生の頃だって、なかなか告白してくれなかった」
「そ、それはそれ、これはこれ、だ」
「何が違うの?」
「そうだなぁ」
落ちつくどころか、やばいぐらいに心臓の音が聞こえてくる。
それなのに、こんな間近で見つめ合っても気絶しないぜ。
お前がどんなに気を放ったとしても。
「あの頃より今の方が、ずっとずっとお前が好きだ。美由紀」
「そう…」
柔らかさと温かさと。
俺とお前はいつだって、互いを肌と唇で感じていくのさ。いや、いかせてください。本当に、本当に大好きなんだ。美由紀。
ゲームの運営元だったフロアを出て、再び日の光を浴びる。
たぶん、あれから二人は三十分ぐらい抱き合っていたと思う。
……正直、その先まで行きたいと思った。たぶん美由紀も、そう思ったはずだ。
だけど、こんな汚い、そして思い入れもない場所で初めての瞬間を迎えると考えたら、冷静になってしまった。いくら勢いに流されようと、せめてベッドの上にいたい。
まぁ、キスはしちゃったけど。
「じゃあ、今日のうちに実家に行こうか。お前の…墓にも」
「無縁仏かも知れないわよ」
「どっちでもいい。どうせ何もないんだ、そこには」
手をつないだまま、隣の顔を見てしまう。
…………。
そこには女神がいた。
誰が何と言おうと、俺の女神。まだちょっと頬が赤くて、それがもう、とんでもなく可愛い。大きな目を見開いて俺を見つめる表情もたまらない。
はぁ…。
きっと俺の方が頬は赤いだろう。競ってるわけじゃない。
不思議な気分だ。
言っておくけど、俺たちは別に今日がファーストキスじゃないんだ。
仮にも、告白して三年はつき合った二人が、まさか手もつながないわけないだろう? どっかの赤い花の歌じゃあるまいし。
「キノーワに新幹線が通るのはいつだろうな」
「さぁ…。車輌だけ運んだって動かないでしょ?」
「魔法で動かすのは?」
「まさか全部、私にやらせるの?」
再び東京駅に戻り、新幹線に乗った。
俺たちの実家は、ここから乗り継いだ先。美由紀の瞬間移動で進むには遠すぎるけど、日本なら数時間で着いてしまう。馬車だったら何日かかるだろうか。
車内では、さっき美由紀が何をしたのかを教えてもらった。
こびりついた管理者の力。それを自らに取り込むことは、ありていに言って異物の混入だ。しかも、かけらでも管理者の力となれば、人間に耐えられるものではない。
しかし美由紀は、それをほんの十分足らずで済ませてみせた。
簡単に終わった理由は二つある。一つは、既に美由紀が保持している力が大きかったこと。残存していた力は、管理者の力の三パーセントほど。対して、美由紀は三十パーセント近い力を持っている。仮に暴れようとしても、押さえ込めるだけの力の差があった。
そしてもう一つは、既に取り込む方法を美由紀は身につけていたからだという。
「つまりお前も、最初は制御しきれなかったのか」
「制御できないというか、意識と身体がバラバラになるような感覚だった。それを完全に取り込むまでに一年以上はかかったの」
「そんなに大変だったのか」
「まぁ、魂が飛んで行きそうだったのは、最初の一ヶ月ぐらいだけどね」
転移した美由紀は、ゲームのミユキを管理者の力で具現化させて、そこに地球の横代美由紀の意識が入った状態だったらしい。
ゲームのミユキ自体、実在したらその時点でとんでもない存在だ。現に今、地球での美由紀はその能力を使っているわけだし。
そして、管理者の三十パーセントは神の領域。そのとてつもない身体に、普通の人間の意識では耐えられないに違いなかった。
「弘一がいい加減だったから、助かったわ」
「何だよそれ。ミユキはものすごく頑張って育てたんだぜ」
「そう。それなのに、どんな女性なのか何も書かなかったでしょ?」
………。
要するに、特徴を何も書かなかったせいで、生まれた身体はほぼ地球の横代美由紀そのままだった。それが、意識を定着できた理由になったわけか。
一応言い訳させてもらうが、それはいい加減だったわけじゃない。あのゲームでは、自分の姿なんて見る機会がないし、ましてキャラの紹介文なんて披露する場もなかった。何も書かないのが普通だったのだ。
そして―――。
最後まで美由紀を悩ませた違和感。それが、こともあろうにアレだった。
「健康であってほしい。弘一からのメッセージとして受け取ったのよ」
「……何だか申し訳ない。俺の趣味嗜好がお前を苦しめたとは」
「でも良かったでしょ? より、貴方好みの私になって」
「重ね重ね申し訳ない」
何度も言うが、俺は別に、美由紀の胸が「もっと」大きくなってほしいとは思っていなかった。そうだ、キャラ設定の画面を開いた時に、病気で痩せたとつぶやいていたのを偶然思い出しただけ。元の大きさになってほしいと願っただけなのだ。
ああ、日本語は難しいな。それとも、イデワ文字に変換された時点で、意味が変わってしまったのか? それはないか。今の美由紀は、俺が書いたプロフィール通りなのは間違いないのだし。
「念のため聞くけど、女神も適用されたんだな?」
「貴方自身の反応で分かるでしょ」
「それはそうだが…」
そこにある違和感。
「日本に戻ってからは感じないな」
「あんなに抱き合ったのに?」
「……思い出させないでくれ」
「じゃあ、もうしてくれない?」
「…………する」
女神のような…という設定は、設定上はただ単に例え話でしかない。もちろんそれだけのルックスになったということだろうが、正直言えば元の美由紀と変わっていないと思う。
はっきり言うけど、本当に女神のような女だった。一緒に歩くだけで目立ちまくるのも、別にキノーワで始まった話ではない。具体性に乏しい「女神のような」が、結果として美由紀そのものとして具現化されたのは、当然のことだと思う。
ところが、そこに管理者の力が加わると、「のような」が脱落してしまう。女性の管理者の呼称として、女神はごく自然なものだ。美由紀はあの星の女神になってしまった。
で。
今は地球にいるから、女神じゃない。女神じゃない。本当のことなんだってさ。
東京を出て約五時間。俺たちは見慣れた、そして懐かしい駅に降り立った。
三年ぶりの故郷は、駅前を見渡した限り大きな変化はないが、幾つか店が入れ替わっていた。
「どっちから行った方がいいと思う? 美由紀」
「弘一の家にしたら? 貴方には辛い現実だろうけど」
「…………分かった」
来訪者となった者たちは、地球からその足跡を消されていく。美由紀が言っていたことを思い出す。
既に、俺がいなくなって四年近く経過した。
たった一ヶ月足らずで、大半の人間は俺を忘れていたという。だからもう期待はしていない。ただ、他人としてだろうと、故郷の姿を目に焼き付けたいと思った。
駅から実家までは、歩いて三十分かかる。だけど、タクシーに乗る気にはなれず、二人で歩く。
学生の俺も、金がなかったからいつも歩いていた。
もう二度と見ることもなさそうな景色。せっかくだから…、手をつないで歩く。
「あの橋、塗り直してるんだな」
「行く?」
「もちろんだ」
少し遠回りして、町を流れる川沿いの土手を歩くと、車が通れない細い橋がある。
両岸にそれぞれ高校があって、いつも朝夕は生徒が行き交う道。今は午後四時を過ぎているから、久々に見た学生服の後輩たちがちらほら見える。
そうだ。俺たちが昔着ていた制服。何も変わっていない。あの時の俺たちと。
あえて認識阻害を使わずに、橋を歩いてみる。
中央部が少しだけ高くなった橋の、その真ん中で立ち止まって下流側を見れば、何となく海を感じる。
「俺の記憶はどの程度戻ったと思う?」
「ここを憶えてるなら、大切なことはだいたい思い出したんじゃない?」
「お前の胸がしぼんだことの方が大切じゃなかったか?」
「一つでも欠けたら困るわ」
「そうだな」
高校二年の夏。俺はここで美由紀に告白した。
あの日の暑さも、海猫の鳴き声も、お前の笑顔も憶えている。
そうだ、それは確かに大切なもの。お前と俺が奪還しなければならなかった過去。
「えっ…」
そんな感傷は、あっさり壊された。
明らかに俺たちに向けられた声。振り向いてみれば、そこにはどこかで見た顔…というか、かつて担任だった先生がいる。
ものすごい顔だ。
まるでお化けでも見ているかのような。
「お久しぶりですね、松嶺先生」
「き、君は…」
「横代美由紀です。隣は小牧弘一。懐かしくなって、ここで景色を眺めているんですよ」
「そ、そうですか……。はは」
フレンドリーに会話を交わしながら、松嶺先生は青ざめた顔で立ち尽くしている。ああ、何だか四年前より生え際が後退したような気がする。ジャージの上下は何も変わってないけど。
「横代さん、君は確か」
「お墓の中に戻れと言うのなら、それは拒否します。だいいち、誰かの歌じゃないけど、あそこに私はいませんよ」
「それはいったい…」
先生はさっきから、俺には全く関心を示していない。
言いたくないけど、松嶺先生は俺のクラスの担任だった。対して美由紀は別のクラスで、教わったこともない。そりゃまぁ、美由紀は高校の有名人だったし、憶えているのは当然だと思うけどさ。
だが―――――。
思いも寄らない形で、俺たちの現状がよく分かった。
ゲームの罠にはまって連れ去られた俺は忘れ去られ、自力で無理矢理転移した美由紀は、その抜け殻となった身体が葬られた。
二人の立場は違う。ただ、どっちにしろ、もうこの町には住めないのだ。
「私と弘一は、事情があって遠くに移り住んでいます。死後の世界ではなく、別の世界に」
「そんなことが…あるだろうか」
「七年前の二年生で、私と同級生。小牧弘一は、貴方のクラスにいたんですよ」
「えっ? き、君が?」
半信半疑…というより、ほぼ疑いの目が向けられる。
なんだろう、ちょっと傷つくなぁ。そんなんだからはげるんだぜ、先生。
「彼はこの世界から消え、誰もが忘れてしまいました。だけど彼が生きていた過去は残っています。当時の名簿を見れば、小牧弘一という文字が残っているはず」
「…………信じられない」
「信じるも信じないも先生の自由ですよ。どっちにしろ、私たちは元気に暮らしています。たぶん、もうこの町に来ることはないでしょうけど。先生もお元気で」
「あ、ああ、お、お前たちも」
呆然とたたずむ先生の横を通り、俺たちは元の道に戻った。
なんだか気が抜けてしまった。
これでもう、自分の家でどういう扱いになるのか分かってしまったし。
「先生、名簿の俺を探すと思うか?」
「どうかなぁ。名前を見つけても、貴方を思い出すことはないでしょうね」
母校の前の道を通り、右折、次を左折。これも母校の小学校の前を過ぎると、いよいよ俺の実家が見えてくる。
もう既に覚悟はできている。できているさ。
「一応、私は気配を消すからね」
「ああ」
とうとう辿り着いた、自分の生まれた家の前。
玄関前の小さな庭。カリンの木、コノテガシワ、モクレン。どれも記憶とほぼ変わっていない。思わずふらふらと中に入り、ぼんやりと立ち尽くす。
「………どなた?」
ふと、声がした。
目を向けると、そこには母親がいた。まるっきり、不審者に向けられた視線。なんだろう、事前に覚悟していた空気よりはマシかな。
「すみません。立派な木が見えたのでつい…」
「そうですか」
警戒を解く感じはない。当たり前か、見知らぬ若い男が侵入しているんだからな。
俺はもう、すぐに立ち去るつもりだった。
キノーワの衛兵となり、美由紀と暮らす現在は、もう動かすことのできないもの。せめて陰ながら、できなかった別れの挨拶でもしようと思ったのだが。
「美由紀。姿を見せてくれ!」
「えっ!?」
「いいんだ、頼む」
自分がとった行動が理解できないまま、だけど時は動き出していた。
「お久しぶりです。横代美由紀です」
「え、ええ?」
母親は、今にも卒倒しそうな顔で、俺の後ろに現れた美由紀を見つめている。
よく見ると、震えている。そりゃそうだよな。
「母さん。美由紀は訳あって、今は遠くに住んでいます。そして俺も」
「…………」
「そして、赤の他人のはずの横代美由紀がなぜ家に遊びに来て、母さんと一緒にご飯を作ったのか思い出してほしい」
「………それ…は」
「忘れていても構わない。育ててもらったお礼を言いに来た。俺は小牧弘一。ここで生まれて育った、貴方の子どもだ」
「…………」
母親は唖然として、言葉もない。
そう。美由紀を憶えているなら、美由紀と一緒にいた愚息の記憶も蘇らないか、そんなことを考えた。
とはいっても、死んだはずの人間が突然現れた時点で、思考は止まってしまうんだろう。
「私たちはこれで立ち去りますが、その前に聞いてください。信じる必要はありません」
そこで美由紀が語り出した。
俺はもう何もできることもないから、黙って任せた。
「四年前、私は余命宣告を受けていました。それはご存じですよね」
「え、ええ」
「この世界の美由紀は、しばらくして亡くなったはずです。誰も気づかないうちに」
「………そう聞きました」
「私は別の世界に、別の身体で移り住みました。それが今目の前にいる、死んだはずの横代美由紀です。そして、私が移り住んだ理由は、小牧弘一、貴方の息子で私の恋人だった人が、その世界に連れ去られたからです。連れ去られた弘一のことを、みんな忘れてしまいました。だけどこうして彼も元気でいます」
一気にまくし立てた美由紀。
無茶苦茶過ぎて、きっと相槌なんて返って来ないと分かっているからなんだろう。
「そんなわけで、お騒がせしました。できれば思い出してほしいけど、貴方のご恩は忘れません。ありがとうございました、お母さん」
結局、俺も言いたいことだけ言って、そのまま後ろを向いて出て行くしかなかった。
ああ何だろう、やっぱり楽しくないよな。実家がなくなるって。
…………。
どうにかして、ここにいた痕跡を取り戻せないのか。そのためには、また地球に来る機会が必要だけど、そんなことができるのか。これからキノーワに戻ることができるかすら、確実ではないのに。
その後、美由紀の家にも行った。
突然現れた娘に、両親は取り乱していた。
「この世界の私の身体はもうないけれど、私はこうして生きています。親不孝な娘でごめんなさい。だけど今は弘一と一緒、幸せです」
「………幽霊、ではないの?」
「幽霊よりわけ分からない状況で、お盆だからって会いに来れるほど近くにはいない。でも、また会えたらいいなと思います」
「そう…」
そのまま、何となくリビングで茶を飲んだ。
そこには小さな仏壇があり、「生前の」美由紀の写真が飾ってある。こんな仏壇は見たことがないから、彼女の死後に買ったのだろう。
その仏壇に、意味もなく手を合わせる本人。両親は、元気な頃のままの姿で現れた娘に、明らかに混乱していたが、泣いてもいた。
無茶苦茶な状況でも、記憶に残っているっていいもんだな。というか、居心地悪いな。俺は亡霊なのか、ただの怪しい男なのか分かりかねている。
「弘一さん? 貴方も美由紀と一緒に…」
「思い出してもらえないでしょうが、何度もお邪魔しています。今はこの世界から忘れ去られていますが、美由紀とは再会できました。あの…」
「………なんでしょうか」
「美由紀は俺が幸せにします。いや、もうしています。どうかご心配なく!」
真っ赤になりながら一気に言い切った。どうせ俺は「いない」男、勝手に言いたいことだけ叫んでも構わないよな。
美由紀の両親はぽかんとしている。そりゃそうか。死んだ娘を幸せにするって、冗談にしかならないか。
「お父さん、お母さん。今日はありがとう。あの時は突然死んだはずだから、お礼が言えて良かった」
「あ、ああ。私たちは心配ない。どうか成仏しておくれ」
「成仏はしないわ。死んでないもの」
「…………」
にっこり笑う美由紀。その瞬間、少しだけ空気が変わった気がする。
まさか魅了の気が効いた? いや、地球ではほとんど放出されていないはずだが。
「墓に納まったのは、二十歳までの私。拝んでくれるのは構いませんが、私は生きてます。どうかお身体に気をつけて」
手を振って、颯爽と歩いて行く美由紀。仕方がないので、俺もぺこりと頭を下げて、彼女の後を追った。
何だろう。とりあえず、美由紀と口喧嘩したら勝てないだろう…と、どうでもいい感想しか浮かんで来なかった。
「今晩のうちに町を離れていい?」
「ああ。…長居するのが辛いからな」
「お互い、ね」
美由紀の墓がある寺までは、瞬間移動を使う。勝手知ったる故郷だから、どこに何があるかぐらい分かる。
そして、横代家の墓の前に立つ。
ま新しい石版に、物故者の名前が彫ってある。一番端にあるのが美由紀だった。
「こんな石版なかったわ。私の時に買わされたのね、きっと」
「お前の名前を遺したかったんだろうな」
「消しておく?」
「その判断は任せる。両親には伝えたんだし」
結局、苦笑した美由紀は、石版をそのまま残した。魂が抜け出た身体は、確かに焼却された。それは事実なのだから、拝みたければ拝めばいい、と。
「私がここで生まれ育った記念碑だと思えばいいし」
「俺なんか何もないからな」
「今はそうね」
さっさと寺を後にして、そのまま駅に戻る。
辛うじて残っていた特急で、行けるところまで行った。
そして、見知らぬ街の公園にテントを張った。ホテルに不正宿泊する気にもならないし、ゲームのアイテムとして手に入れた超高級テントは、簡易ベッド付きの高級仕様だったから問題ない。
ゲームのテントの背後に、よくある郊外の風景。その非日常を堪能することもなく、ベッドに潜る。ちなみにベッドは狭いシングルが二つ。さすがに一緒に寝るのは無理だ。その代わりに、眠るまでは手をつないだ。
「目標が出来た。お前も、だろ?」
「そうね」
日本で暮らした過去は、もう夢物語の世界。それぐらい遠い昔のことのような気がしていたのに、いざ帰ってみれば、違う感想も浮かんでくる。
忘れ去られたままで良かったのか。
死んだままで良かったのか。
俺たちが日本から消えた事情は違うけれど、このままで良かったのか。心は揺れ動く。
もちろん、俺たちはキノーワに帰れるという保証もない状況。それなのに、再び故郷を往復する計画を立てるなんてバカげている。
だけど、こればかりは理詰めで動けるわけがないんだ。
翌日。
当初は三日間を想定していた日程を圧縮して、今夜帰還することに決めた。
管理者の力は、日に日に弱まるという。自覚するほどの変化はないと言うが、元からギリギリの力なのだから、滞在時間は短い方がいい。
というわけで、朝一番の特急から新幹線に乗り継ぎ、再び東京駅に降りた。
「今日はお前の能力頼みだ。よろしく」
「昨日もそうだった気がするけど」
今日の予定は、これからのための投資だ。
せっかく日本にいるのだから、サンプルとしていろいろ持ち帰りたい。
向こうの世界と地球は、単に科学技術の水準が違うだけではない。だから、日本のものをただ持ち込んだからといって、劇的に何かが変わることはないだろう。それに、異世界のものを持ち込めるという事実は、伏せておきたい。
しかし、研究材料として、そのためのサンプルとして、現物があってほしい。俺たち自身はただの大学生でしかなかったわけで、何かの専門家にはなれないからな。
とはいえ、異世界人となった俺たちが、日本で買い物をするのはそれほど簡単ではない。
まずは金を用意しなければならない。美由紀のカバンには大量の金が入っているが、イデワの通貨とゲーム内通貨ばかりで、日本の金はない。偽造しても逃げ切れるけど、購入先を困らせたくはない。銀行から盗んでも同じ結果になる。
そこで事前に用意したもの。大量の金の延べ棒だ。
ゲーム内通貨の「金貨」は、ちゃんと純金だった。俺がミユキを操ってため込んだ金で、ゲーム内では何の役にも立たなかったが、ミユキと共に実体化したそれは、少なくとも立派な素材だ。
それを、日本で売れるよう延べ棒に成型する。美由紀が魔法を使えば一瞬で出来たので、今からそれを換金することになる。
ついでに、プラチナ貨もあったので、それも成型しておいた。プラチナ貨は、イベントでしか配布されないレアな貨幣だった。そうだ、伯爵令嬢イベントとか! 今ごろ思い出してしまった。
ちなみにそれは、特定の令嬢を何日かにわたって目撃するとヒントが与えられ、秘密の洞窟でお宝発見という流れだったはず。そうだ、だからイズミが遭ったように、呼び出されたりはしない。その代わり、伯爵邱ならその敷地まで入り込み、屋敷内をうろつく姿を覗き見するのだ。うむ、正直言えば、呼び出すより酷い。
そしてお宝は………、何度目かの目玉アイテムが「超レアな短剣」で、多くの同志が脱落したらしい。いや、それ以外のお宝も、ゲーム内では使う機会がなかったし、末期は同じイベントの繰り返しになり、超レアが溢れかえっていた。
プラチナ貨も、イベント時のショップでしか使えない上に、売っているのはすべて大量に所持しているものばかり。いやー、思い出すほどに自己嫌悪に陥るなぁ。
なお「超レアな短剣」は、ファンタジーものでありがちな「ミスリル製」だった。
で、それも実体化したので、念のために取りだしてみたけれど、何の素材なのか分からず。架空の物質の扱いは謎のままだが、とりあえずそれを売るわけにはいかないので、泣く泣く延べ棒化を断念した。
というか、架空の金属が現れたら、地球ではどう処理するのだろうか。本音を言えば、あえて残して行き、分析された結果を知りたい。だけど、地球にもう一度戻れる保証は何もないわけだし…と、話が逸れた。
「貴方も一つは分担してほしいわ」
「無茶なこと言わないでくれ」
そうして、金を扱う店に行く。
もちろん、二人には身分証明もない。なので対面で美由紀が相手を操り、通常の売買が行われたように操作する。出所不明の怪しい金塊だから、買い取り額は安めに設定して、それでも五箇所ほどまわって大金を手にすることに成功した。
申し訳ないが、異世界の未来のためだ。延べ棒の品質は問題ない…というか、美由紀が魔法で精錬したから、地球上のどの延べ棒よりも純金だから許してくれ。
続いて、古書店に行く。新刊より足がつきにくいし、安く手に入るかも知れないという理由だ。
購入したのは、まずは辞典類。専門書も手当たり次第に買い漁る。古書街を一時間ほどまわって、あっという間に一千万は使った。とんでもないお大尽だ。
購入した書籍は、その場で美由紀のカバンにつっこむから、店主にはそれを不審に思わない程度の暗示をかけた。そもそも、常軌を逸した大量購入を、そこら中で繰り返している時点で、騒ぎになるのは当然だ。だから今日の俺たちは、最初から最後まで誰かを操り続けるしかない。
その後、やはり不安になったので新刊書店にも行って、ここでも爆買いした。そもそも、俺たちには専門書の質を判定できないから、なるべく大量に買って、数打ちゃ当たる作戦だ。
昼までにそれらを終え、昼飯のついでにスーパーに入って、そこでも爆買いだ。サンプルとして向こうに持ち込む形になる。
食べ物を一つずつ買ってもしょうがないと思うだろうが、キノーワに戻ってしまえばこっちのもの。超常の力を使って、コピーすることができる。ともかく爆買い爆買い。カバンの容量はたぶん無制限だから、何でも買ってしまえ。
午後は電化製品を大量購入、さらに中古の工作機械なども見てまわる。
結局、途中で金が足りなくなって、また換金。延べ棒は腐るほどある。後日、相場が大きく崩れるだろうが、その辺は異世界の未来のためなので許してくれ。さっきも同じこと言った気がするぞ。
最後に中古車を数台、バイク、自転車と一通り入手。太陽光発電の機材も手に入れた。
「で、最後の最後にここなの?」
「サンプルは必要だろ?」
日も暮れかかった頃、貨物駅の外れに二人はいた。
そこにあったのは、解体を待つ鉄道の廃車体。さすがに現役車輌はおいそれと買えないが、この辺ならごまかしようもあるだろうとやってきた。
そこで、電気機関車、ディーゼル機関車、貨車に、電車数輌。カバンには、入れと念じれば巨大な車体すら一瞬で吸い込まれる。真面目な話、このカバンが具現化しなければ、ほとんど何もできなかっただろう。
多少の現金が残ったので、最後は郊外のホームセンターに行く。
主に工具を調達する予定が、植物の苗や種子、おもちゃ、洗剤、時計、手当たり次第に買い漁ってしまう。これで最後だと思ったら、金魚の餌まで買っていた。まぁ何がどう役に立つか分からないからな。
午後八時ぐらい、お店の営業終了で、こちらもすべて終了となった。
名残惜しいといえば惜しいが、帰れなければ意味はない。それに、無茶な爆買いが方々に影響を及ぼすことを考えると、何日にもわたって買い続ける気にはなれなかった。
「それで、どこから戻るんだ?」
「とりあえず、この住所に行ってみる。貴方にとっては嫌な思い出の場所」
「ああ、なるほど」
戻るために最適の場所はどこか。そこで思い当たるのは一つしかない。そう、ゲーム内で誘導していた、転移の場所だ。
東京の郊外。築二十年のマンションの一室に、びっしりと呪具が取りつけられている。入って見ると、うっすらと記憶が蘇る。嫌な記憶だ。
今にして思えば、なぜここに来ようと思ったのか全く理解できない。恐らくは、一定の基準を満たした者を、管理者の力で操っていたのだろう。それでも、抵抗できた人はいたようだし、当時の自分が情けなくなる。
「美由紀の見立てでは、ここを使う価値はありそうなのか?」
「呪具はほとんど役に立たないと思うけど、魔法陣は使えそうね。……それに、ここは部屋自体の存在が消されているから、もしも次があった時にも使えそう」
部屋が消されているというのは、魔法によるものではない。玄関扉が壁で物理的に隠されていて、どうやら表向きは存在しないことになっている。管理者の力で、その時だけ扉を見せていたようだ。
部屋自体も異様に狭い。ビルを支える柱の周囲にできた、すき間を使っている。どっちにしろ、隠され続けるのなら都合がいいのは確かだろう。
「じゃあ、さっそく始めるわ。いつどうなるか分からないから、貴方も魔法陣の中にいてね」
「うん。よろしく頼む、美由紀」
美由紀の両手は空けておきたいので、仕方なく俺は彼女の腰に手をまわす。正直、密着した気恥ずかしさよりも、帰還できるかどうかの緊張の方が大きい。
「管理者、聞こえる?」
「………美由紀ですか。聞こえます」
「もう帰れるけど、どうしたらいい?」
「分かりました。こちらから力を流します」
とりあえず通信はできたようで、やがて部屋の魔法陣が光り出した。
そして数分。
光ってはいるが、どうも力が足りていないようだ。
「管理者。それで手一杯なの?」
「そちらに着くまでに、かなり弱まっているのでしょう」
「シンクロもうまく行かないわね」
美由紀は相当に頑張っている。しかし、どうやら帰還にはまだ足りていない。
何もできない俺がもどかしい。
ああ、もうここで暮らすしかないのだろうか。
「管理者。貴方の力を返すわ。それでシンクロして」
「そ、そんなことが…」
その時、美由紀がとんでもないことを言い出す。
返す?
お前はそれで生き延びたというのに? 押し留めようとする俺の手を、ちぎれそうなぐらい強く握る美由紀。
そして、女神の笑顔。
信じろ。そう言うのか?
お前を?
…………。
―――――――――そうか、お前を。
「私を誰だと思っているの?」
美由紀は不敵な笑いとともに、何かをした。
次の瞬間、美由紀の横に強烈な光が現れる。
お前は自分を解体したんだな、美由紀。
だけど、今度は信じるぜ。
そう。あの時、ほんの一瞬の気の迷いにつけ込まれて、俺は取り返しのつかないことをした。だから、今度は。
光はさらに強まっていく。
そして真っ白になって……、そのまま気を失った。
「お姉様! 弘一! 起きて!!」
「…………ん」
目を開くと、ぼろぼろ泣きじゃくった女の顔。
ああ、何だよ、口の悪い伯爵令嬢じゃないか。
はは、は。
「弘一!」
「おう。ただいま、イズミ」
そう口にして、ふと横を見た。
美由紀はまだ――――、目を覚ましていない。
「そろそろ起きろよ、美由紀。帰れたぞ、俺たちは」
声を掛けてみるが、返事はない。
はっとして、彼女の手を取る。
……………。
脈はある。
「お姉様、いったいどうしてしまったのでしょう」
不安そうなイズミの横顔を見ながら、考える。
いや、理由なんて最初から分かりきっている。まだ目を覚まさない理由なんて。
「管理者。俺たちは帰ってきた。ゲームの残骸は無事に発見して処理を終えた。協力に感謝する」
「……小牧弘一。こちらこそ感謝します」
「それで…」
のっそりと立ち上がる。
身体の節々が痛い。墜落したのかというぐらいに。
「あの力はどうなったんだ?」
「…………」
「戻してくれ。管理者、美由紀はこの星の大切な存在だ。お前もそう思うだろう?」
「……………」
しばらく、互いに無言だった。
やがて。
「ここにあります。戻せるものかは、私の理解を超えます」
横たわる美由紀の上に出現した光。俺は乱暴に美由紀の身体を抱き起こし、その光にぶつけた。
光は身体の中に消えた。
……………。
やがて美由紀の身体が動く。
目が開かないまま、もがくように身体が動く。
そして―――――。
ゆっくり、まぶたが動いた。
その瞳は、隣で泣きじゃくるイズミの方を向き、そして微笑みながらこちらを見つめた。
「大好きよ、弘一」
「俺もお前が大好きだ、美由紀」
お前と俺は帰ってきた。
そして二人はたぶん、「奪還」した。
※次で第六章は終わります。不満はいろいろあるけれど、ここまで書けてほっとした。




