四十三 市中引き回しと「カレー」屋台
「次は屋台。ここは衛兵のお兄さんにお任せしていい?」
「え? ああ、まぁ。連れていくだけなら」
町歩き初心者イズミ、市中引き回しの刑が再開される。
屋台街は学園から南東方向にあたり、距離もある。もう一度ラヒータ地区を通り抜けるのも嫌なので、中央広場を通って行くことにした。
「イズミ、この広場は太郎兵衛広場…」
「改名されました。キノーワ中央広場です!」
老若男女の注目を一身に浴びながら、スカートを靡かせて歩く女子二名。まさかこんな色気のない会話を楽しんでいるとは思うまい。
広場が現在の形に整備された時に、町の代表だった太郎兵衛さんを記念して命名された。それは歴史上の事実。それほどにキノーワでは人気者だったわけだ…が、その熱狂が醒めるにつれて、これでいいのかという議論が広がっていった。太郎兵衛さん本人も、恥ずかしくなって改名に同意したらしい。
恥ずかしくなって!
アラシは恥ずかしくないのかとツッコミを入れずにはいられない。
「あれには挨拶するのか?」
「石でも投げればいいのよ。いい的になるし」
例の噴水の前も通過したが、もちろん無視。無視だから石も投げないぞ。
というか、話しかけない時は、向こう――管理者――はどうしているのだろう? いつでもしゃべれるように、二十四時間待機している? いろいろ謎だけど、特に真相が知りたいわけではない。
イズミは表情も明るくなって、美由紀と手をつなぎながら景色を楽しんでいる。辛うじて膝が隠れる程度の短すぎるスカートも、だんだん気にならなくなった様子だ。
そんな絶世の美女二人と一緒に歩く俺も、二人の見た目には慣れた。ただし、街の視線に晒されていることには変わりがない。どうせなら衛兵の制服を着て、護衛のふりでもした方が良かったな。
残念ながら、非番の日に制服を着ることは禁止されているし、却ってイズミの素性がばれる可能性もあるし、世の中はなかなか思い通りにはいかないものだ。いや、素性は別にばれても構わないんだけどさ。どうせ学校に通うわけだし。
「弘一、まっすぐ進むのが近道だと思うけど」
「ん? え? ………あぁ、その、路地裏には発見が溢れている、とか」
「さぁイズミ! 職場見学よ」
「は、はい」
「……………」
ラヒータを避け、シラハタの屋敷前を通るのも避けて屋台街へ向かう。罠を避けながら迷路を進むような作業には、もう一つの大きな罠があった。
幸い、俺はこの辺の地理には明るいから、すり抜けるように進む道筋を知っている。当然、そのように誘導するつもりだったが、同行者は罠を罠だと思っていないという深刻な行き違いがあったわけだ。
「こんにちは! 今日もお仕事ご苦労さまです」
「こ、こ、これはヨコダイ様! と……」
「はじめまして。モリーク家のイズミと申します」
「は、は、伯爵家の? よ、よ、よくいらっしゃいましたっ!」
着いてしまった。
ワイトさんの挙動不審は相変わらず面白いが、なぜこんな難易度の高い場所ばかりまわるんだ。まぁ、最初の冒険職事務所に比べれば、ここはマシな方だと思う…よな? 自分の職場が、まさかあの魔境より酷いってことはない。ないんじゃないかな。
「カワモ。中身はあれだが、これが本物の伯爵令嬢だ」
「は、はじっめまして! コーイチの同僚のカワモっです!」
「イズミです。………同僚がこんな失礼な男では、きっと気苦労が絶えないでしょう。お疲れさまですわ」
仕方ないのでカワモには紹介した。これで御令嬢への幻想が解ければ上々だが、奴の目はイズミに釘付けだった。
うむ、見た目に騙されている。騙されているぞ。
今日のイズミは御令嬢の衣装ではないし、いつも通りに口も悪い。少なくとも、カワモの理想には程遠いはずなのに、この顔はダメなやつだ。
「ああなんて高貴で美しいお方なんだ」
「お前の二つの目はどうなってるんだ?」
「俺の瞳はいつだって真実を見抜くのさ」
…………それ以上ツッコむ気にもなれず。
どっちにしろ、俺は非番で皆さんは仕事中。そして午後の門番は忙しいので、簡単な挨拶で終わった。地獄のような時間が短く済んだのはありがたいが、明日以降が思いやられるな。
そうして、ようやく屋台街だ。
なんだろう。気分的には、王都に行くより長い旅路に思えた。
「イズミは記憶にないだろうが、何度もここに来てるぞ」
「嫌なことを思い出させないで。覚えてないけど」
……また余計なことを言ってしまった。
イズミの声はふざけた調子だったが、だから許されるわけでもない。
「悪かったな」
「別に構わないわよ。…これも、あの日の記憶を取り戻すようなものじゃないかしら」
「ふふ。イズミは負けず嫌いね」
「お姉様。…ふかふかです」
「それは関係ないし、頼むから実況するなよ」
傷ついたイズミは、美由紀と往来で抱き合って、アレに埋まりながら匂いを嗅ぐ。せっかくの格好いい台詞が台無しだ。というか、周囲の目線が痛い。
飯時を外れているから、屋台街は半分も営業していない。なので人通りも大したことはないが、それでも目立つ。いくら気配を消そうが目立つ。
出掛ける前はあれだけ恥ずかしがっていたのに、イズミの羞恥心はどこに落としてきたんだ。
「そ、それはそうと、イズミの記憶の件もあれに任せてみるのか?」
「あんな奴、信用しちゃダメよ」
「お前がそう言うのは分かったから。イズミは…」
「必要ないですわ。その日の行動はお姉様に教えていただいたし、あれ以上取り戻したい記憶でもありませんし…」
まぁそれもそうか…と気を取りなおして周囲を見渡すと、見たことのない屋台が前方にあった。
何だか不思議な香りが漂う…。
「貴方、どこから来たの? カバルガかしら」
「お、お姉さん。なぜそれが分かったんですか?」
「数年前、そこの屋台で食べたことがあるわ」
「おう、じゃあ師匠の味をご存じですか! これは驚いた、まさかこんな遠くで」
………。
気がつけば、美由紀がその謎の屋台の人と話し込んでいた。
取り残された二人は、どうしたものかと周囲をきょろきょろ見まわすしかない。
「カレーってのが名前なのか? イズミは知っていたり?」
「するわけないでしょう? まったく、衛兵のくせに屋台の料理も知らないなんて」
「いや、この店は見たことないから」
やがて、何か話がついたらしく、美由紀がそのカレーというものを一つ注文した。
で、出されたのはご飯に黄色っぽいものがかかったやつ。うむ。何だろう、とても思い出したくない何かを連想させる。
イズミの方を向いたら、目が合って互いに苦笑した。恐らく同じものを連想したのだろうが、キノーワの衛兵はそこで名前を出すほど愚か者ではない。
「食べてみる? うんちみたいだけど」
「お姉様!」
「思っても口にするなよ」
せっかくの紳士淑女の配慮が台無しだ。というか、食わせる気ないだろお前。
唖然としたイズミの目の前で、美由紀は匙を使い、平然とその排泄物に似たものを口に運んだ。
「ねぇ、本当にあの師匠がこの味で作ったの? あのつるつる頭のおじさんが」
「も、もちろんです。俺も最初は見た目で敬遠してましたが、食べたらこれがうまいのなんのって」
「へぇー。たいした料理人だったのね。ということでイズミから」
「わ、私が先ですか!?」
「弘一がぺろぺろなめた匙を使いたい?」
「もう一つ借りればいいだろ!」
ものすごい表情のイズミ。前にしているのは、あれに似た食べ物。町歩きとはこうも厳しいものなのか。
やがて深呼吸を三回して、意を決したイズミは、豪快に匙で掬って口に放り込んだ。ああ、次は俺か…。
「え? おいしい?」
「なぜ疑問形?」
「えぇ、だってその…」
「言っておくけど、黄色く染まる香辛料が使われてるだけよ。もう分かったでしょ?」
「はい! 何だか不思議な味ですけど、とてもおいしいですわ」
まさかのイズミ陥落だった。冗談のような展開に困惑を隠しきれない衛兵は、周囲の圧力に負けてとうとう謎の物体を口に運ぶことになったのである。
「あれ? なんだ、普通にうまいな」
「当たり前じゃない。貴方がバカみたいに食べまくってた料理よ。これはまだスパイスの配合が甘い気がするけど、ここまで変われば売り物になるわ」
「はぁ? 俺がバカ………って」
その先は口に出せない。というか、美由紀も不用意すぎるだろ。幸い、店のにいちゃんには聞こえていなかったようだが。
そうか。
これは来訪者が持ち込んだ料理なのか。
イズミと顔を見合わせる。やはり、今の美由紀の言葉で悟ったらしく、神妙な表情で、しかし匙を動かしている。食うなよ。さっき昼飯食ったばかりだろうに。
「しばらくはここでやろうと思います。その…、どうしても見た目のせいで最初は客がつかないので、できれば宣伝してくだされば」
「衛兵には明日伝わるわ。大丈夫、貴方ならやれる!」
「あ、ありがとうございます。こんな女神のような方に褒めていただけるとは感謝感激です」
勝手に俺の仕事を増やすなよ、と言いたいが、まぁ普通に伝えるだろうな。うまかったし。
まぁしかし、それはそれ。
俺たちは美由紀に聞かなければならない。女神のような方だってさ。
結局、屋台街からはどこにも寄らず、屋敷に戻ることにした。ただし、まっすぐ進むと伯爵邱の前を通ってしまうので、裏路地を使って迂回する。
これも一つの町歩き。薄暗い路地に、イズミは最初は落ち着かない様子だったが、民家の塀に座っている野獣――猫ともいう――を見つけたり、それなりに楽しんでいた。
「こういう路地は、一人で出歩くのはやめた方がいいぞ」
「そうでしょうね。ああ、今日は衛兵の護衛付きだから安心だわ」
「どんな時でもイヤミだけは忘れない女だな。お祖父さんに叱られなかったのか?」
「お祖父様がどれだけ口の悪い人だったか! 貴方にも味わわせてあげたかったわ」
「なるほど、英才教育の結果というわけだ」
これでは茶飲み話と一緒じゃないか。もう少し年相応の女の子っぽい話題はないのか…と思ってみたが、この顔ぶれでは無理だな。
まぁ今日は栄えある第一歩。とりあえず、三人でなら出掛けても問題はなさそうだ。美由紀がいない時にどうなるかだけは心配だが。
「ルミアちゃん、こんにちは。カタヤ君はいないの?」
屋敷に戻ると、庭で女の子が一人で砂遊びをしていた。さっきの路地の家の子だったはず。
それはいいけど、美由紀の質問が…。
「こ、こ、こんにちは! ミ、ミユキ様、あの、カタヤ君は親の手伝いしてます。もうすぐ来ると思います」
「へー、子どもなのに感心ね。早く来たらいいわね。後でお菓子あげるからいらっしゃい」
「あ、ありがとうございます!」
獅子は子を千尋の谷から突き落とすというが、美由紀はあれだよな、この幼い子ですら男友だちと仲良くしているのにと、イズミに見せつけているに違いない。
現にイズミは俺の隣で愛想笑い、しかしどう見てもひきつった顔。俺がなぐさめても逆効果だし、まぁ軽く打ちのめされてくれ。
…もうすぐ学生になって、男友だちが俺一人という異常事態も脱出できるんだから、同情する必要はない。友人が増えたら増えたで、父の伯爵がうろたえる機会も増えるだろうが、それは伯爵家の事情。
美由紀の言う通り、イズミはこの町の代表として活躍するはずだ。伯爵家の跡取りはもちろん長兄だけど、太郎兵衛さんの後継者が学園関係を抑えれば、十分に対抗できる。あぁ、別に対抗はしないか。
ちなみに、我が家の門は一応、今は閉まっている。放置された空家のようだと、シラハタ地区の他の貴族から苦情が来たらしい。
どう見ても難癖の類だが、美由紀はこの町の新参だし、伯爵家の人間が表からも出入りするので、その辺は妥協した。
とはいえ、門番はいない。手のひらをかざせば開くという、特殊な呪具を設置した。いや、設置したという形にしただけで、実際には今まで通り美由紀の結界魔法を使っている。
ここで遊んでいる子どもたちだけでなく、子どもは誰でも入れるようにしてある。難癖をつけた貴族が扉に触れると、死なない程度に痺れると美由紀は笑っていたが、その辺は確かめていないので分からない。まぁ、貴族が直接自分で扉を開けることはないはず。
「あ、そうそうルミアちゃん。この人は知ってる?」
「え、えーと、あの……………。も、もしかして、お、お嬢様ですか!?」
「ええ?」
「そうよ。彼女とも仲良くしてね」
まさかの関係だった。ルミアの両親は、伯爵家で働いている身。突然のお嬢様呼ばわりには、さすがのお嬢様もびっくりだ。ああ、何だか馬鹿にしたような響きになってしまう。
考えてみれば、貴族の屋敷が並ぶ裏の路地なのだ。使用人たちが暮らしているのは、むしろ当然だった。
そして――――。
伯爵家の使用人は、コーデンさん以外はちらっと眺めたぐらいしかないが、基本的に美男美女を揃えていた記憶がある。イズミの事件の最初の打ち合わせの時、居心地が悪かった理由の一部だった。まぁ、伯爵家にいる時点で居心地は最悪だったから、あの場では些細な問題だったが。
ルミアは確か八歳。まだ子どもだけど、顔立ちははっきりしている。考えてみたら、ここで遊んでいる子は、だいたい将来有望か。みんな礼儀正しいのも、そういう教育は受けているんだろう。
「お姉様には、思った以上にいろいろお世話になっているのですね」
「伯爵家のためにしてるわけじゃないわ。この町は遊び場が少ないから提供してるだけ。どうせ使ってもいない庭だし」
「仕事から帰るたびに遊具が増えてる気がするけどな」
「気のせいでしょ」
「東屋の位置が変わってたよな」
「気のせいでしょ」
目の前の東屋は、ウミーヤ子爵が屋敷の裏の庭に建てたものだった。それがある朝目が覚めたら、表に移動していた。
他にも、昨日までなかった木が聳えていたり、非常識な出来事が当たり前のように起きる家だけど、子どもたちは気にする様子もない。子どもだから無頓着なのか、子どもなりに美由紀という怪人を理解した結果なのかは定かでない。
「今日はいろいろありましたが…………、ありがとうございました」
「いいのよ、可愛いイズミのためだもの」
「ものすごく長いためがあったと思うが、そこは無視するなよ、美由紀」
屋敷に戻ってお茶を飲む。向かいに座っている御令嬢が、何歳か歳をくったみたいな表情でため息をついているが、主犯格の女は特に反応しない。
もっとも、疲れはしただろうが、イズミがガチガチに緊張していたのは最初だけ。少なくとも、南門でカワモに会った頃には落ちついていた。突然現れた美女二人は、その格好を目に焼き付けたいという性的な視線にも晒されたし、イズミも十分それは分かっていたと思うが、取り乱すこともなく耐えてみせた。大したものだと素直に称賛したくなる。
誰でもできることだって?
今朝まではそう思っていたが、ちょっと認識を改めたのは事実。
キノーワで二番手を争う容姿で、アレも大きくて、伯爵令嬢という身分もある。今日に至っては、膝下の生脚を露出する、相当に際どい格好だった。そんな今のイズミが一人で町を歩いて、無事に戻ってくる保証はない。そういう心配が要らない美由紀が異常なのだ。
「とりあえず、今後も考えたら、もう少し地味な服装が必要だな。まさか毎日、美由紀が付き添うわけじゃないだろ? それとも馬車で行くのか?」
「お父様は馬車とおっしゃってますが、それはさすがに…」
「一応禁止はされてないと聞いたけど、目立つでしょうねー。あと、人車もあるけど」
「ああ…」
「人車ねぇ」
伯爵家は馬車を所有しているから、もちろん使えなくはないが、大袈裟過ぎると及び腰のようだ。
で、人車。これは三輪の一人乗りで、文字通り人が引っ張るもの。この辺はほとんど走っていないが、頼めば運んでくれるだろう。ただ…。
「人車は護衛の代わりにはならないぞ」
「大丈夫。私が何とかするから」
「何とかって、どういうことだよ」
「貴方を護るみたいにすればいいでしょ?」
「…………」
それを言われると、返す言葉がない。いや、俺が危険にさらされるといえば、せいぜい管理者に対面した時ぐらいだと思うけど。
ともかく、イズミの通学問題は、伯爵を交えて相談することになった。俺はもちろん参加しない。
あの伯爵に、その場にいなくとも美由紀が護るから安心ですよと、理解してもらうのは難しい。少なくとも伯爵は、我が家のがら空きの門を気にしていた一人なのだ。美由紀がその能力を見せつければ納得するだろうが、それは別の意味でまずいし。
どうにかして、形式的にイズミが護られている状態を作るしかないだろう。
「ということで美由紀」
「何? 愛の告白? イズミが見てるのに大胆ね」
「先ほどのカレーというものについて聞かせてくれ」
美由紀の世迷言を華麗にすり抜け、話題を変える。
あの屋台は、情報が多すぎた。
来訪者が関与したらしい食べ物。そして、イデワにやって来る前の美由紀。どれも見過ごせる内容ではなかった。
「イズミも聞きたい?」
「お姉様の昔の話、聞かせてください」
「あら、人気者は大変だなー」
おどけて見せても効果はないぞ、美由紀。どう考えたって、お前は人気者だ。
美由紀はまず、カバルガという町について話し始めた。その町はテルネイ王国の首都で、一応は俺もイズミも名前は知っている。ただ、テルネイ王国はイデワと接していないから、どんな町なのかは全く知らない。ちなみにテルネイは、五段認定の四ヶ国でもない。
キノーワからは、北東の山岳地帯を越える街道を通って、まず隣国のショーカに入国する。さらにショーカ国内を東の果てまで進んだ先に、ようやくテルネイとの国境がある。キノーワで生まれ育った人間には何の縁もなさそうだが、美由紀はそこにしばらく滞在していたという。
「理由は…、そんな特別なものじゃないわ」
「修行するわけはないか」
「貴方を探すために放浪していたの、弘一」
「急に目を輝かせるなよ、嘘くさくなる」
美由紀はテルネイ王国よりさらに遠い国に、放り出されていたらしい。
そこから方々を移動した理由が、俺を探すためだったというのは、半分は事実なんだろうから何も言えない。とはいえ、手がかりもない状態でなぜイデワの方向に進んだのかは謎だ。野生の勘というやつか?
ともかく、カバルガではただの旅人として滞在した美由紀。その町の広場に並ぶ屋台に、カレーと書かれた文字を見つけた瞬間は、彼女にとってはこの世界で最初の衝撃だったらしい。
「その晩は眠れなかった。貴方がどんな状態でここに連れて来られたのか、初めて予想できたから」
「記憶がなくなってる、ということか」
「お姉様はそんな大変な目に遭われていたんですね」
カバルガのカレー屋台。そこに立っているハゲ頭のオッサンは、四十歳ぐらいの来訪者だった。なぜ分かったかと言うと、美由紀の探知能力で、来訪者と探知されたからだという。そんなことを探知できるなんて初耳だった。
「ちなみに、俺は?」
「ばっちり来訪者。あとは美由紀を愛する者」
「ならお前は、隙あらば嘘を混ぜてくる女とでも表示されるのか?」
「自分は自分でした、ざんねーん」
「あの…、さすがに見ているこちらが恥ずかしいです、お姉様」
すみません話が逸れましたね!
ともかくカバルガで、来訪者が俺以外にも複数いることを美由紀は確認した。そして、最初に出会った来訪者が、過去の記憶をほとんど失っていることも知った。
なぜかって?
カレーという料理名は、間違いなく来訪者が伝えたもの。そして見た目――あの排泄物風の見た目――もカレーに似ていた。しかし、その味は似ても似つかぬものだったらしい。
「この世界に来て初めて、吐きたくなった食べ物よ。見た目とは無関係で」
「さっきの味とは違うのか?」
「全然違う。確か、塩とハチミツで味付けされてた」
「……想像のつかない食べ物ですわ」
さっきのカレーは辛かったが、あれは唐辛子を入れたらどうかと、美由紀が伝えた結果だという。
ケーホに比べればマシとはいえ、美由紀はカレーの専門家でもない。だから、記憶にある調味料を幾つか伝えた。それとなく、だ。
「そのオッサンは、自分が来訪者だと気づいていたわけじゃないんだな」
「カレーという名前は、ご飯にかける黄色の食べ物が頭に浮かんだ時に、一緒にひらめいたんだって。逆立ちでもしたのかもね」
「お前が何を言いたいのか分からないが、異世界の記憶だとも認識しなかったのか」
「すると思う?」
「弘一ならどうかしら?」
「するわけないな」
当然だが、異世界からやって来たという前提が荒唐無稽過ぎる。俺みたいに、毎日至近距離から連呼されたって自覚しないんだ。条件が違うとはいえ、太郎兵衛さんがあり得ないのだ。
ともかく、オッサンの記憶は酷く曖昧で、そして一番重要な部分が抜け落ちていた。材料も調理法も味も分からない食べ物。普通の人間なら、仮に思いついてもそこで終わりだ。クソマズ料理で屋台を始めるなんて、いかれてるとしか言いようがない。
…………が。
太郎兵衛さんのケーホと、そこだけは似ているのかも知れない。
きっとオッサンは、ものすごく好きだったんだろう。ほとんど記憶が消えた状態ですら、強迫観念として残存するほどに。
「で、弘一。貴方は思い出した?」
「…何を?」
「貴方もかなーり、カレー好きだったけど」
「知らないぞ。だいたい、何度も食べたくなる味だったか?」
「ああ、なるほどね」
そうして、何か悲しそうな顔をする美由紀。まずいことを言ったからだって? 残念ながら違う。あからさまにこういう表情の時は、だいたい何か企んでいる。これから意地悪してやろうという顔だ。
「お姉様、もっと本物に近い味にする方法はありませんか?」
「そうねぇ、魔法でどうにかならないかしら」
「向こうに魔法使いはいなかったんだろ?」
「ここにはいるのよ、知ってた?」
………料理に何の魔法をかけるんだよ。まさか「おいしくなーれ」とか言うのか? それで味が変わった日には、太郎兵衛さんの「ガーッと」を笑えなくなってしまう。
もっとも、何せ非常識な力だからなぁ。本当にうまくなったら、どうしていいのか分からない。
イズミが帰宅した後、身体を洗ってから、二人で茶を飲む。
酒でも良かったんだけど、何となくまたお茶になった。なんだかんだと、二人でお茶を飲む時間は落ちつくし、気に入ってしまっている。
もちろん美由紀はいつも通りの際どい格好で、その辺を正視すればいろいろ大変だけど、意識しない方法は身についた。
「今日はお疲れ様、美由紀」
「貴方もね」
明日は同僚の詰問が待っている。そう思うといろいろ気が重くなる。イズミとなぜ仲良くなったのか、その大元はしゃべるわけにいかないのだ。
まぁでも、その辺はもう用意はしてある。
邪悪な本性をもつ伯爵令嬢と、邪悪な本性をもつ冒険職が意気投合して、俺は巻き込まれて大変な目に遭っている。どうだ? 全くの嘘ではないぞ。
「悪いこと考えてる?」
「悪くはない。明日の仕事の予定を考えただけだ」
「へぇ、仕事のことを考えるとにやつくのね」
………どうせ気づかれているだろうから、無理矢理な言い訳でごまかす。仕方ないのだ。予定になかった訪問で、うろたえさせられたのはこっちなんだ。
まぁ、美由紀の予定には入っていたんだろうが。
「ところで美由紀。細かい話はいずれ聞きたいが」
「なぁに?」
「その…、カバルガという町は、イデワの町と比べてどうだった?」
「ふぅん」
それは純粋に興味があった。
馬車でも何ヶ月もかかるような遠方の都市の話なんて、滅多に聞けるものじゃないから。
「最初に言っておくけど、この星でキノーワより素晴らしい町はないの」
「承った」
「もっと喜んだらいいのに」
……その理由が思い当たるから、素直には喜べないに決まってるだろう。
もっとも、俺が同じ質問をされても、同じ答えしか返せない。
「カバルガは、私が住みたいと思う町ではなかった。立派なお屋敷はあったけど、町の半分以上は貧しい人たちだったから」
「そうなのか」
「貴方も私も元から貴族じゃないし、表向きは貴族なんていない国に暮らしていた。残念ながら、この世界に全く同じ国はないけど、少しでも近い所に住みたいわ」
要するに、太郎兵衛さんの目指したような世界か。俺もそうだった…か。
何だか分からないけれど。
「お前が頑張ったら、この世界は変わるだろうか」
「太郎兵衛さんにも及ばないでしょうね」
「完全な記憶があって、力があっても?」
「魔法程度で変わる世界なら、あれがやってる」
「……なるほど」
掛け布団で半分顔を隠しながら、美由紀はため息をつく。
おかげで刺激的な部分は見えないからありがたいが。
……………。
管理者とは、もうそれなりに話し合ったんだろうな。
「まず隗より始めよ、かもね」
「何だよそれ」
「できることから始めなさいって意味」
「……向こうのことわざなのか」
「そして、言い出しっぺの弘一がやりなさいって意味もあるわ」
「無茶言うなよ、俺に何ができるんだ」
「できるでしょ?」
急に飛び起きた。バサッと音がして、ついでに音はしなかったが、ばいんと効果音をつけたいような何かも目に飛び込んでくる。不意打ちはやめてくれ。
というか、何の話だよ。ものすごく邪悪な笑顔の美由紀が、――――――――可愛い。俺ってバカだな。
「イデワ文字を教える先生になるって聞いたわ」
「お前が? ホシナさんが言ってた件か?」
「貴方が、よ」
「………」
もちろん美由紀も講師を頼まれているが、それとは別口で既に話が進んで、勤務日の調整中らしい。
あの時口を濁していたのは、そういうことかよ!
「あの学校に揃って役立てるなんて幸せなことよ」
「俺じゃ役に立たないだろう」
「貴方はもうすぐ記憶を取り戻すから、そうすれば私よりイデワ文字に詳しくなる。学生たちに尊敬され、そして私はその格好いい先生の伴侶として生きて行く」
「いちいちツッコみたくないが、格好いいはどこから来た。何の脈絡もないぞ」
「脈絡も何も、貴方は最初から格好いいから」
………それなら尚更どうでもいいだろう。聞くんじゃなかった。
もっとも――――――。
少しぐらい、明るい未来の相談があってもいいか。
管理者との次の対話は近い。
俺の記憶と引き換えの大博打。いや、頭の中をいじられて、どうなってしまうのだろう。
※カバルガの話は、後日公開の美由紀過去編で触れる予定。




