四十一 ほどけた糸(後)
「ところでイズミ。お祖父さんが考えたという魔道具は知ってるよな?」
「魔道具…って、ああ、ケーホ?」
三人で続く密談。正確に言えば、異世界のおもちゃで遊ぼう会?
カバンの調査が一段落したところで、ある意味、今日の本命に移る。
「ケーホ?」
「名前も知らなかったの? 呆れた看板ね」
「看板だから仕方ないだろ? 美由紀が教えてくれなかったし」
「というか、私も名前は知らなかったけど」
「お姉様が?」
遠距離連絡を可能にする新しい魔道具。太郎兵衛さん発案、美由紀が完成させたというものに、とても怪しい名前があったと、明かされた真実!
……どう考えても、明かされたのではなく、無視されただけだろう。王都での製作時にも、そんな名前で呼ぶ人はいなかったようだ。通信の魔道具とか、通信具と言う名前は、確かに分かりやすい。
ケーホとは何者だ? 咳でもするのか?
「これのことよ、イズミ」
「それ、それがケーホですわ。お姉様、触ってもよろしいですか?」
「別にいいけど…」
「それならお姉様、ちょっと待ってくださいね。あれを持ってきますから」
あれ…というのは、「あれ」だ。伯爵家のそれ、ケーホとやらではない。
伯爵家に贈られたケーホは、伯爵やコーデンさんによって厳重に管理され、娘のイズミが手にすることはできないという。全世界に三十台の貴重品だからな。
なので、イズミはすぐに戻ってきた。そして、わざわざ取りに行ったはずの「あれ」を放り出して、美由紀からケーホを借りて触っている。
「いじる前にこっちを説明してくれよ、イズミ」
「あ、ああ。そこに書いてあるわ。適当に見て」
「なんていい加減な」
あれ…とは、要するに太郎平日記。ケーホ考案者だというし、何か書いてあるんだろう。
ぱらぱらめくってみると、しばらくして、あるいは?と思わせる箇所が見つかる。
「なぁ美由紀、何て書いてあるんだ? イデワ文字なんだよな? 汚すぎて分からないが」
「伯爵家の家宝を前にひどい言いぐさねー」
「お前こそ、笑いを堪えながら何言ってるんだ」
「お二人、ますます仲良くなりましたわ」
そんなことはない…とは口に出せない。いや、今さら否定するようなことでもない。この数日で、美由紀にはいろいろ距離を詰められ、そして俺も結局はすべて受け入れている。
――――そんなことはどうでもいいんだよ。
イズミが触りまくっているケーホの元となった落書きが、確かにここに書かれている。うむ。どう考えてもこれは落書き。
「これを見せて作らせた…わけはないよな?」
「何度か説明してもらった私でも、ほぼ読めないぐらいの代物ですのよ、弘一。お祖父様は職人や先生を集めて、いろいろ絵を描きながら説明なさったと聞いてますわ。この辺をガーッとやって、とか言いながら」
「ガーッかよ。さすがバンババンの人だな」
「それでも作らせようとしたのが、太郎兵衛さんの凄いところだったのよ。思い描いていたものだったかは分からないけど、一応は実用化されたのだから」
先生というのは、アラシの学校の先生だという。今でも、教えている先生の半数は太郎兵衛さんが生前に声を掛けて集めた人らしい。そのせいで、ガーッと作れという無理難題にもつき合わされたわけだ。
「お姉様には読めそうですか? 弘一も」
「頑張ってみるけど、字が汚いのはどうにもならないわねー」
「うむ、任せた」
「弘一も読みなさいよ。イデワで二番目に読める人なのでしょう?」
「いくら何でもそれはないだろ?」
一番目が美由紀なのは間違いない。何せ、記憶をもった来訪者。あまり詳しいことは教えてはくれないが、元の世界は、イデワ文字を使うのが当たり前だった。
その意味では、記憶をもたない来訪者は? 美由紀の主張を認めるならば、俺と太郎兵衛さんは、元の世界で同じ時を生き、記憶を奪われた。その太郎兵衛さんが書き残した…ということは?
「あ…。もしかして、これは来訪者の記憶なのか?」
「弘一。やっと自分もそうだという自覚が生まれてきたのね」
「そんなものはないからな」
遠距離の通信具を作る発想は、来訪者でなくとも思い浮かぶだろう。少なくとも、美由紀は俺の頭に直接話しかけることができる。イズミが操られた時には、頭の中で念じただけで伝わったから、距離が離れていてもやりとり可能。ケーホもこの原理ということだろうか。
美由紀が注目するのは、その形や奇妙な名前だという。
「筒型…というか、細長くて薄いって書いてあるわね」
「どれどれ……………。この、折れた木剣みたいなのが原型なのか。携補…がケイホと」
「ぱっと見て読めるなんて…」
イズミが驚いている。まいったな、また俺様の隠された能力が明らかになっちまったぜ。
まぁそれは冗談として、つまり、こういうことだ。
太郎兵衛さんはケーホの形、そしてケーホという名前ははっきり記している。それが、遠く離れた人と話すための魔道具だとも書いてある。
その一方で、魔道具の中身はほとんど書かれていない。中に何かを詰めるとか、信じられないぐらい適当なことが記されている。本当に書いてあるんだぜ、「何かを入れれば動く」とか。子どもか。
「これでどうやってガーッとするんだ?」
「どうやって…というか、自分でも分からないからガーッだったんじゃない? イズミ」
「たぶんそうなんだと思います」
無茶苦茶な要求だ。創立者の意向とあっては無視できず、先生たちは職人と会議を重ね、現実的な結論に至った。つまり、魔道具なのだし、魔法で通信する器具を作ればいいだろうと。
たとえば、少し離れたところの音を増幅させる魔道具…というか呪具は存在する。一般の売買は禁じられているが、その製作方法は書物に残されていた。また、遠く離れた間で、二つの呪具を共鳴させる方法も存在していた。
そして、音は振動だから、振動を再現させればいいと考えた。
「イズミ、この世界に糸電話みたいなおもちゃはあるかしら?」
「うちに教えに来られた先生が、実演されたことがありました。なるほど…、それがケーホに」
そうした既知の技術を組み合わせて、試作機が出来上がるまで約六年。どうにか太郎兵衛さんの生前に、形にはできたという。
「もしかして、アラシ学園ってすごいのか?」
「この星で一番だと思うわ。だからイズミは次の年から編入するのよ」
「……あんな大勢の人と一緒に」
「そんなもの、二日で慣れるから問題ないわ。弘一なんて、イズミが際どい格好したってすぐ慣れたでしょ?」
「そこで俺を出すのは例えがおかしいよな!?」
ゴホン。話が逸れた。いや、逸らしたのは断じて俺ではない。イズミは学校に行けばいいと思うが。
………。
薄々は気づいていたが、イズミは箱入り娘だから、学校という人混みに腰が引けてるんだな。
学園製作の試作機は、原理的には太郎兵衛さんの要求を満たしていた。それぞれの魔道具に話しかけると、相手側から声が聞こえる。立派な試作品だ。
しかし、実用には程遠かった。なぜか?
その試作品は、互いが視認できる程度の距離でしか使えなかったのだ。
「お祖父様は喜んで使っていました。寝たきりになっていたから、片方を枕元に置いて、もう片方は最初私が持たされたけど、コーデンに譲ったの」
「押しつけたわけだな」
「人聞きの悪いこと言わないで。お世話係が持つのが一番実用的でしょ?」
まぁ太郎兵衛さんは、実用的であるよりも、後継者に持たせたかったんだろうな、と思う。
そうしてお祖父さんは亡くなり、試作機の話は王都に伝わった。革新的な発明ということで、伯爵家単独からイデワの総力を挙げた事業になったわけだ。
「私が呼ばれた時には、強大な魔力を込められれば使える、というところまで進んでいた。まぁ、試作機とほとんど一緒だったらしいけど」
「……なるほど、強大な魔力ね」
結局、魔力で思いっきり増幅させるという解決法で、ひとまず実用化にこぎつけた。単純な代わりに、強大な魔力などそうそう手に入るわけもなかった…のだが。
そう。
巨大竜退治でばれてしまった、美由紀の能力。その魔力を込めてみたら、隣の国まで会話可能になった。彼女の魔力が、それまで国一番とされた魔法使いとは、文字通り桁外れだったことも分かってしまった。
そして、五段の力を使ったために、共に認定した他三ヶ国にもケーホを譲渡する形になった。ただし製作はイデワのみ。今後も、製作して魔力を込める場合には、必ず同数を三ヶ国に売却する契約だという。
「もしもお前がいなれけばどうなるんだ? 余所の国で同じものを作ってもいいんだろう?」
「一応は作らない約束だけど、絶対に作るでしょうね。だけど、もっと根本的な改良が必要よ」
イデワ王国で、美由紀を除けば一番の魔法使いがその力を込めても、試作品と性能は変わらないという。他の国の魔法使いの能力も大差がないから、真似しただけではどうしようもない。
「一応、今後も協力するように言われてるのよ。これと同じものを百台ぐらい作ってほしいと。作業はすぐ終わるし、すごい報酬だけどね」
「他の国に一台いくらで売ってるんだ? まさか利益は取れないだろ?」
「もちろん。四ヶ国は私の扱いに関して同格だから、イデワも金儲けはできないわ」
百台というか、作れるだけ作ろうと考えるのが当然だろう。ただし巨大竜の爪は使い切ってしまったらしく、すぐには材料が手に入らない状況のようだ。
ちなみに、最初は魔力量に応じて報酬を払う予定だったらしい。
そもそも魔力量を正確に量る方法があるのか知らないけれど、魔力に応じて変色する石があって、一応の目安にはなっているという。で、美由紀の魔力を量ろうとしたら、蒸発したので断念。石が蒸発って、どういう意味なのか理解できない。
同じ魔道具の使える範囲が、視認できる距離から、馬車で何ヶ月もかかる距離へ変わった。その事実から考えて、美由紀の魔力の計測はまず不可能だろうし、仮に量に応じたら、とんでもない額になる。
いろいろ計算した結果は、最低でもイデワで徴収される税の数十年分で、支払えば国が破綻する。もちろん、他三ヶ国も支払いは不可能だ。
しかしケーホによる遠距離通話は、今後の国家間の力関係を左右しかねないほど重大だ。
結局、美由紀が受け取った「すごい報酬」は、三十台で貴族の屋敷二つ分ほど。当初の計算からかけ離れた格安料金の代わりに、彼女はある程度の移動の自由を認めさせた。ああ、つまりこの件すらも最終的には俺につながってしまうのか。
「しかし、お前の独占状態ではなぁ」
「そこは、イデワの独占状態と言ってほしいけど」
イデワだって、美由紀に断わられればおしまいなのだから、俺の言い方の方が正しい。が、まぁそこは大人なので争わない。
どっちの言い分にしろ、現状では美由紀の機嫌を損ねただけでケーホが手に入らなくなる。それどころか、受け取り済みのケーホの魔力を抜くことだってできる。まさしく、世界は美由紀に支配されてしまうではないか。
…………。
うむ。難しいことを考えるのはよそう。
「太郎兵衛さんは、元の世界でそういうものを使っていて、記憶が断片的に残っていたと考えられる。ご本人もそう思っていたでしょう?」
「はい…。自分は昔こういうものを使っていた。それがもしかしたらケーホだったのではないか、と」
「断定はしないんだな」
「ものすごくかすかな記憶だったのよ、たぶん」
三人で深夜のお茶会。
今日はイズミが持ち込んだ茶葉。とても良い香りがする。最近、そういう香りとか味の違いに敏感になってきたなぁ。
「たとえば、記憶が何かの事象をつなぐ糸のようなものだとすれば、それをほどいた瞬間にすべてはバラバラになって、そして拾い集める術も失ってしまう」
「…………」
「その時に、バラバラにこぼれ落ちたものはどうなってしまうと思う?」
そして、突然抽象的な話を始めた美由紀。黙って聞き役になれればいいのだが、彼女の視線ははっきり自分を向いている。あまり難しい仕事をさせないでほしい。
「なくなってしまうんじゃないのか?」
「その人にとっては、なくなったようなもの。でも意図的になくさなければ、いつまでも落ちたまま」
「…なら、もう一度拾う可能性はある、ということですね。お姉様」
抽象的なままで話に乗ってくるイズミは。たぶん俺よりずっと賢い。
ふぅっと息をついて、お茶を飲む。
可能であれば、やはり聞き役に徹したい。
「俺にはよく分からないが」
「弘一の記憶を、紡ぎ直せるかもしれない、お姉様はそう考えて…」
「まさか」
「だけど弘一は、イデワ文字で書かれたものが読めるのでしょう? それは記憶が消えていないからだと思いますわ。お祖父様とは違う気もしますけど」
「そうよ。同じ来訪者のはずなのにいろいろ違う。どうして?」
「俺に聞いて分かるわけないだろ」
イデワ文字。今の自分が、かすかに来訪者だったことを疑えるとすれば、それしかない。
と言っても、俺に言えるのは「読める」というだけ。何とかそれを合理的に説明しようと、美由紀が頑張っているのは分かるけれど、当事者は無力だ。
「この世界には、来訪者が遺したものが沢山ある。イデワ文字だけじゃなく、王都の十二階建も、馬車鉄道も」
「なぜそれが来訪者のものだと分かるんだ?」
「十二階建の建物には、使い物にならない昇降装置がついているでしょ」
「そのうち使えるようになるって言ってたやつか?」
昇降装置が使えないのは、要するにケーホのようにぼんやりした情報しかなかったからではないか。それは美由紀の推測に過ぎないが、この世界にはどうやら、そんな謎のものがたまに見つかるらしい。
他にも、向こうの世界の料理と同じ名前で、見た目はいいのにまずいなんて例もあるという。地獄だ。
「たとえば馬車鉄道は、ぼんやりした知識からでも形にできた。なぜなら、それに近い技術がもう存在していたからでしょうね」
「ケーホはない、か。というか美由紀。……お前は、ケーホが何か知っているのか?」
「もちろん知っている。離れた人と話すための道具、貴方も使っていた。それに…」
「な、何だよ」
「ゲームも、それを使って遊ぶもの。だから太郎兵衛さんの記憶に深く刻まれていたとしても不思議ではないと思うわ」
「…………」
申し訳ないが、全く心当たりはない。美由紀の主張によれば、俺はゲームにのめり込んでいたらしいから、当然知っていたのだろうが。
俺は、美由紀に会うまで何も違和感を覚えたことはなかった。太郎兵衛さんがそうでなかったのなら、やはりそれは違う。
手放した記憶は、元から「なかった」。そういうものだろう?
「お姉様が協力すれば、本当のケーホを再現できますか?」
「残念だけど無理ね。私はそれの使い方を知っているだけ。内部のことは分からない。たぶん太郎兵衛さんも同じだったんでしょう」
「むむ…」
美由紀が言うには、そうした技術は誰もが共有できるようなものではなく、専門家でなければ理解できないという。魔道具の職人でない者に、製作方法を説明させても答えられないのと一緒と言われれば、確かにそうかも知れない。
「太郎兵衛さんはすごい人よ。弘一のように違和感なく暮らすのが当たり前なのに、自分の秘密に気づいて、自力で解き明かそうとした」
「お姉様にそう言っていただければ、お祖父様も喜んでいるでしょう」
「他人事みたいに言わないでよ、イズミ。道半ばで力尽きて、そして後を托したんだから。貴方に」
「そ、それは…」
今度はイズミを困らせる、か。
いや、イズミに託したのは事実。と言っても、託されてどうにかできる質のものではない。記憶を奪われたのは太郎兵衛さんであって、イズミは最初からイズミなのだ。
「そしてイズミ。貴方も管理者にもっと謝罪を求めなければならないわ」
「太郎兵衛さんの件なら…」
「弘一は黙って。……太郎兵衛さんはたぶん、実験材料にされたのよ。この星を変えるための」
「お姉様、それはどういう意味でしょうか」
「貴族を内部から破壊すると宣言して、本当にやりかけたでしょ?」
「………」
同意はできない。美由紀は一人で先を行きすぎなのだ。
それは彼女が、記憶をもつ来訪者であることの証なのだろうが。
太郎兵衛さんが生前、「変人」と呼ばれていたこと。
それは単なる「奇行」ではなく、一貫した論理に基づいていた。さらに言えば、学校もケーホも馬車鉄道も、太郎兵衛さんを知る上では表面的な成果でしかない、と。
この国の人間でありながら、思いもよらない発想で動く来訪者。
例えば、キノーワの行政から貴族を外していったのは、貴族の互選によって代表に選ばれた太郎兵衛さんだった。都市はその住民によって統治されるべきだと主張して、職業組合幹部や学校関係者を取り込んだ結果、まっすぐな道路が整備されたり、広場が増えたりした。
そもそも、キノーワの「住民」という言葉を使い始めたのが太郎兵衛さんだったらしい。
「住民…は、今でも貴族には抵抗のある言葉ですから」
「お前もそうか?」
何も考えたことがなかったが、貴族の特権的な地位を否定すると言われれば、確かにそうなんだな。
キノーワでは、他の都市に比べても貴族の力は小さい。それだけ大きな変化を、たった一人がもたらしたということになるのか。
「私はお祖父様に毒されてますわ。だから婚約も破棄したいと…」
「なんでそっちに話が行くんだ」
「無関係ではないのよ、弘一。住民を受け入れてしまえば、貴族としての格も何も考えなくていい。だから極論すれば貴方でも」
「それは許されないと思うわねぇ、イズミ」
「ふふ、冗談ですわ。私だって、お姉様と離れたくありませんから」
いくら魂が巡るからと言っても…と付け足すイズミ。なんだ分かってるじゃないか。命の危機に瀕するってことを。
まぁそんなことは冗談だからどうでもいいけど、住民とは、貴族も俺たちもなんでも屋もすべて含んだ言い回し。身分の違いを当たり前の事実として受け入れている人間には理解されないし、そんな発想は生まれない。太郎兵衛さんの過去の記憶の断片なのだと言われれば、そんな気もしてくる。
「そういえば、俺も住民には違和感がないかも」
「今のキノーワには、そういう人が少なくないでしょ? 貴方の大親友だって、貴族とは住む世界が違うなんて、本気で思ってはいないから、騙されるんでしょうし」
「申し訳ないがカワモをキノーワの代表にしないでほしい。あいつはそういう設定に惚れる奴だ」
貴族にへこへこしている割に、衛兵がそういう身分に懐疑的なのは事実だ。
ただ、それを説明するなら、カワモより適切な人材がいるだろう、というだけで。
「つまり私も、その方にとっては伯爵の娘という設定になってしまうんでしょうか?」
「そうだよ。というか、結局美由紀の言う通りってことだよ」
「すねることないじゃない。カワモさんはこれからのキノーワを背負って立つ人だと思うわ」
「よくもまぁ、そんな心にもないことを」
まぁあれでもカワモは幹部候補だったりするのだ。将来のワイトさん…と考えれば、キノーワの看板並みに安っぽく聞こえてしまうが。あ、俺はもしかして、酷いことを言ってないか?
「バラバラになった記憶は、恐らくは誰も意図しないまま、この世界に広がっていく」
美由紀の語りは続く。
まるで詩人のように思えるのは、その言葉の意味をつかみかねているから。
「広がって、どうなる?」
「言葉になった、としたら?」
「つまりそれがイデワ文字…ということですか? お姉様」
「そう考えるのが妥当でしょうね。イデワ文字は、私たちの世界の文字。その数は何万字もあるわ」
記憶から切り離された文字が、世界にばら撒かれていく。
その文字はしかし表意文字だから、いつしかこの世界にはないものを間接的に伝えてしまう。
「美由紀は知っているんだろ? 本当のイデワ文字の使い方を」
「私は神さまじゃないし、学者でもないわ。この世界ですべてを説明しろと言われても、手に負えない」
「そうか…。やってることは神みたいなもんだけどな」
「買いかぶりすぎでしょ、弘一」
イデワ文字の本当の価値を訴え、研究してもらうよう促すことはできるだろう、と美由紀は言う。もちろん、それは相当に困難な作業に違いないが。
既にアラシ学園には、簡単な字書があるというから、そこに協力するのは既定路線のようだ。
「それにしても…、管理者は酷すぎじゃないのか」
「貴方がそれを言うと説得力があるわ」
「当事者意識のかけらもないのね、弘一って」
「ないから困ってるんだろ!」
確かに自分でも、口にしてからおかしいとは思ったが。
結局、俺は太郎兵衛さんに対する管理者の仕打ちに思うところはあっても、自分に対してはない。強いて言っても、あれに伝えたように、美由紀がそれで苦しんだことさえ解決できればいい。
――――もしも本当に記憶が戻ったら、その時はまた違うのかも知れない。
「お祖父様は、自分を連れて来た誰かに、それほど恨みは抱いていなかったと思います」
「それはなぜだ。まさか、この世界で暮らして愛着がわいたから、とか?」
「その通りだと思いますわ。まさか弘一、愛着がわくことと恨みは別だって、いつまでも思い続けなければいけませんか?」
「言いたいことは分かるが、感情の問題だからな」
「それに…」
そこで、ふと言い淀んだイズミ。
正直、あまり見たことのない表情を見せて、うつむいた。どうしたんだ?
「お祖父様は、お祖母様と本当に仲がよろしかったのです。「お前のためにここに来た」と、亡くなる前にもうわ言のように繰り返していました」
「お祖母様は確か…」
「私が生まれる前に亡くなりました。その時のお祖父様は、目も当てられないほど落ち込んでいたそうです」
「そうなのか」
…と、ちらっと隣を見てしまった。そして思いっきり目が合った。
俺たちにだって、そんな日は来るんだよな。
「お二人が本当にうらやましい…です」
「大丈夫よ、イズミ。貴方はこれから楽しい学校生活で、きっと誰かに巡りあえる」
「学校生活…」
強引に話をもっていく美由紀。照れ隠しもあったのだろうが、実際、十七歳で婚約者という軛もなくなったイズミは、これからいくらでも探せるはず。学校に限定する理由もない。掃いて捨てるほど言い寄られるに違いない。
あとはまぁ、美由紀が世話を焼きすぎないことを願っておく。
イズミが帰り、二人きり。
来訪者の話の後は、どうにも居心地が悪い。
なぜかって?
「貴方が考えてること、当てようか?」
「分かってるなら、そっとしておいてくれ」
「ダメよ」
美由紀が隣にいてほしいと思うのは、記憶を取り戻した俺。今の俺ではない。
相変わらず何も思い出せない自分は、記憶の修復をあれに委ねて、そして自身はどうすればいいのか分からない。これだけは、相談しようにも経験者がいないわけだし。
「記憶を取り戻したら、この町で私と会った貴方はいなくなるの?」
「さぁ…」
「過去の記憶が増えても、ここでの記憶が消えることはない。だって、貴方がここで過ごしている現在、元の世界に、もう一人の貴方が生きているわけじゃないから」
……………。
理屈では分かる。元の世界に俺がいないのは事実なのだろう。そうでなければ、美由紀が探しにくる必要もないのだから。
悶々とするしかない俺の手を、美由紀はそっと握った。
「今の私が大好きな貴方に、過去の私が好きだった人の記憶が戻る。それだけのことよ」
「………そんな恥ずかしい台詞、よく言えるもんだな」
「恥ずかしさなんて捨ててきたから」
「それは……………、申し訳ない」
伝わってくる体温も、ほのかに感じる匂いも、今の俺たちの生きている証。
そこに落とした欠片をはめ直しても、未来の二人は変わらない…のかな。
「それと、イズミを町に引っ張り出すわ」
「お節介じゃないのか、さすがに」
「友人として、姉として当然のことだと思わない?」
いい雰囲気でそのまま眠るのかと思ったが、美由紀は生まれついての世話焼きなんだろうな。
イズミを連れ出すには、父親の説得が必要だ。世界一の護衛がつくのだから、身の安全は保証できると思うが、当人が後ろ向きだからなぁ。
※ケーホのモデルはいったい何だろう、そう考えると夜にしか眠れませんね。
次はさっそくイズミお嬢様漫遊記でございます。




