三十四 なくて七癖
深夜まで残業した翌朝。せめて時間ギリギリまでは寝かせてほしい…という切なる願いは、簡単に打ち砕かれたのであった。
「とりあえず着替えて。手伝おうか?」
「恥ずかしいのでやめてほしいと懇願します」
「何を今さら」
女神の微笑みで起こされた俺は、いろいろあって一人で着替えたい気分だった。分かるだろ! 男なら分かるだろ、あの湧きあがる熱いマグマをっ!
…………。
青春の主張をしている場合ではなかった。急いで着替えよう。
当たり前だが、今日も門番だ。さすがに制服ぐらい一人で着れるぜ、やったぜ俺。
「お初にお目にかかる。ウミーヤという」
「え、あ、あの、小牧弘一…です」
下に降りてみると、まさかの来客だった。
というか、ウミーヤって、その、あれか?
「キノーワには昨日来られたそうよ。伯爵家にはこれからでしょう?」
「ええ。幸い、門前払いにはならずに済みそうです」
「伯爵もご心配なさってましたから、きっと喜ばれるでしょうね」
「はは…、お恥ずかしい話ですな」
俺が職場に行くまでのわずかな時間、ウミーヤ元子爵と朝食を共にした。
そう、隣でむしゃむしゃとパンや卵焼きを食べているオッサンは、この屋敷を立てた主だ。破産して屋敷を売り払って姿を消したという元主。その際に爵位も剥奪されたと聞いている。
今の身なりは、こざっぱりとしたシャツとズボンで、どこかの商人みたいな姿をしている。背丈は美由紀よりやや低いぐらいだが、妙にひょろ長な印象なのは、たぶん頬が痩せこけているからだろう。
食べっぷりをみても、ちゃんと食事を取っていないように見える。
「はは、しかし君が住んでいるとは思わなかったよ、コマキ君」
「えっ? お…、私のことをご存じでしたか?」
「門番でいつも書面を担当していただろう? 知らないはずがないさ」
「そ、そうですか」
しかし、やつれている感じではないよな。頭もしっかりしているし。
ちなみに、元子爵は基本的に南門を利用しなかった。領有していた鉱山などは西の方にあったから当然なのだが、時々書面だけまわって来たのを憶えている。ふざけるなよと思ったものだが、あれはもしかして子爵が意図的にやらせたのか? そんな悪い目つきをしている。
「まぁヨコダイ様と君が住むというなら、この家も本望だろうさ」
「置かれたままの収集品はどうしますか? ウミーヤ様」
「ヨコダイ様、どうか様付けはおやめください。それに、ここに残したものは屋敷の一部、願わくば末永く可愛がっていただければ」
「倉庫の中は、まさか屋敷の一部ではないでしょう? そちらに置くだけの場所があるなら、運んでもらってもいいですから。ウミーヤさんの新居への贈り物、でどうですか?」
「そ、それは……」
屋敷を取り返しに来たのかと思ったが、どうもそういう気はないらしい。昨夜と今朝と、美由紀との間では平和裡に交渉が進んでいるようだ。
美由紀が言っている収集品とは、一階にある開かずの間の一つを埋めている木箱のことだ。何が入ってるのか分からない大きな木箱が多数。一応、美由紀の能力で、呪具みたいなものはないと確認したが、はっきり言って邪魔でしかない。いや、二人しか住んでいない現在の屋敷では、半分ぐらいの部屋は開かずの間だし、本当は邪魔だとも思っていないが。
元子爵は、あの木箱も屋敷の一部として売却したわけだから、現在の所有者は美由紀ということになる。だから、引越祝いという名目で返還しようという。
ウミーヤさんは目を見開いて、大きくうなづいていた。どうやら彼にとっては価値があるらしい。こっちは厄介払いできるし、言うことなしだ。
………。
いつの間にか、この屋敷を俺は自宅と認識していたんだな。いや、これも今さら、なのか。
「昨日は噴水の広場で祈って来たぜ。せっかく指輪ももらったからな」
「あそこで祈ると何かあるのか?」
「コーイチはいいよなぁ、拝む必要もなくて」
所変わって、楽しい職場。今日も勤労に励む我々である。
カワモ大先生が、例の噴水で何を祈ったかは聞くまでもないし、特に聞きたくもない。そう言えば、美由紀も何か願っていた気がするが、そちらも思い出したくない。
そもそも、拝む相手はあれなんだろう? カワモの願いなら聞いてくれるのか? 人類にとっての頼れる存在だとは到底思えないが…。
「ではカワモ、新たな出逢いに期待して整理してくれ」
「何の出逢いだよ。菜種油か? 岩塩か?」
たまっている書類を片づけていく。何だかんだと、いいコンビだ。文句を言いながらも、手慣れた様子で仕分けてくれるから、こちらの作業効率も上がる。
「俺がいない間も手伝ってたんだろ?」
「いや。一人でできると言ったからな、奴は」
俺が留守の間に派遣されていたのは、四十歳ぐらいの事務職だった。いや、俺も引き継ぎで顔は合わせている。気難しい雰囲気で、いかにも事務作業の鬼って感じの人ではあった。
ただ…、いろいろな事情で仕事はうまくいかなかったようだ。
カワモたちを使えなかったのは、ある意味では仕方ないのだろう。畑違いの門番、それもほとんど面識もない相手を指揮下に置くのは難しい。それに、俺たちは何となく役割分担しているだけで、誰かに命じられているわけじゃない。同じようにふるまうのは不可能だ。
まぁもう一つ、イデワ文字に苦戦したらしいが。荷札のイデワ文字は独特だから、ただ文字を知っている程度では対応できないだろう。
「こんな文字、俺だって読めるけどなぁ」
「言っておくがカワモ、これが読めると本当のイデワ文字が読めなくなるぞ」
「本当のねぇ…。失われた文明の何たらだっけ?」
「お前の好きなやつだろう? 生き残りの姫には遭ってないのか?」
「ちっ、コーイチはいいよなぁ」
書類に書かれているのは、商人たちが勝手に形を変えた文字ばかり。勝手に…というか、半分は暗号みたいなものだから、交わる機会がなければ覚えようがない。そして、これに慣れてしまうと本来の文字を忘れてしまう。
……………。
確かに、こんなことを言える俺はおかしい。何が本来の姿なのか? この世界には、そもそも確かめる術もなかった。それこそ、生き残りの姫でも見つからなければ。
今は…、姫はいないが怪人はいる。
そして、もしも俺が過去の記憶を取り戻したなら、二人目になるだろう。相変わらず、自分に亡くした過去があるなんて、想像もつかないが。
「あれ?」
「なんだコーイチ。糞尿を放出する気にでもなったか?」
「もよおすたびに驚くのか、俺は。というか糞尿って言うな」
ふと目にとまった書類に、何か違和感が。
しばらくじっと見つめて、気づく。
「やばいぞ、カワモ…」
「なんだ? 漏れるならさっさと行けよ」
カワモの渾身のボケも無視してしまうほど、重大な問題に俺は気づいてしまったぞ。
さぁ困ったな。これは俺には解決できそうもない。
「ちょっとワースさんを呼んできてくれ。大至急だ」
「お、おう」
俺の表情を見て、ようやく冗談を言う場合ではないと気づいたカワモが、走って上司を呼びに行く。
その間に、処理を終えた書類の束から、ひとまとまりを取り出した。
「どうしたコーイチ。厄介事じゃあるまいな?」
「厄介事です。俺には判断できない性質の」
「…帰っていいか?」
「先に帰った方が勝ちでいいですか?」
ともかく、上司の判断を仰ぐということで、ワースさんに二つの書類を並べて見せる。
この二つは、ちょうど日付が二週間違う。積荷の主は同じ。そして…。
「出所と数は、一段ずつずれています」
「ふうむ…」
そうなのだ。積荷の種類も、どこから運ばれたかも違うのに、数字の列は同じ。こんな偶然があるだろうか。
それも、一段ずれているのがさらに怪しい。二週間空いていれば、いつもなら数字の列まで覚えていない。その辺を狙った、意図的な偽造書類なのではないか。
「しかし、この書類は…」
「キワコー子爵ですね。不本意ながらお…私も、貴族がどれほど厄介かは実感してきたので、あとは上司に丸投げします」
「堂々と言い切ったなお前」
見逃せない問題ではあるが、一度だけでは根拠が薄い、という結論になった。偶然の一致だと言われれば、それまでだし。
その代わり、該当の書類は控えを作っておく。次の書類を確認して、また検討するという話。
「貴族の中ではいい印象でしたが…」
「門番に悪い顔はしないだろう。そういう目的があるならな」
ワースさんは、どうやら元から好印象ではなかったようだ。うーむ。
…………。
よし、忘れよう。
そうだ。貴族のいざこざに巻き込まれては困るじゃないか。特にあれだ、我が家の怪人に知られたらどうなることか。
「弘一、隠し事があるなら少しは隠した方がいいと思うけど」
「え? 何のことだ?」
とにかく、衛兵の仕事で見つかった些細な問題。そんなものを家庭に持ち帰らないのは、できる社会人の基本という感じで、全くそんな素振りは見せなかったはずだったが。
「左手で首を触る癖があるって、気づいてない?」
「…………今知った」
美由紀にあえなくばれてしまう。
そんな癖は本当にあったのか? 魔法で何か探ったんじゃないか? そう思いたくもなるが、指摘された瞬間に左手が首を触っていたのは紛れもない事実。そんな場所を普段から触るような俺ではない、とも断言できる。
ああ俺は、隠し事の一つもできないのか。
「どうしても知られたくないなら、聞かないわ」
「それじゃあ、やましいことがあるようにしか思えないだろ」
「そう思う人もいるかも知れないかなー」
………完敗だった。
で、生命の危機と引き換えに隠す気も起きないので、すべて打ち明けた。現状はあくまで様子見だと、何度も念押ししながら。
美由紀は、別にからかうわけでもなく、大人しく聞いていた。
エプロンをつけた彼女は、あそこが目立たなくなるので、こちらもわりと落ちついて話せる。その代わり、実はエプロン姿は…、そう、絶望的に可愛い。表現の方向が間違っている気がするが、怪人がその瞬間だけ天使になったような感覚だ。時々目が合うと微笑んでくれるのが、これも天使だ。
以前よりも慣れたせいか、微笑まれただけで気が遠くなることはない。どちらかと言えば、美由紀が放つ気を抑えてくれているんだろうが、いつまでも成長しない人間ではいけない…って、今はそんなことはどうでも良かった。
「衛兵の問題に手を出すほど、私は正義心に溢れていないから心配しないで」
「引っかかる言い方するなよ。まだ様子見だって」
「ただ、こちらはこちらでキワコー子爵のことは調べると思う。朝のことと関わるから」
「朝のこと…」
すっかり忘れていた自分に呆れる。ウミーヤさんのことか。
というか―――。
「あれは仕事の依頼だったのか? 美由紀」
「あのお方は挨拶に来ただけ。別に爵位にこだわりもないそうだし、私に頼むことはないと思う」
「ならどういう…」
「弘一。汚職も不正も、キノーワという小さな町にはおさまらないもんなのよ」
「前途有望な若者を送り出すみたいに言うなよ、頼むから」
要するに、ギケイとの絡みらしい。ギケイ、キワコー、ウミーヤと、貴族間にいろいろあって、ウミーヤさんは追い落されたってことか?
「言っておくけど、ウミーヤさんは共犯者よ。途中で嫌になって逃げただけで」
「そうなのか。同情して損した」
ギケイの密輸問題は、イズミの親のモリーク伯爵も、ある程度は把握している。ただし、三者が協力して大規模な不正を行っていたことは、さすがに知らないらしい。
というか、何かの依頼でもないのに、なぜウミーヤさんがしゃべったのかという疑問が湧く。しかし、そこを指摘しても美由紀の返事は曖昧だ。つまりまぁ、そういうことなんだな。
犯罪者でも貴族ならおとがめなし。それが貴族。美由紀はそんな奴にお宝を返そうと言ってたのか。なんだか腹が立ってくるぞ。
「それで、これからどうするつもりなんだ? まさか破談の材料にして終わりってわけはないだろう?」
「それ以上やったら私刑になるけど、いいの?」
「………いや。衛兵の端くれとして、それはさすがに」
心のどこかに、私刑でもいいという思いもある。俺はそれぐらい、美由紀を信頼している。
だけど、私刑は最終的には世界を崩壊させる。何をどうしたって、美由紀「だけ」に許すなんて選択肢はない。私刑だらけの世界なんて冗談じゃない。
まぁ、そこは分かってるんだし、俺がどうこう言うことじゃないか。
「然るべき人たちに委ねられるよう、ちゃんと考えてるから」
「そうか。…なら良かった」
相手が大物だから、対処できる存在も限られる。
要するに、俺たちが王都で世話になった人たちだろう。
「安心するのは、委ねた後でいいと思うよ」
「お前は有言実行の女だろう?」
「ずいぶん評価が高いのね。なら頑張る代わりに、私からも提案していい?」
「無茶なヤツはやめてくれ」
――――――――しかし。
口から生まれた女は、どんな対話でも利用するのだっ!
だっ!!
「これは…」
「今さらでしょ。ずっと同じ部屋にいたじゃない」
俺のベッドが、美由紀の部屋に移されていた。ぴったり二つ並べられている。これはもう…拒否できる状況ではないらしい。
そりゃ確かに、旅行中は同じ部屋で寝泊まりしたさ。ただなぁ、王都ではいろいろ緊張し過ぎて、悶々とする前に疲れて寝てしまっていた。あれは特殊な状況なんだよ。
「やっと貴方の寝顔を眺めていられるのね」
「いや、それはできれば…」
勘弁してくれ…と言おうとして、その先が出なかった。
相変わらず谷間がはっきり見えるネグリジェで、ベッドの上に腰かけている美由紀は、泣いていた。
シーツに水滴がしみをつけるほど、涙をこぼしていた。
そんなバカなことがあるかよ。
意地悪く笑顔を見せてくれよ、なぁ。
※5章開始です。しがない衛兵が陰謀に巻き込まれて、大変な目にあうのかもしれませんね(棒読み)。
 




