三十一 覗きと泉
「あぁんお姉様、お会いしたかったですわ」
「いや、さっき会ってたんだろ?」
深夜。王弟宅の部屋にやって来たイズミは、縄張りを確認する野獣のように、美由紀の身体にまとわりついて匂いを嗅いでいる。
昨日までは夜会服を着込んでいたはずなのに、今夜はなぜか薄紫色のネグリジェ。まとわりついた姿を眺めるのはこちらの精神衛生上きつい。
ねじれた上半身からアレの谷間が覗くのは特に辛い。なんだかんだと立派なものをお持ちだからな。
「ああ、いつまでもここで埋もれていたい…」
「良い子も見てるんだから、それぐらいにしてくれ」
いつまでやってるんだと、御令嬢をたしなめたつもりだったが、なぜかまとわりつかれている側がこちらを向いた。
それはとても悪い笑顔だった。
「あら弘一。ここには、夜な夜な私を襲う獣しかいない気がするけど」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ」
「早く襲ってと言ってるのよ」
…………聞かなかったことにしよう。
さすがのイズミも、美由紀のあまりにストレートな発言に呆気にとられ、ようやく身体を離した。正直、俺だけ大けがを負わされた気がするが、これで本題に入れそうだ。
そう。別にイズミは痴態をさらしに来たわけではない。本日の秘密の学校見学の成果について、報告と検討を行わなければならないのだ。おお、こう言えば立派な会議のようだ。
「正直言って呆れましたわ。あれなら弘一の方が千倍マシです」
「頼むから俺以外の男で比較してくれよ」
そしてイズミは怒っていた。いや、怒るのは予想できたが…。
男の友人が少ないイズミは、常に俺を基準に判断している。これはこれで健全な状況とは言いがたいし、自分の身を護る意味でも対策が必要だと思う。
なお、俺がカワモで測るのと同じじゃないかというツッコミは無視するのでよろしく。
「別に、イズミが弘一を褒めるのはいいのよ。伴侶を褒められたら嬉しいし」
「筆記具を折りながら言わないでもらいたい。仕方ないだろう? 俺としか比較できない哀れな娘なんだぞ」
「酷い言われようですわね。まさかコーデン辺りと比べろって言うの?」
「あの人と比較したら、世の中だいたい無能だろうな」
ちなみに筆記具は金属製の高級なヤツで、普通の人間には折れないと補足しておく。
伯爵家のコーデンさんは、貴族の使用人の手本みたいな人。間違いなく男性だが、どうも年齢の問題でイズミにとっては対象外のようだ。まぁ自分だって、飯屋の婆さんと美由紀を比較しろとか言われたら困るが。
本日の学校で何があったのか。留守番の俺が聞かされた限りを記しておく。
いきなり教室に転送されたイズミ。隣には亡霊のように肉体のない美由紀。軽くパニックを起こして覗きは始まったという。
とはいえ、数分で認識阻害効果を理解したイズミは、例によってザイセンの荷物をすべて確認する。読むに堪えない文字の汚さだけではなく、同級生女子に関する落書きなど、内容も酷かったらしい。
授業中の落書きなんて、誰かに読ませるわけじゃないのだから、勝手なことを書いてもいいような気がするけどな。
「そもそも見た目はどうだったんだ? 長いこと会ってなかったんだろ?」
「特に…」
「例えば、俺より背は高かったはずだ」
「だから何? 貴方だって私より高いはずよ」
「いや、それこそだから何って感じなんだが」
イズミにとってのザイセンは、どうやら記憶に残るような見た目ではなかったらしい。そういう自分も、何となくひょろ長だったという印象しかない。俺より背が高かったのかどうかも、実のところ定かではないが、どうやら再検証する必要はなさそうだ。
女性から見た男性の評価なんて、自分に分かるわけはない。
知っているのは、俺やカワモはモテないこと。衛兵で言えば、ワイトさんの方が女性評価は高いのではないかと推察される。
ただ、あの人はあの人で、女性に人気というよりは、腕っぷしに自信のある衛兵仲間や冒険職に模擬戦を申し込まれている印象がある。そして少なくとも、その筋で女性から申し込まれたなんて話は聞いたことがないな。
まぁそれは、女性で腕っぷしに自信のある者がいないから当然だ。男に混じって互角以上に戦える女性なんて、この世界に一人しかいない可能性が高い。誰とは言わないが…って、話が逸れた。
「弘一はまさか、イズミとあの人をくっつけたいの? 奥手の御令嬢のために一肌脱ぐ…」
「わけあるか」
「間違っても、キノーワの衛兵に殿方を見繕ってもらおうなんて思いませんわ」
「間違ってもそんなことしないから心配するな」
慎重派の意見は、美由紀に茶化されて終わる。
俺だって、ザイセンとくっついて欲しいわけじゃない。背丈はさておき、イズミはイデワ王国でも有数の美女と言って差し支えない。釣り合う男性が、そもそも想像つかないのだし、思いがけない形で相性が合うことだってありうるのでは、というだけだ。
そうだよ。身近にあり得ない事例がいるじゃないか。
気を取りなおして、本日の覗きの続きを記しておく。
武芸の様子も、引き続き二人で眺めた。
というか、イズミはザイセンの腰抜けっぷりに業を煮やして、何度か後ろから蹴りを入れたらしい。さすがにそれはひどいと思うぞ。
美由紀は美由紀で、講師の手本が良くないと、何人かの素振りに後ろから手を貸したという。姿を見せているなら親切な臨時講師なのだろうが、俺がカワモを殴ったのと一緒だよな?
その結果としてどうなったのかは、怖くて聞けない。間違いなく、練習場の怪奇現象として語り継がれていくだろうが。
「イズミも毒されやすい性格だよな。元からそうなのかも知れないが」
「貴方のように口の悪い男性しか知らないせいかしらね」
「コーデンさんも口が悪いとは知らなかった」
「………その程度で勝った気にならないことね」
何の勝負だよ。衛兵のコーイチは素直な好青年…は無理があるか。
とりあえず、イズミは改めて婚約破棄を決意した。聞いた話の大半は、何も関係のない騒動に思えたが、もういちいちツッコむ気にもなれないので忘れることにする。
あとは親子の醜聞を探すだけ…と、口にしたくない目標だ。まぁそちらは、俺の知らないところで勝手にやってもらう話だから…。
「一つだけ懸念があるわ」
「何だ? 親子ともバカだけど悪いやつではないかもって話か?」
「それはないから心配しないで」
「イズミが断言する時点で、むしろ心配しかない」
ギケイ閣下がいろいろ密売に手を染めていることは、イズミの父親も薄々知っているらしい。
残念ながら、多少の密売程度では王族を追い落とすことはできない。王都に限らず、王族貴族はだいたいスネに傷の一つや二つはあるという。モリーク伯爵家にだって、後ろめたい過去はあるのだと。
「お祖父様の頃はいろいろあったそうですから」
「あれだけ強引な人なら、表に出せない話も多いんでしょうね」
「そうなんですお姉様。でも、当人はよく自慢してましたわ」
商会に資金を提供して金儲け、その余勢でキノーワの行政に食い込むと、逆に貴族の力を削ぎ、学校設立。馬車鉄道事業も、太郎兵衛さんが音頭を取ったという。
まぁ確かに、やり過ぎなのは間違いない。他の王族貴族に睨まれながら、うまく取り込んだり騙したり、その政治力は卓越していたようだ。
「学校はすごいと思うわ。私も少し調べたけど、太郎兵衛さんにしか出来なかったでしょうね」
「そんなに難しいものなのか?」
「だって、アラシには貴方も入れるのよ」
……それはバカでも入れるという意味ではない。それぐらいは、俺にも分かる。
ザイセンが在学中の学校もそうだが、この国の学校には誰かの推薦でしか入れない。その推薦人は貴族だから、俺みたいな人間が入ることは不可能だ。
ところがキノーワアラシは、試験に通れば良いだけ。実際には、試験に通るだけの学力が必要だし、俺の入学は絶望的だが、試験を受けることはできる。逆に、貴族の子弟でも容赦なく落とす。ザイセンは恐らく入学できない。
王都にはとても作れないそんな学校を、目立たないキノーワで強引に設立した太郎兵衛さんは、自ら集めた講師を馬車鉄道の実用化に協力させ、主流派王族らを取り込んだ。
「それだけの学校なんだから、イズミは今からでも通うべきよ」
「お、お姉様。その…」
「一応俺も賛成するが、だいぶ話題がずれたよな?」
「そ、そうです! 今は婚約解消の方が…」
イズミが乗り気でない理由は分からないが、話題を戻す。なんだっけ?
「親子を追い落とすこと自体は大丈夫よ。ちょっとじゃすまない証拠を作ればいいだけ」
「作るって言うなよ」
ああそうか。そこから話がずれたのか。
で、それが問題ないなら、美由紀の心配は―――。
「もしかして、神か?」
「……そうね」
イズミの件で美由紀が邪魔をしたこと。あの謎の声の主――神――は、決してそれを喜んではいなかった。
この上、さらにこちらがやりたい放題となれば、逆に介入されないとも限らない。
「未だによく分からないのですけれど、お姉様。私を操った…神は、確かゲームの駒として扱おうとしていたのですよね?」
「たぶんね。伯爵御令嬢が…みたいな案件は、すべて同じ目的だと思うわ」
「それ以外でも、私たちを操ることがあるのですか?」
「………俺もそれは気になる」
二人の疑問に対して、美由紀も確実な答えをもってはいないらしい。
管理者という存在がいると認識していたものの、実際に話したのはあれが初めて。ヤツの居場所はこちらからは分からないし、何をしているのかも把握は不可能だと。
ただその上で、美由紀はこう理解しているようだ。
この世界で、普通の人間にはできないさまざまな能力を、美由紀はもっている。ヤツはたぶん、そうした能力を、美由紀と同等以上に使えるはず。
「たとえば、私たちがギケイさんの傷を掘り出す時に、邪魔される可能性があったら…と思うの」
「邪魔されるのか」
「認識阻害を解除されたり、転送を妨害されれば困るでしょ?」
「確かにそうですわね」
この場合、どちらかと言えばヤツの側に義がありそうなところが問題だ。私の星で勝手なことをするな、とか言い出さないとも限らない。自称してるかは知らないけど、神だしなぁ。
そう。自称していなくとも神。
キノーワ神の信仰は数百年の歴史がある。ということは、数百年前からヤツは、人間にそれと分かる形で何らかの介入をしていた可能性がある。それも、讃えられているのだからきっと正義の味方だったはず。
ああ、哀れな伯爵令嬢を救うために俺たちはやむを得ず…なのだ。どうせなら、俺たちに味方するよう願ってみるのも…。
「ヤツとお前が和解できればいいんだよな」
「それはいろいろ条件があるわ」
「その条件を整理してみたらどうだ? 今のところ、はっきり恨んでいるのはイズミと…」
「私はどうでもいいのよ。お姉様や貴方と知り合えたもの」
……そこに俺も加えるのか。イズミは何だかんだ言っても義理堅いよな。
やれやれと息をつくと、不満気な表情が目にとまる。
「二人が恨まなくとも、私は恨むわ」
「それは俺のことで、なのか? 俺は別に…、今の暮らしに何か不満があるわけじゃないぞ」
「なら私を受け入れたらいいのに」
「それはまた話が違うだろ」
「二人はいつも仲良しですわね、あーうらやましい」
ちっ。またいつもの流れに戻ってしまった。イズミもさっさと誰かに捕まってしまえよ。
まぁ、でも―――――。
軽口を叩けているうちは、それでいいんだよな? 美由紀。
神対策なんて、何か取れるのだろうか?
今までに分かっているのは、どこでも呼びかければ応えることと、美由紀と敵対している程度。そもそもなぜ姿を見せないのか? あの石像みたいな姿を見せたことがあるのか?
「たとえばキノーワ神のことで、イズミは何か知っているか?」
「さぁ…。町の始まりの話ぐらいね」
「タマスの滝の聖人は違うよな?」
「聖人は実在したと思うわ。あの町の貴族が子孫を名乗っていたはずだし」
そこに美由紀も口を挟む。タマスの場合、聖人の前で滝を出現させた者が神になるだろう、と。もしもそうなら、人間が戦って勝てそうな相手ではないな。
「聖蹟と呼ばれるような場所は、他国にも幾つかあるわね。イズミも知っているでしょ?」
「ええ。泉が多いですが、山ができたとかいろいろ…」
「泉なのか…」
「愚かな弘一は、そこで私の名前にも意味を見いだそうとするのだった」
「そういうつぶやきは心の中でしてくれ。俺が悪かったよ」
「なぜ二人は仲良しなのかしら。お姉さん…」
「だから俺が悪かったって」
まぁイズミの名前は冗談だが、水に関わる話が多いという。
もっとも、それが事実かどうかはさておき、水がなければ生きていけないのだから、求められるのは当然だ。目の前に湧く水を、地下水脈が…とか考える前に奇跡で説明するのは、むしろ自然な発想だろう。
そう。
事実だとは思わない。思わないだろ?
イズミが帰って、俺たちは賓客として最後の一夜を過ごす。
明日は昼頃の馬車鉄道に乗るらしい。今度も誰かが世話してくれるが、候補が多すぎて誰なのかは分からないという。さすがに国王ってことはないだろうが。ないよな?
怒濤の日々も終わり、どうにか衛兵に復帰できそうだ。ほっとしながら目を閉じる。そう、ほっとしているからな、俺は。
アレが神なら、美由紀は?
モヤモヤというより、たぶん確信している。もしもタマスに神が滝を造ったなら―――、美由紀にも同じことはできるだろう。両者が対等な関係であるなら、きっと。
太郎兵衛さんや俺とは違う、過去を記憶している来訪者。美由紀の言うことが本当ならば、いったいそれはどういう存在なんだ? 元から美由紀も神だったのか?
―――考えても答えは出そうになかった。
※4章は残り二つ。イズミが学校に通うのは「奪還」後になりそう。イズミ主体の話を書くには、とにかく「奪還」してもらわないと困るけど、思ったより長引いてしまった。




