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#074d 壊れた過去の埋め合わせ

 最初に出会ったのは……いつ頃だろう?

 正確な時期も今となっては思い出せないけど、俺の微かな記憶が正しければたぶん幼稚園児だった頃までさかのぼる。

 それは俺が周囲から疎外され、独り内側に籠っていた頃。

 砂場でただ母さんが迎えに来るまでの時間を砂場で潰していた時、その人……神奈枝姉さんは現れた。

 ――怖かった。

 俺の中にズカズカと土足で踏み込んでくるようで、怖かった。

 どうしてこの人は無関係な俺を構うのだろう?

 おかしい。そんなわけがない。何か思惑がある? 騙されている?

 警戒し続けていた。

 それが単に『普通』なことなのだと知ったのは、出会ってから優に2~3年は経過してからだった。


「えー? 最初にちゃんと言ったじゃない? お姉ちゃん、孝人くんのこと気に入っているって」


 そうだ。『気に入ってる』。

 いつも姉ちゃんはそう言って俺を抱擁してくれた。

 それが果たしてどれだけ萎縮していた当時の俺の心を癒してくれたのか計り知れない。

 ――救われた。

 世界には、俺を異物として認識しないような常識の壊れた人が居ることを知った。

 無関係な見ず知らずの人というのが大きかった。

 だからこそ『家族』とか『職業』なんかのカテゴリーに準じて『仕方なく』接しているという疑いが証明できなかった。

 いつも笑顔で会いに来てくれる。

 そんなのおかしい――でもいくら疑ってもそれを証明できない。

 ただただ、ひたすらに圧倒的に与えられる無償の愛の前には、俺は屈服するしかなかった。

 それは初恋というより、依存。

 自分が許されたいという根源的な欲望の元に、俺は姉ちゃんにべったりとくっついてばかりだった。

 そんな姉ちゃんは、いつもこう言う。

 『困っている人は助けないとダメ』。

 それはその通りだと思った。

 救われた側の俺だからこそ心から強くそう思う。

 困っている人を救うことの素晴らしさ、尊さを身に染みて感じる。

 人は、そうでなきゃいけない。

 どこかに救いは必要だ。

 それは既存の常識を壊してでも強引に創り出さなければいけない。

 ただ安全なところから眺めていても、何も変わらないのだから。

 『男なら女の子に優しくできるような存在になれ』。

 次に姉ちゃんはそう言った。

 つまり、困っている人を救うには、まず自分がそれに耐えうる存在にならないとダメなのだと教えてくれた。

 同時に……たぶん、姉ちゃんに依存している俺の姿をやんわりと批判し、いつまでも甘えてないでしっかりしろと背中を叩いてくれたのだろう。

 それら教訓のベクトルは、身近で俺から見て絶対的な弱者である(すみ)へとすぐに向かった。妹で、年下で、病弱で……まさに守るべき存在。

 だから大切に大切に、精一杯に守った。

 その結果、勘違いをさせ傷付けてしまい、昔の俺のように殻に閉じ込めさせてしまうなんてことになるのは、まさに皮肉そのものだった。

 初めての失敗――と言うにはあまりにも罪が重い。

 姉さんはあんな幼い時期にあれだけ俺を見事に救ってくれたというのに、俺はこの歳でそれもできないのかと当時は自分をずいぶんと見下した。

 ……まあこの話はここまでにしておこう。


「あの時はただの居候が、調子にのっちゃってごめんなさいね……?」


 そう。居候。

 姉ちゃんが親に捨てられて、俺は内心で少し喜んでいた。

 お返しができる。

 姉ちゃんといっしょに暮らせるって。

 ……まあ頭の悪いガキの言うことだ。勘弁してやって欲しい。

 どうせ数年後には痛烈な後悔が因果応報として与えられるのだから。

 同居することになった姉ちゃんは、イメージがガラリと変わった。

 ぽやぽやと陽だまりのように温かいその人は、少し鋭くなった。

 小学生の頃からアルバイトをし、自分の身を自分で守るためか剣道を学び、倫理と規律を重んじる清き人となっていった。

 誰もが嫌がるようなことを率先して行い、曲がったことを許さない。

 一言で表すなら、精神的に自立していた。

 きっと一秒でも早く大人にならなきゃ、と考えていたのだろう。

 そして香田家に対して罪の意識を常に感じていたのだろう。

 小学生となった俺は幼いなりに学び、そんな居候として息の詰まりそうな日々を過ごしていた姉ちゃんを、本当の姉にするよう『ようしえんぐみ』というヤツを両親に持ちかけ、働きかけていた。

 最初は『そのうち引き取りにくるだろう』と考えていた両親も時が経つにつれて、俺のそんな説得に対し真剣に考慮してくれるようになった。

 ――いや、実際に養子として迎え入れる準備をしてくれた。

 ある夕食の時、みんなの目の前で父さんがいつもの調子で言葉少なく。


『神奈枝、このまま家族になるか?』


 そう言ってくれた。その時のことは今でも鮮明に覚えている。

 幸せな瞬間とはまったく逆の意味で。

 ……わけがわからなかった。どうしてなんだ?

 しばらく絶句したその後に、姉さんが『嫌だ』と泣き叫んでそのまま自室へと閉じこもったあの瞬間のことは、忘れられない。

 俺の理解の範疇を越えた反応だった。

 その瞬間から、姉さんはどこか壊れてしまった。


 ” 家族になりたくなかったんだ “


 結果としてそれは俺の心に、深い深い傷を残した。

 ――いや、たぶん家族全員の心に……か。

 少しだけ成長した今ならわかる。

 神のように強靭で絶対的な存在と思っていた父さんも、ひとりの人間で、きっと勇気を振り絞ってそう話したのだろうって。


「……そして、罪を犯してどこかへと逃げ出した」


 もういい。その話はしたくない。

 姉さんは悪くない。何も悪くない。むしろ俺が犯した罪だ。

 あれだけ、女の子は守らなきゃって思っていたのに。

 困っている人を助ける存在になりたいって願ったはずなのに。

 ……むしろそれを教えてくれた人を。

 一番の恩人を。一番近くに居たその人を。

 俺は助けることができなかった。


「――どうして死んだんだよ、神奈枝姉ちゃん……っ!!」


 罪を犯した神奈枝姉ちゃんは、家を飛び出して行方をくらました。

 遺書と靴だけをこの海岸に残し、入水自殺した――……と聞かされたのはそれから一ヶ月ほど後だった。

 その現実を受け入れられず、何度も何度もこの海岸に来ては探した。

 しかしその努力も一年ほどで擦り切れて。


「鳴門――さんか。よく覚えてるな……俺なんか原口がその名前を口に出すまで完全に忘れてたよ?」


 自然と俺は、家族と同様に忘れる努力をするようになっていた。

 『どこか知らない遠くへ転校してしまった人』。

 そう設定するようになっていた。

 年に一度、神奈枝姉さんの誕生日にここへと来て、内心で祝うその日だけを除いて。


「――……ただいま、孝人くん。ずっと会いたかった」


 そんなの、当たり前だ。

 ずっと会いたかった。あの時、去って行くその手を捕まえられなかったことをずっと謝りたかった。


「おかえり……神奈枝、姉さん」

「はいっ」


 もっともっと、カッコつけて言いたかった。

 成長した自分の姿を見せたかった。

 あの頃とは違ってて、困ってる人……大事な人を守ってあげられる、立派な男の子になれたよって、証明したかったのに。


「ふふ……予定よりずっと早くに、お迎えに来ちゃいましたっ」


 俺を優しく抱擁してくれる姉さん。

 十数年も経過して、結局何も変わらない。

 泣き虫で寂しがり屋な弱い俺は、いぜんとしてこの心の真ん中に存在していたことを改めて自覚してしまう。


「っく、そっ……」


 恥ずかしい。このぐしゃぐしやな顔、とてもじゃないが見せられない。

 なのに。


「ふふふっ……か~わいいっ♪」

「か、勘弁、してくれよぉ……」


 抱擁されたまま、頭を撫でられてしまう。


「はい孝人くん、ちーん?」


 俺をその豊満な胸の中から上半身だけ少し解放すると、綺麗なレースの入ったハンカチを取り出して伏せている俺の顔へと向けていた。


「い、いやいいからっ」

「でもハンカチ、ちゃんと持ってるの~?」

「……ティッシュ、あるから」

「もうっ。久しぶりなんだからもっとお姉ちゃんに甘えていいのにぃ」


 ぷーって膨れて批判しているその視線の中で、俺はズボンの中からティッシュを取り出し、顔を拭う。

 ……ああ……ようやくちょっとだけ心が落ち着いてきた。

 さっきヤバかった。

 まるで洪水みたいに過去の色々なことが一気に蘇って頭の中がいっぱいになってしまってたな……。


「やぁんっ、孝人くん可愛いぃ……お姉ちゃんキュンキュンして死んじゃううぅ~~っ!!!」

「は、ははは……勘弁して……」


 涙を拭い、鼻をかんでるとそんな黄色い声を出して俺の頭を何度も撫でまわす神奈枝姉さん。


「――……ん? 迎えに、来る……?」

「うんっ?」

「さっき、そう言ってたけど……」

「ああ……はい。そうなの。さっき孝人くんが『どうして連絡してくれなかったんだよこのバカ間抜け』って怒ってたでしょ? そこのお返事」

「そんなこと言ってない……」

「あと一年待って、お姉ちゃん側の状況が整ったら、孝人くんのところに迎えに行こうと思ってたの」

「一年?」

「高校、卒業になるでしょ?」

「……うん。まあ」


 それと迎えに来るということが上手く結びつかない。


「孝人くん18歳になるし、誰かに取られちゃう前に真っ先にプロポーズしに行こうかな~って♪」

「……」

「はっ!? お、お姉ちゃんじゃおばさん過ぎますかっ……!?」

「……いや。思考とツッコミがとてもじゃないが追いつかないだけ」

「プロポーズはね、お姉ちゃんのただの願望だから無視してもいいの!」

「……いいんだ?」

「ええ。その時はお姉ちゃんが一生養ってあげようかなーって♪」

「なんつ~恐ろしいことをさらっと……」


 なんだろう。

 さっきまで色々と姉さん側から本人であることの証明を繰り返しやってくれていたけど、それらよりこの一言が一番説得力あった。

 これ……この懐かしい感覚。

 マイペースでトコトン甘えさせようとしてくる、この前のめりなスタンスは間違いなく初期型神奈枝姉さんだ。


「……変わったよね」

「そう? まあ……変わっちゃったかも?」

「というか大昔に戻ったというか」

「姿だけは、おばさんになっちゃったけどっ」

「そんなことないよ。大人っぽくてすごく綺麗だ」

「やぁーんっ、やんやんっ!! そんなことさらっと言えるぐらい孝人くん立派に育ってくれて、お姉ちゃん嬉しいわぁ♪♪」

「ははは……花婿修行だってこんな風に育ててくれたのは姉さんだろ?」

「やっぱり結婚しましょう♪」

「しません」

「はぁーい……前妻で我慢しまぁーすぅ」

「前妻でもないし」

「えーっ! ちゃんと結婚してくれたじゃないのよぉ~!?」

「五歳児の発言に何を期待してるんだよ……そもそもそれ、姉ちゃん――姉さん、が、そう言うように仕向けていただけだし」

「もぅ~、なんでそこ、わざわざ言い直すのぉ!?」

「……ただの昔の癖が出るだけ。この歳だし『姉さん』でいいだろ?」

「だめですっ! そこは『お姉ちゃん』って甘えるべきよぅ!?」

「もう甘えないよ、姉さん」

「…………すっかり大人になっちゃってぇ」


 いやいや。

 どっちかっていうと昔を知っている姉さん相手には、どうやっても子供っぽくなっちゃう自分を強く自覚した。


「ううぅ~んっ……」

「?」

「あぁん、だめっ……孝人くんのカッコイイ顔見てたらお姉ちゃんキュンキュンが止まらなくてキュン死しちゃう~っ♪♪♪」

「それはまた新しい死に方だな……」

「お姉ちゃんは二度死ぬ!」

「何その、よくわからないサブタイトルみたいなの……」

「やっぱり今すぐ結婚しましょう!」

「しません」

「お姉ちゃん孝人くんのこと、ちゃんと一生養ってあげるからぁ~!」

「……だから恐ろしいこと言わないで」

「やーだやーだぁ、孝人くんとこのまま結婚するぅ~!!」

「というか年齢的にもできません」

「――やっぱりおばさんだからっ!?」

「違うって! 俺の年齢の話っ!」

「もーっ、孝人くんの頑固者ぉ!!」

「頑固とかそういう問題じゃないからな、これ!?」


 もうすっかり昔懐かしいノリを取り戻す俺たちだった。

 こんなの互いにもちろん本気じゃない。

 これは互いに何も変わってないって確認するための作業みたいもので、からかって遊んでいるのはその目を見たら一目瞭然だった。


「もぅ。仕方ないわねぇ……はいはいっ、お姉ちゃん降参! じゃあ……そうねぇ。せめて帰る前にちょっと寄り道だけしてもいい?」


 そして最終的には折れてくれる姉さん。ここまで含めてやっぱり昔ながらのやり取りだった。懐かしいなぁ。


「寄り道? いいけど?」



   ◇



「きゃーっ!! 孝人くん何やってるのぉ!? 走行中に車のドアを開けちゃダメでしょうっ!?」

「ここ何!? その建物、何!?」

「えー……」


 俺が指さす目の前の建物を姉さんもちらりと見て。


「――……お城?」

「これ、ラブホっていうの、ラブホーッ!!」


 人差し指を自分の唇に当ててテレ臭そうに笑う神奈枝姉さんだった。


「わあ……それはびっくり。さっきここの前を通った時にお城っぽくて気になるなぁ、見学したいなぁって思ってただけなのよぉ」

「今、スムーズにドライブスルーで受付に入ろうとしてたよねっ!?」

「そうね! 瞬時に理解する人間の本能ってすごいわね!」

「咄嗟に車のドア開けてゲートにぶつかるようにした俺も自分の行動に感心したよっ!!」

「ねえねえっ、建物の中どんな風になってるか孝人くんも気になっちゃうわよねっ?」

「まったく気になりませんっ」

「ほらっ、孝人くんもこの後、人と会うのでしょう? ちょっと顔洗って涙のあとを消しておかないと恥ずかしいわよ……?」

「もっともらしいことを、ぬけぬけとぉ……!! もういいっ、俺、ここから走って――」

「あぁんっ!!」

「ちょっ、と、突然バックしないで!?」

「帰りますぅ! お姉ちゃんちゃーんと孝人くん連れて帰りますぅ!!」


 自動で俺の頭上のドアが降りて来て、建物へと続く私道からUターンし、海沿いの国道に戻る神奈枝姉さんの車。


「孝人くんの意地悪ぅ~!!」

「まるで俺が悪いみたいに言うなっ!?」

「ちょーっとこの数年のブランクを手っ取り早く埋めようかなーって思っただけなのにぃ……くすんっ」

「一気に埋め過ぎだろっ」


 ……ただ、まあ。

 姉さんの意図というか、意思はわかった。

 これも過去、犯してしまった罪に対しての向き合い方かなって思った。


「姉さん」

「ぐすっ……なぁにぃ?」


 そろそろこの部分とも、ちゃんと向き合わなきゃな。

 俺は一番デリケートな部分と対峙する覚悟を心の中で決めた。


「俺、嫌じゃなかったから」


 俺のその一言を聞いて、ハザードを点けて神奈枝姉さんは車を停めた。


「……」

「もしかしたら、気にしているかなってさ」

「…………うん」

「むしろあの時は……まだわけもわからなくって……怖がってごめん」

「ごめんなさい……」


 ハンドルに突っ伏して、顔を隠して小さな声で神奈枝姉さんは謝った。

 実際、あんなのはまわりや姉さんが言うほど罪じゃない。

 ただの未遂。

 そりゃそうだ。あんなガキが()つわけない。


「あの時の姉さん……寂しかったんだろ?」

「……うん。とても」

「そんなにウチの家族になるの、嫌だった?」

「……」


 返事はない。


「……いけない。時間」


 俺の待ち合わせの時間を気にしてだろう。

 そう口にすると真っすぐ正面を向いて神奈枝姉さんは車を走らせた。


「……」


 どうやら俺こそデリケートな部分を一気に埋め過ぎようとしてしまったみたいだ。

 姉さんは生きていた。こうして再会できた。

 ……ならば、もう急ぐ必要はないだろう。少しずつ補えばいい。


「ほんと……ごめんなさいね? お姉ちゃんって壊れちゃってるから」


 すっかりさっきのことなんて無かったかのように、くすっと笑って舌を出す神奈枝姉さん。

 否定したい。

 でも……今はもうこの部分の問答を繰り返す必要はないだろう。

 ゆっくり後でいい。

 でも強いて言えばひとつだけ、伝えたいことがふと思い浮かんだ。


「俺には謝らなくていいよ……でも、未には謝って欲しい」

「未ちゃんに?」

「あいつ……ほら。あの時に目撃しててさ……それが幼いながらにすごくショックだったらしい。今でも――」


 ――おっと。それはいいか。蛇足だ。


 ” 兄さんを(けが)しておいて “


 未が神奈枝姉さんと再会した時に叫んでいた言葉が連鎖のように俺の頭の中に浮かんだ。

 未が何かにつけ、性的な部分に結びつけたがるのもたぶんあれが関係しているだろうと俺は考えている。

 ショックと共に、愛情表現の究極型であると刷り込まれたのだろう。

 姉がああいうことするなら、私も――そんな風だろうか?

 あるいは穢されたなんて発言から察するに、憎い姉から同じ方法で兄を奪い返したい……そんな発想なのかもしれない。

 本人じゃないからわからない。

 でも少なくとも、無関係だなんてとても思えない。

 あの出来事は未の心に大きな影響を与えた。

 未から見たら、神奈枝姉さんは家に土足で侵入してきた犯罪者。

 ああ、いや。それは神奈枝姉さんもたぶん同じ認識。

 そういう憎しみに囚われてしまっている未の心を、姉さんから話すことで少しでも軽減してくれたらと――


「もちろんいいけど……でも、どう謝れば良いのかしら」

「――え?」

「未ちゃんの大切な男性を先に奪って、ごめんなさいって?」

「……」

「意地悪を言うつもりはないけど……孝人くんは未ちゃんのモノなの?」

「それは……」


 違う、と言いたかった。

 そうじゃなくて、香田家をぐちゃぐちゃにして――と思考が進み、俺の中で矛盾が生じた。

 違う。姉さんは罪を犯してない。

 そこを咎めるつもりはまったくない。

 強いて言えば未成年である幼い俺に――と考えてこれもナンセンスと感じてしまった。

 年上ではあるものの当時の姉さんもまた未成年で、今の俺どころか今の未よりずっと幼かった。何より物理的にも精神的にもより所のない酷く追い込まれた当時の姉さんが、唯一心を通わせていた俺により深い繋がりを求めるってむしろ自然で……何も罪じゃない。

 俺はそう思ってる。

 むしろなんでちゃんと応えて助けてあげられなかったのかと、そういう後悔をしているのが俺だった。

 そんな俺が、謝れって? 罪を認めろって? ――酷く矛盾してる。


「ごめん、姉さん……そういうつもりじゃなかった」

「ううん……そうね。今度会ったら未ちゃんにちゃんと謝るわ。まあ……あの調子だと、とても許してくれそうにはないけどっ」


 困ったように眉を下げて肩を狭める姉さんだった。


「矛盾したこと言って、困らせてごめん」

「いえいえ~、妹思いの優しいお兄ちゃんになってくれて、お姉ちゃんとっても嬉しいわ」


 そうだ。むしろ神奈枝姉さんのほうが遥かに筋が通ってる。

 法律とかそういうことじゃなく……少なくとも互いにとって『あれ』は罪じゃない。過ちじゃない。

 だからそれを否定したり無視したりせず埋め合わせようと、さっきあんな風に勇気を出して実行しようとしてくれていた。決して重くならないように俺の意思を確認してきた。

 もちろん俺は、深山や凛子が大切だ。

 だからそれを拒むのも決して間違ってない。

 ――いや、拒むだろうことまで織り込み済みで、それを笑い話として過去にするため、あんなお膳立てをしてくれた気がした。

 それを俺は見事に咎めて無駄にしたどころか、妹に謝れって責め立ててしまった訳か。完全に選択を間違えてしまった。


「はぁ……」

「ん~? 疲れちゃった?」

「ううん、楽しかった。ありがとう姉さん」


 『俺はなんて子供だ。ごめん、姉さん』。

 そんな無粋な言葉を呑み込むだけで精一杯だった。


「あぁんっ、そんな悲哀の混じった可愛い顔しないでぇ~! お姉ちゃんせつなくて運転中に死んでしまいそう~っ♪♪♪」

「ハンドルから両手離さないでっ!? 違う死に方しちゃうからっ!!」

「あのね、あのねっ!? お姉ちゃんもとっても――」

「いいから前見てぇっ!!!」

「――もぅ……今、アシスト入ってるから大丈夫なのにぃ。孝人くんってば意外と前時代的ぃ~!」

「古い人間で悪いけどっ、俺、そういうの信じてないからっ!」


 プログラムをしている人間だからこそ、AIによる運転アシストなんてものが万能ではないことをよく知っている。あくまで『アシスト』なんだ。

 多分現状でも人間より遥かにすぐれた判断と適切な運転をするだろうけど、それでも人間の感覚と補い合って初めて真に正しい結論となるはずだ。

 プログラムが神の領域に達しない限り、そう信じている。


「はいっ、前見て! さっきまで真面目に運転してただろっ?」

「はぁい」


 そう言って不満そうにしながら、姉さんがハンドルを持って正面を向き直すその瞬間。


 ――……タランラン……♪


「ん?」


 不思議な音が耳に届いた。


「はぁい、エインセル。なぁに? 今取り込み中なんですけどぉ~?」

「……?」


 電話かな?って一瞬思った。

 そういや俺とも運転中に話していたぐらいだし、ハンズフリーの設備ぐらいはこんな高級車、普通に標準装備されているだろう。

 アシスト機能が進んでからは運転中の通話に対する規制も緩まってるし、こうやって堂々と話をしても何も問題はない。


「――ええ~っ、それはちょっとあたし困っちゃうなぁ! それは確かに緊急事態ねぇ」

「……」


 ただ、神奈枝姉さんが耳にイヤホンのようなものを付けているようにも見えなかったので、相手側からの音声がまったく俺に聞こえないのが不思議だった。単に、指向性が極めて高いスピーカーなのかもしれない。

 しかしまるで――


「そうね……じゃあ副隊長くんに隊長さんを探してって伝えて。そう、たぶん街中をぶらぶらしてると思うから。うん。よろしく頼むわね~!」


 またどこかから奇妙な音が響く。

 たぶんそれで先方との会話は終了となったようだった。


「ごめんなさい、急な連絡が入って」

「EOEから?」

「…………ええ」


 ――そう。まるでチャットみたいだ、と俺は直感したのだった。


「何だよそれ……リアルと連絡できるとか……チート過ぎだろ!」

「ふふふっ、ごめんなさいね?」

「それって、ユニークアイテム?」

「さあ? どうかしらね~」


 とぼけられてしまった。

 まあそりゃそうだ。

 俺たちはEOEではライバル関係なわけだし、むしろEOE内と直接連絡を取り合えることを認めてくれただけでも出血大サービスだろう。


「みんなには、ないしょね?」

「それを脅しのネタにするというのはどうだろう?」

「あら。それは困っちゃうわね。ふふふっ。孝人くんからどんなお願いを強要されちゃうのかしら?」

「……しないよ、そんなの」

「あら、残念っ♪ 孝人くんのお願いならお姉ちゃん、何でも叶えちゃうのにぃ!」


 以前の、俺たちの会話をふと思い出す。


「俺の人生を捧げたら……アナザーも使わせてくれるんだっけ」

「ええ、それはもう♪ 何不自由ない生活、保障しちゃうんだからぁ!」

「ありがとう」

「えっ! お、お姉ちゃん本気にしちゃうわよっ!?」

「いや、そうじゃなくて……破格な条件に感謝してるだけ。実際嬉しいけど、それは決してお願いしない」

「もぅ~! 思わせぶりなんだからぁ」

「実力でもぎ取るから、問題ない」

「あら……一位を?」

「そうなるね。もちろん一刻も早く必要だから、今度の決闘(デュエル)大会でってことになる」

「ふふふっ、レベル1の初心者さんが生意気言っちゃってぇ♪」

「……油断すると、痛い目みると思うよ?」

「あら、それはご忠告?」

「ああ」


 すっかり姉弟じゃなくて、ランク一位と三位の会話になってしまった。


「わかりました。孝人くんのご忠告、ちゃーんと受け止めておきます」

「胸を借りるつもりで挑むよ。まあ絶対に勝つけど」

「お姉ちゃんのこのお胸……借りちゃうの?」

「いやらしい意味じゃないからっ」


 せっかくの心地良い緊張感が台無しである。


「あーあ、もったいないのぉ。孝人くんが『助けて~』ってお願いするなら、お姉ちゃん大抵のことは助けちゃうんだけどなぁ?」

「……当然、それなりの見返りを要求するんだろ?」

「あら。もう過去から学習しちゃったのね」

「さすがにね」


 相手の厚意に甘え、一方的に得をするような関係なんて不健全である。

 利害がまったく一致してないのにずいぶんと虫の良い話だ。

 だからもし万策尽き果てて姉さんに頼るしかない状況となるなら、むしろ俺からこの身を捧げるべきだろうと思う。

 しかし俺は残酷な判断をした。

 深山があと一ヶ月間EOEに閉じ込められるより、俺の人生のほうが遥かに重たいって。

 認めたくないけど……でも、それは当然の健全な判断。

 姉さんに指摘されて、しっかりと思い知らされた部分だった。


「――だから、勝つよ。勝って実力でもぎ取る」


 これでいい。

 これで負けた後にKANA――姉さんにもし泣きつくなんてしたら、史上最低にカッコ悪いことになる。

 どうやっても俺は勝たなきゃいけなくなる。

 これでこそ奮い立つ。


「そっかぁ……そんなに大切にされているミャアちゃんが本当に羨ましいわ。お姉ちゃん、嫉妬で思わず本気を出しちゃいそう」

「むしろぜひそれで頼むよ。そうだな……EOEとリアルで連絡が取れるっていうさっきの情報、本気で戦ってくれるなら秘密にするってことでどうだ?」

「あら。それは好都合♪」

「じゃあそれで」


 わざわざ相手を本気にさせるなんて、どうかしてる……と後で深山あたりに怒られてしまうだろうか?

 ――いや、違う。

 たぶん姉さんはこんな風に焚き付けなくても、元々手を抜くつもりなんかまったくなかっただろう。

 きっと俺なんかよりもっと多くの守らなきゃいけないモノを抱えてる。

 EOE全体を背負っているような人だ。

 そして何より俺の知っている後期型の姉さんは不正なんて大嫌いで――


「ふふふっ……すごく楽しみ」

「そうだね」


 ――負けん気が強く、駆け引きや勝負事が大好きな人だった。



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