#071a 妹と、女の未
「――明日……剣を受け取ったら、兄さんとお別れしたいと思います」
未から届けられるその突然の一言で、直前に告げられていた謎のパスワードのことなんか頭から全部抜けて行った。
「お別れ? どうして」
「……」
無言。
「別れて未はどこに行くんだ」
「最果てのダンジョン……大会当日までレベルを上げています」
「そっか、それ自体は良いことだと思うけど。でも無理しないで定期的にここへ戻ってくれば良いんじゃないのか?」
「……いたくない」
「どうして」
「……」
さらに無言。
「もしかしてそれってさ」
「はい」
ちょっと迷うけど……でも、あれしかなさそうだ。
「模擬戦で深山と交わした約束が何か関係してる?」
「……」
また黙られてしまった。
「素直になるんじゃなかったのか?」
「……はい」
「でも話せない?」
「はい」
なるほど。
模擬戦で交わした約束が実質的に『誓約』なのだと深山から教えてもらっていたが、どうやらそれで間違いないらしい。
つまり『素直になる』という誓約に勝るほどの強い強制力が今の未に働いているのだろうとすぐに理解することができた。
「――兄さん」
「うん?」
「未にもっと強い誓約……入れてくれませんか?」
「強い誓約?」
「例えば……『本人の意思に関係なく本音しか口にできない』とかです」
「どうして」
「……」
またしても無言。
ここから未の意図を推測するなら……より強烈な誓約で今の自由に答えられない縛られている状況を打破したいということなのだろうか?
「いや、ダメだ」
不自由な未には悪いが、その提案は即座に却下する。
冗談じゃない。まるで深山に課せられたあの酷い誓約文のようだ。
そんなの、認めるわけには決して行かない。
「どうしてですか」
「深山がそれのせいでどれだけ苦しんでいると思う?」
「……? どういう意味ですか?」
「え?」
「つまりレイカは……『本音しか口にできない』という誓約に縛られているということですか?」
「……」
そうか、未は知らなかったのか。
意図して秘密にしていたわけじゃないが――いや。果たしてそうか?
未と深山が対立するだろうことは目に見えてわかっていたのだから、もしかしたら無意識にその情報を除外していたのかもしれない。
その証拠に今、改めて真実を告げようか迷っている俺がいた。
「少し違う。『質問には何でも正直に答えなきゃいけない』というような内容だ。今の未とは真逆に近い状況だな」
結論としては、未を信頼して正しい情報を伝えることにした。
沈黙していては、実質的にもう肯定しているに等しかったからだ。
「そう……うらやましい」
ずいぶん皮肉な話に聞こえた。
あれだけ苦しんでいる深山の境遇をうらやましがるなんてな。
つまり未にとってはそれがリスクと感られないほど、自由に発言できない今の状況というのがいかに苦痛なのかというのもここから感じ取れた気がした。
「ね……兄さん。お願いします」
そう未は俺を呼ぶと、ゆっくりと手を差し出すように俺へと向けて。
「未の、せ……誓約紙、に……書いて……くれ、ません、か……?」
震える手で、それでも精一杯に自らの誓約紙をポップさせる。
言い方が悪いのは重々承知だが、しかしまるで壊れた人形のようだった。
あまりにもぎこちない言動。
必死の抵抗。
――それは紛れもなく、誓約による強制力の発動に他ならなかった。
「……こ、れ」
「ああ」
一目でわかる。だってそこは普段、記入できない余白部分なのだからどう見たって不自然だ。
『負けた者は五日間、対戦相手を一切妨害してはならない』
誓約紙の一番上の余白部分にその一文は書かれていた。
ラウンジに転送された時にも同様のことがあったことから考えて、たぶん外部からの特別な誓約はここに追加されるということなのだろう。
「なるほど。つまり未はこの文章の存在を俺に説明すること自体、深山に対しての妨害行為になると考えているのか」
「……」
確かに未のこの誓約を知ることで、深山にとっては不利益なことしか起きないだろう。
例えば俺が未のことを気の毒と思って心配するだけで、深山に対するある種の妨害と言えるかもしれない。
「だから『誓約を書き加えて欲しい』と違う建前を用意して、俺に内容を見てもらうように仕向けた……?」
「…………」
もちろんそれは建前でしかない。
本人が自覚している以上は、どうあってもそれを否定できない。
この未の長い沈黙がそれをすべて表している。
でもこうして結果的に実行できたという観点から察するに、未の中でこれらの行為が本当に深山への直接的な妨害に当たるのか半信半疑なのだろう。
その分だけ強制力も、抗える程度には少し弱まっているようだった。
「見せてくれてありがとう。ようやく事情は理解できたよ。でもこれ、元々は未が提案した内容なんだろ? 少し気の毒と思うけど自業自得じゃないか」
震えて抵抗し、俺に誓約紙を見せながらふるふると未は何度も小さく首を左右に振る。
「兄さん……書、いて……書いて……?」
「え?」
「……本人の意思、に、関係なく本当のことしか、しゃべれないっ、て」
「?」
よくわからない。
俺にこの誓約の内容を知らせることが目的じゃなかったのか?
「明日、から……会えなくなる、から……っ……ちゃんとお話、したい」
「それってわざわざ誓約に書かなきゃいけないことなのか?」
「うんっ……ほんと、の、お話……したい、です…………兄さん、が……ログアウト、しちゃう前……にっ……」
たどたどしく息を漏らすように未が説明してくれた。
誓約を使わなきゃいけないほどの『本当の話』ってなんだろう?
「ログアウトする前に?」
怖くもあるが……正直、少し興味もあった。
そして純粋に嬉しい部分もある。
この二年間の空白を埋めるような動きを、こんな明確に未のほうから示してくれるなんて泣きそうなぐらいだった。
――でもしかし、未に深山みたいな厳しい立場を意図して与えるようなこともしたくない。
どんなに表層的には冷静に見えても、未の中身は多感な女の子なんだ。
今、こうして誓約の力に頼りたいぐらいに複雑で、ナイーブなんだ。
「いや、止めておこう」
結局、俺は断った。
真実を口にすることが正しい行為とは限らない。
もう少し言えば、おそらく未からの赤裸々な告白がこの先に待ち構えている気がした。
それを受け止められる自信はないし、たぶん何も応えられない。
つまり、いたずらに未を傷つけてしまう未来しか見えなかったのだ。
ここは『俺に対してあらゆる真実を告げてもいい』というその未の覚悟だけ、ありがたく受け取っておこうと思う。
「嫌、です」
「未……少しずつでいいと思うんだ。そんな誓約を使ってまで、無理やり急がなくていい。もう充分に、互いに歩み寄りが始まってるだろ?」
「……嫌です」
かたくなな未が、何度も首を振って俺の言葉を拒む。
だが例えここで未が泣き崩れても、叫んでも、暴力で脅しても決して俺の意思は揺るがないだろう。
俺は大事な未を傷つけたくない。それがすべてだ。
「書いて、ください……」
「未」
――そう思っていた。自分を過信していた。
いや、失念していた。
そのヒントはせっかく直前の会話の中で提示されていたというのに。
「兄さん、の手で……『本人の意思とは関係なく、真実しか話せない』と、書いて欲しいん、です……!」
未が強い言葉でそう断言した瞬間、俺の中で何かが起こった。
「え? あれ? え……え……?」
勝手に……手が動いてる。
まるでテレビ画面。
目に見える光景は変わらず自分の視界だけど、果てしなく遠くに感じる。
映画でも眺めているかのようだ。リアルだけど、決して自分がその視界の向こう側と接することはできないような、絶対的な疎外感。
「兄さん……嬉しい、です」
俺は今、誓約によって強制的に動かされていた。
『書いて欲しい』と求められ、その言葉通り俺の手を差し出していた。
――あまりにも愚かだ。
俺には『求められた物はすべてを差し出す。』という誓約があったことを、信じられないことに今の今まで完全に忘れていた。
こうして発動して初めて『ああ、そういうのあったっけ』と惚けた台詞が口から出てきそうなぐらいだった。
そして疑問に思う。
今まで未と散々話していて、一度も『欲しい』と求められたことがなかったのだろうか?と。
……あったと思う。でもたまたま偶然、実行不可能な願いだったり、あるいは俺自身も同意する内容でこんな強制力が発動する機会がなかっただけなのだ。
「あ……ぐっ……」
事前に説明しておけば良かった――いや、未が俺の誓約のことを知っていたら間違いなく利用していただろう。
なら、むしろずっと秘密にしてなきゃダメだった。
さっき、深山の誓約のことを未が知らなかったと把握した時『じゃあ俺の誓約のことも?』と考えが進まなかった自分の愚かさを自覚する。
「いや……待て……ダメ、だっ……待てっ……」
どうにか口でだけ抵抗の意思を表すことができたが、それ以上のことは一切できない。
深山みたいに自分で行動を一時的にでも抑制させることすら不可能。
まるで万力みたいな絶対的な力に押さえつけられてしまったかのよう。こんなの、どうやっても抗えない。
震える指先が、全自動で未の誓約紙へと触れる。
「ダメだってば……待て、俺、待て……っ……!」
「……兄さん?」
俺の口先だけの抵抗を見て未が教えられた通りに首を傾げ、疑問のジェスチャーを示した。そして。
「もしかしてそれ、誓約の力……ですか?」
ついさっきまで自分が受けていた現象だからか、その答えへと結びつくのにさほどの時間も必要なかったようだった。
「そ、そう……だよっ……!」
「それはどんな誓約内容ですか……?」
「……」
俺は息を呑み、黙る。
もうそれしかできない。
「教えてください……」
「……」
問いには沈黙で返すのみ。
しかしそうしている間にも、未の誓約紙へと俺の視線誘導による文字入力は進んでいた。
「ぐ、ぁ……!!!」
基本的には未の要望の意図から反してないからだろう。
むしろ未を守る意味で利益をもたらすと言っていい。
だから記述される一文には、ほんの少しだけの軌道修正が可能だった。
『本人の意思とは関係なく真実しか話せない。孝人には。』
強引な倒置法だが、とにかく短文を付け足すことができた。
どうやら最悪の事態だけは免れた……未を守れたと安堵したのとほぼ同時に、それでようやく誓約による強制力から解放される俺。
崩れるようにそのまま床にしゃがみ込んだ。
酷い脂汗がエモーショナル・エフェクトとして発生していた。
「わからないです。どうして兄さんに誓約の力が働いたのですか……?」
どうやら強制力からの解放は未もまた同じらしい。
深山にとって不利益となりそうな誓約紙の提示が終わって、いつも通りの淡々とした自然な口調に戻っている。
「……」
さて、どうしたものか……。
見えない心の何かがガリガリと削られてて、まともに頭が動かない。
「――兄さんの手で、兄さん自身の誓約紙に『本人の意思とは関係なく真実しか話せない』と書いてください……」
さすが俺の妹、というべきか。
さらりととんでもない命令がさっそく飛んでくる。
「……」
「……今度は発動してないみたいですね」
まずい。検証を始めやがった。
何か上手く未の意識を別の方向に誘導させなきゃ――
「兄さんの手で、未の胸を触って欲しいです」
「――……っっ……!!」
いや、待て。俺の手、待て。
どこにその手を……。
「こういう時は、あん、とか言うべきですか?」
「……」
「黙られてしまうと……すごく悲しいです」
しゃがみ込んでいる俺の目の前に、未の顔が近づく。
「兄さんから、キス……してください」
「……」
俺は無言で顔を逸らす。
妹相手に、それはあり得ない。
「なるほど。大体わかってきました……つまり『欲しい』と――」
「――未。相手に強要させて、それで満足か?」
その言葉を制するように、俺は未に対してまず向けたことのないような鋭い視線を送る。
「いえ。満足ではありません……兄さんの気持ちがなければ、こんなのまったく無意味です」
「だよな? なら――」
「――ええ。ですから」
未は一切動ずる様子もなく、淡々と問う。
あるいはすでに本人の意思とはまったく関係なく、さっきから自動的に未は言葉を口にしているのかもしれない。
だとすると……それはきっと妹としてではなく、ひとりの女として発せられた未の心の声だろう。
「嘘偽りのない未への素直な気持ちを、ありのまま聞かせて欲しいです」