#030 ふたりきりの長い夜
「いってきま――すっ!!」
大きく手を振っている笑顔の凛子が、光の粒子となって目の前から姿を消した。
「行ったな」
「……はい」
これからはたぶん2日に1回、こんな別れがあるのに。
ただの日常の一部なのに、妙にセンチメンタルな気分になってしまった。
……そっか。これが置き去りにされる側の気持ちか。久しぶりに味わうかも。
置き去りにされるのは、幼少の頃から正直苦手だ。
「……」
もし立場が逆で……さらに、俺が去るために凛子の目の前で頭を撃ち抜かれて死んだりしたら、そりゃもうたまらないものがあるかもしれない。
やはり俺のログアウト方法は一考が必要そうだ。
「…………」
しかし……凛子が去った途端、急に静かになるなぁ。
深山とふたりきりか。
あの衝撃的な告白を受けた夜以来――……ああ、それは意識しないでおこうか。深山に伝播しちゃって変な雰囲気になってしまいそうだ。
「…………?」
しかしそれにしても、何か、妙に静かだなぁ。
「深山?」
「――…………っっ……はひっ!?!?」
あ。もう手遅れだった?
「……」
「……っっっっ……!!!!!」
あー。
さっき、やたら凛子が去る時に深山が狼狽していた理由、やっと理解出来た。
ふたりきりだと異常に意識しちゃって間が持たないわけか、これ。
「深山」
「は、は、はははいっ!!!!」
「とりあえず、会話をしよう」
「はいっっ……!!!」
「じゃあ深山から、どうぞ」
「はいっ…………」
さっきから『はい』しか言ってないような気が。
というわけで、深山に振ってみた。
「……」
「……っっっ……」
どうしよう、これ。
「…………こ」
「こ?」
「こんにち、は…………深山玲佳、と、申します……っ」
そこからっ!?
「は、はあ。こんばんは。俺は香田孝――」
「――ああっ、こ、こんばんは、でしたねっ!!」
グダグダである。
「今夜は、綺麗な月、ですねっ!!」
「……そうですね」
「えーと……えーと…………明日はどんな天気――」
「――深山、どうしたの。さすがに不自然過ぎないか?」
「だ、だってぇ~っ……!!!」
「だって?」
「……ちゃんと、落ち着いて……ふたりきりで話すの……慣れて、ません……」
「そう?」
「…………はい……」
深山とはすでに結構な量の会話をこの数日間で話したつもりだったけど、深山本人にとってはそうではないみたいだ。
「な……なに、お話、しようっ……!?」
「まあそういうことなら、無理に話題は作らなくてもいいよ」
「ううんっ、したいのっ!! ずっと、ずっとわたし……こういう時間に憧れててっ……香田君と、ふたりきりでお話したくてっ……夢見ててっ……!!」
「そっか」
……それは光栄な話だなぁ。
「でもっ……いざ、こうしていると…………何を、お話すればいいのか……」
「教室のノリではダメなの?」
「え?」
「ほかのみんなとは、ワイワイといつも楽しそうに会話してるじゃないか」
「あれは…………違う」
「違うんだ?」
「相手が香田君じゃ、ないから」
「……」
さすがに疑問を抱いてしまうが……。
まあ、こんなのでも無言よりかはマシか。
「……どうして俺のこと、そんなに想ってくれてるんだ? 深山は怒るかもしれないけど、やっぱり俺としては特に接点持っていた記憶も無くて」
「うん…………わたしの一方的な想いなのは、わかってる……」
もしかしたらさっきの言葉を受けて、気を遣ってくれているのかもしれない。
少しだけ『教室の深山さん』っぽい雰囲気で話してくれていた。
「……去年の弁論大会」
「あ! そう、よく覚えてくれてたね。昼間、会話に出て来て驚いたよ」
そう。『ほどほど良い感じ』なんて言い回し、深山が素で出す言葉じゃない。
「そりゃ……もちろん覚えてる。わたしが香田君のこと、異性として意識した最初のキッカケだし」
瞳が真っすぐにこちらへと向けられる。
大きなリボンはミャアだけど、その雰囲気は教室の、俺の席から左にふたつ、前にひとつ離れたところに座るあの深山玲佳さんそのものだった。
「本気で……尊敬した。感動した。救われた気がした」
「ははは。ありがとう。あんな内容で恥ずかし――」
「――あんな、とか言わないで!!」
「…………う、うん。わかった。ごめん」
もう完全に、教室の中の俺たちの関係性だった。
深山は強気で、俺は消極的で。
「ごめん。香田君にとってはそうなのかもしれないけど……わたしは違う」
どっちが、本当の深山なんだろう。
「あの日、香田君から受け取った言葉は……考え方は、わたしの大切なキラキラした宝物。例え香田君本人でも、それを侮辱するのは許さない!」
「うん、悪かった。以後気を付ける」
「――…………はぁ……ほんと、ごめん」
こっちが偽物? 演技? いや……全然そんな感じはしない。
「とにかくそれでわたしは勝手に、一方的に香田君によって救われた。でも香田君は教室の中でいつも過小評価されてて……それがわたしには不満だった」
「それで守ってくれてたのか。いつもありがとう」
「――っっ……!!!」
俺が必然として何気なく感謝の言葉を告げただけなのに、まるで深山は愛の告白でも受け取ったみたいに目を大きく見開いて、紅潮させて震えてた。
「やったっ……やっと、ほんとのこと、伝えられたっ……!!」
握りこぶしまで作って、喜んでいる深山。
「好きなの。実は好きだったんだ、香田君!」
まるで深山から風が吹いているみたいだった。
心が……魂が引っ張られてしまうような、思い。
「気が付かなくて悪かったよ。でも、いつも視線は感じてたよ?」
「そうだよっ、いつもあんなに見てたのにっ……全然気が付いてくれないっ!」
「悪かったよ」
「ううんっ……実は、わたしがこんな風に自分で自分のキャラクターを作り上げちゃって。実はそれで身動きが取れなくなっちゃっただけでっ」
「でもそれは、俺のことを守るために必要だった……?」
「そうなのっ!! 半分は、そうなの……」
「半分?」
「残り半分は……見栄で……」
「わかるよ、教室のアイドルだもんなぁ。端で小さくなってる俺なんか――」
「また『なんか』って言った! わたしの尊敬する憧れの香田君を!!」
「――……はい、悪かったよ。気を付ける」
「…………はぁ……っ……その……そろそろ、いいですか……?」
「え?」
「教室のわたし……今となっては、虚勢ばかりであまり好きじゃなくて」
「うん、ありがとう。無理させていたとしたなら、ごめん」
「ううん……香田君がたぶん正解でした……やっぱり『あっち』なら、ちゃんと話せるね?」
凛子みたいに完全な演技とはまったく違う。
裏表で矛盾や破綻を起こす乖離した二重人格とも違う感じ。
同居してて、まるで服でも着替えるように切り替えられるんだな、深山は。
「でも……アイドルってぇ…………香田君、言い過ぎだよぅ」
「完全に否定しないってことは、それなりに自覚あるんだろ?」
「意地悪っ…………そりゃ、頑張ったもん……それが残り半分ですっ!」
「? もうちょっとわかりやすくお願い」
「だ、だからぁ……香田君に好かれるようにっ、香田君の好み、わたしなりに考えてっ、頑張って磨いて作り込んでみたんですっ……!!」
「……」
ちょっと、びっくり。
「それなりに自信あったのだけど…………だめ、でしたかっ……?」
「いや、良し悪しの以前に、どうしてそんなことを、って戸惑いが大きい」
「戸惑い……?」
「メガネ掛けてる頃の深山で、もう充分に魅力的だったから。そこから作り込む必要はあったのかなぁ……って」
「――――っっっ……!?!?!?」
大きく息を吸って、そのまま動きを完全に止めてしまう深山。
視点すら合ってないような……?
「見て……くれてたん、ですか……?」
「どうして? いつも窓際で本読んでて……それこそあの頃のほうが、いつも俺の近くに居てくれてて、凄く印象深かったけど」
「玲佳、なのに?」
「……?」
不思議な質問をされてしまった。質問の意味が正直わからない。
「えと…………どうし、よう……わたし、わかんなく、なってきちゃった……」
「深山? 大丈夫?」
俺なんか比較にならないぐらい、深山本人が酷く混乱しているようだった。
「わたし……間違ってた……?」
『ました?』じゃなくて『ってた?』という言い回しで、今は教室の深山さんが俺へと質問しているような気がした。
……ああ、そうか。
それは確かに教室の深山さんを否定しちゃっていたかもしれない。
「いや、まったく間違ってない。何度でも言うよ……深山、俺をいつも助けてくれてありがとう。心から感謝してる」
「うん……うんっ……!」
「憧れで言うなら、教室の深山に対してが一番強く抱いているよ。前に話した気がするけど、まるでテレビの画面の向こうの芸能人みたいに輝いてた」
「あはっ……うん。わたしも香田君が、それと同じぐらい、遠くて輝いてた」
ぽろりと涙が一滴だけ、深山の澄んだ綺麗な右の瞳から落ちた。
「メガネの深山はどこか近寄りがたくて、まさにお嬢様って感じで」
「うん……きっとそれで合ってる」
「実は俺、語尾が面白いミャアさんのことも結構好きなんだけど?」
「そ、それはぁ……恥ずかしい……ですっ」
残念。語尾に『みゃあ』は付かなかった。
「EOEの……この世界の、きっと一番素に近い深山は……健気で、深刻な空気も和ませてくれるような優しい雰囲気の人で。でも強くて。だから気の毒で、思わず守ってあげたいと思う、そんな深山かな?」
「…………はい……香田君に守られたい……深山です」
「この中では、一番好きな深山かも」
「こんなわたし……なのに?」
すかさずお返しとばかりに、俺は深山のおでこを少しつついた。
「こら」
「ひぅ……っ」
「俺の一番気に入ってる深山を、侮辱するな」
「あ」
俺はしてやったりと目を細めて笑う。
「あ、ありがとう、ございますっ……」
「怒ってるのに感謝とか、『深山』のMはマゾのMか?」
「ああ……!」
そこ、普通に感心しなくていいから。
「じゃあ凛子ちゃんの『佐々倉』は、サドのS……?」
「いや、凛子はドMじゃないかと」
「うーん? そう??」
どうやら見解は一致していないようである。
まあ深山は凛子のことをまだあまり知らないのだから、当たり前か。
「――ふぁ……っ……」
「ん? 深山、もう眠たい?」
いや、俺の感覚がおかしいのか。
たぶん今って夜中の1時とか2時とかで、眠いほうが普通だ。
「ううんっ、ううんっ……!!」
「無理しなくていいって。じゃ、横になって身体だけでも休めてようか? 眠くなったらそのまま寝ていいから」
「え、あっ……」
遠慮しがちな深山のために率先して俺は頭上に浮かぶSS本体を回収し、薪となる枯れた枝を全て焚火の中に放り込むと、その場で横になって見せた。
「ブランケットでもあればいいんだけど」
「……香田君、寒いの?」
「いや、そんなことはないけど……落ち着かないというか、何か人肌寂しいっていう――」
言い掛けて、言葉を失う。
目の前に横たわる深山があまりに近くて。
「――うん……少し、わかる……かも」
深山がさらに身体を寄せてくれる。深山の膝や、腕が微かに触れて、ちょっと首を伸ばせばキスが出来てしまえるぐらいの距離。
「……香田、君……」
「……うん」
深山の澄んだ真っすぐな瞳に、吸い寄せられてしまいそうな不思議な錯覚を感じる。
「…………おやすみ、なさい」
「あ、うん……おやすみ」
スッ……と音もなく深山がその大きな瞳を伏せ、そのままゆっくり目を閉じる。
俺はしばらく、そんな深山の寝顔を見届けることにした。
「……」
……本当に綺麗な人だなと思う。どこを切り取っても、画になる。
目を閉じているから、長いまつ毛がよく見える。
垂れるしなやかな細い髪。小さな口。艶やかな唇。
深山から漂う、花束みたいなフローラルな香り。
肌……きめが細かくてツルツルとしてそうだった。
こんな綺麗な深山が……俺のこと、好きなんだよな?
「……っ」
思わず視線を逸らす。
このままじゃ深山の唇、奪ってしまいそう……なんて考えていたその思考が、強制的に停止させられる。
逸らした先に、深山の豊満な胸の谷間があった。
KANAさんみたいな成熟した――ある意味で『だらしない』肉感じゃなくて、きゅっ……と引き締まった『弾力がありそうな』肉感。メリハリが凄くある。
ウェストがあんなに細くて、どうして胸だけはこんなに大きいのだろ?
凛子は『ふわふわ』って言ってたけど……触ったらどんな感触なんだろう。
直接なんて贅沢は言わない……服の上からでも、触れてみたい。
「はぁ……」
完全にこれは目の毒だ。
このままじゃ本当に手を出しそうで、強引に俺も目を閉じる。
「……」
まあ当然、その分だけ妄想が脳内で広がってしまう。
こんな清潔そうな……綺麗な女の子が、あの深山玲佳が、俺との妄想……してるんだよな?
そう考えるだけで、情けないことに何度でも興奮してしまう。
もうずっと内心では、それを繰り返し色々な時に思い返していた。
……ああ、マズイ……また『あれ』が蘇ってきてしまう。
あの日、深山が赤裸々に告白してくれた内容が脳内で再生される。
封印したはずなのに。
ヤバイ。ヤバイって。止まれ。
「……はあ」
……っ!?
いや、タイミングこそ絶妙だったけど……そのため息は、俺じゃない。
「孝人君……?」
孝人君、か。
やっぱり深山は、自分の中ではそっちで呼んでくれているんだな。
「ね……孝人君……起きてますか……?」
たぶん深山は起きてないことを期待してる。
というか今、ちょっと俺は冷静に深山と言葉を交わすことなんて無理で、利害も一致しているのでこのまま寝ているフリを続けた。
「…………嘘、みたい」
聞いちゃ悪い。
出来れば今すぐ、俺は寝よう。意識を閉ざそう。
「孝人君と……こうしてるなんて、嘘みたい……っ」
確かに俺も、そんな感じ。
あの深山玲佳さんとこうしてるなんて、嘘みたいだ。
「……ね……孝人君……孝人君は、どうしてあの時……手を、貸してくれたんですか?」
手を貸す?
「触って……嫌じゃなかったの……? あんな汚らしいの……」
――ああ、それ……か。
深山もそれを思い出すの、当然だよな。
「……ね……どうして、普通にして……くれるの?」
普通なんかじゃないよ。凄く意識してるよ。
「大丈夫だよって……気にしないで、って……笑ってくれるの……?」
だって……それは、深山を傷つけたくないから。
「わたし……どう孝人君と接したらいいのか……わかんないよ……ぅ……」
深山……もしかして、ちょっと泣いてる?
「いっそ、気持ち悪いって拒絶してくれたらいいのに……」
出来るわけないだろ、そんなこと。
「そうしたら……諦められたのに……凛子ちゃんに……全部、譲ってたのに」
……言葉が見つからない。
「凛子ちゃん……うらやましい、なぁ……孝人君と、キスしてて……」
……。
「いいなぁ……いいなぁ…………キス……したい、なぁ……」
……寝ろ、俺。ほら、今すぐ寝ろよ。
でなきゃ……今すぐ起きて、深山の唇を奪いそうだ。
「香田、く、んっ……」
「――ん? 深山……? 起きてた、の?」
「っっ!?!?」
たまらず俺は、目を覚ました……ということにした。
案の定というか、目を開けると、もうあと数センチで深山と唇が触れ合う距離まで接近していた。
「ご、ごめっ、ごめんなさいっ……!!!」
「え? 何、が?」
決して上手い演技とは言えないけど……でも、そうやって惚けるしかなかった。
「う、ううんっ、ううんっ……あ、あははっ……」
顔を真っ赤にさせて狼狽える深山、ちょっと可愛い。
「ごめんなさいっ……そのっ、少し、寝ぼけててっ……」
「そっか……ふぁ……いつの間に俺、ウトウトしてたんだろ……」
なんかふたりして、茶番が酷い。小学生の学芸会並みだと思う。
「じゃ、改めてちゃんと寝ようか?」
「は、はいっ……」
俺は自分の意思とは反して、顔を逸らすように少し寝返り、そのまま天上の星たちを見上げた。
見たこともない星の海。
変に興奮していた心が落ち着くようで、しばらくそのまま眺めることにした。
「ね。あの真上の星……ちょっと竜みたいに見えない……?」
「ん?」
隣の深山も未だ、起きて星を眺めているみたいだった。
「ほら、わたしたちから見て斜め上へと連なる星たちが、首で。その先に集まってる星たちが頭」
「あー……角に見えなくもない、かも?」
「うんっ。そうすると下のほうは大きく広げてる翼……かなって?」
「なるほど。じゃああれは竜座にしよう」
「くすっ……その名称は実在するからだめですっ!」
「え。リアルに竜座ってあるの?」
「有名で大きな星座だよ? 香田君でも、知らないことってあったんだ?」
「……どんだけ俺、深山の中で凄い人になってるんだよ……」
「くすくすっ……お互いさま、ですっ」
「たしかに」
そういやいつだったか、深山も俺の中の深山が凄すぎる、みたいなことを言っていたな。
「ではあれは……火竜座にしましょう!」
「俺たちのパーティ、星座になっちゃうんだ??」
「うんっ。将来、この世界に名だたる有名人になったら、そう宣言しちゃうの」
「そりゃ……壮大な目標だなぁ」
「ふふふっ♪」
深山、楽しそうだ。
「香田君が来るまで……夜はずっとこうしてました」
「え? 夜の間、ずっと?」
「うん……夜はマニュアル読む気になれないし……」
「なるほど。じゃあほかにも星座を創ったりしてた?」
「うん……沢山創ったけど……忘れちゃいましたっ」
「はははっ。まあ、そんなもんか」
「はい。そんなもんです……っ」
「――シャイニングスター、か」
「え」
「いや……もしかして深山、星が好きだったりする?」
「う、うんっ……中学生までは、本気で天文学者になるつもりだったぐらいは」
「へぇ! そうなんだ? もう目指してないの?」
ややしばらく間があって。
「……うん。諦めちゃった――ううん、違うって思っちゃった……のかな?」
「違うの?」
「母との折り合いを付け過ぎて……変な妥協点がそこなんだと気が付いたの」
「…………妥協点、か。悪くないと思うけど」
「ううん……自分のもっと『好き』は別にあったのに、無理やり母が納得しやすいそっちを選んでたから……もういいの」
「そう……深山がそう判断するなら、そのまま突き進むといいと思うよ」
「はいっ。ほどほど良い感じに休みながら、進みますっ!」
「ははは……ありがとう」
「ううん。こちらこそ、道しるべを示してくれて、ありがとう」
ほんとに深山の中の俺は神様か何かみたいだと思った。
恐縮してしまう。
「……あの、良かったら……話の続きをしませんか?」
「うん? 星座の?」
「ううん……自己紹介の、続き」
どうやらあのぎこちない会話の続きのようだった。
「えっと……凛子がドMか、Sかって話だっけ?」
「くすくすっ……もう凛子ちゃんの話は結構ですっ! ふたりきりの今ぐらい……わたしと香田君の話をさせてください」
「凛子を持ち出したの深山からなのに、勝手だなぁ」
「はい、勝手しちゃいます!」
ゆっくり深山は身体を少しだけ起こして、俺のほうを向いたようだ。
それに倣って俺も少し深山を見る。
「それで? どんな会話が待ってるんだ?」
ランタンと燃える枝に照らされる深山の顔は、やっぱり綺麗だった。
ちょっと俺を覗き込むような姿勢で、内心ドキッとしてしまう。
「はいっ! えと……そのぉ……では、質問ですっ」
「うん」
「…………どんなタイプの女性が好みですかっ……?」
「え?」
「っ……!!」
まるでお見合いの場か、合コンみたいな質問が飛んできた。
……いや、どっちも参加したこと無いから勝手なイメージだけど。
「確かに好きな髪型とか、嫌いな性格とかそういう要素毎の傾向は持ってるけど、総体として『こういう人が好き』という明確なイメージは持ち合わせて無いかな。つまり強いて言うなら『好きになった人がタイプ』……という感じ?」
「それ、ちょっとズルい大人な逃げ方みたい」
「うっ」
たぶん図星である。
そういやどうでもいいけど『図星』ってどうして図の星と書くのだろう?
「そうは言うけど……じゃあ、もし何か自分の好みが先にあったとして。本質的に考えて、それに適合する人を選ぶような方法をやってる限りは、その選んだ人のことを別に好きなわけじゃないと思うんだけど……?」
「……そうですか。うん、そうかもしれないですね……」
途端にしょぼくれてしまう深山の声。
……ああ、いかんな。今のは会話を閉ざす方向にした俺が悪い。
「――ああ、そうだ。あったよ、俺の好みのタイプ!」
「えっ!」
なので、ちょっと強引だが訂正して挽回を図ることにした。
「良い匂いがしてきそうな、清潔感のある人!」
「あはは……そう、デスカ……」
「え、あれっ!?」
正直、ほとんど深山そのものを指しているような気持ちで言ったつもりだったんだが……お気に召してもらえなかったらしい。
まるで地獄にでも突き落とされたみたいな、絶望の顔をされてしまった。
「じゃあ深山は?」
「え」
「深山の好みのタイプは?」
「――…………その、わ、わたしより大人で」
「お、おう」
おいおい、開幕から同じ歳の俺は除外されてしまうわけだが?
大丈夫か?
「どこか涼し気で、ちょっと強引で、自分の考えをしっかり持った人で」
すぐに赤面して、相手の顔色を窺い、リベラルな俺はどうすれば。
「優しくて……思いやりがあって……包容力があって」
う、うん。ここらへんは……なんとか、努力次第だな。
「頭脳明晰で……沈着冷静で……思慮深くて」
学年トップクラスの深山より頭脳明晰とか無理っぽいんだけど!
「前髪にシルバーのステキなワンポイントがある、香田という苗字の人、です」
「……」
「――……好きです」
ただの雑談のはずが、いつの間にかとても大切な話に切り替わってしまった。
今度は俺が返事に困ってしまう番だった。
「いや、それこそっ、深山、返事しているようで、してないだろっ?」
「え。あれ? くすっ……うん、そうかも?」
どっちが話をはぐらかしているのやら。
いや、どっちも、か。
「では……香田君のご趣味は何ですかっ……?」
まだまだお見合いみたいなノリは続くようだった。
「えーと。ゲームとか……あと、今はプログラムの勉強」
「じゃあ、将来はゲームのプログラマーですか?」
「いや。たぶんそうはならない」
「え?」
「ゲームは消費するもの。プログラムは創るもの。俺の中では全然違うチャンネルだ」
「へえ……もうちょっと詳しく聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「香田君が遊んでいたゲームで気に入った作品とかあると思うのだけど、そういうのを遊んでて『こういうゲーム創ってみたい!』なんて思わないの?」
「うーん……『過去の名作ゲームみたいなものを創れる俺』になりたい気持ちは正直無いかな」
「どうして? その考え方って間違えてるの……?」
「いや、入り方としては間違えてないと思うよ。最終的には『自分はどんなゲームを創れるか』に向くべきだと思うけど、最初はそういう憧れから入るのも悪くないと思う。俺はもっと違う理由で……うーん……」
そういや明文化したことが無いな。
上手く言葉に出来るだろうか?
「趣味と仕事は混ぜたくないっていうか……いや、それも俺が抱いてるものとは違う建前みたいなものなのかな。自分の考えがまとまって無くてごめん」
「ううん……全然そんなこと、ないよ?」
「?」
凄く熱っぽく見つめられていることに今さら気が付いた。
「どうしたの?」
「悩んで思案を巡らせてる香田君って、カッコイイなっていつも思ってる」
「……ありがと」
正直、照れてしまう。
「――ああ、うん。結局はそれかな。なんだ……結構エゴが強い答えが出てきてしまったぞ? 困ったなぁ……」
「エゴが強い?」
「うん。ゲームってたぶん数千万円――あるいは数億円という予算を掛けて、大人数で創られて行くソフトウェアだろ? そこには多くの人の生活が掛かってて、最低でも何億円の売り上げが見込めないと……なんていう超えなきゃいけない商業的なハードルや、発売までの納品締切日や、何万人というお客を相手にして、誰も不快にさせない表現の配慮なんかもきっと存在していると思う」
「うん……それで?」
「つまるところそれは俺個人の手に余るんだ。俺は誰にも邪魔されず、俺ひとりで悩んで、思案を巡らせて、俺が思うベストを追及したい。今のゲームの開発やそれを取り巻く環境は大規模過ぎてそんな俺のワガママをたぶん許さない。それが見えちゃってるからゲームは好きだけど、創りたいとは思わないんだと思う」
「そっか。香田君は……研究者気質なんだね?」
「まあ、そもそもプログラムも研究者である父さんの影響だからなぁ」
「香田君のお父さん……の仕事ってこと?」
「うん。人工知能の研究」
「へえ! じゃあ香田くんもお父さんの仕事を継ぐの?」
「いや……俺はたぶんそうしない。父さんの後を追わないで、俺が全てを費やしたいと思う何かを見つけて、それを追いかけたい。父さんへの憧れは、最初の一歩だけ」
「まだ探してる途中なんだ……?」
「そう。勉強の途中だし、探している途中。まだ何も成してない」
そこで一度、ちょっと考えて。
「……たぶん俺は、車とかの動作制御の技術者になりたいんだと思う」
「まだ探している途中なのに、妙に具体的だね?」
「うん……俺のやりたいことだけは明確化しているんだ。つまるところ俺は、誰かの助けになりたい。より多くの人を幸せにしたい」
「ふふっ、香田君らしいね? でも、それは……例えば介護とか、教師とかではダメなんですか?」
「ははは……うん。ダメじゃない。そういうのも良いよね。大切な職業だと思う。でも俺って効率重視で研究者気質の人間だから、きっとそれじゃ物足りない」
「物足りないの……?」
「もっと多くの人を助けたい。例えば介護なら、俺ひとりでやると数人が限界だけど……もし介護のロボットを開発出来たら、世界中のより多くの人を助けられるだろ?」
「ふふふっ……そっか。それで技術者……?」
「そう。『こういう時はこうして』『こういう場面ではこうして』という動作制御のプログラムを組んでいる時、凄く自分の長所を活かしている実感がするんだ。誰かのために先回りして、その行動の枝葉の先まで配慮して考えてあげる時に、不思議な充実感がある」
「うん。それ、香田君っぽいかも」
「だよな? 理屈っぽい俺らしい長所」
「理屈っぽいっていうその表現は……ちょっとわたし、意見したいですっ」
「違うの?」
「そういうのは……思慮深いって言うんですっ」
「……うん、ありがとう」
素直に感謝の気持ちでいっぱいだった。
「ふふふっ……」
「うん?」
「また香田君の秘密をひとつ、知っちゃった♪」
嬉しそうに瞳を輝かす深山。
そんな大層な話でも無いのにな……ちょっと気恥ずかしい。
「じゃあ、そういう深山玲佳さんのご趣味は何ですか? 星は好きみたいだけど、それ以外で」
「えーと。カラオケでしょ? 読書でしょ? あと香田君を眺めてることっ?」
「最後のはどーかと」
深山は珍しく、少しだけ視線を逸らして。
「――ごめんなさい、少し訂正」
「ん?」
「特にカラオケとか……教室にいる玲佳が答えそうな無難な内容でした」
「そっか」
深山は自信無さそうに、もじもじと身体を揺らせる。
「……笑われちゃうかもしれないけど……わたし、童話とか好きで……」
「笑うわけないだろ? 俺、そういう人間に見える?」
「あっ……ごめんなさい……決して見えないです」
おっと。マズイ。
今、ちょっと自分が思っていた以上に言葉に感情が載ってしまったかも。
「こっちこそ悪かった。それで……深山は童話とか好きなんだ?」
「うん……小さい頃から絵本とか読むの好きで。魔女とか、雲の上の王様とか、お菓子の国とか、魔法使いとか、竜の背中に乗って空を飛んだりとか……そんな空想の世界に憧れてて」
ああ、だから魔法で火の玉を出すの、あんなに喜んでたんだ?
何かの絵本に、そんなシーンでもあったのかな……?
「あの、それでね? これ……誰にも話したことないんだけど……」
「うん? 何?」
「……しょ、将来……絵本作家に、なりたいなー……って……」
「凄くステキな夢だね!」
なるほど。それが天文学者より真にやりたいことなのか。
そして、だから趣味=仕事って俺の話にもそう直結していたのか。
真っすぐにその道を目指したい深山からしたら、俺のは確かに屈折している。
「ほ、ほんとっ!? おかしくないですかっ!?」
「まさか。嫉妬しそうなぐらい真っすぐで、良い夢だと思うよ。深山らしい」
「わたし……らしい?」
「うん。純粋で真っすぐな深山らしい」
「う、嬉し……あ、ぅ……ごめんねっ」
深山本人も意識してなかっのだろう。
不意にポロッ、と涙が溢れたみたいで、慌てて指で拭っていた。
「俺も深山の秘密を知ることが出来て、嬉しいよ」
「……ほんとに?」
「もちろん本当に」
「少しはわたしに興味……持ってくれましたか?」
「ああ、凄く興味を持ってるよ」
「嬉しい……なぁ……」
噛みしめるように深山がつぶやいている。
「それじゃ、わたしに聞きたいこと、何かありませんか?」
「深山の秘密、全部知りたいぐらいだよ。もっと色々聞かせてくれる?」
「え、あっ……」
「え?」
――だから、つい、油断してしまった。
「こ、香田君っ……そ、その質問、はぁ……っ……」
「え。あっ!?」
深山には、特別に卑劣で最悪な誓約があったことを、忘れてた。
「わたしの秘密っ……わた、しの……秘密、全部っ…………」
「聞きたくないっ! 深山、俺は聞きたくないから!!」
いやいやと首を何度も振って、顔面を蒼白にしている深山の腕を乱暴に掴み、俺は彼女の耳元でうるさいぐらいにそう叫ぶ。
「秘密っ……秘密って、ぜ、全部? 全部、話さなきゃ……ダメ、なのっ!?」
「深山っ!! いらない! いらないからっ!!!」
これは、ただの言い訳だけど……さっきから俺は色々な質問をしていた。
もしかしたら自覚していないだけで、過去にも沢山の質問をしていたかもしれない。
でもどれも質問された深山にとっても不都合の無い内容ばかりで。
だから互いにこの瞬間まで完全に忘れていたのだと思う。
せめて……せめて、さっきの『好みのタイプ』辺りで気が付くべきだった。
あの時の返事だけは必要以上に細かいところも含めてちょっと異質で、誓約が働いたような形跡が振り返ると垣間見えていたというのに。
「――やだっ……やだやだっ……せっかくっ……せっかくやっと香田君とっ……楽しい、お話、してたのにぃ……わたしの、秘密、なんかっ……!!!」
取り乱して苦しそうに悶える深山。
どうやったら、救える?
どうやったら深山に掛かる強制力を止められる……?
「わたしの秘密……秘密っ……絶対に、ぜったいに香田君には言えない秘密――」
「深山、ごめんっ……深山、いいからっ……!!」
これじゃ、またいつかの再現になってしまう……。
ただ『聞きたくない』『しゃべるな』と抑制しても何も解決しない。
わかってる……わかってるけど、他の手立てが今、この瞬間には思いつかない。
こうして目前で深山が苦しんでいるその現実は、俺を強烈に責め立てていた。
「今も――」
「深山、いらない! 聞きたくない!」
「すぐそういう――なこと、――でぇ…………っっ……!!」
泣きながらイヤイヤと首を何度も振ってる深山。俺もその自動で動く深山の口に手を当てて物理的に遮るけど、でもほとんど意味も無い。
こんなの、ただの時間稼ぎにしかならない。
結局は深山が『全部伝えた』と思うまでは延々と続くだけだった。
「――やめてぇ……っ……言わせて、よぅ……っ……!!」
「え……」
「本当はっ、誓約のせいにして、ぇ……全部、言いたいのっ……恥ずかしいこと、全部ぜんぶ孝人君に伝えたいのっ……知って欲しいのっ……!!」
「――……っっ……」
涙ながらに訴える彼女のその強烈な本音は……俺の判断を一瞬だけ鈍らせそうになった。でも。それでも抗う。
「香田君がっ、わたしとしたい、って言っ――から、――したくて酷くてぇ……っ……ずっとずっと――考えてばかり、でぇ……っ!!!」
俺が右手を使って彼女の口を塞ぐと顔を逸らし、左手で覆うと手で払い、深山は自動的に全力で抵抗する。
「深山……もう、いいからっ……! 充分だからっ!!」
ガクガクと震えて大粒の涙を落としている深山。
やっぱりそれは理性の彼女がこれ以上なく誓約の強制力と戦っている表れに違いなかった。
「ま、また孝人君の手――って、――したい、のっ……!!」
どんなに口を塞ごうとしても、身を捩り、顔を逸らし、その度に深山は抵抗を繰り返す。
何も聞こえない、何も理解出来ない。
本当は意味がわかるけど、俺は心を閉ざして彼女の告白を受け入れない。
「ぁ、ぐっ!!!」
ようやくちゃんと彼女の口を力任せに塞いだと思った瞬間、深山の膝が俺の鳩尾にめり込み、同時に手の肉を齧られてしまい、激痛に思わず顔を歪ませる。
それでも。それでも俺の心は折れない。
深山の右手首を左手で抑え込み、左手首を右手で捕まえ、全身の体重を掛けて伸し掛かり、脚に脚を絡めて完全に身動きを取れないようにして……そして――
「このまま――んんんっ……!!!!」
――他に手立てもなくて、必然的に口で口を塞いだ。
「んんんっ、んんっ、んんんんっっ……!!!!」
まるで取り押さえられた獣のように全身を使って暴れ続ける深山。唇や舌先を噛み切られるが、それでも俺は深山を離さない。
それは、これ以上ないほど乱暴な深山との初めてのキスだった。
「んっ……んんっ……ん……んん……っ……」
ようやく発作みたいな深山の抵抗が弱まり、それに比例して軽いパニック状態だった俺たちは、次第に心を落ち着かせていく。
「んー……んんっ……んっ……」
いつの間にか、深山は俺とのキスに酔いしれてくれているみたいだった。
深山が俺のことを好きでいてくれて、本当に助かる。
細かく角度を変えて、深く重ね合っている唇を何度も味わってくれている。
今度はこっちの刺激で頭がクラクラとして来るが……でもようやく訪れたこの猶予を俺は逃さない。
ようやく思考を巡らせられるだけの余裕が生まれた。
「ん……こぅ……と、くっ……んんっ……」
細かく細かく唇を動かし、舌を鳴らして深くキスを味わっている深山は、言葉じゃない形で、俺にデリケートな秘密を伝えようとしていた。
むしろ深山から俺へと身体を擦り寄せて、密着を味わっている。
深山自身が書いたあの誓約の一文によってそれ以上に行為がエスカレートすることは無いが……でも、彼女のもどかしいほどのその気持ちはこれ以上無いほどに強く強く伝わってきて、俺を惑わしていた。
こんな綺麗な深山からひとりの男として求められていることに、たまらない喜びと興奮を覚えてしまうけど。でも、これは違う。
誓約でこじ開けられた秘密に便乗してしまうのは違う。
もし応えるというなら、それはこんな誓約から解放されている時に……そして俺から望んでそれに応えなきゃ、ダメだ。
――そう。そうだ……自分から『そう』思えなきゃ、ダメなんだ。
ようやく俺は自分の中で解を得た。
今までの経験から。かき集めた情報から、ようやく突破口を見つける。
「んっ……深、山っ……」
「んんんっ……!」
俺からゆっくり唇を離そうとするが、しかしさっきと真逆。皮肉なことに深山からその口を塞がれてしまう。
俺の身体を弄ろうとしているその華奢な手を乱暴にならないように気を付けて捕まえて、優しく優しく包む。
――まず大切なのは、彼女を安心させること。
何を差し置いても、まずこれが最初。
誓約による強制力のことばかり考えてしまいがちだが、それを導いているのは彼女自身の心だ。
『秘密=性』という偏った回答がそれを物語っている。
頭ごなしに封じれば封じるほど、執拗にそこへと意識してしまう。
切迫した彼女の心が、『最も答えたくない』問題を自ら選んで自分から自分を追い込んでしまっている。これはさっき『絶対に香田君には言えない秘密』と彼女自身が口にしていた言葉が証明していた。
……であるならば、まずは追い込まれてしまっている彼女の心を救うこと。
彼女の心を安心させることが、結果的に絞り出そうとしているその自動的な心の作用や動力源を断つことに直接繋がると、そう確信した。
「んっ……深山、に……こうして求められるの……嬉しい、よ?」
「っっ……!!!」
まだまだ誓約の強制力は働いているようだが、しかしちゃんと俺の話を聞いてくれている様子だった。
――これはさっき、初めて唇を重ね合った時に得たもうひとつの確信。
俺からの反応を、深山は求めている。
それはそうだ。ちゃんと理屈で考えたら必然だった。
いくら口を塞いでも止まらない――それは秘密が俺に伝わらない限りは終わらないこということだ。
つまり『秘密を伝えられたか?』を彼女側が絶えず確認していることを意味している。
故に『俺がちゃんと秘密を受け取ったという事実』こそが大切なのだ。
そういう誓約なのだ。
俺は、馬鹿だ。
物理的に口を塞ぐなんてことは、何の解決にもならない。俺が心を閉ざし、聞かなかったことにしていてはまったく解決にならない。
まして『いらない』とか『やめろ』なんて最も最悪な返事だった。
そうじゃない。
むしろこうして秘密のことに対してリアクションを起こすべきだったのだ。
ほとんど単純に阻むための手段でしかなかった、この口で口を塞ぐという行為が、結果的に救いだった。
つまるところ現在の彼女の秘密とは、性の問題だ。
誰でも抱えているごく当然で凄くデリケートな問題。
なぜそれが最も伝えられない秘密になっているかというと、究極的には『俺に拒絶されたくない』という一点に思う。
だから俺が態度で応じられたことが、彼女にとって大きな救いになった。
唇同士を重ね合わせるなんて行為、嫌悪している相手には到底無理。
その結果、『絶対に言えない秘密を伝える』という誓約の表層的な強制力は、跳躍したその本質への返答によって力が弱まったという理屈だ。
「孝人、くぅんっ……ん、んんっ……孝、人君っ……」
ふと急に、こんな熱っぽいキスを繰り返している最中に、こんなこと考えている俺って変かなぁ……なんてちょっと突き放したことを考えてしまった。
――いや、これでいい。
ただ感情や行為の興奮に振り回されているより、むしろずっと彼女のことを本質的に愛してあげられていると思う。
理屈っぽい俺らしい愛し方。
あ、最後に大切な一言をちゃんと伝えなきゃ。
「――『ぐらい』だから……」
もう夢中になっちゃってる彼女の耳元へと、俺は囁く。
これがきっと最後の決め手。
これできっと彼女は、今の強制力からちゃんと解放される。
「俺は秘密を知りたい『ぐらい』と言っただけだから。実際に全部を知りたいんじゃなくて……あれはただの例え話、だからね……?」
こんな安い理屈、頭ごなしに押さえつけるように言っても決して通用する内容じゃない。
でも、心から安心して、俺に最も大事な部分を伝えられたと確信している今ならきっと、彼女の心には伝わる。
こんな安い理屈でも納得してくれて、受け入れてくれる。
――どこかで俺は勘違いしていた。
誓約って、別に外部からのシステム的な干渉じゃない。
強制力から解放されるかも含めて、それら全てを判定するのは彼女自身の心が決めることだったんだ。
だから俺は、力でねじ伏せるんじゃなくて。
否定するんじゃなくて。封じるんじゃなくて。
ちゃんと彼女と向き合って、彼女の心を説得するのがこの問題の解だとそう確信したのだった。
俺がどうこう、じゃない。
彼女が自分から『そう』思えなきゃ、ダメなんだ。これは。
「――あの……ねっ……わたし、ねっ……?」
「うん?」
息も絶え絶えな深山が、夢中になりながら上の空でつぶやく。
「香田、君とっ……ずっとずっと……一緒、にいたい、のっ……」
まるで小さな子供みたいな独白だった。
「こんなの引かれちゃう、と思うっ、けどっ……ずっと、ずっと、思い描いて、るのっ……」
俺の背中にしがみ付きながら、深山が告白している。
「ずっとずっと、一緒にいたいのっ……楽しい、ことや、つらいことも、一緒に分かち合ってっ……」
「うん」
変に倒錯的な力の掛かっていない、もっと深くの、彼女の本当の秘密。綺麗な彼女の、本当の心の姿。
「ふたりだけ、の思い出を、持ってっ……ふたりだけの秘密、持ってっ」
俺の胸の中で大粒の涙を絶え間なく落とす彼女の顔は、でも凄く穏やかだった。
「おじいちゃんと、おばあちゃんになっても……ずっとずっと一緒でぇ……っ」
やっぱり思う。
深山って、俺よりずっと大人なんだなって。
「貴方のっ……隣に、ずっと……ずっと、寄り添って、いたいですっ……」
どこまでも綺麗で美しい深山の心の秘密。
結局俺は、何も間違っていなかった。
彼女は現実から逃げない。嫌なことから目を逸らさない。
彼女は簡単に屈しない。自分の大切な部分を曲げない。
そして――
「香田君、とっ……いっしょに……歩みたい、のっ……」
――彼女は、俺と比較も出来ないぐらい、どこまでも高潔だった。
◇
深山の願いに応えて。
封じられていた欲求を部分的に開放してあげて。
心の安定を得た深山が幸せそうに俺の胸の中で眠って。
それからが、地味に地獄だった。
俗物な俺は、苦しんでいた。
綺麗な深山に自分から触れて、興奮して仕方ない俺の健康な身体。
どうやってもどうやっても、収まらない。
地面を叩き、頭を打ち付けて、抗う。
鎮め方が無いその苦しみは、どうやっても吐き気が収まらない船酔いのあの感覚にちょっと近かった。
つまりこれは、決して吐くことが許されない船酔い状態……だろうか。
せめてもの救いは、深山が一度も起きずに深く眠っててくれたことで……この七転八倒ぶりを披露しないで済んだこと、ぐらいだろうか?
「――……あ、香田君っ…………そ、その…………おは、よ……」
「ん……深山……?」
そうして苦しんでいる間に意識も混濁としていたのか、いつの間にか俺も眠っていたらしい……逆に、深山に朝の挨拶をされてしまった。
いつの間にか、夜は明けていた。
そういや昨日はほぼ徹夜だったもんな。
ポジティブに考えるなら、抗うことに疲れ切って意識を失ったからこそ、鎮まるまでの苦しみから早くに開放されたと喜ぶべきだろう。
爽やかな朝の空気が周囲を包んでる。
俺は重たい頭を持ち上げるようにして、身体を少し起こすと――
「――すみませんでした……」
そこにあるのは、本気の土下座をしている深山玲佳さんだった。
「ど、どうしたっ」
「昨晩のこと……その、すみませんでした……」
「とりあえず顔、上げてっ!?」
「……合わせる顔が、ございません」
連日美女に土下座させる高校男子とか、なかなか居ないと思う。
……ちなみに腹立たしいが、えくれあもそりゃあの凛子の姉なぐらいで、息を呑むような物凄い美人だった。どんなに憎い相手でもそれはそれで認めよう。
「えーと……そもそもの話だけど。何について謝ってくれてるんだ?」
「えっ!? えっと、その、わたしを……た、助けて下さった件ですっ……!」
あ。やっと顔を上げてくれた。
涙目で、頬を赤くして切なげな顔で上目遣いとか……反則過ぎると思う。
「ぷっ。それでその敬語?」
「はいっ……大変申し訳ございませんでしたっ……!!」
「昨晩のこと、申し訳ないと?」
「はいっ、返す言葉もございませんっ……!!!」
面白い。深山って天然でやっぱり面白い。
本人これで大真面目なんだろうなぁ。
「ふーむ……申し訳ない、ねぇ」
こんな綺麗な女の子の気持ち良くなるそのお手伝いをするなんて、例えば俺なら全財産を払ってでも勝ち取りたい権利なんだけどなぁ……世の中わからないことだらけだ。
「じゃあお詫びとして語尾に『みゃあ』をつけて話してみてくれ」
「え、ええっ!? 香田君……ごめんなさい、だみゃあ?」
「ぷっ。いいね、可愛い」
「う、ううー……恥ずかしい……みゃあ……」
「ねえ深山……後悔ばかり? 嫌じゃ、なかった?」
「っっ……!!!!」
ぼっ、と一気に顔が爆発するみたいに真っ赤に染まると。
「う……嬉し、かった……信じられないぐらいっ……溶けちゃう、ぐらいっ」
もじもじと腰を小さくよじらせて、両頬を両手で包みながら涙を落とす深山。
さっそく『みゃあ』が語尾に無いけど、まあいいや。
「良かった。俺で良ければいつでも手伝うから」
「えっ、ええええええっっ……!!!???」
「俺が深山に、したいんだ。応えたい……全部は無理、だけど」
「お、お、お断りしますっっ……!!!」
「えー」
これで一件落着、とは行かなかった。
「も、もうわたしっ……そういう願望、ないからっ!!」
「ええ~、嘘くさい~」
「も、もうっ!! 香田君のばかっ!!!」
ぽかぽかと俺の胸板目がけて深山が叩いてくる。
全然痛くないのはきっと深山が手加減してくれているからだろう。
「はははは。そのやせ我慢がいつまで持つか、楽しみにしてるよ」
「もお――っ……!!!」
……うん、まあこんなところだろうか。
今までがあまりに、深山に対して負担が掛かり過ぎてた。
タブー化し過ぎていた。
互いの本音を互いに知っているのに、それをあまりに頭ごなしに封じ過ぎて、だから結果としてあんなに深山の心が倒錯的になってしまっていた。
これで互いに隠し事なしで言いたいことを言える間柄に一歩進んだと思う。
その分だけ、嘘が付けない深山の心は救われるはずだ。
間違いない。
人としてどうかっていう道徳的な部分はあるけど……まあ、互いに求めているのに、何もしないという今までも充分いびつな関係だったので、それも今さらだろうか。
「……深山。何でも気軽に相談していいからな? 誓約に頼らなくても、自由に話してくれ。俺を信じてくれ」
紅潮してる頬を隠すように深山が両手で顔を覆い、うつむくと。
「凄く凄く……夢、みたいに……嬉しいですっ……」
「うん」
ぼそりと深山がつぶやいてくれた。
「――それじゃ……あの」
「ん?」
改めて姿勢を正し、真っすぐに俺を見つめる深山。
何かの覚悟、みたいなものがビリビリと痛いほど伝わってくる。
「香田君と、ずっとずっと、エッチなことしたい……って考えてました」
「う、うんっ」
今、誓約働いてないよな……?
「いつも酷い妄想で、香田君を汚して」
「うん」
「現実からどんどん乖離していてっ……!」
「……うん」
「違うのっ、わたし、そんなことばっかり考えてる女の子じゃないのっ! ちゃんと香田君のこと、好きでっ、よ、欲望を解消したいから言い寄ってるわけじゃなくてっ……!!」
「……」
「順番、逆なのっ……香田君のこと、好きでっ、好きで好きで仕方なくてっ……それでこんなに切なくなっちゃっただけでっ! 違うのっ……違うの、こんなの違うっ……違うのっ……!!」
「――ストップ。深山……そこらへんから考え方がちょっとおかしい」
「ふぇ……?」
「そんなに別のものじゃないと思う。好きという気持ちと……欲望って。深山は振り回されたくなくて、欲望を一方的に悪いモノとして敵視し過ぎてる。だからそんなに苦しんでると思うんだ」
「…………違わない、の?」
「俺はそう思う。さっき深山が言ったように、俺も深山のことが――……」
「?」
ちょっと言葉を切って、その続きに責任が持てるか、少しだけ考えて。
ちゃんと覚悟をして。
「俺も、深山のことが、きっと異性として好きなんだ」
「――っっ……!!!」
「教室で俺を守ろうと必死に立ち回っている深山のことが好きだ。愛嬌のあるミャアさんもきっと可愛くて好きで……そして物事を真っすぐに逃げずに受け止めようとしている、純粋で勇気のある、今の強い深山も異性として好きだ」
「強くない、よぅ…………こんな酷くて、グチャグチャでっ」
「強いよ。凄い。憧れるぐらい強い。弱い部分をありのまま直視して出せる深山はきっと強い。弱い人ほどもっと自分を飾って強く見せる。平気なフリをして顔を逸らす。弱いその分だけ相手を攻撃する」
なぜか頭の中では、反吐が出そうなえくれあの、あの歪んだ顔が浮かんでいた。
「強いからそのままで我慢しろ……なんて言わないよ? むしろその逆。もっと自分を許して、つらいなら隠してもいいんだよって、言いたい。全部を無理に直視しなくていいし、全部を完全に制御しようとしなくていいと思う」
「ぐすっ……ほどほど、良い感じ……?」
「うん、それ。深山は強いゆえに、清潔な人ゆえに、完璧で潔癖なものを自分に求め過ぎていると思う。俺にはそう見えてるよ。人間ってそんな綺麗に整理整頓されてなくて、もっとグチャグチャしてる。色々な要素が混じり合って、だから複雑で予想も出来ない反応があって……それが面白いんだと、そう思うよ」
「…………」
戸惑って考えがまとまらない風な深山だった。
「だから『好き』と『欲望』もそんな無理に分別しなくていいと思う」
「――あ……」
「完全に同じじゃないけど、まったく別なものでもない。そこには重なっている部分も沢山あると思うんだ」
「……そうなの?」
「うん、少なくとも俺はそうだ。教室の憧れの深山さんだから。強くて優しくて真っすぐな深山だから、俺は好きで……だから俺の道徳観念を捻じ曲げても、ああいうことをしてあげたいと願った。それは深山のためでもあるし、俺の曲げられない強い願望でもあった」
「……あ、ぅ……っ……」
意識しちゃってる深山とはずいぶん違って……俺は妙に冷静だった。
「比較として並べるのも難しいけど。昨日会った『えくれあ』という人はたぶん深山と同じぐらい綺麗な人だったと思うよ。――でも例え大金を積まれても、決してその『えくれあ』へ深山に対するような気持ちは抱けない。とても愛せない。気持ち悪くて吐きそうになる。想像もしたくない」
今、言ってて本当に想像しそうになって、気分が悪くなってしまった。
「同じぐらい綺麗な人でも、えくれあと深山じゃこれだけ違う。自分の欲望をぶつけたいのは深山だ。色々なことをしてあげたいと思うのも深山だ。俺のグチャグチャとしてて恥ずかしい部分を受け止めて欲しいのは、深山だ」
「――は、はいっ……受け止めたいっ!! 香田君の全部っ、受け止めたいっ」
「ははっ……相変わらず深山は完璧主義者だなぁ。極端だよ」
「え」
「だから、全部じゃなくていいってば。望んで受け取りたい部分や、受けとっても構わないと思う都合の良い部分だけ……相談して受け止めてくれたら、それで充分だと思う。だから俺も深山から全部を受け取らない。だってたぶん、そんなことは人間には最初から無理なんだから」
きっと今、俺は必死なんだろう。
妙に長文で語ってるからだ。
きっと深山にとって大事なことを伝えている自覚がある。
だから集中してて……こんなに長々と話してしまっている。
「……相談っ」
「うん?」
「相談っ……したい、ですっ……わ、わたしのっ……どの部分だけ、受け止めてくれますかっ……!?」
「具体的に出してくれないとわからないけど。でもまあ俺の心は最初からずっと一貫して決まってるよ。俺が出来る可能な限りで……深山を助けたい。ただそれだけだ」
それはもうずっと変わらない、俺の気持ちとスタンスだった。
「……うん。香田君のお話、凄くわかりやすくて……嬉しかった。えへ……またひとつ、助けてもらっちゃった……」
互いに自然と笑顔になる俺たちだった。
そして、すぅ……と深山は笑顔のまま大きく息を吸うと。
「香田君と、エッチしたいーっ!!!!」
「うおっ、とっ!?」
「ああもうっ、香田君とエッチしたい、エッチしたいっ、エッチなことしたいのっ……!!!!」
手をぶんぶん振り回して、元気ハツラツにそんな宣言をされてしまう。
「――……はぁ~……うん。すっきり、しちゃった♪」
やっぱり深山って、強い人なんだなぁ。
俺は手を差し伸べて助け出そうとしていたのに……あっさり跳び越えて、勝手に回復してしまった。ペロッと舌を出して、はにかんで、何事も無かったように鬱積していた心の問題を一気にひっくり返してしまった。
「ねねっ、香田君! 朝ごはん、作ってみたいなっ?」
「えっ。朝ごはん?」
そして彼女は、問題が解決されるとめっちゃ切り替えが早い。
少しは凛子先生も見習ってほしいぐらいだ。
「うんっ、別にお腹空いてないし、体力も最大だけど……そういうことじゃなくて、こんな爽やかな朝だもん。美味しい朝ごはん、食べたくならない?」
少し前かがみになって後ろで自分の手を握り、身体を反らして上目遣いに俺の顔を下から覗き込む深山。
この悩殺ポーズを無意識にやってるのだとしたら、末恐ろしい女の子である。
「うん……すごくいいね」
「えへ。じゃあさっそく作ってきますっ!」
◇
「――深山、これ……ただの炭……カーボンファイバァー……」
「ひっ、ごめんなさいっ!?」
余談。
深山の作ってくれた初めての朝ご飯は、ただの炭の塊でした。





