#027 Hello,world!
「――……なるほどね」
誰も居ない草原の真ん中で、ひとり座り込んでいる俺。
繰り返し空に向けて軽く投げては、落下してきたその小石を視界の片隅に捉えながら手のひらで受け止めて、という動作を繰り返していた。
「どうやら視界にさえ入れておけば、特に意識する必要はなさそうだな。次はあれをやってみるか……」
誓約紙をポップさせると、あえて裏返しにする。
A4サイズほどのこの紙の裏には古文書みたいな抽象的な地図が描かれていて、その中央よりやや右の辺りに黒い丸が小さく存在している。たぶんここが現在地ってことなんだろう。
この地図を見る限り、ここは縦に長い菱形の島か大陸のようだった。
無理やり例えるなら東西の幅がもう少し太い樺太島みたいな感じだろうか。
ここからもっと右……つまり東には大きな滝があって、西には砂漠。北には大きな山脈があって、そしてすぐ南には街があるようだ。それぞれ小さなイラストが描かれている。
全体を見渡すと街に相当するものはこの地に3つほど点在しているようだった。
もっとじっくり眺めてたい気分もあるが、しかし今はこの地図を解析することが目的じゃない。
地図下部には『18704』と数字の表記があるので、その数字の左右に存在している余白を試しに触れてみた。
「……裏面に入力は出来ない、か」
温めていたアイディアのひとつはあっさり没になってしまった。
仕方ないので次の実験に移り、誓約紙の表側にあいうえおかきくけこ……と特に意味のない文字を並べてみることにした。
『あいうえおか_』
「ん。ここで無意味の扱いになっちゃうか」
判定の保留は6文字までってことかな?
ちょっと表記を変えてみる。
『<あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへ』
案の定、固有名詞として<>等で囲えば無意味な文字列はどこまでも伸ばせられるようだ。
そして横に34文字目の時に自動で改行となる。
そのまま無意味な文字を伸ばし、行数は80までと縦の限界も確認した。
ちなみに行数がある一定以上増えると見切れないように文字の大きさも自動で次第に小さくなって行った。
「80行か……」
つまり誓約の命令も最大で80までということになるのか?
まあ普通に考えれば充分な量とは言えるだろう。
「じゃあ、次に」
『香田孝人は愉快な気分になる』
「む」
『香田孝人は愉快な気分にな_』
「……なるほどね」
とりあえずこれは没にして、色々やってみよう。
適当な文章を並べる。
『香田孝人はあくびをした時、10%の確率で涙目になる』
『香田孝人は5秒に一度、自動でまばたきをする』
『ミャアから声を掛けられると香田孝人は振り返らなければならない』
『香田孝人は空を飛べないが、しかしジャンプは出来る』
『香田孝人は空を飛べない。しかし』
「あ」
『香田孝人は空を飛べない。しか_』
「……ふむ」
俺は一度、適当に入れた文章群を全部消して改めて入力してみる。
『■ジャンプ』
『香田孝人は空を飛べない。』
『しかし』
「……」
『■ジャンプ』
『香田孝人は空を飛べない。』
『しか_』
「やっぱり、ラベルぐらいじゃだめか」
『■ジャンプ』
『香田孝人は空を飛べない。』
「――……ん?」
意図せず最後の一行が消えた。
いや、どういう処理の工程が成されたかは軽く想像がつく。
一定時間の放置でカーソルが消えたのはただの、文字入力状態からの復帰。
そして『しか』なんて日本語として意味不明だからその部分が消滅したのだ。
――そうじゃない。
俺が驚いたのはそういう意味じゃなくて。
「……どう、なんだろ?」
しばし、俺はその『とんでもない』考えに自問自答を繰り返していた。
可能だろうか? それはただの俺の願望ではないだろうか?
下手に期待したらダメだった時、反動で勝手に絶望しそうで怖い。
だから今は、思考を逃がしてしまう心の弱い俺。
「とりあえず、続けるか……」
違うアプローチから構造を探る。
『香田孝人の誓約紙は二つ折りにした過去の跡を消すことが出来る。』
……成立した。
実際に引っ張ると、以前、二つ折りをしたあの跡は消えた。
たぶんこの誓約自体に意味はない。
こんなことを書かなくても二つ折りの跡を消すことは可能だっただろう。でも、そうじゃなくて――
「――つまり誓約紙とは、俺自身の一部なのか……いやむしろ逆? ならこれは?」
『文頭に<{>の記号から始まる文章は、以降の文末に<}>が』
『書かれるまでを入力中とみなし、誓約として一切登録されない。』
……これも成立した。
なるほど、やはりプロトコルの<以上>はそういう意図か。
さっそく表記してみた。
『{香田孝人は空を飛べない。』
『 しかしジャンプすることで落下するまでのわずかな時間、』
『 宙に浮いた状態と解釈することも出来る。}』
「なるほどね!」
ヤバイ。心が躍って仕方ない。
面白いオモチャを見つけた子供みたいだ、俺。
「あれっ!? じゃあもしかして――って、物理的に無理かぁ……」
一瞬、原口からのあの忌まわしい誓約もこれで解消出来るかと思ったが、一瞬でその可能性はあっさりと否定される。
簡単な話だ。一行目の一文字目からあの誓約は入力させているのだ。
『{』をねじ込む隙間なんてどこにも存在していない。
深山の誓約も間違いなく一行目から入力されていたから同様だ。
「ま、現実そんな甘くないよなぁ」
……じゃあ、気を取り直してアレを作ってみようかな?
「――ねぇ、深山さん……香田、さっきから何やってると思う……?」
「さあ……何か楽しそうだけど」
お。ちょうどいい。
「なあ。起きてるならふたりとも、ちょっとこっち来て手伝ってくれないか?」
遠くからこっちを観察している深山と凛子を呼ぶと、ふたりは大げさに驚く。隠れていたつもりなんだろうけど、そんなのマップから丸見えだって。
特に凛子はEOEに慣れてるんだから驚くなよと言いたい。
「えへへ~、香田~っ」
「……もういいの?」
「うん。大体調べ終わった。本当に長い時間、ひとりにしてくれてありがとう。そっちこそ寝てなくていいのか? 特に凛子は昨日ちゃんと寝てないんだろ?」
「うん、目が覚めちゃったっ」
「そっか。無理してないならいいけど」
そう言いながら、軽く誓約紙に文章を入力する俺。
「じゃあ凛子。さっそく実験につきあってくれるか?」
「するーっ! 何っ? 爆発とかしちゃうのっ?」
「しないしない。少し『あっちむいてホイ』をやろう」
「ほへ?」
「いや、もっと手っ取り早くいくか。じゃんけんは全部俺の負けでいいや。凛子から『あっちむいてホイ』って方向を指さしてくれ。俺がその反対の方を向くようにするから」
「うーん? まあいいけど」
「一度でも俺が反対を向けなかったら、好きなこと命令していいよ?」
「するーっ!!!!」
両手を上げて嬉々として挑む凛子……負けたらどんな命令が待ってるのやら。
「ただし30回連続で俺が反対を向けたら、凛子に命令するからね?」
「そ、それはそれでっ……魅力的っ」
「酷いことしちゃうぞ?」
「香田にならっ、いいけどっ!?」
……いいんだ? 緊張感というか張り合いが無くて、嬉しいけど困ってしまう。
「じゃあ、はい、どうぞ」
「おーし、いっくぞ~! あっち向いて――」
「――ホイ……む! ホイ、ホイ、ホイ、ホイッ、ホイ! ホイ!!」
それら全てを軽くかわしていく俺。
「ホイッ!! ホイッ!!! むきーっ!!! ホイーッ!!!!!」
「さっきの30は言い過ぎたか。はい、終了~」
20連勝した辺りでもう完全に証明出来たから終わりにした。
「香田はあっちむいてホイの世界チャンピオンですかっ!?!?」
……なんだそれは。
「これを書いただけだよ」
そう言いながら俺の誓約紙をポップして該当部分を触れないように指さす。
『{<あっちむいてホイ>のゲーム内では以下の動きをする。』
『 相手が明確に指さした方向の逆へと自分の顔を反射的に向ける。』
『 ただし本人主観からのZ軸の方向はこれに含まれず適用しない。}』
「あーっ、これズルだぁ!!」
「ごめんごめん。だから命令は無しでいいから」
「命令しなきゃダメーッ!!」
無茶苦茶である。
「……こんなこと、出来ちゃうんだ……?」
深山も興味津々という感じで俺の誓約紙を覗き込むように読んでいた。
「あれ? でも凛子ちゃんの指の方向を見て確認してからじゃないと、これって発揮出来ない気がするのだけど……」
「うん、そうだね。だから厳密には0.1秒ぐらい遅れて俺は顔を向けていたと思う。これは『反射的に』という表記がポイントなんだ」
「あっ。条件反射だから速いんだ!?」
「そう。脳で『凛子が右を指したから俺は~』なんていちいち考えないから処理が速いし、間違えない」
深山はちょっと考えてから、言葉を続ける。
「これ……もしかして戦闘でも使えるのかな?」
「確かにそのための『実験』なんだ、これは」
「おーっ!?」
「じゃあ、これで攻撃を絶対に避けられるような誓約も可能……?」
「可能だけど、気を付けて用意しないと自殺行為になりかねないかな」
「そうなの?」
「うん。反射的な行動ってのはワンパターンだから、相手が人間とかならむしろそこを狙われる可能性が高い。あと、もちろん人間の反応より速い攻撃は避けられない。それに自分で制御出来ないから、自動で避けて逆に視界外の障害物にぶつかったりとかもあるから、ちょっと身を委ねるには危ない感じがする」
「あ……見えないのは無理なんだ?」
「あくまで条件反射だからね。でも深山のその発想自体は俺も願うところで、もうちょっと複雑な制御が可能なら、いつかそういうことも可能になるのかも」
「……香田、楽しそう!」
「ははは。うん、俺の得意分野だしな、こういうの」
「こういうの??」
「動作制御とかのプログラミング。あとは試しに時報みたいなの作ってみたよ」
そう言いながら、該当部分の誓約を指さす。
『<香田孝人>は10分に一度、チャット画面で<香田孝人>に向けて<■>という記号を自動で送信し続ける。』
「これで10分ごとに時報のように知らせが届く。もちろんこれを1時間単位、1日単位にすることも可能。チャット中に発動すると面倒なことになるから改良の余地はあるけど、でも時計の無いEOEでは正確な時間の確認方法が無いし、結構これは有用じゃないかな?」
これに関する実験の大きな発見は、時間の指定について。
人間の時間のカウントというのはかなりアバウトで不正確と思うのだが、こんな感じで時間を明記するとたぶん厳密な正確さでそれを実行してくれているようだった。
つまり、時間は俺の主観によるカウントじゃなくて、このゲームのシステムなどの他の正確な数値を参照していることを意味している。
まだ計測してないが、たぶん距離や重さなども俺の主観ではなくて正確な数値を参照するんじゃないだろうか?
それはおそらく定められた標準的な単位を用いているから。
これがもし『ちょっと』とか『少し』とかの表記だと、途端に個人の主観によるバラつきが発生することだろう。この理屈でいくと、もしかしたら『ポンド』とか『マイル』とか俺が正確な内容を知らない単位を用いると正確な数値を参照しないかもしれないな。
あと、もうひとつ再確認したことがある。
この誓約は10分間ずっと数を数えて『10分が経過した』と測ることは行動として可能だから、その理屈を基に誓約として成立するのだろうけど、実際は10分間の経過の判定と通知が俺の意識や行動の邪魔をしない点だ。
これはたぶん誓約が同時に複数適用になる場合も多々あるだろうし、そもそも誓約の強制力というのは自動的なわけだから当然と言えば当然だが、まったく別のことをしていても心臓の鼓動のように自動でカウントしてくれるのは非常に助かる。
……いや。深山が告白を抵抗した時のように、意識である程度抑制したりも出来るようだから、まばたきや呼吸のほうが例えとしては正確なのかも?
そう考えると『まばたき』をあんなにも抵抗して拒んだ深山の意識というのは物凄く強かったんだな……なんてこともちょっと考えてしまった。
「……私、誓約をこんな風に使ってる人、初めて見た……みんな、誓約使って誰かを好き勝手に命令することばっかり考えてるのに」
「もちろんそれはそれで魅力的な使い方だろうけどね。さっき言ったように、戦闘で活躍出来そうにない俺も俺なりに、みんなの役に立ちたくて考えてみた」
「香田、賢いっ!!」
「ははは……ありがとう。素直に嬉しいよ」
最初から誓約の仕様を見て思ったのは自分の行動のマクロ化だったのだから、もちろんこういう活用方法は頭の片隅でずっと考えていた。
でも一番の大きなキッカケは、やはりKANAさんだ。
あの『プロトコル』には沢山のアイディアが垣間見れて衝撃的だった。
現実にこういうことが出来るんだ、というものを提示してくれた。
だからつまり俺が凄いというより、実はあの『プロトコル』を作った人が凄いだけの話。
可能ならあの『プロトコル』の中身を記述解読してみたいぐらいだ。
そして何より、頂いたあの言葉たちが大きい。
『もっと厳密に言葉を扱えるようにならないとダ~メ』
『もう少し先までちゃんと考えなさい』
手厳しく叱られたわけじゃないから正直なところ、理由まではよくわからない。わからないけど……KANAさんからのそれらの言葉は、とにかく俺の心の奥底まで深く強く届いた。
襟元を正された思いだった。目覚め、奮起した。
何も出来ないからこそ、せめて『ちゃんと考える』ぐらいのことはしようと心に強く決めたのだ。
「ねえねえ、香田……それで命令はぁ……?」
「よし、じゃあドキドキする命令するぞ?」
「――――っっ!! め、命令なら仕方ないねっ!?」
こほん、とわざとらしく咳払いして。
「凛子の誓約紙を見せて。そして俺に一行書かせてくれないか?」
「う、うんっ……香田になら、いいよ……? エッチなこと書いちゃうのっ!?」
「エッチなことは書きませーんっ……でも、信頼してくれてありがとう」
誓約を相手に差し出すというのは、もはや命を預けるようなものだ。
並大抵な相手では絶対に許せるものじゃない。
それはこの3人とも酷い誓約を書かれた身だからこそ、強くそう思うだろう。
「な、なんか……恥ずかしいとこ……触られてる、みたいな感じぃ……」
「……変なこと言うな。よくわからない緊張をしてしまうだろっ」
凛子は自分の誓約紙をポップさせて俺に差し出してくれる。
俺がそれを指先で触れていると……そんなことを言われてしまった。
「――……はい、完了」
「……? どういうの、書いたの?」
「じゃ、試してみようか……あっちむいて――」
「ふえっ!?」
「――ホイ、ホイ、ホイ、ホイッ!!」
「お。お。おう、おうっ!?」
勝手に自分の首が動くのが面白いのだろう。凛子が目を丸くして驚いていた。
「おーっ、私にもあの誓約、書いてくれたんだっ!?」
「いや、書いてない」
「えっ?」
「……凄い」
後ろから見ていた深山が全てを理解して絶賛してくれた。
……うん、俺もこれは半信半疑だったから思惑通りになってかなり嬉しい。
「書いてないって――……あ!」
凛子も自分の誓約紙の内容を確認して、声を上げていた。
凛子の誓約紙にはこう追加されている。
『香田孝人の誓約紙から実行可能な既知の誓約が適用される』
「そういうこと、出来るんだーっ!?」
これも『プロトコル』が参考になった。
他人が用意した文章を自分の誓約に盛り込めるってことは、直接的な干渉でなければ情報の交換や伝達は可能なんだという仮説が成り立ったわけだ。
でなければ、『アナザー』なんてアイテムがそもそも成立しない。
よくよく考えれば必然だった。
『○○は□□に△△しなければならない』なんてよくありそうな誓約の文も、○○さんの誓約紙の中に□□さんが登場している段階で少なからず間接的な干渉をしている解釈が出来る。
なぜなら□□さんという人が本当に実在しているか、△△という行動が実行可能か、○○さんの誓約紙は確認の動作を内部で行っているに違いないのだ。
そういう処理が無ければ『成立可能か』というチェック項目が機能しない。
つまり誓約紙は単体動作ではなくて、インターネットのように相互間で繋がって情報を伝達し合いながら動作していることを意味していた。
さっきの時報の時間の正確さもこれに関連してきそうだ。
やはり同様に、誓約紙とシステムも繋がって情報を伝達し合っている。
さて、条件も揃った。
……怖いけどそろそろ現実と向き合おうか。
「凛子。その俺が入力した文の最後『適用される』に続いて『わけではない。』という文を自分で追加したら、その誓約紙を俺に差し出て見せて欲しい」
「うん、いいけど――……おっ、おおっ……!?」
身体が勝手に動いてることを驚いてるみたいだ。
そう、俺の『求められた物はすべてを差し出す。』という原口からの忌まわしいあの誓約内容が、今の凛子には適用されているのだ。
「――……あれ?」
しかし、凛子が『い』の文字を入力したところで突然動作がストップした。
「あ。『わけではない』って追加したから!?」
「そういうことになるね。追加したその瞬間に誓約として登録されるんだろう。だから誓約の内容が変化して俺の命令も同時に無効となり、中断された」
「なるほどぉ」
「じゃあ……これは誓約の命令じゃなくてただのお願いだけど、中断された最後の『。』を書き加えてから、改めて凛子の誓約紙を見せてくれる?」
「うんっ」
特に躊躇するでもなく、凛子が誓約紙の表をこちらに向けてくれた。そこには当然だが以下の文章が書かれている。
『香田孝人の誓約紙から実行可能な既知の誓約が適用されるわけではない。』
「――さて。ここからが本題なんだけど……」
ふぅ、とひとつ深く呼吸した。
これは大きな分岐点だ。もし俺の仮説が正しいなら、とてつもなく大きい意味が発生することになる。
「香田君……? 何か緊張してるの?」
「……ああ。物凄く緊張してる。もし俺の仮説が、正しいなら――」
少し震える手で、凛子のその追加した誓約の文に指を伸ばす。
……が、その誓約の文は触れても消えなかった。
「やっ、た……」
「ほへ?」「うん?」
俺が小刻みに震えているのがよほど奇妙に見えるのだろう。
ふたりが並んで首を傾げていた。
「やったああああっっ!!! 凛子っっ、やったぞーっっ!!!」
「ふきゃあああっ!?!?!?」
嬉しくなって、そのまま凛子の小さな身体を抱きしめた。
いやそれだけじゃ収まらなくて、ぐるぐる抱きしめたまま回転する。
「ちょ、ちょっ、ど、どしたのっ、香田っ? 嬉しい、けどっ!?!?」
「凛子っ! 指を出して!」
「え……うん」
我慢出来ず凛子のその小さな手を強引に捕まえて、誓約紙の俺が追加した一行に押し付ける。当然のようにその瞬間、『香田孝人の誓約紙から~』と書かれたあの一行が淡い光を放って消え去る。
「っしゃああああっ!!!!」
もう俺は、嬉しくて嬉しくて堪らない。
このまま踊りたいぐらいだった。
もう泣きそうだった。いや、正直ちょっと泣いている。
「……?」
自分の指先と俺の顔をよくわからない風に交互に眺める凛子。
「凛子っ!!!」
「ひゃ、ひゃいっ!!!」
両手でその小さな両肩を捕まえると。
「――今、助けてあげる」
「え――……んっ」
俺は嬉しさのあまり、凛子の唇を奪っていた。
「――っっ!?!?」
「ふ……ぇ……?」
背後で深山が声にならない声を上げている気がするが。凛子も凛子で目を丸くして硬直しているが。もうそんなのは知ったことじゃない。
放置されて宙に浮いたままの誓約紙の前に立つと、俺は興奮のまま指を伸ばす。
『。』――ただそれだけで充分だった。
あの酷い誓約の文末全部に、『。』を俺は付け加える。
『貴重と思うアイテムは全て<えくれあ>に渡す。』
『<ミルフィーユ>から抜けるには<えくれあ>の承諾が必要。』
『得た経験値は相手に殴られることで10%ずつ奪われる。』
「凛子は、もう自由だ」
そして俺は、それら全部の文章の上に指を滑らせて……消し去った。
「……ぇ……あ、れ……?」
「文末に句点の入っていないこういう文は、自動で仮に登録されたものなんだ。そして俺が句点を入れてこの文を完成させた。その瞬間この誓約を書いた人間は、俺という扱いになる。上書きされる!」
「あ……ぁ……あっ……!」
「だから、俺が消せる!!」
ポロポロと凛子が棒立ちしたまま、大粒の涙を落としていた。
まさかこんなに早くに助けることが出来るなんて、思ってもいなかった。
あの『えくれあ』とかいうヤツを恐喝したり、あるいは土下座してでも消してもらうしかないかと、半ばあきらめていた。
長い時間と忍耐が必要だと覚悟していた。
簡単と思うことが実は大変だったりするこの世の中。
だから時に、難しいと思うことが実は簡単なことだったりもするのかと、そう強く思い知った。
――この仕組みに気が付くキッカケは、裏切ってしまった凛子へのあの誓いの文が最初だった。
『2028年7月14日の日曜まで、何があっても死なな_』
実行できない文章を入れたら、不成立になる部分が消えて巻き戻った。
つまりそれは、入力している途中から登録できるかの判定が常に内部で行われていることを意味していた。
逆に言えば、例え入力している途中でも文章として成立するなら、それは仮に登録される。
改めて説明するなら。
つまりあの凛子を苦しめた誓約の3つの文も、終わりを示す句点のようなものがつけられていない以上は実はまだ入力の途中であり、内部では、ずっと仮の状態が続いていたのだ。
当時の俺はここまで考えがまわらず、ただ、違和感のようなものをモヤモヤと内側で抱えていただけだったが……さっき、それが色々なテストを繰り返している中で明確な疑念となって表に出たわけだ。
「凛子ちゃんっ! 良かった、良かったねっ!?」
以前に、深山が言ってくれた。
あの、ただの書き初めみたいな俺の独り善がりな文にも『意味はある』って。
本当にその通りだった。全然、無駄なんかじゃなかった。
こんなにも大切な人の、こんなにも大事なことを成し遂げる、その重要なヒントになってくれた……!
「こ、香田っ……」
「うん」
「香田っ……香田ぁ……っ……あり、が……とうっ…………」
両手で顔を覆い、凛子が何度も何度も感謝の言葉をたどたどしくも繰り返し伝えてくれた。
凛子にとってあの誓約の苦しみがどれほどのものだったのか、正確なところは俺にはわからない。
でも、少なくともこれほどに感謝してくれている。
その事実だけで充分だった。
◇
「――それじゃ凛子。これからどうしようか?」
「どう……って?」
ひとしきり凛子が泣きながら感謝してくれて。俺がそれに応えて。
延々と続いたそんなやり取りもようやく落ち着き、胸の中で顔を埋めている凛子に俺は質問を投げかけた。
「このままこっちのパーティに入って、何も無かったみたいに全てを忘れる? それとも<えくれあ>というヤツに、キッチリ仕返しをするか?」
「……このまま火竜に入る」
「それでいいのか?」
「香田に危ないこと、させたくないっ」
俺を上目遣いに見ている凛子の瞳は、安堵と不安が入り混じった複雑な色を見せていた。
少しばかり俺も踏み込むべきか考えたが、しかし『させたくない』という言い回しから凛子の本音は違うところにあるだろうことも理解出来てしまえて……だから、こだわることにした。
「俺がどうこう、じゃない。凛子はどうしたい?」
「…………香田の望むこと、したい」
完全な平行線である。
「これは凛子の問題だ。だから凛子にとって一番良い形で終わらせたい」
「うーっ……だってぇ……」
「だって?」
ぎゅっ、と俺のコートを握って瞳を伏せると。
「私は……香田の召使いだから……ご主人様のことが、一番大事だから」
まるで字面だけ読むとふざけているみたいだけど、凛子からは真剣な意思だけが伝わってくる。あの時の凛子の提案は決して冗談やその場の雰囲気に押されて発せられたものじゃなかったのだと、今さらながら理解した。
凛子は、本気なのだ。
「……迷惑?」
「迷惑じゃないよ」
本音を言えば恋人として凛子を迎えたい。そうあるべきだと今も思っている。
だけどそれが凛子を苦しめるなら……嫌だと言うのなら、そこから先はただの俺の傲慢になってしまう。
だから俺には、そう答えるしか出来なかった。
「ご主人様……決めて。私、それに従うから」
「……」
少しだけ逡巡して。
「――えくれあから、凛子のアイテムを返してもらう。そして償いをさせる」
「! ……は、はい」
俺は、自分の気持ちを優先させた。
やはり俺の大事な凛子に対して、あんな誓約で苦しめた相手を野放しになんて出来ない。許せるはずがなかった。このまま見逃せば、一生後悔するだろう。
「せっかくだし建前もつけておこうか」
「え?」
「凛子のパーティってことは……えくれあってヤツはリアルで凛子の身近にいる人間なんだろ?」
「……うん」
「白黒ハッキリさせずに逃げるようにパーティから抜け出たら、リアルで凛子の立場が危うくなる可能性を少し感じるんだ……違うか?」
「……ん」
「そして仲間であるはずの凛子を奴隷のように扱う人間とは、可能なら縁を切った方がいいんじゃないかと俺は思っているんだけど……それは思い違いか?」
「……」
返事は無い。
それが何より俺の考えを肯定しているように思えた。
「だからえくれあを懲らしめ、罪を認めさせておきたい。それこそ二度と凛子に手出しが出来ないほど徹底的に、だ!」
徹底的に追い込みたい。凛子が受けた苦痛を2倍にして返してやりたい。
……結局、最後は俺の気持ちが前に出る形となった。単に俺がそうしたいだけ。
だからこれは建前でしかない。
もしかしたらそれで関係が悪化して凛子のリアルの生活が一時的に大変になるとしても、決行したい。
むしろそれをキッカケとしてそんな酷い人間から縁を切れる良い機会になるのでは……と、そんな勝手で恩着せがましいことまで考えているのが俺だった。
「でも香田君……そのえくれあって人、EOEの中で強くないの? どうやって懲らしめるつもりなの?」
深山の疑問はもっともだった。
凛子に確認するまでもなく、えくれあは俺よりずっと強いだろう。
レベルも上だろうし、アイテムや装備も豊富に揃っている気がする。
もしかしたら3人がかりでも敵わないのかも知れない。
「俺に、考えがある」
「――待って……香田……待ってっ!」
『ご主人様』じゃなくて『香田』。
その呼び方の差異で凛子の心構えの違いを少し感じる。
どっちが本物とか偽物とかじゃなくて、ふたりの凛子がそこにいる。
「うん?」
「あの人に……チャンスをあげたい」
その言い方は、俺を密かに喜ばせてくれていた。
つまりそれって、どういう方法かはさておき俺の『考え』によってえくれあは懲らしめられることが確定であるかのような前提の話だったからだ。
揺るぎない全幅の信頼がそこにはある。だから嬉しい。
「チャンス? それは更生のチャンスってことか?」
「うん……」
えくれあが本質的に悪ではないと凛子は信じているのだろう。
仲間だから、出来れば最後まで裏切りたくない。
本当はそんな悪いヤツじゃない。穏便に別れたい。
……そう言ってるように聞こえた。
凛子のその義理堅さにはいつも感服する。その優しさが好きだ。
「ね……ダメ?」
ただ凛子はたぶん、ちょっとばかり楽天家が過ぎる。
えくれあは、きっと善良な人間じゃないし。
「いいよ、凛子に付き合おう」
俺も、そんな甘い人間じゃない。





